「二律背反」について~
先日、「学城」 第六号<『いのちの歴史の物語』から『社会の歴史』に向かって>の中で、
…「卵が先か」・「鶏が先か」…について…「世界観としての問題…」と言った記述を読んだ。
例えば、鶏は卵から生まれるから「卵が先」。
鶏の卵は、鶏にしか産めないから「鶏が先」。
この双方は、現代の事実から⇒「鶏は鶏」・「鶏の卵は鶏になる」⇒から考えるか、「二律背反」的。
だが…世界の始まりから、鶏・卵が存在していたのではなく、ある生物から鶏に進化して来たのだろう。
そのような発想から、「卵が先」の場合は~
鶏に進化している過程の、(鶏以前の)ある生物が「卵を産んだ」…
そして、その卵は、鶏に進化した形で誕生した…
これなら、鶏以前(非鶏)の生物が生んだ卵が鶏になったので「卵が先」。
次に、「鶏が先」の場合は、進化の過程である生物が鶏に進化して、卵を産んで鶏二世が誕生した…
このように考えるなら「鶏が先」。
この「二律背反」の理由は、地球・世界の全体的な進化の過程で起こった「鶏とその卵」の関係を…
自然・世界の中の「生物の進化とその卵の進化」という全体的な命題とする事無く、「鶏とその卵」という部分的な命題の関係に限定してしまったから…
もっとも…学城では、鶏は実体・卵(を産む)は機能、と捉えて…
本来は、「実体・機能」という二つで一つのモノを、「実体と機能」と分離した「二律背反」。
でも「全体・部分」の二つで一つのモノ、それを全体から部分を抽出した「二律背反」。
全体的に思考するなら、進化の過程で、
卵から産まれた瞬間から鶏、卵から産まれて成長過程で鶏へ~考えられる事。
二通りのことが考えられるが…そもそも…鶏とは何?いつの時代に、鶏が鶏として特定されたの?
そもそも…ある生物が鶏へ進化するのではなく、鶏擬きの生物が、真・鶏になったり、鶏擬き生物のままだったり…
過去から現代までの全体的な進化過程から、現代という時代・部分を切り取って「鶏・卵」…
ここでのコメント欄での、今の弥勒お宅が、自由びとを罵っている理由は明白であろう。
この弥勒お宅は、自由びとの思考を、このお宅レベルでお宅的に理解し思考しようとしているからである。
人間の思考過程は「十人十色」、「千差万別」だろう…
しかし、全ては、「人間の思考過程」という「一つ」の共通性、
千差万別でも「一つ」のモノコト(思考過程)に対するモノ。
バラバラなモノでも、「一つ」のバラバラ状態のモノ。
宇宙規模の世界観の下には、
個別な、弁証法世界観、哲学世界観、学問世界観、専門世界観…
大きな世界・小さな世界・もっと小さな世界…世界も色々でも、
バラバラな全ての世界は、私の中では一つ世界。
でも…外の世界は、まだまだ…私の未知・無関係なの世界で一杯!
言うなれば、自由びと弥勒お宅の間の上記のような世界観の相違!
ここまでの「家族は社会の最小単位」という言葉・概念についてのコメントの応酬も然り…
私の、その始まりの観念・世界観は、「先達の言葉を肯定的に捉えて」から始められた。
その言葉通りなら、現代社会での「家庭と社会をどう捉え考えるなら、その言葉通りになり得るか?」と思考していった。
また「この言葉を否定する」なら、現代から考える事は不適格であろう。
この言葉を否定するには、まず「この言葉の正確な理解」が必要だろう。
それは、この言葉を発した時代と、この人物を知らねば…だろう。
言葉は認識の表現であるから、
初めに、この言葉は何語で発していたか?
どの時代のどこの國の言葉か?
それを誰が、どのように理解して翻訳したか?
それを知らねば…仮に現代では「家族は社会の最小単位」とは、考えられない・思えない…
としても、この言葉発せられた時代では、そうだったかも…しれないから…だろう…
端的に言って、「家族が社会の最小だろうが最大だろうが…」今の私にとっては、どうでもいい話である。
ただ、先達の言葉から彼らの思考法が少しでも組み取れたら、それが有効というだけである…
また今回のような「卵が先」・「鶏が先」も同様である。そんなモノコトなんてどうでもよい事!
しかし…世界観して、全体と部分の関係として、二律背反として…そんな観点・視点が汲み取れた事は大いなる収穫であろう。
また…弥勒お宅と自由びとの区別と連関が…明白な映像化してきている自覚!
