しいたけの伊豆高原情報と放浪旅

(伊豆をバイクで回って10年、伊豆高原に住んで26年目に突入、いろんな事がおこりますねえ!)

大磯には旧吉田邸公園がありました!

2014年05月28日 | 雑感&放浪
・              【旧吉田邸は国道1号線にありました】

(大磯には吉田邸があるのは知っていましたけど、毎週横を通っていまのに気がつきませんでした)

バラの花が綺麗だったの覗いて観たら、なんとそこは焼失した吉田さん邸宅跡が公園整備されて無料公開でした
原付バイクはすぐ寄れますが、朝が早くて開門前でした、帰りに寄ろうと思います



延焼中の炎が上がってるニュース写真がありました!


・              【吉田邸焼失のニュースは聞いていました】

どうやら整備されて復元されるようです、今は更地になっていますがやがて再建されます


・               【現在は更地になっていました】

焼失された吉田邸は現在は更地になっています、たぶん日本家屋だと思います

正門は立派な和風の門です


・                【立派な門です】

どっしりとして低く貫禄ある門です、門から芝生通路を通って日本庭園や母屋に通じていました

こんなのが自宅にあるのは最高の贅沢と思えます

              
・                 【時の総理ともなると日本庭園も構えます】

日本庭園は小さいですが、池があって「つる」の人形も佇んでいます



七賢堂には明治の七賢人が合嗣されております


・                 【明治の七賢人が祀られています】

伊藤博文、大久保利通、岩倉具視、三条実美、木戸孝充、西園寺公望、吉田茂となりますが
吉田茂は昭和の人です

七賢堂とは

「1896年(明治29年)、伊藤博文は小田原にあった滄浪閣を大磯に移転、造営した。
 1903年(明治36年)、小祠を建てて三条実美、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通の霊を祭り、
 その肖像を祠に掲げ、四賢堂と称した。大正天皇は皇太子時代に行啓して、「四賢堂」の額を賜った。
 伊藤博文の死後、翌年、夫人梅子により、伊藤博文が合祀された。大森邸からの分霊であった。
 五賢堂と呼ばれるようになった。中央に伊藤博文の肖像が掲げられ、向かって
 左に三条実美、大久保利通、向かって右に岩倉具視、木戸孝允の肖像が掲げられた。
 1921年(大正10年)、五賢堂を含む滄浪閣は李王家に譲渡された。
 1923年(大正12年)、関東大震災により滄浪閣は被災するが、五賢堂は無事だった」

4賢堂→5賢堂→7賢堂になってこれで増える事はないのでしょうか?


・                  【大きな建物ではありません】

「吉田茂は、伊藤博文五十年祭のときに義父牧野伸顕が五賢堂を遷座させようとしていた計画を知り、
 自らが実現させないといけないと思い、自邸に遷座することとした。
 1960年(昭和35年)4月、大磯の吉田邸に遷座、同年11月27日、最初の祭典を行なっている。
 翌年からは、伊藤博文の命日(10月26日)かそれに近い日曜に例祭を行なっている。
 1962年(昭和37年)、吉田茂は西園寺公望を合祀した。西園寺公望の合祀に関連して、
 次のような逸話がある。西園寺公望合祀前の頃には正面に四賢の肖像を掲げ、右側に伊藤博文の肖像を掲げていた。
 ところが左側は空いていた。すると参拝者から、「祭主自らの場所にとってあるのか」という冗談を言われた。
 吉田茂が西園寺公望を特に尊敬してたという」

シイタケには合祀の意味がわかりません、肖像を掲げる位はどうでもいいような事の様に思えます!



今後も整備計画は進められて行きます


・                  【大磯町が公園整備をやっています】

大磯に吉田邸があるのは知っていましたけれど、いつもすぐ横を通っていたとは知らなかったですし
今は閉館している結婚式場の「滄浪閣」が伊藤博文の邸宅だった事も今回判明いたしました
吉田さんは晩年「横浜新道」(吉田ワンマン道路)を作られて、国会から目黒通りを通って、第三京浜道路、横浜新道、
を往復していました、当時は湘南バイパス、藤沢バイパスはできていなかったと思います

(今では平塚からの湘南道路も拡幅されています)



これが本当の「冷えとり」の手引書
PHP研究所

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