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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

認識の「二重化」について書く!

2024-07-02 13:08:08 | 「わたし事・学」
認識の「二重化」について書く!


これから「二重化」・「認識の二重化に」について書く事にした…
でも、一つの不信が…
それは、今の私は「認識の二重化」の像を描けているとい確信がある。
しかし、それを、今の私が言語表現しようとして・した時~
その一つ一つの語彙・言語は、全て南郷氏の著書・著作や南郷学派の書籍の中に使われているモノ。
それは、その中には、彼らが創出した独自・独特のモノが多数含まれている。
そんな言語表現で、「二重化」像を表現している今の私の~
その「二重化」の認識像は本当に映像なのだろうか?
もしかして…単なる語彙・言語…を羅列した表現を、
今の私は自分勝手に「二重化の像」と、確信して信じ込んでいるのでは???


さてさて…上記の記述が~
今の私の認識の「二重化」である事実に読者は気付けているだろうか?

二重化を映像化できている、と「確信している私!」と「否!単なる言葉の羅列かも?」という私…


さてさて~そもそも、
認識の「二重化」とは何なのだろう?
認識を「二重にするとは?」


哺乳類・動物も人間も現実の対象を五感器官で感覚して頭脳に反映する事は同じなのだろう…(他人の学説)
何故なら~私も眼前の日々の現実を見て・聞いて・体感して、嗅いで、味わって体験している事実がある。

ただ…学者に曰く、動物は、その感覚・刺激に対して本能的即反応する。
でも…人間は、考えたり・思ったりして反応したり・しなかったりしている…と。

我が愛柴犬のマロンは、出された餌を直ぐ食べようとする。
でも…私が餌を手に持って「お座り」・「お手」・「伏せ」・「よし」までは我慢するよう躾けているが…
しかし、マロンは、目の前に置かれた「餌」の我慢は、できない…
以前の愛ゴールデンレトリバーのマファは、ちゃんと待てだ!

そう~動物は感覚した外界の五感覚・情報をその動物種の本能が瞬時に判断・対応して反応している。
それは、言うなれば「即自」的反応。

では、人間はどうなのだろうか?
「育児の認識学」によると…人間の場合は、
眼前の現実の対象の五感覚情報・外界の反映像・認識に対して、
その反映像・認識を見詰めているもう一つの認識の存在がある…と私は理解した。

この「外界の反映像(認識)」と「その外界像を見ている内界の認識(「?」的な問い掛け像)…
上記の表現は「例え的である」…
ここは、この「外界認識像と内界認像が重なった」時の~
ココロの「不思議感・違和感・納得感・疑問感…」的な感情なのだろう。
そんなココロの感情に対してアタマ・知識・知恵…が「じゃ~こう・ああしよう!」とする?

また、重なった時に、何の違和感なく反応可能な場合もあり、それは習慣化・癖化・技化している反応なのだう。
イヤイヤ~飛ばし過ぎ!

本来の本能的な動物は、反映像即本能像…で一重!
でも…人類は、サルの樹上生活の過程で、新たなもう一つの「問い掛け的な認識の芽生え」を起こしてしまった…


それは、この私が、今まで多くの他人の言葉「二重化とはこうだ!」的に納得して、
特に「二重化とは何なのだろう?」とは、自身に問わずに過ごしていた…
なのに…ギルメッシュお宅から、私の「二重化認識」に突っ込みを入れまくられて…

私自身が「俺って本当に二重化を分かっているの?」とか、
「このギルメッシュお宅め!俺の二重化認識を書いてやる!」とか…

そんな負けん気から…再度・思考・思惟・思索・思弁…を起きている時、
そして、たぶん…
今の私は睡眠中の夢の中での思考を続けているようである。
夢の内容は、ほとんど全くと言っていい程に記憶していないが…
起床時の床の中で、突然に「あれはこうなのかも?!」起きがけの閃きが発生している事実から~


師範が「夢講義」の著作完成を何故に、あそこまで喜んでいるか分からなかった。
頭脳活動が「弁証法化」したなら、その人物は、「夢の中で自分が心底解決したい欲しているモノ」の獲得手段を弁証法的に頭脳が勝手に思考してくれている。