もっとも…私の数十倍の能力ある者が、敢えて否定的に書き込んでいる場合も…想定の範囲ではあるが…
弥勒お宅の自由びとへの暴言~私の弥勒お宅への暴言~その中身の区別と連関~
過去の私が、当時のお宅へ、感じたあれ程のマイナス感情・起伏の激しさの理由~
それが分かってきたのは、それなりに物事(私自身)の本質へ認識が近づきつつある…から、だろうか…
一度、アップして、再読して以下の事ような事に気付けた~
進化の過程にある物、
実態的には「鶏ではなくても」、
機能的には「鶏の卵を産める生物」。
そこから産まれた卵からは、実態も機能も「鶏」が誕生。
先日、「学城」 第六号<『いのちの歴史の物語』から『社会の歴史』に向かって>の中で、
…「卵が先か」・「鶏が先か」…について…「世界観としての問題…」と言った記述を読んだ。
例えば、鶏は卵から生まれるから「卵が先」。
鶏の卵は、鶏にしか産めないから「鶏が先」。
この双方は、現代の事実から⇒「鶏は鶏」・「鶏の卵は鶏になる」⇒から考えるか、「二律背反」的。
だが…世界の始まりから、鶏・卵が存在していたのではなく、ある生物から鶏に進化して来たのだろう。
そのような発想から、「卵が先」の場合は~
鶏に進化している過程の、(鶏以前の)ある生物が「卵を産んだ」…
そして、その卵は、鶏に進化した形で誕生した…
これなら、鶏以前(非鶏)の生物が生んだ卵が鶏になったので「卵が先」。
次に、「鶏が先」の場合は、進化の過程である生物が鶏に進化して、卵を産んで鶏二世が誕生した…
このように考えるなら「鶏が先」。
この「二律背反」の理由は、地球・世界の全体的な進化の過程で起こった「鶏とその卵」の関係を…
自然・世界の中の「生物の進化とその卵の進化」という全体的な命題とする事無く、「鶏とその卵」という部分的な命題の関係に限定してしまったから…
もっとも…学城では、鶏は実体・卵(を産む)は機能、と捉えて…
本来は、「実体・機能」という二つで一つのモノを、「実体と機能」と分離した「二律背反」。
でも「全体・部分」の二つで一つのモノ、それを全体から部分を抽出した「二律背反」。
全体的に思考するなら、進化の過程で、
卵から産まれた瞬間から鶏、卵から産まれて成長過程で鶏へ~考えられる事。
二通りのことが考えられるが…そもそも…鶏とは何?いつの時代に、鶏が鶏として特定されたの?
そもそも…ある生物が鶏へ進化するのではなく、鶏擬きの生物が、真・鶏になったり、鶏擬き生物のままだったり…
過去から現代までの全体的な進化過程から、現代という時代・部分を切り取って「鶏・卵」…
ここでのコメント欄での、今の弥勒お宅が、自由びとを罵っている理由は明白であろう。
この弥勒お宅は、自由びとの思考を、このお宅レベルでお宅的に理解し思考しようとしているからである。
人間の思考過程は「十人十色」、「千差万別」だろう…
しかし、全ては、「人間の思考過程」という「一つ」の共通性、
千差万別でも「一つ」のモノコト(思考過程)に対するモノ。
バラバラなモノでも、「一つ」のバラバラ状態のモノ。
宇宙規模の世界観の下には、
個別な、弁証法世界観、哲学世界観、学問世界観、専門世界観…
大きな世界・小さな世界・もっと小さな世界…世界も色々でも、
バラバラな全ての世界は、私の中では一つ世界。
でも…外の世界は、まだまだ…私の未知・無関係なの世界で一杯!
言うなれば、自由びと弥勒お宅の間の上記のような世界観の相違!
ここまでの「家族は社会の最小単位」という言葉・概念についてのコメントの応酬も然り…
私の、その始まりの観念・世界観は、「先達の言葉を肯定的に捉えて」から始められた。
その言葉通りなら、現代社会での「家庭と社会をどう捉え考えるなら、その言葉通りになり得るか?」と思考していった。
また「この言葉を否定する」なら、現代から考える事は不適格であろう。
この言葉を否定するには、まず「この言葉の正確な理解」が必要だろう。
それは、この言葉を発した時代と、この人物を知らねば…だろう。
言葉は認識の表現であるから、
初めに、この言葉は何語で発していたか?
どの時代のどこの國の言葉か?
