・ 【昔を思い出して「釧路」見物が出来ます】
(釧路駅舎の茶色は記憶にあります、当時は新築で地下にショッピングセンターがありました)
釧路には小学校6年の卒業と中学1年の入学式を経験していますから、町をじっくり見学です
おやじさんが胃潰瘍で吐血、入院して手術した市立病院は「幣舞橋」の上に立っています
心配でうつむいて歩いて、お袋さんがバイクに接触、転んだのはこの橋のたもとであったような気がします
(親戚縁者のいない土地で二人の子供を抱えて、お袋さんにとってはどんなに心細かったでしょうか?)
当時は北洋漁業の基地が函館から釧路に変更になって、函館はさびれこれからは釧路の時代となる
勢いで人口の増加率も全国一、東洋一の魚市場の建設、釧路発の築地行きの冷凍貨物列車が
毎日駅から一編成出ていてとても活気のある町です
(毎日1編成出発、24時間で築地着ですから最低でも6編成以上ダイヤがあったのですね)
湧き上がるような活気があった町なのにそれがどうでしょう、200海里で北洋漁業が中止
水産の街なのに魚が取れなくなって、昔の面影が無くなっていまして、人が歩いていない町になっています
(釧路駅前の賑やかさを知ってるだけに悲しくなります!)
卒業した寿小学校を訪ねて見ましょう、確か駅近くにあった筈です!
・ 【通り掛りの人に場所をお聞きします】
50年も前の話なので場所の記憶は全くありません、おそらく校舎も建て替えられているでしょう
その人は「陸橋を渡った先に見えるでしょう」、あそこが寿小学校です!
小学校はありました、新校舎も建てられていましたが、寿小学校の名前がありません
校名を記した「中央小学校」があるだけです
(寿町内は1丁目から3丁目まであって小学校はここだけです)
町内地図をよく見ますと、明らかに校名だけをシールで安直に張り替えられていました!
・ 【校名が変更になって「寿」から「中央」になっていました】
残念ながら寿小学校の名は無くなってます、僕の卒業名簿は「中央」小学校に残ってる筈です
親父は転勤族でしたから北海道内は転々としていた時期でもあります
この時期の転勤は悲喜こもごもで家族の荷物が家に入らなくて、一度入学手続きをした
新川小学校がたまたま遠足日で「明日再び来て下さい」と言われて帰ってきたら、
なんと再び引越し準備をやっていました
再度市役所に行って手続きのやり直しして「寿」小学校に無事編入できたのでした
(母は市役所の人にほんとですか?と怪訝な顔されたと言ってた事が記憶に残ってます)
行く先々の転勤&転校ですから行った先での旅館暮らし、入学がずれ込むと1週間で転校などと
ドタバタの引越し貧乏に明け暮れました
母はなるべく教育レベルの高い小学校を事前に調査してくれたようで
駅近くの学校が多かったような気がします、残念ながら僕の将来には全く影響はありませんでしたね
(それとも効果はあったのにこんなレベルで終わって申し訳ありません)
1学期だけ入学した中学校です!
・ 【釧路市立北中学も校舎は建て替えられていました】
担任の先生は・・・・? 思い出しました「須藤力丸」先生でした
全く通学した記憶が残っていなかった学校です、これから2学期に札幌の中学に転向して行って
教科書の進み方が全く違っていて、クラスでびりになった屈辱の記憶が蘇りました
(この時は昆虫学者の千石さんと同級になってます)
釧路駅前のビジネスホテルに連絡入れますがホテルはどこも満員なのです
以前と泊まった事のある釧路からだいぶ先になる「霧多布」のとほ宿に連絡入れたらOKでした
(今は晴れてましたが、夕方の釧路空港から霧多布まで濃霧&雨&日没に見舞われ
地獄のような100kmが二人を待っていたのです)
100kmもあるとは知らず、空港から一旦戻ってガソリン入れ直して助かりました!
(あの濃霧のさなかに人気のない所でガス欠なんて事態を考えると恐ろしくなりました
後ろに乗るママは「のん気」に考えて羽田で時間を潰しているでしょうね!)