こんな・そんな・全ては、妄想・幻想・夢想・自由びとのひとり事だが…


人類が認識の二重化が可能になったのは、現実・対象に対して「何故?」という「違和感を抱いたから!」。
その結果、「対象の認識」に対して、「問い掛け認識」・「何故?⇔きっと〇✕だ!」的に二重化してしまった。


何故?で「こうなのだ!」が出せない人類は、その答を求めて、進化していったのだろう。


さてさて…ただ…
会話の中での相手への二重化とは、
自己の中の「相手の言葉・言動・感情表現・マイクロジェスチャー…の反映」から
自分の中の問い掛け的な認識を、その「相手のココロ・アタマレベルに合わせる」事…

あの著書では、更に、その問い掛け的な認識の他に、
もう一つ「看護師的な確固たる義務・責任の自覚・思い・感情…の強力な意志・認識の構築・保持が求められる…」と言いたいのだろう。

「対象の認識」と「問い掛け的認識」(二重化)の統一から、
その結果に対する、現時点での「自己の社会的・責任・義務の認識」(自己・意志・行動認識)













33 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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ど~とでもなりますよ! (自由びと)
2024-07-13 20:36:40
>ギルガメシュお宅へ

>コメント
>端的に言えば「自由びとお宅の思考癖はど~しようも無いものに習慣化している」ということですよ。

何を根拠に「習慣化」と断言するのか?
何の根拠があって「思考癖」と思うのか?
更に「どうしようも無いもの」とは何か?

そもそも…何度も書いているが、ここでの「自由びと的思考」は、
現実界の私での日常生活の中では殆ど行ってないモノ。
何故なら、学校勤務で児童の学習補助や対応時に、
ここに書かれているような思考をしていては、確実に対応に間に合わない・仕事はできない。

なので、私の思考は、「ど~しようもなら無いもの」ではなく、現実界では「ど~とでも可能なもの」

そもそも…目的意識的に技化させた思考活動は、
その時々の自己目的に即して「どうとでも変化・運動可能な」モノ。




>もちろん、こんなことを言われて素直に「はい、そうですね」と思える自由びとお宅ではないことは分かっています。

>ですが、理解できる人は理解できていると思いますよ。玄和関係者なら同門としての親近感?はあるかも知れませんけど、自由びとお宅の思考癖の異常さは感じていると思います。


だから!現実界では、このような思考過程の言語表現はいっさいなし。
そもそも…忙し日々の中では、仕事では、眼前児童対応が優先であり、
「私が何をどう考えてやるか?」ではなく、
眼前の児童がやりたい事・やりたくない事は何か?
児童が求めているモノは何?同時に担任教師が児童に求めているのは何?
それらを同時に満足可能か? ダメならどちらを優先すべきか?

そのような具体的な児童・担任…の言動・感情・欲求に即して思考し続けるモノ。


それは、私の内面的な思考ではなく、児童と担任の思考・感情…を
彼らの言動から読み取り状況に即して可能な限り双方の欲求達成を求めての思考・実行・行為…




>これは抽象的な本を具体に逐一降りてくる鈍才的な学びを等閑視して秀才ぶって読んだ御仁がかくのごとき思考癖になるのでしょうね。


全くお宅の記述は的外れですね…
現実界の私の日々を知らずに…
現実界の私の存在を嘘・架空のモノ…のように理解しているお宅は、
自由びと言説を=現実の私の姿だと思い込んで書いているだけ…
それでは…自由びとも私の事も正しく分かるはずない!モノですよ!



>一つ一つ引用して解説したなら明確になると思いますけれど、そんな時間もありませんし、ね。

現実界の私の存在を信じられないお宅の「一つ一つの引用」は全て的外れ!
なので、その「解説」の頓珍漢のボケボケ記述になり得るでしょうね…


その物事の裏を知らずに、その表だけから、その物事を分かったと誤解しているお宅ですね!
いや~ここでは、
私の表(の現実・事実)を知らずに、裏である自由びと(認識)だけから、
現実の私を創像しているお宅だから、それはバカ・アホ・カバ・モノですね。


このギルメッシュお宅は、何で…こんな簡単・明白な事実を加味して考えないのだろうか?
それは、自由びと記述だけを真だと確信して、現実の私の存在を信じず・否定しているから…なのだろうか?