それを誰が、どのように理解して翻訳したか?
それを知らねば…仮に現代では「家族は社会の最小単位」とは、考えられない・思えない…
としても、この言葉発せられた時代では、そうだったかも…しれないから…だろう…
端的に言って、「家族が社会の最小だろうが最大だろうが…」今の私にとっては、どうでもいい話である。
ただ、先達の言葉から彼らの思考法が少しでも組み取れたら、それが有効というだけである…
また今回のような「卵が先」・「鶏が先」も同様である。そんなモノコトなんてどうでもよい事!
しかし…世界観して、全体と部分の関係として、二律背反として…そんな観点・視点が汲み取れた事は大いなる収穫であろう。
また…弥勒お宅と自由びとの区別と連関が…明白な映像化してきている自覚!
もっとも…私の数十倍の能力ある者が、敢えて否定的に書き込んでいる場合も…想定の範囲ではあるが…
弥勒お宅の自由びとへの暴言~私の弥勒お宅への暴言~その中身の区別と連関~
過去の私が、当時のお宅へ、感じたあれ程のマイナス感情・起伏の激しさの理由~
それが分かってきたのは、それなりに物事(私自身)の本質へ認識が近づきつつある…から、だろうか…
一度、アップして、再読して以下の事ような事に気付けた~
進化の過程にある物、
実態的には「鶏ではなくても」、
機能的には「鶏の卵を産める生物」。
そこから産まれた卵からは、実態も機能も「鶏」が誕生。
>罵り
>暴言
私は自由びとお宅を罵った覚えはないのですが、自由びとお宅には罵られたという自覚があるのでしょう。いわゆる小学校の一人の児童がふざけたつもりが相手の児童がいじめられたと受け取ったのに似ているんでしょうね。
私からすると「おバカ」という表現は可愛らしい言い方で悪意があったわけではありませんが、自由びとお宅が罵られたと受け取るのなら少し自戒しなければなりません。
自由びとお宅が挙げた「『いのちの歴史の物語』から『社会の歴史化』に向かって」を現代社のホームページで見てみると私が敬愛している村田先生の執筆ではありませんか。残念ながら自宅の何処かにあるはずの第6号が見当たらないのでアマゾンに再注文しましたけど。
私自身は以前から説いているように人の思考は千差万別で皆違う考えをしますけど、今回の自由びとお宅の「ニワトリとタマゴ」の思考も私には良く理解できませんね。私が個性的すぎるのか?自由びとお宅が個性的すぎるのか?失礼ながら、私には自由びとお宅の思考は極めて個性的というか、う〜ん、良く分からんですね。南郷先生が使っている「オバケ」という言い方をしたら、また暴言だと言われるかも知れませんけど。
私には自由びとお宅のように「タマゴとニワトリ」の問題に唐突に?「全体と部分」なんてフレームを持ち出す思考が解りませんけど、私自身は「この「ニワトリが先か?タマゴが先か?」という設問って何だろう?」なんて感じましてね、
というのも人間も受精卵というタマゴから発生するという知識があるからで、そうすると体の中でタマゴを育てるのと体の外でタマゴを育てるのとの違いで生物は全てタマゴから発生するのかと思って調べてみるとミジンコなんかもタマゴからみたいなんですよ。でも、ミジンコは多細胞生物らしいんですよね。単細胞生物は細胞分裂して個体数を増やすみたいですけど、つまりは「タマゴ、卵」というのは多細胞化していく単細胞のことのようで、植物も単細胞から多細胞に分裂していくみたいですね。
自由びとお宅のような思考からしたら私(弥勒)の思考回路は「タマゴが先か?ニワトリが先か?」という元の問題を変えてしまっているではないか!」と叱責の対象となるようなものでしょうから、学校のテストで良い点数が取れない人間なんですよ、私(弥勒)は。
まー、それでも私は私自身にそれなりの自負を自分なりに持っていますから、自由びとお宅も自由びとお宅の世界で安らかにお眠り下さい。
ニワトリは多細胞でタマゴは単細胞だということから「多細胞というのは間違いなく単細胞から発生するのだから、初めに多細胞ありきは無いだろう」と考えることも出来ますけど、
ニワトリというのは現在は人間の家禽として品種改良だとかされているけど、元々は赤色野鶏という野禽で、それは鳥類としての進化の過程を経てきたものだから、キジ目キジ科とされている「野生のニワトリ」が「ニワトリとは同じ鳥だとは思われないキジに類する鳥」から進化・変種化してきたと想像したならば、野生のニワトリに進化する前段階の何らかの鳥類(キジの仲間?)の産んだタマゴが野生のニワトリになったとも「想像は」出来ますね。つまりは生物学的な用語なのか分かりませんけど「突然変異」だとか「エピジェネティック」ということなんでしょうかね?
