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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

勝手な思い…

2018-10-14 11:47:45 | 言葉・概念



「世界観」という言葉、
「観念論」といい言葉、
「唯物論」という言葉、
「言葉」という言葉、……色々な言葉がある。


言葉とは、人間がある「事・物」、
ある「思い・考え」…自らの認識に付けた
レッテル・タイトル…といったようなもの。


初めは、何かあっても、何か分からない…
そんなモノ・コトに名前・言葉を与えていった。

でも、ひとたび言葉が付けられると、
今度は、同じだと思った・思える・同じようなコト・モノを
その言葉の中に入れていった。


例えば「世界観」なら、世界の見方というタイトル・レッテルであり、
それは、世界というモノの対する観方である。

その世界とは、動物にとっては本能で感じ取れる全てであろう。

でも、人間にとっては、十人十色、百人百色、千差万別…であろう。
それが、全宇宙だったり、地球全体だったり、人間社会だけだったり…
色々であろう。
更には、学校・会社、家庭、家族、自分の頭の中…だけだったり…

そんな自分の世界とは?を問う事無く、
「世界観」という言葉が使える現代は何なのだろうか?

「観念論」・「唯物論」も然り!
単に己の「観念」を己的に駆使して論じているだけの「観念論」も、
己の「観念」を全宇宙・全世界の中に投じて全的己から論じる観念論も、
みんな観念論と言えよう。

己を世界の中に投じて、世界的己から論じるなら
それは世界観としての「観念論」といってよい。
だが…問題は、その己の世界とは?である。

己の中の世界が、全宇宙、全地球だったとしても、
それが己の勝手な宇宙・地球世界だったら…?

宇宙も地球も…己の身体も全ては己の認識の外にあるモノ。
「論じる」とは、内にある認識・観念を用いて論じるのだから、
その己の世界が、単なる勝手な思い込みの世界だったら…
その論説の内容も、己の自分勝手なモノになり得てしまう。


世界観としての観念論足り得る為には、
唯物論的に世界を自ら認識界に世界的に観念化し得てこそ言えるモノである。


己の認識界に、世界観も観念論も唯物論も…なくても、
言葉として、世界観・観念論・唯物論…を使える現代…


それって、整形美人・整形美男子…
人工的・外見だけのモノだろう…
それって、単なる自己満足なのだろうか?

自己満足も満足ならそれはそれで満足であろう。
しかし、自己満足が自己満足で終わる限り、
そこに、自己発展、絶対精神的発展はない。

絶対精神をヘーゲル的観念的に設定しても、
それは、単なる自己発展皆無の満足である。

絶対精神を絶対精神的に己の認識内に観念化・観念的実体化し得て、
初めて絶対精神の自己発展の展開が可能になり得るモノ、だろう。


ならば、ここで問うべき事は、
絶対精神の観念的実体化の具体的方法論…であろう。

それは、「全ての肯定的な自己化」であろう。
肯定不可能なモノ・コトをも肯定的自己化する事。




























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