否!否!否!単純に考えて、ここでの自由びと記述で、
このお宅が「信じられる部分は現実・本当!」・「信じられない部分は嘘・虚偽!」と~
お宅の認識・思考に即して、信じる・信じない、本当・嘘…をお宅自身で自分勝手に決めつけているから…

このギルメッシュお宅の思考⇒相手の言説の真・偽を自己判断しての思考…
仮に相手が虚偽発言をしていたとして、
それでも全て丸ごと信じて相手を姿を創像するほうが、相手の真実に近づける、のだろうと私は思える。
そもそも…見知らぬ人の言説、それもその人自身の事についての言説の真偽の正しい判断は不可能。

中途半端に疑うなら…全て丸ごと信じて思考・創像する方がよいだろう。
何故なら、真実を語るのも当人なら、虚偽を語るのも当人。
虚偽も本当も、その人物そのものだから…

もっとも…私の場合は、金銭的な利害が発生するだろう言説は、自己の損害が発生しうる部分は疑いますが…
返信する
Unknown (ギルガメシュ)
2024-07-13 13:48:38
端的に言えば「自由びとお宅の思考癖はど〜しようも無いものに習慣化している」ということですよ。

もちろん、こんなことを言われて素直に「はい、そうですね」と思える自由びとお宅ではないことは分かっています。

ですが、理解できる人は理解できていると思いますよ。玄和関係者なら同門としての親近感?はあるかも知れませんけど、自由びとお宅の思考癖の異常さは感じていると思います。

これは抽象的な本を具体に逐一降りてくる鈍才的な学びを等閑視して秀才ぶって読んだ御仁がかくのごとき思考癖になるのでしょうね。

一つ一つ引用して解説したなら明確になると思いますけれど、そんな時間もありませんし、ね。
返信する
観念的二重化の重要性 (自由びと)
2024-07-13 11:50:22
>・コメント
>お宅とは全く意見が食い違いますな。


「意見の食い違い」というモノを問題とするなら~
そこには、なかなか難しいモノがあり得ます。

そもそも…意見というのは、その人の認識を言語化したモノです。
英語圏なら英語で認識を表現を~
日本語圏なら日本語で認識表現を~

英語圏のネイティブと日本語圏の英語が達者なモノが英語or日本語で会話したとして…
アバウトな事実的な事項の理解・一致は容易も…
その感情的な部分の完全な理解・一致はなかなか難しいモノがあります。

それは、日本語圏同士の会話でも、その人の生い立ち・価値観…から、言葉のニュアンスが微妙に異なったり…それはそれで難しいモノがあります。



最近の私は、思っています!
会話においては、相手との不一致点を求め話すより、
先ずは、一致点を確かめつつ話を続けるのがベターなのだろうと…

おっと失礼!「意見の相違」てはなく、「食い違い」ですね。
食い違いとは、タイミングが悪い・ズレる…リズム・拍子がズレる点的な意味ですかね…



>それもお宅が言っている「自信過剰」というのとは全くの逆で私は自分自身に過剰な自信を持っていないからこそ先達の見解に学ぼうと行動するわけです。


「先達の見解に学ぼうと行動する」…
この「他人に学ぶ」について…最近一つ気付いた事があります。
それは、その「先達の見解」の出どころはどこ?

例えば、数学では、「解の公式」を学ぶとは、公式を暗記して、その使い方を学び、問題を解く事。
でも…それは、本当に「数学の学びになる」モノなのでしょうか?

先達の見解とは、先達が色々と学んだ結果・結論的モノであり、
初心者が、先ず先達から学ぶモノは、その見解の始まり・過程・結論への道なのでは?

仮に、ある二人のその学びが、全く同じ始まり・過程・結論への道が同じだったとしても…
出逢った時の二人の「過程」・「到達点」が違っている事もあります。
この場合も、二人に見解の食い違い…が生じるだろう…と言えるのでは?

ここで一言を「自分に自信がないから先達に学んでいる」というのも一つの「自信」ですよ!