(釧路駅舎の茶色は記憶にあります、当時は新築で地下にショッピングセンターがありました)
釧路には小学校6年の卒業と中学1年の入学式を経験していますから、町をじっくり見学です
おやじさんが胃潰瘍で吐血、入院して手術した市立病院は「幣舞橋」の上に立っています
心配でうつむいて歩いて、お袋さんがバイクに接触、転んだのはこの橋のたもとであったような気がします
(親戚縁者のいない土地で二人の子供を抱えて、お袋さんにとってはどんなに心細かったでしょうか?)
当時は北洋漁業の基地が函館から釧路に変更になって、函館はさびれこれからは釧路の時代となる
勢いで人口の増加率も全国一、東洋一の魚市場の建設、釧路発の築地行きの冷凍貨物列車が
毎日駅から一編成出ていてとても活気のある町です
(毎日1編成出発、24時間で築地着ですから最低でも6編成以上ダイヤがあったのですね)
湧き上がるような活気があった町なのにそれがどうでしょう、200海里で北洋漁業が中止
水産の街なのに魚が取れなくなって、昔の面影が無くなっていまして、人が歩いていない町になっています
(釧路駅前の賑やかさを知ってるだけに悲しくなります!)
卒業した寿小学校を訪ねて見ましょう、確か駅近くにあった筈です!
・ 【通り掛りの人に場所をお聞きします】
50年も前の話なので場所の記憶は全くありません、おそらく校舎も建て替えられているでしょう
その人は「陸橋を渡った先に見えるでしょう」、あそこが寿小学校です!
小学校はありました、新校舎も建てられていましたが、寿小学校の名前がありません
校名を記した「中央小学校」があるだけです
(寿町内は1丁目から3丁目まであって小学校はここだけです)
町内地図をよく見ますと、明らかに校名だけをシールで安直に張り替えられていました!
・ 【校名が変更になって「寿」から「中央」になっていました】
残念ながら寿小学校の名は無くなってます、僕の卒業名簿は「中央」小学校に残ってる筈です
親父は転勤族でしたから北海道内は転々としていた時期でもあります
この時期の転勤は悲喜こもごもで家族の荷物が家に入らなくて、一度入学手続きをした
新川小学校がたまたま遠足日で「明日再び来て下さい」と言われて帰ってきたら、
なんと再び引越し準備をやっていました
再度市役所に行って手続きのやり直しして「寿」小学校に無事編入できたのでした
(母は市役所の人にほんとですか?と怪訝な顔されたと言ってた事が記憶に残ってます)
行く先々の転勤&転校ですから行った先での旅館暮らし、入学がずれ込むと1週間で転校などと
ドタバタの引越し貧乏に明け暮れました
母はなるべく教育レベルの高い小学校を事前に調査してくれたようで
駅近くの学校が多かったような気がします、残念ながら僕の将来には全く影響はありませんでしたね
(それとも効果はあったのにこんなレベルで終わって申し訳ありません)
1学期だけ入学した中学校です!
・ 【釧路市立北中学も校舎は建て替えられていました】
担任の先生は・・・・? 思い出しました「須藤力丸」先生でした
全く通学した記憶が残っていなかった学校です、これから2学期に札幌の中学に転向して行って
教科書の進み方が全く違っていて、クラスでびりになった屈辱の記憶が蘇りました
(この時は昆虫学者の千石さんと同級になってます)
釧路駅前のビジネスホテルに連絡入れますがホテルはどこも満員なのです
以前と泊まった事のある釧路からだいぶ先になる「霧多布」のとほ宿に連絡入れたらOKでした
(今は晴れてましたが、夕方の釧路空港から霧多布まで濃霧&雨&日没に見舞われ
地獄のような100kmが二人を待っていたのです)
100kmもあるとは知らず、空港から一旦戻ってガソリン入れ直して助かりました!
(あの濃霧のさなかに人気のない所でガス欠なんて事態を考えると恐ろしくなりました
後ろに乗るママは「のん気」に考えて羽田で時間を潰しているでしょうね!)
これが本当の「冷えとり」の手引書 | |
PHP研究所 |
北海道には5年程住んでて、結構道内をグルグルまわっており、旅の進行径路も大体理解でき、郷愁に浸ってます。北海道歴史の生き字引たけちゃんの解説が心に滲みます。
出張先なので送る場所がありませんでした
なんとかしますのよろしくです
この対応の素早さが仕事そのもの姿勢なのでしょうね。
頭が下がります。宜しくお願いします。
こちらの放射能もりんご屋さんの寿命に影響しない位
少なくなっていますよ