ですが、自由びとお宅の書いてるものは「鶏擬き」とは書いていますけど「(鶏以前の)ある生物」とも書いているわけです。「ある鳥類」とは書いてない。
「擬き」って何だ?鳥類は恐竜から進化したとされて骨格の類似性が指摘されたりしているから「ある生物」というのは恐竜まで遡るのか?いや、それなら「キジ類からニワトリモドキへ」とは随分と認識像の解像度が低い「粗悪、粗雑な思考」と言わねばなるまい、みたいな批判的な内容を含んでしまう私(弥勒)の思考を「おバカ」という可愛らしい表現で相殺しようとするのが私なりのバランス感覚ではありますけどね。
>コメント
>自由びとお宅の投稿を読んで少なからずの驚きを感じましたね。
>>罵り
>>暴言
>私は自由びとお宅を罵った覚えはないのですが、自由びとお宅には罵られたという自覚があるのでしょう。いわゆる小学校の一人の児童がふざけたつもりが相手の児童がいじめられたと受け取ったのに似ているんでしょうね。
↑
それは、お宅の発した自由びとは、「阿保・能無し・無能…」という言葉が、お宅にとっての事実だとしても…
それを聞いた自由びとが、それを事実と認識しないなら、その自由びとにとっては「罵り」「暴言」…とい事実です。
それも、この自由びとの個人ブログ内のコメント欄での事実・コトなので、社会的には、そうとは限りませんが…
↑
イジメの定義は色々でしょうが…
例え、その者(達)が「ふざけたつもり…」でも、大人数による一人へ「ふざけ」、
または、体力・知力・権力のある強者が、弱者への「ふざけ」はイジメ…と私は捉えています…
「いじめ」とは、ある行為対しての、その解釈であり、常に絶対的な「いじめ」行為そのモノは存在していない…
主観的なその個人にとっては「いじめ」行為でも、客観的周囲には「いじめ」と認識それない「いじも」もあり得るモノ。
また、初めは「御ふざけ」が、エスカレートして「いじめ」に変化する事もあり、
初めが「いじめ」でも、「御ふざけ」に変える事も可能。
以前、中か?新聞の投稿欄!?で読んだ以下の記憶。
毎日毎日、クラス児童達から悪口を言われていた女子児童…
そんな時、祖母が「家でイジメごっこ」しよう!と言って、
それから毎日、帰宅後祖母と悪口・罵りの言い合いを続けたそうです。
すると…その女子児童…学校での「悪口・罵り…」が、全く気にならなくなった、そうです。
身体的な直接打撃は、「虐待」・「暴力」ですが…
直接的な打撃・暴力のないモノは、当人の目的を持った意識次第で平気になり得るモノでしょうね…
ただ、真逆の「全員による無視」という刺激皆無も、精神的な虐待・精神・無刺激的な暴力…「イジメ」でしょうが…
>私からすると「おバカ」という表現は可愛らしい言い方で悪意があったわけではありませんが、自由びとお宅が罵られたと受け取るのなら少し自戒しなければなりません。
↑
お宅って…「慇懃無礼」という言葉を知っていますよね!
表現が「可愛かろう」が「悪かろう」が「善意だろう」が「悪意だろうち」が…
その言葉の解釈・感情・感想は、当人だけの個人的なモノでしょうが…
>自由びとお宅が挙げた「『いのちの歴史の物語』から『社会の歴史化』に向かって」を現代社のホームページで見てみると私が敬愛している村田先生の執筆ではありませんか。残念ながら自宅の何処かにあるはずの第6号が見当たらないのでアマゾンに再注文しましたけど。
↑
このお宅の「私の言葉の対象」に対する捉え方・解釈・理解は、私的ではありません。
私は<先日、「学城」 第六号<『いのちの歴史の物語』から『社会の歴史』に向かって>の中で、
…「卵が先か」・「鶏が先か」…について…「世界観としての問題…」と言った記述を読んだ。>と書いています。
それは、「学城」第六号の目次の
< 6 『いのちの歴史の物語』から「社会の歴史化」に向かって」…「村田 洋一」 116>の事です。
これは、今私が手に持っている「学城」第六号には、確かに存在・書かれていますよ!
