・ 【落差日本一の那智の滝を見ます】
那智の滝をネットで調べてみましょう
「那智山一帯は、滝に対する自然信仰の聖地であり、一の滝は飛瀧神社の神体であって、飛瀧神社の境内に設けられた
滝見台からその姿を見ることが出来る。滝の落口の岩盤に切れ目があり三筋に分かれて流れ落ちるため
三筋の滝ともいい、また那智の滝の代表するということから那智の大滝とも呼ばれる」
「石英斑岩からなるほとんど垂直の断崖に沿って落下し、落ち口の幅13メートル、滝壺までの落差は133メートルに達し、
その姿は熊野灘からも望見することができる。総合落差では日本12位だが、一段の滝としては落差日本1位。
華厳滝、袋田の滝と共に日本三名瀑に数えられている。」
熊野一帯には滝が多くて国道からも似たような滝が見えました
・ 【那智の滝への道は深い谷底まで下るわけではありません】
滝が高い所にあるので緩やかな階段を下りて行けば良いのでした
ちよっと残念でしたが、僕は無神論者なのでお祈りもしませんでした
・ 【那智大社の本殿は工事中でした】
「熊野那智大社は、那智山青岸渡寺とともに熊野信仰の中心地として栄華を極め、古来 より多くの人々の信仰を集めました。
今なお多くの参詣者が訪れ、熊野速玉大社・熊野 本宮大社とともに熊野三山の一つです。
467段におよぶ石段の上に建つ6棟からなる 社殿は、標高約330mに位置し、夫須美神(ふすみのかみ)を御主神として
それぞれに 神様をお祀りしています。」
青岸渡寺というお寺さんの伽藍もあって那智曼荼羅を形成していました
・ 【お寺もあって神仏混交しておりました】
「熊野三山の信仰が都の皇族・貴族に広まったのは平安時代中期以降であり、青岸渡寺および隣接する熊野那智大社について
も創建の時期等については判然としない。伝承では仁徳天皇の時代(4世紀)、天竺(インド)から渡来した
裸形上人による開基とされ、同上人が那智滝の滝壺で得た金製の如意輪観音を本尊として安置したという。
後に推古天皇の勅願寺となり、6世紀末 - 7世紀初に生仏聖(しょうぶつひじり)が伽藍を建立し、丈六の本尊を安置して、
その胎内に裸形上人感得の如意輪観音を納めたという。以上はあくまでも伝承であるが、
那智滝を中心とする自然信仰の場として早くから開けていたと思われる。中世から近世にかけて、隣接する熊野那智大社と
ともに神仏習合の修験道場であり、如意輪堂と称されたその堂舎は、那智執行に代表される社家や那智一山の造営・修造を
担う本願などの拠点であった。
明治時代に神仏習合が廃されたとき、熊野三山の他の2つ、熊野本宮大社、熊野速玉大社では仏堂は全て廃されたが、
熊野那智大社では如意輪堂が破却を免れ、のちに信者の手で青岸渡寺として復興した。
寺号は秀吉が大政所の菩提を弔うために建てた高野山の青巌寺に由来すると言われる」
平安の貴族が雅な姿で大門坂を上って行ったのです、本当にこのようなお姿で登ったのでしょうか、夏は汗をかくし冬はさむいので
雅の衣装では難しいと思います
冬の今の時期は渇水期であります、写真で見ると三筋の滝に見えますね
・ 【これでも今は水量が少ないのです】
三筋の滝といわれますが一筋にしか見えませんでした
参道を上がりきると滝を正面から見る事になります
・ 【那智の滝を背景に撮影ポイントまで来ました】
南紀那智まで来た記念です
那智大社から熊野本宮へと続く熊野古道の入り口がありました
・ 【熊野本宮へと続く熊野古道の入り口です】
熊野古道を歩く、白装束のお遍路姿を人を見かけました
熊野大社から四方に伸びて行きますからどちらへ行くお姿なのでしょうか、那智にいる事から伊勢から長い伊勢路を通ってきたと思われます
・ 【道が崩れて大回りです】
通常40分ほどの行程だそうですが、60分ほど大回りしてください!の立て札がありました
那智曼荼羅を見まわして帰りは大門坂を避けて縦横に走っている路地階段の裏道を歩きましょう
・ 【赤い三重の塔の横の滝を背景にします】
立ち寄りの証拠写真です
滝の上にも見えないですが滝がありました
・ 【滝の上にさらに2の滝、3の滝が控えていました】
リンゴ屋さん案内が無ければ拝観料や駐車場代でお金が掛かりますが、全て無料ですみました