この場合に必要なのは、
「先達の見解を自分は『〇×▲』と理解・捉えているが…本当にそうなのだろうか?」という自己不信感。

「先達は正しい!しかし自分は正しく理解しているか?」
現実に存在する真理を真理として捉えられないのが…人間なのです。

だから、私の「自信過剰」とは、自分の理解・能力を信じ過ぎ!
本当に相手は、私が、今理解したような内容事を言いたいのか・話しているのか?」という自己認識への不信感。


また、先達の見解の正しさの証明・客観的根拠・証明とは何?
また、私が先達の見解を正しいと信じる主観的な理由・根拠は何?
そんな疑い…が、無いモノを、ここでの「自信過剰」ですね。

それは、初心者にとってのモノですかね…
それらもまた…ある種の不信感とも言えるのでしょうね……








>そうしていけば神庭さんが書いているような「クライエントと共感していこうとする姿勢」は精神医学や心理学の歴史におけるラポール(信頼関係)を作るためのミラーリングやペーシング、バックトラックなどで体系的・系統的、すなわち歴史的に理解できるものを、どうして海保静子の「観念的二重化」に拘泥するのか、その自信過剰さが理解できませんよ。


>…体系的・系統的、すなわち歴史的に理解できるもの…<

↑~
では聞きます!
「体系…歴史的…理解」したとして、
それで、誰もが、実際に信頼関係を構築可能ですか?
また、誰もが簡単に「体系…歴史的…理解…」を学び取れるモノですか?

「観念的二重化に拘る理由」を私は以下のように捉えています。

そもそも…「「体系…歴史的…理解」学習・習得…過程において、
その教師・教授…指導者の認識への二重化が正しくできなければ、
その学びは失敗(教えられたモノと違う)になり得ます。

人類にとっての対象に対する「観念的二重化」は、
言うなれば、個人的な人が社会的な人間に、
育つ為に、
なくてはならない不可欠なな手段なのですよ!

そんな根本的・本質的なモノから、事実を説いているのでしようね…




>運動神経は脳の実力という見解は、総論として、概括として、私は共感できませんね。


う~ん…「脳の実力」…ですか?
この表現だど「実力とは?」その中身が問題です。

テストで100点満点を取るのも実力!
本を一冊丸ごと暗記できるのも実力!
実力が色々となり得ますから…


と表現するより、「頭脳活動の仕方」が、現実の変化・運動性に即してしる。
「運動神経」の場合は、
対象の変化・運動に即した反応・変化・運動・対応を瞬時に可能にする「頭脳活動の仕方」…






>それは国家論にも通じる話しですよ。

そうですね!
社会規範の学習・体得にも学習にも、その規範への「観念的二重化が必要だし…
そもそも他人を思いやる・社会的認識は、他人に感情的な「観念的な二重化」できなければ無理でしょうから…。
返信する
Unknown (ギルガメシュ)
2024-07-13 08:44:32
お宅とは全く意見が食い違いますな。

それもお宅が言っている「自信過剰」というのとは全くの逆で私は自分自身に過剰な自信を持っていないからこそ先達の見解に学ぼうと行動するわけです。

そうしていけば神庭さんが書いているような「クライエントと共感していこうとする姿勢」は精神医学や心理学の歴史におけるラポール(信頼関係)を作るためのミラーリングやペーシング、バックトラックなどで体系的・系統的、すなわち歴史的に理解できるものを、どうして海保静子の「観念的二重化」に拘泥するのか、その自信過剰さが理解できませんよ。

運動神経は脳の実力という見解は、総論として、概括として、私は共感できませんね。

それは国家論にも通じる話しですよ。
返信する
己を虚しゅうする時~ (自由びと)
2024-07-12 17:32:35
>・コメントを書いた人
>ギルガメシュ

・コメント
>>無理、無理、

>失笑ですなw 「無理」「出来ないよ」と反応するところがお宅のステレオタイプの貧弱な教養を物語っていますよw


え!
ギルメッシュお宅って、「無理な事を無理しは言わないのです?
まあ~いいでしょう!