以下のモノです。
現代社 ホームページから転写
【第6号】
第1版/2009年/228頁/定価 1,900円 (税別)
A5判/ISBN 978-4-87474-135-1
目次
◎南鄕継正 巻頭言 ―学問を志す初学者たちに Ⅳ
◎本田克也 海保静子が遺してくれた未来への手紙
― 『育児の認識学』 に描かれた、真の精神科学への礎石とは
◎田島翔鷹 追悼文 海保静子教官に師事して
―偉大なる師から学んだ武道魂とはいかなるものか
◎浅野昌充 「生命の歴史」 の歴史
―自然・社会・精神の弁証法性を捉える真の弁証法とは
◎斉藤俊郎 フグ毒とは何か ―フグ毒の二重性
◎加藤幸信 世界歴史とは何か
―科学的な世界歴史の構築を目指して
◎村田洋一 『いのちの歴史の物語』 から 「社会の歴史」 に向かって
◎城内 進 土木設計とは何かを問う
◎渡辺武彦 武道学の原点たる 『武道の理論』 を読む
―南鄕継正師範 著作一覧表を作成して
◎加納哲邦(校閲) 武道空手とは何か、その中で護身武道空手とはどのような
橘 美伽 位置付けであるべきか
◎南鄕継正 東京大学学生に語る「学問への道」 (最終回)
―平成16年度、夏期東京大学合宿講義
↑
以上書かれて今よ!
>私自身は以前から説いているように人の思考は千差万別で皆違う考えをしますけど、今回の自由びとお宅の「ニワトリとタマゴ」の思考も私には良く理解できませんね。私が個性的すぎるのか?自由びとお宅が個性的すぎるのか?失礼ながら、私には自由びとお宅の思考は極めて個性的というか、う~ん、良く分からんですね。南郷先生が使っている「オバケ」という言い方をしたら、また暴言だと言われるかも知れませんけど。
↑
分かりませんか…
お宅に分からないのは多分「世界観」とは?ですね!
端的に書くなら、「世界観」とは、自分が書く・論ずるモノコトの始まりをどこに、どのように設定するか?
例えば、「社会論」なら…
人類の始まりから、何故に人類は共同生活をするか?
未社会・社会以前から?―そもそも何が、どのように社会になったか?
社会の始まりから?―その始まりをどこにするか?
>私には自由びとお宅のように「タマゴとニワトリ」の問題に唐突に?「全体と部分」なんてフレームを持ち出す思考が解りませんけど、私自身は「この「ニワトリが先か?タマゴが先か?」という設問って何だろう?」なんて感じましてね、
というのも人間も受精卵というタマゴから発生するという知識があるからで、そうすると体の中でタマゴを育てるのと体の外でタマゴを育てるのとの違いで生物は全てタマゴから発生するのかと思って調べてみるとミジンコなんかもタマゴからみたいなんですよ。でも、ミジンコは多細胞生物らしいんですよね。単細胞生物は細胞分裂して個体数を増やすみたいですけど、つまりは「タマゴ、卵」というのは多細胞化していく単細胞のことのようで、植物も単細胞から多細胞に分裂していくみたいですね。
↑
問題は、「タマゴとニワトリ」の問題ではなく…「卵が先か・ニワトリが先か」という命題です。
お宅的に書くなら、
(鶏の)>「タマゴ、卵」というのは多細胞化していく単細胞のことのようで、植物も単細胞から多細胞に分裂…<が先か?
(実体・身体)<「ニワトリという完成体が先か?>ですね。
これを現代「ニワトリのタマゴがニワトリ」になるから…思考するのではなく、
以下のような、過去の「生物の進化過程で…思考するかの相違です。
ニワトリとしての完成体が、ニワトリのタマゴを産むか?
ニワトリ未満・以前の生命体が生んだタマゴがニワトリに成長するか?
今・現在から、今の世界を思考するか?
過去の世界の始まりから、今の世界を思考するか?
今の自分から、今の自分思考するか?
自分の生誕から、今の自分を思考するか?
自分生誕以前の両親の生い立ち・出会いから、今の自分を思考するか?
「今の自分は?」を思考する時の、
その思考の始まりを「世界観」とも捉えられる…という事ですよ。
>自由びとお宅のような思考からしたら私(弥勒)の思考回路は「タマゴが先か?ニワトリが先か?」という元の問題を変えてしまっているではないか!」と叱責の対象となるようなものでしょうから、学校のテストで良い点数が取れない人間なんですよ、私(弥勒)は。
↑
「タマゴが先か?ニワトリが先か?」を思考するには、当然に「ニワトリとは?タマゴとは?」が不可欠です。
それらの生物としての一般性から、命題の「タマゴが先か?ニワトリが先か?」に戻ります。
その思考過程から、
非ニワトリ生物の受精卵がニワトリ成体へは可能か?
