新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

連続事象の統一・分離~

2018-05-15 11:01:45 | 弁証法

先日、通常級との交流授業で体育に行く小四の児童に付いて行った。
その時間は運動会へ向けてのリレー・バトン渡しの練習であった。

六人一組でリレーをした。
私の担当児童は二番目であった。

一番手A子から私の担当の二番手B君へとバドンが…
う~視ていて、今一つスムーズではなかった。

私には、B君がリレー・ゾーンなのに、速く走り過ぎに思われた。
そこで、B君に「全力で走るのはバトンを受け取ってから…」と伝えた。

その少し後に体育を指導していた担任がA子に、
「バドンもらいの掛け声のタイミング早すぎ…」と指導した。


その言葉を聞いて私は思った。
『確かに、その通りだった!』…と。
B君はA子の「ハイ!」と言う掛け声で走り始めていた。
その結果、A子が接近した時には、B君は加速されていた。
ここで、A子が掛け声のタイミングを少し遅らせれば、
B君の加速前にバトンが渡せる距離に達するだろう。


私は、B君の走りだけを視て、
彼だけの指導をした。

でも、担任はA子からB君へのバトンの移動過程を視て、
A子のバトン渡しの掛け声のタイミングを指導した。

これは、部分を視ていた私と流れを視ていた担任。
または、B君だけを視ていた私と視点をA子からB子へ移していた担任。

ここでテーマの
連続事象とは、リレーのスタートからゴールまで。
統一とは、その結果を速い・遅いから捉える事。
分離とは、上達・スムーズな走り速くする為の分析。




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事実⇒論理的事実⇒論理…

2018-05-13 11:50:52 | 言葉・概念



事実とは、
実際に現実にあった・起こった物事、
実際に現実にある・起こった物事。

論理とは、物事の性質。

事実とは、・言葉・言葉の表現ではなく。
それは、現実で実際にある物・あった物。
それは、現実で実際に起きた事・起きている事。

以上が、端的な事実と論理である。
ならば…論理的事実とは?である。


例えば以下の記述は事実の正確な表現だろうか?
「机の上に万年筆がある」

これは正確な事実の表現ではない。
事実を正確には表現するなら以下であろう。
机の呼ばれているモノの上に、万年筆と呼ばれているモノがある。

更に、より正確に書くなら以下であろうか…
「机」というの性質を持っているモノの上に、
「万年筆」という性質を持ってモノの存在がある。


以上から言える事は以下である。
端的な事実は、「モノの上のモノがある」、となる。

論理は、
机と呼べるモノの持っている「机的な性質」、
万年筆と呼べるモノの持っている「万年筆的な性質」の事である。

ならば、論理的事実とは?
それが、「机」という表現であり、「万年筆」という表現であり、
それらの状態を「机の上に万年筆がある」という表現である。


ここから分かる事は~
我々は、事実を事実として表現していない。
我々は、事実を、論理的に把握して表現している。
この論理的表現された・されている表現を論理的事実と呼ぶのだろう。


事実はシンプルである。
○○と呼べる「モノ」がある・あった。
××と呼べる「コト」がある・あった。


例えば、「〇〇がない」という表現について…
これは、事実でない。

事実は、
「私が求めているモノがない」
「私の頭脳・認識内にあるモノがない」
「目の前にあるモノは、私の頭脳・認識の中にあるモノではない」

これは、
「〇〇がない」ではなく、
「○○とは別のモノがある」となる。

実際の現実には、
「ない」はなく、「ある」だけがある。

それでも、人間が自ら認識で外界に問い掛けた時、
そこには、元々はなかった筈の「ない」が生まれる。





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変わらないモノ?

2018-05-06 11:46:32 | 弁証法


変化と不変、
相対的と絶対的、
変わるモノと変わらないモノ、

赤子⇒児童⇒小学生⇒中学生⇒高校生⇒大学生⇒社会人⇒…
ゼロ歳⇒10代⇒20代⇒30代⇒40代⇒50代⇒60代⇒…
と…
その肉体・精神は変わっていても私が私である事に変わりない。
私が私であって不変でも、時々の私の考え・感情は変わっている。

変化は不変の中、不変は変化の中…
変化・不変は二つで一つ…
どちらも変化・運動の一部である。

ヘーゲルの絶対精神は不変であっても…
その絶対精神の中身は、時代と共に変化していく…

今も昔も日本は日本である…
でも、その日本の中身は変化している。


変化と不変の二者択一は、変化・運動の否定であり、
それは、弁証法の否定でもある。

絶対者を認める観念論は、
その絶対者の中身の変化を考慮して初めて学問となり得る。

事実から始まる唯物論は、
その事実が具体⇒具象⇒抽象⇒論理⇒理論へ向かえて学問となり得る。

世の中、「あれか・これか」であり、「あれもこれも」…である。
大切なのは、いつ「あれか・これか」であり、いつ「あれもこれも」の選択。


私は、
独りの時は「俺(昔は僕)」であり、
私生活・家庭では「俺(昔はパパ)」であり、
友達の前では「俺」であり、
仕事・学校では、「私」である。

同じ私でも、学生時代と社会人時代とでは同じ私ではない。
それでも、学生の私と社会人の私は、同じ私である。

それは、
どこが・なにが、違っていて、
どこ・なにが、同じなのかである。

事実の中に、変化・不変がある、のではなく、
人間が事実の中に変化・不変を見出しているだけ…


人間なら人間にとって大切な事は、
自己の中に如何なる不変を創出し~
どのような変化を求めていくか?