私のモットウは、「無理・出来ない事」だから「チャレンジ・やってみよう!」ですが…
もっとも…時々臨時休業ありの「モットウ」ですが…




>>私の「遊び心」が分からない

>分かる必要もないでしょうな。個々人にはそれぞれの自由がありますから、自分が必要だと感じたものを必要なだけ探究して取り入れることが可能なのですよ。


私は、私の思った事を率直に書いただけですが…
「必要・不必要」は、当人の自由なんて常識です。
それは、「私の遊び心が、お宅には通じないな…」そんな感想ですね。



>>「徒花なのかも?」という問い掛け

>お宅がそれを必要だと感じるならばお宅自身の毎日の思考に適用すれば良いでしょう。ですが、まあ「徒花」という言葉の元々の意味を振り返るならば「徒(いたずらに)」という「無駄」だという意味の根源に「実を結ばない」「子孫に繋がらない」ということがあることが、南郷先生なんかの「後継者を育てる」「教育論と上達論」という論理的な繋がりになっていくのだと思いますけど、確かに例えば女性の美しさというのは異性を惹きつけて生殖活動をし子孫を繁栄させるためのものだという一面は間違いなくあるわけですから世界的な女優であるイングリッド・バーグマンやオードリー・ヘップバーンに子供がいるのとは裏腹に日本の原節子や稲森いずみ、沢口靖子らが生涯独身で子供をもうけなかったのは「徒花」ともいえるのかも知れませんね。


そうですね…
同じ「徒花」という言語でも、この一言で、自分の言いたい事が相手に正しく通じとは限りませんね!

「徒花」という言葉に、色々な解釈があるように…
「バカの一つ覚え」という言葉にも色々な解釈があるのに…

お宅は、自由びとの「バカの一つ覚えは」違う、と書いてしましたね…
「私のバカの一つ覚え」を、「それは違う」否定していた、お宅の言動って正しいの?






>・コメントを書いた人
>ギルガメシュ

>・コメント


>私は先日、神庭さんの文章の保健センターで「クライエントと共感した」という文章を読んでから少し調べはじめて「南郷学派では観念的二重化という技法を重視している」という宗教的なところからではなく、「心理相談でどうしてクライエントへの共感が必要なのか?」という本質的なところから

>18~19世紀の精神科医であるメスメルが提唱した「ラポール」という信頼関係が心理的な関わりを成功にも失敗にも導くという「そこ」に原点があると理解できました。

>神庭さんの文章には、その人類の精神医学や心理学における学的根幹が欠如しているんですね。

>私が「この人物は本当に大学教授なのか?」と憤る所以ですよ。




それって…視点・観点の相違でしょね…

「信頼関係」の生々生成・発展・衰退・消滅…弁証法性です。


どのような事実から、信頼関係が構築していくのか?
有名な医師なら信頼可能。
有能な医師なら信頼可能。


二重化という手法で、クライエントの感情の苦しみ・悲しみ…を共感できれば、
その共感した事実を正しんクライエントに伝える事で、
クライエントが、「この人、私の気持ちが分かってくれる」…とい感動から「信頼関係の始まり~」









・>コメント
>>彼女(神庭さん)の弁証法的思考・思惟・能力で海保さんの弁証法学を学んだ結果、言うなれば「海保・認識学」を自己の目的に即して自由自在に駆使可能になっている。

>失笑ですなww
>相も変わらぬ中身のない空虚な言葉の羅列。私が内容にドンドンと入って見解を述べていくのとは裏腹に自由びとお宅の発言はいつまで経っても変わりませんなww



お宅も、相も変わらずの「空虚な言葉の羅列」ですね。

では~
例えば、元々運動神経抜群の者なら、
あるスポーツの基本から優秀な指導者に一から正しく学べば…
そのスポーツにおいて優秀な選手になり得ます。


この場合の抜群「運動神経」とは、確かに遺伝的な要素もありますが、
それ以外の生後の環境・身体運動体験の結果でもあります。


運動神経とは、「神経=頭脳活動」です。
スポーツの上達とは、そのスポーツのルールや身体的な動作の体得です。
その対象のルール・身体的な動作に即しての神経を用いた全身の活動・頭脳活動。

弁証法を用いて、対象の運動性を法則化して、その法則に即して自己の頭脳活動をさせる。
弁証法の達人は、書物に書かれた「認識学」をクライエントの認識に自在の駆使可能になり得る。





>私が思うに神庭さんが言っている「観念的二重化」というのは哲学史の遺産を継承した「観念的二重化(duplication of Idea)」ではなく「情動的な共感(share emotion)」でしょうね。

>「観念」ではないわけです、彼女が対象にしているのは。それが証拠に心理療法において「認知再構成法」などの関わりを経た後のクライエントの情動が「観念としては同じモノを見ながらも!」不快から快へと変化する事例から明らかだと思うわけですよ。