成体のニワトリにしか、ニワトリのタマゴは産めない?
>まー、それでも私は私自身にそれなりの自負を自分なりに持っていますから、自由びとお宅も自由びとお宅の世界で安らかにお眠り下さい。
↑
その[それなりの自分なりの自負」が、己の成長を阻害するのですよ!
真のプライド・自負のある者達は、自己の目的達成の為に、そのプライド・自負を無視・棚上げが可能ですよ!
賢者は、己の無知を知っている・気付ける(「無知の知という認識変化・運動が可能)…
愚者は、己の意識・認識を誇り続ける(有知=有知のまま変化・運動不能)…
お宅は、賢者or愚者?
お宅は、自己の成長を願望or絶望?
トでいいい点数が取れない人間なんですよ、私(弥勒)
↑
分かりますね…
小学校での算数のテストで「…式を書け…」なのに、その答えだけを書いて減点!されている児童…
そのような児童は、公文に通っていて…
「こんなの簡単!と言って、式を書かず、暗算で計算できいる」モノです。
今の自分にとつては、「簡単・明瞭」(公文的実力)でも、初心に帰って(学校小1レベル)で考え解く事が出来ないのですね。
弥勒お宅は、そのお宅の現在の能力・実力で、考えているから自由びと記述と乖離するのでしょうね…
まあ~それもお宅の自由・勝手ですから…
「どうぞそのまま!」
「そのままどうぞ!」
「変えないで!」御自由に~♪♪♪
↑
「絵画のデッサン」って…完成画への「粗悪・粗雑」的なアバウトなモノ…
「粗悪」か?「粗雑」か?…が、アバウト・デッサン問題ではなく…
そのデッサンを描いている者の絵画・デッサン能力・実力の相違ですかね…
因みに、発達障害の児童の中には、風景を描くのに、初めから目の前の樹木の葉とか枝…を緻密・精密に書きますよ。
もしかして…弥勒お宅って、発達障害なの?
描く対象が、静止体・完成体なら、精密・緻密も…まあまあ~いけるかも…
ただ…それが変化体・運動体は、初めから精密・緻密だと、その絵が完成した時には、描いている対象とは別モノ!なんて喜劇・悲劇があり得でしょうね…
だから完成は・消滅…なのかもね…
その時代完成した哲学は、その次の時代とは別物になり得てしまう。
ここで…緻密・精密に「私の事」書くなら~
今(この瞬間の)私は、今(次のこの瞬間)の私ではなく、
当然に、過去の今の私でもなく、今の私も過去の私ではない…
それらは、その時々の粗雑・綿密・素朴・粗悪・素良…的な私なのでしょうね…
>「>擬き」って何だ?」
それは、ニワトリへ進化する過程のニワトリの一歩手前の「ある生物」の事…
それが、鳥類だろうが、爬虫類だろうが、両生類だろうが…
それが「ニワトリへの過程にある生物」なら何でもよいのです。
哲学以前のような、ニワトリ以前、ニワトリ未満…的な生物…
それは、私の認識・思考過程での観念的に想定した論理的な架空の生物…
そんな生物の実在なんて…証拠も証明も確認も…できない…でしょうね…
私も「デッサン」という言葉の意味は知っていますし、「デッサン」として書かれた文章も読んだ経験があります。デッサンにも色々とあるのでしょうが、書く対象が明確になっていて細部の繋がりは未だ不明瞭だというデッサンが私が知ってる多くのものでしたよ。
>弥勒お宅って、発達障害なの?
