以下は、空ちゃんにしては、
比較的真面で、
読みやすいコメントだったので、
ここで、記事として取り上げてみた。
「・コメントを書いた人
・コメントが届いた記事
~一体化の為の二重化~」
「・コメントを書いた人」
「空」
・コメント
「自由びと氏に理解してもらえるか分かりませんが私が十代の頃に南郷さんの武道講義や瀬江千史さんの医学論を読んだとき非常に面白く楽しく読み通せたのは考察すべきことでしょうね。」
↑
ここで、「非常に面白く楽しく読み通せた」とは問題である。
それは、「武道講義や医学論」は、
読者を楽しませ・面白がらせる為に書かれてモノでないから…である。
↓
「それは単に両氏の文筆力の為せる技で私はただただ「凄い…」と魂を鷲掴みにされたように呆然としていたのですから。」
↑
更なる問題は、
「凄い…」のは、「両者の文筆力のなせる技」なのではなく、
両者の事実的な研鑽の深み…と言う認識にならなかった事、
↓
「ですが月日は流れて私の頭脳も発展していきました。昨日の私の投稿からも私が南郷さんの『弁証法・認識論への道』を超えたレベルに到達していることが自由びと氏には理解できないですかね?」
↑
確かに、「月日が流れて…脳の発展」でしょうが、
同時にそれは「凄い…」と感じ得る若さ・素直さ…感性の消失でもある。
↓
「そして瀬江さんの「生理学はヒト(人間以外の動物)の生理学でなく人間の生理学とならねばならないし、医学はヒトの医学でなく人間の医学とならねばならぬ」との発想が「ヒト(人間以外の動物)から人間へ」という教育学の発想を接ぎ木したものだと理解できたわけです。」
↑
教育学的に書くなら、それは「教育学の発想を接ぎ木」ではなく、
人間にとっての根本的な教育(学)の必要性の証明…なのに…
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「それは瀬江さんの周辺人脈である薄井坦子さんや神庭純子さんが先ずは教育学を専攻してから看護学を学んだ行き方からの影響も想起されますが瀬江さんの「認識生理学」なる発想はそもそもが「心身医学」のような部分的で時に学際的な対象を生理学一般(全般)や医学一般(全般)にまで不当に押し広げるもので、学問的な内実は医学ないしは生理学が教育学支配下にされるがごとき発想なんです。」
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後付け・こじ付け…自分勝手で自己正当化的な発想。
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「それは薄井さんや神庭さんが大学で教鞭をとるという「生理学の教育学的な実践」といったものとは似て非なる「専門的な学問領域である生理学の内実が教育学に支配される」がごとき学的内実なのです。」
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事実として「生理学の教育的実践」と書いているらなら、
それは、
「動物的・本能的な生理を人間的・認識的な生理」
への意図・意識的な変換を教え育てる為の実践…だろう…
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「瀬江さんがあの「認識生理学」の文章を書いたのは、おそらく20代後半か30代前半なんでしょうが、頭脳が学的な実りを迎える時期というのは確かに存在するようです。」
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「頭脳が学的な実りを迎える」には、
確りちゃんと学問の種を植えるのが必須だろう。
それには、種元から、
ちゃんと確り「学問の種」を譲り受けるのが必須。
空ちゃんは、若かりし頃に、きっと数多くの種を集め得たのだろう。
でも…残念な事に、彼の集めた種は余りにも雑多で多かった故に、
心を込めて確りちゃんと「学問の種」を育てられなかった、ようだ!
非常に残念な事に、それを残念無念とも思えずに、
あってはならないのに、あろう事か!
それを自己正当して
「…学問を学問ではない…」と、
言い切っている今の空ちゃんの言説は,
まさに「空虚・虚無」そのモノ!である。
空ちゃんは、一体化すべき対象を間違えた、ようだ。