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「那智山一帯は、滝に対する自然信仰の聖地であり、一の滝は飛瀧神社の神体であって、飛瀧神社の境内に設けられた
滝見台からその姿を見ることが出来る。滝の落口の岩盤に切れ目があり三筋に分かれて流れ落ちるため
三筋の滝ともいい、また那智の滝の代表するということから那智の大滝とも呼ばれる」
「石英斑岩からなるほとんど垂直の断崖に沿って落下し、落ち口の幅13メートル、滝壺までの落差は133メートルに達し、
その姿は熊野灘からも望見することができる。総合落差では日本12位だが、一段の滝としては落差日本1位。
華厳滝、袋田の滝と共に日本三名瀑に数えられている。」
熊野一帯には滝が多くて国道からも似たような滝が見えました
・ 【那智の滝への道は深い谷底まで下るわけではありません】
滝が高い所にあるので緩やかな階段を下りて行けば良いのでした
ちよっと残念でしたが、僕は無神論者なのでお祈りもしませんでした
・ 【那智大社の本殿は工事中でした】
「熊野那智大社は、那智山青岸渡寺とともに熊野信仰の中心地として栄華を極め、古来 より多くの人々の信仰を集めました。
今なお多くの参詣者が訪れ、熊野速玉大社・熊野 本宮大社とともに熊野三山の一つです。
467段におよぶ石段の上に建つ6棟からなる 社殿は、標高約330mに位置し、夫須美神(ふすみのかみ)を御主神として
それぞれに 神様をお祀りしています。」
青岸渡寺というお寺さんの伽藍もあって那智曼荼羅を形成していました
・ 【お寺もあって神仏混交しておりました】
「熊野三山の信仰が都の皇族・貴族に広まったのは平安時代中期以降であり、青岸渡寺および隣接する熊野那智大社について
も創建の時期等については判然としない。伝承では仁徳天皇の時代(4世紀)、天竺(インド)から渡来した
裸形上人による開基とされ、同上人が那智滝の滝壺で得た金製の如意輪観音を本尊として安置したという。
後に推古天皇の勅願寺となり、6世紀末 - 7世紀初に生仏聖(しょうぶつひじり)が伽藍を建立し、丈六の本尊を安置して、
その胎内に裸形上人感得の如意輪観音を納めたという。以上はあくまでも伝承であるが、
那智滝を中心とする自然信仰の場として早くから開けていたと思われる。中世から近世にかけて、隣接する熊野那智大社と
ともに神仏習合の修験道場であり、如意輪堂と称されたその堂舎は、那智執行に代表される社家や那智一山の造営・修造を
担う本願などの拠点であった。
明治時代に神仏習合が廃されたとき、熊野三山の他の2つ、熊野本宮大社、熊野速玉大社では仏堂は全て廃されたが、
熊野那智大社では如意輪堂が破却を免れ、のちに信者の手で青岸渡寺として復興した。
寺号は秀吉が大政所の菩提を弔うために建てた高野山の青巌寺に由来すると言われる」
平安の貴族が雅な姿で大門坂を上って行ったのです、本当にこのようなお姿で登ったのでしょうか、夏は汗をかくし冬はさむいので
雅の衣装では難しいと思います
冬の今の時期は渇水期であります、写真で見ると三筋の滝に見えますね
・ 【これでも今は水量が少ないのです】
三筋の滝といわれますが一筋にしか見えませんでした
参道を上がりきると滝を正面から見る事になります
・ 【那智の滝を背景に撮影ポイントまで来ました】
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那智大社から熊野本宮へと続く熊野古道の入り口がありました
・ 【熊野本宮へと続く熊野古道の入り口です】
熊野古道を歩く、白装束のお遍路姿を人を見かけました
熊野大社から四方に伸びて行きますからどちらへ行くお姿なのでしょうか、那智にいる事から伊勢から長い伊勢路を通ってきたと思われます
・ 【道が崩れて大回りです】
通常40分ほどの行程だそうですが、60分ほど大回りしてください!の立て札がありました
那智曼荼羅を見まわして帰りは大門坂を避けて縦横に走っている路地階段の裏道を歩きましょう
・ 【赤い三重の塔の横の滝を背景にします】
立ち寄りの証拠写真です
滝の上にも見えないですが滝がありました
・ 【滝の上にさらに2の滝、3の滝が控えていました】
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