私が発達障害かは分かりませんが児童でないことだけは確かですよ。ちなみに大抵の児童には抽象的な話しは理解できず、児童に話しを理解させるためには大人からしたなら相当に具体的に話して聞かせるように意識していると学校の教師や父兄から聞いたことがあります。「大人しく(おとならしく)していなさい」では理解できなくて「しゃべらないように!」とか「(口に人差し指を当てて)シーっ」と言うと理解できるのだとか。極めて具体的ではありますが「緻密」とかいう話しではありませんね。「真理を誤謬に転化する方法は過度に逸脱させること」だという金言を思い出しましたよ。自由びとお宅が故意にやってるのかは知りませんけどね。
「ある生物」で何かのデッサンになるとも思えませんけど、思考過程を辿ってみるならば、初めに「タマゴが先か?ニワトリが先か?」という言い方が伝わっているという事実があり、そこにカントの「二律背反」という「どちらも正しく思われる」というのを重ねてみると、タマゴが先だとしたならこれこれこうで、ニワトリが先だとしたらこれこれこうだ、という形式にすることが筆者の狙いで、だから「ある生物」なんてどーでもいいなんてことになるだけだと思います。
論文のデッサンと呼べるレベルの思考ではありませんね。
自由びとお宅の考えは分かりませんけどね、私自身は《自由びとお宅の言っている「世界観」》というのは南郷先生の本に説かれた「唯物論か?観念論か?」ということだと思っていますね。
私自身も自己を成長させるために師事している先生がいますけど、その先生の影響で最近は旧ソ連の数学史を読んだんですよ。
そこでは数学ばかりでなく様々な科学の分野で敵対する相手を失脚させ粛清するための文句が「彼は観念論者である!」だったわけですよ。
私には南郷先生がスターリンに瓜二つに映りますけどね。
>弥勒
・コメント
>これはデッサンですよ!
>私も「デッサン」という言葉の意味は知っていますし、「デッサン」として書かれた文章も読んだ経験があります。デッサンにも色々とあるのでしょうが、書く対象が明確になっていて細部の繋がりは未だ不明瞭だというデッサンが私が知ってる多くのものでしたよ。
↑
「デッサンは、造形教育の基礎トレーニングであり、デザインやアートの基本的な思考や技術を身につけることに加え、造形の態度を養うものでもあります。
デッサンとイラストの違いは、デッサンは物の形を捉え、立体を表現することをメインにしているのに対し、イラストは表現したいものを誇張し、そうでないものを省くことで情報を整理し対象のイメージを視覚的にわかりやすく描くという特徴があります。」
ここでのコメントは、言うなれば~「緻密・精密な思考への『デッサン=基礎トレーニング』ですね。
最終的に、頭脳内で緻密・精密な認識・映像化できていて、現実界で駆使可能ならOK!
敢えて、ここに書く必要なない!のでしょうね。
>>弥勒お宅って、発達障害なの?
>私が発達障害かは分かりませんが児童でないことだけは確かですよ。ちなみに大抵の児童には抽象的な話しは理解できず、児童に話しを理解させるためには大人からしたなら相当に具体的に話して聞かせるように意識していると学校の教師や父兄から聞いたことがあります。「大人しく(おとならしく)していなさい」では理解できなくて「しゃべらないように!」とか「(口に人差し指を当てて)シーっ」と言うと理解できるのだとか。極めて具体的ではありますが「緻密」とかいう話しではありませんね。「真理を誤謬に転化する方法は過度に逸脱させること」だという金言を思い出しましたよ。自由びとお宅が故意にやってるのかは知りませんけどね。
↑
あれ!知らないの?大人の「発達障害」もある事を!
子供・大人…の具体的・個別的な障害は十人十色・千差万別ですが…
この場合の障害とは、
初めに全体を観ようとせず(見ない・見えない)で、見えている部分から、書き始める・取り掛かる事。
個別の事実は分っても、それら個々の事実全体(総体)が意味するモノが分からない…
言うなれば、時々に起こっている個々の出来事が単なる「事実」で、その総合・全体の事件が「真実」。
お宅は、私の個々の言葉・表現に囚われ過ぎて、その認識の全体像が、見えない・分からない!
まあ…もっとも…私の言語表現記述の未熟さもあるので…
その未熟さを含めて理解可能な者には分かってもらえても…
その未熟さが分からない者には理解してもらえない…ようですね。
お宅には、私のコメントの言葉に囚われ、私の言いたい事を観えていない。
「木は見えても、森が見えない」⇒そんな弥勒お宅事ですよ!
私の木々は、一本一本が離れすぎて、遥か遠くの高所から眺めないと…ただの「木」の集まりですかね…
>「ある生物」で何かのデッサンになるとも思えませんけど、思考過程を辿ってみるならば、初めに「タマゴが先か?ニワトリが先か?」という言い方が伝わっているという事実があり、そこにカントの「二律背反」という「どちらも正しく思われる」というのを重ねてみると、タマゴが先だとしたならこれこれこうで、ニワトリが先だとしたらこれこれこうだ、という形式にすることが筆者の狙いで、だから「ある生物」なんてどーでもいいなんてことになるだけだと思います。
>>論文のデッサンと呼べるレベルの思考ではありませんね。
↑
ヤッパリ!分かっていない「世界観」の事が…
鶏も鶏の卵も、既に完成している世界から考えるか(世界観)?