>その概念のデタラメさ具合も、彼女の宗教的な思考が生んだ学者としての致命的な欠陥だと思いますよ。


ヤッパリ自信過剰なギルメッシュお宅!
そんな「己を滅して!」謙虚に対象の変化・運動性から学ぼう!が感じられませんね…

ギルメッシュお宅には、お宅の人生・生き方があります。
どうぞ思う存分に御自由に人生を生きて下さい!
返信する
事実は事実! (自由びと)
2024-07-12 16:49:55
・コメント
>>時間が余裕がない

>お察ししますね。私も自由びとお宅のコメントを期待して書いているわけではありませんから何らのご心配は無用です。

>>もう少し要点を絞って端的に書いて頂ければ…

>失笑ですねw

>>ブログでの言動=現実界のモノ~この二つを同一視している…



>めんどくさいですが以前に「ゴルフ保険」の話しを持ち出したときから「自由びとお宅=義務教育の教員補助」だというのは疑わしいと思っています。それ以前から私は素性の知らない相手の文章からの情報をそのまま信じるということはありませんから「素性を隠した人間が適当なことを書いている」という前提でお宅には何も期待せずに私の書きたいことだけを書いています。


まあ~お宅が信じようと信じまいが「私が市立小学校の学習補助員」というのは事実です。
ただ…補助員としての私は、決してこのブログで書いているよな内容の話はしません。
だから、「私」と「自由びとむは、活動する世界が違います。
私は、現実界での活動で、自由びとは、ブログ内だけなのです。





>ですから「現実世界の自由びとお宅とは京都の寄筆さんか?はたまた玄和の但馬さんか?本田克也さんか?いやいや、そんな名の知れた人物でなく本当に無名の玄和末端会員だった御仁だろうか?」などと想像することはあっても、所詮はそれは分からないことですからブログに書いてある文章だけから判断するという当然のことしかしていませんね。自由びとお宅が「本当の私は現実世界のこんな凄い肩書きの、お前が恐れ戦くような人間なのだ」と悦に入っていても、それは自由びとお宅の心情が「自分を認めて欲しい」という承認欲求に満たされているというだけで私(ギルガメシュ)がブログと現実との関係性を分かっていないなんておバカな話しではないと思いますよ。


「ですから」~上記の記述は、お宅の妄想ですね!



>ついでに私が「お宅」という全くの日常語を使うのは私と自由びとの所属している共同体が明確に異なるということを言語で意識的に表したもの以外ではありません。


ですが…

例えば、宮本さんと会話している時にも、ギルメッシュお宅は、「宮本お宅さんは〇〇ですか?」って変でしょう。


でも、私の
「ギルメッシュお宅くは…」の意味は以下のようなモノですよ!
「今回はギルメッシュ・コテハンを使っているお宅は…」




>それは自由びとお宅が「南郷継正は大山倍達なのだ!」とか「南郷継正は高岡英夫なのだ!」とかいった法律用語でいう「欺罔ぎもう」だとか「錯誤さくご」だとかいったものを故意に生じさせて「瑕疵」の状態で相手を意のままにしようとする行為をすることへの「お宅はお宅、私は私、別の家の人間ですよね」ということを明らかに表明しているだけなのですよ。


上記のように説くなら~
私の「お宅」の使い方には、
一つは、相手の事を意味する「ただのお宅」…
もう一つは、素性が未確認・確認不能なのに、複数のコテハンを使い分けている、
「このコメントを寄越している今のギルメッシュお宅」

それは、お宅を特定する為の「〇×▲コテハン」お宅」とう表現手段ですよ!



>現実の自由びとお宅がどれだけ社会的に高い地位の人物だとしても、玄和関係者であるという一点によって、私は別の高い地位の人との関係化を望みますね。


いやいや…なんと大袈裟な!
私は名前はあっても…(大勢)人知れず…息子と二人で暮らしているただ、しがない庶民の一人ですよ!

 
返信する
まとめてコメント! (自由びと)
2024-07-12 16:29:12
・コメントを書いた人
ギルガメシュ

・コメント
>時に、指導者の指示・監視下の元で敢えて、黒帯でないモノに下の級の指導、もありましたね

絶対に無い!大学ならばもしかしたらあるのかも知れないが夏合宿だとか本部道場たる青◯塾では絶対に、ない!