変化の激しい世の中に、不変を求めるのも人間なら、
変わらぬ世の中に、変化を求める、のも人間なのだろう…











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形と型について…

2018-05-05 09:40:33 | 悟りシリーズ


形とは何か?
型とは何か?

形と型の意味とは?
形と型の意義とは?

守・破・離について…

「形(かたち)」の意味を辞書で調べると~
① 例えば「丸」「三角」「ふくらんだ」「とがった」「たまごに似た」
のように捉えられる、ものの様子。
② 整った有り様。出来上がりの姿。
③ 人の顔つき。服装や身づくろいなど、外から見て分かる、その人の様子。

「形(かた)」の意味は~
① もののかたち。
② 借金をする時、かわりに預けるもの。

「型(かた)」の意味は~
① 同じかたちのものを製造する為につくる、金属や土、紙などでできたわく。
② 古くから習慣として決まっている物事の形式。
③ 芸道や武道、スポーツなどで手本となる、定まった動きや方式。
④ 同じ種類のものを、他のものから区別している、共通の形式。


辞書を調べて初めて分かった事。
今までの私は、「型も形」も同じだと思っていた。
でも、この辞書の意味・説明と現実を合わせて考えるなら、

初めに、あるモノの様子「かたち」を見て、
人が、その変化している様子を「かた・形」と認識し、
その様子を真似る為の「型・かた」を創り出した。

私は、今ブログを、文章を、書いている。
この文章とは、私の「形と型」についての思い・考え・認識を、
現国(現代の日本語)の文型・言葉型に嵌めて、書かれているモノである。

これは、私の認識の現国的表現であり、
それは、私の認識像の言語化・型化でもある。

型を考えるなら、
コンビニやファミレスのマニュアルとか、
日常生活の挨拶の仕方、「こんにちは…」「こんばんは…」とか、
交通ルール、一般常識…色々と考えつくが…


両親、教師、先生、恩師、師範、教祖…等の教えも「型」と言える。
それは、言葉であり、無言であり、態度であり、一挙一動である。

子供、児童、生徒、学生、弟子…は、
その相手から学び取る為の方法が、
「守」⇒「破」⇒「離」であろう。


先ずは、言われた事・教えを守り、その動きを守り・真似する事から始め、
次には、その言葉、その動きの本質へ迫る為に、意図的に破る事へと進む、
そして、その「破」の繰り返しの過程で、教えられた本質へと近づく、
その体得した本質を、教えられた表現から離れ、自分的な表現への到達。


人間の闘いを考えると、動物的であり、人間的である、と言えよう。
動物的とは、自然的であり、成長的である。
それは、その人が生きている過程で自然に身に着けた闘い方である。

人間的とは、「強くなりたい」「闘い方」を知りたい、
と言う目的意識を持って、
他人から、書物から、動物の動き…から学んだ闘い方である。


ならば、「闘い方」の本質とは何か?
それは、「闘魂」と言えよう。
「闘魂」とは、
ハングリー精神、負けず嫌い、意地っ張り…等、色々であろう。

「型」の意義とは、自己表現の為の手段。
それは、自己の目的を確実に達成する為の手段である。

社会的である人間の目的達成とは、
他人から・社会的に承認されて、初めて「達成」と言えよう。

このブログの内容も、多くの現国が分かる人達が、
読んで分かる言葉・文型である事から始め、

その言葉で私の今の認識を的確に表現する事へ、
そして、その私の言葉が本質へ到達し得るモノへ、


私の言葉が本質へ到達し得るには、
私の認識が本質へ向かっている必要があろう。
私の求めている本質とは、「悟り」であり、「悟得」である。

悟りの型とは、
「宗教的悟り」であり、
「武道的悟り」であり、
「学問的悟り」であろう。


人が日々を平穏に生きていく為の本質が「悟り」だと私は考える。
現象論的な悟り、構造論的な悟り、本質論的な悟り、であろう。


悟りとは、自己の制御不能な感情の、自己制御の手段であり、型であろう。
端的には、自己の感情を自己意識からの分離である。
それは、自己のマイナス感情に動かされない認識であろう。
マイナス感情とは、自己の目的に反する感情である。

相手と仲良くしたい時、
自己の怒りの感情から相手を罵倒したり、殴ったりしたら、
果たして、仲良くなれるだろうか?

子供同士、同級生同士なら、殴り合って仲良くなる事も起こり得る。
しかし、大人同士なら、そのような事は、殆ど起こり得ないだろう。

悟りとは、自己の感情の
合目的的な解消の手段・認識であり、
合目的的な表現を可能にする手段・認識でもある。


相手の無礼を笑い飛ばせる認識。
闘いの恐怖を笑い飛ばせる認識。

怒鳴りたいから笑い飛ばす。
怒りを微笑の型で包み込む。
笑いを怒りの型で包み込む。
悲しみを笑み型に包み込む。

喜怒哀楽は感情である。
喜怒哀楽には、それぞれの表現がある。
それは、社会的表現、形・型がある。

怒りの表現が、爆笑や微笑では、それ一般的な感情表現ではない。
しかし一般的でない事が時に目的達成に合致している場合がある。


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