鶏という鳥類・その卵が、まだ存在していない時代から存在するまでの過渡期の世界から考えるか(世界観)?
その二つの世界観の問題だと捉えている…という事です。
小人⇒大人 or 小人⇒中人⇒大人、
子供⇒青年 or 子供⇒未成年⇒成年、
それは、「過渡期」を考慮するか・否か…の問題ですね。
原因⇒結果、
原因⇒過程⇒結果、
原因⇒過程の構造・構造の過程⇒結果、
生成⇒消滅、
生々・生成⇒発展⇒衰退⇒消滅、
起⇒結
起⇒承⇒転⇒結
「デッサンの認識・映像」が分かっていない・見えていない…
私のデッサンは、論文を書ける実力養成の為の「基本的な思考や技術を身につけること」である事。
「論文を書く為」ではなく、「論文を書ける実力養成の為」です。
その為の「世界観」のデッサンでもあります。
それは、現代として完成された世界観から、過去から現代へのまだ未完成の世界観から思考する訓練。
その一つの表現として「擬き像」⇒擬きニワトリ像~
現代の鶏のようでいて、でも鶏でないニワトリ擬き・生物。
現代の鶏の卵のようでいて、そうではない擬きタマゴ。
人類=猿人⇒原人⇒旧人⇒新人…
例えば、ここで「人間とは?」を思考する時~
猿人or原人or旧人or新人から始めるか?
現代人から始めるか?
それとも…類人猿から始めるか?
その始点は、思考する個人の自由勝手な決定ですね!
>弥勒
・コメント
>>お宅に分からないのは多分「世界観」とは?ですね!
>自由びとお宅の考えは分かりませんけどね、私自身は《自由びとお宅の言っている「世界観」》というのは南郷先生の本に説かれた「唯物論か?観念論か?」ということだと思っていますね。
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確かに究極的には「唯物論?観念論?」ですが…
真の学者ならともかく…普通の人々は「観念論or唯物論」なんて区別して分からないでしょうね。
観念論とは、神・絶対精神を世界の始まりとする「世界観」。
唯物論とは、新ビックバーン的な全宇宙レベルの進化・変化・運動から世界が始まる「世界観」。
一般的には、
観念論とは、自己の観念から問題を思考する。
唯物論とは、物事・事実から問題を思考する。
しかし…真の事実は外界・世界!でも、人間が認識事実はその人の観念内!
これは、言うなれば…全ての人は、認識内で事実と信じているモノゴトから思考を始めている。
外界の事実とその人が認識している事実には、100%の完全なる一致はあり得ない!
事実の完全一致は無理でも、流れ・筋道・論理的なアバウトな一致は可能!
そこで、人類は、個人的・点・線的な「観念」の流れ・変化、
そこから、時代時代人間・国家的、線・面的な「観念」と面の連続的流れから…
哲学・哲学の流れ・筋道・論理を創り上げて、部分的な事実を集めて、是体的な「真実」に近い論理的な真実を悟ろうとしているのでしょうね…
>私自身も自己を成長させるために師事している先生がいますけど、その先生の影響で最近は旧ソ連の数学史を読んだんですよ。
>そこでは数学ばかりでなく様々な科学の分野で敵対する相手を失脚させ粛清するための文句が「彼は観念論者である!」だったわけですよ。
>私には南郷先生がスターリンに瓜二つに映りますけどね。
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世界観の区別と連関が分からない者達が、
他人の世界観を判断・評価しても、その信憑性は皆無でしょう…
でも、まあ~下手な鉄砲も撃てば当たる!ですね…
お宅って、「瓜とスイカ」違い分かる?
それでも、世界観としての「観念論と唯物論」は無理でしょうね…
敢えて言えば、全人類は、どんなに頑張っての「絶対精神」レベルの観念論世界観にしかなり得ない。
ただ…一握りの人々は、その時代・時代の弁証法唯物論世界観に到達可能でしょうね。
年を取れば取る程に、自己の思い込みの深さ・広さで、勘違いの連続ですね…
ただ、その時々に、その勘違いに気付ける事が、せめてもの救いでしょうが…
お宅のように、お宅自身の思い込みに気付けない者達は、
例え年齢は若くても精神的には老人レベルでしょうね…