私の練習・稽古の記憶の殆どは、新〇支部のモノですから…
お宅の記憶とは不一致ですね!~悪しからず!


>と言いたいところだが、ふと思い出すと私が有級者のときに入門してきた白帯の医師のタマゴに指導をさせられたことがありますね。あれは上の人のどーゆー意図だったのか?私は他人に指導するというのは好きではありませんでしたから、あまり好ましい記憶としては残っていませんけどね。


私の想像ですが…
たぶん、お宅に白帯の指導をさせる事で、お宅の指導力レベルを見たのでしょうね…
または、お宅が、その白帯を指導する事で、お宅の短所をその白帯から見て取る事を期待して…
またまた、たぶんですが…お宅って生意気で他人の指導を素直に受け入れられず…なので、
そんなお宅の性格を加味して、が苦肉の策として、白帯の指導をさせ自覚を促したのかも…






>私が個人的に思うには『学城』最新号の神庭さんの文章に登場する「赦しなさい」と言った宗教家は人類史における智慧や深層心理に深い理解をもった人物だと思いますね。

>「相手を赦す」ということは日本文化において「赦す」という言葉がどのように使われてきたかを見れば容易く想像できることで「大赦」「恩赦」だとかの「牢獄から解き放つ」ことを意味し、「幽閉」などの「閉じ込めている状態」からの解放→自由を意味しています。

>相手を縛り付けているということは自分も縛り付けられていることを意味し、相手を赦し解き放つことは自分もまた解き放たれることを意味します。

>そうした心の法則と呼んでもさしつかえない古代からの智慧を宗教家は心得ていたのでしょうが、残念ながらクライエントには理解できなかった。

>ですから精神衛生に関わる保健師としては「そうだ、許さなくていい、許せなくて当然だ」とクライエントの今の心情に「受動的に二重化する」ばかりではなく、「こう考えてみたらどうでしょうか?」と宗教家の言葉のリフレーミングを図り「能動的な保健師側の考えにクライエントの方が二重化してもらうように働きかける」という「能動と受動の対立物の統一としての共感」を行うのが弁証法的ではなかろうか?と、達人なんておこがましい、せいぜいが神庭さんより少し実力が上の弁証法家として私は考えますね。

>そして、この関わりは一般に「認知療法」と呼ばれているものなのだ、とね。



上記の記述~なにが言いたいか分かりません!か…

私が「学城」の神庭さんの記述から思った事は…

クライエントは、
「相手を心からゆるしたい!と思っているのに…相手の事をゆるせない!」そんな自分が「ゆるせない」!

だから、その「ゆるしなさい」とは、
「相手をゆるしなさい!」ではなく、
「ゆるしたいのにゆるせない」自分、その「自分自身をゆるしなさい」=「ありのままに受け入れなさい」
返信する
Unknown (ギルガメシュ)
2024-07-11 12:46:50
>彼女(神庭さん)の弁証法的思考・思惟・能力で海保さんの弁証法学を学んだ結果、言うなれば「海保・認識学」を自己の目的に即して自由自在に駆使可能になっている。

失笑ですなww
相も変わらぬ中身のない空虚な言葉の羅列。私が内容にドンドンと入って見解を述べていくのとは裏腹に自由びとお宅の発言はいつまで経っても変わりませんなww

私が思うに神庭さんが言っている「観念的二重化」というのは哲学史の遺産を継承した「観念的二重化(duplication of Idea)」ではなく「情動的な共感(share emotion)」でしょうね。

「観念」ではないわけです、彼女が対象にしているのは。それが証拠に心理療法において「認知再構成法」などの関わりを経た後のクライエントの情動が「観念としては同じモノを見ながらも!」不快から快へと変化する事例から明らかだと思うわけですよ。

その概念のデタラメさ具合も、彼女の宗教的な思考が生んだ学者としての致命的な欠陥だと思いますよ。
返信する
Unknown (ギルガメシュ)
2024-07-11 07:50:04
私は先日、神庭さんの文章の保健センターで「クライエントと共感した」という文章を読んでから少し調べはじめて「南郷学派では観念的二重化という技法を重視している」という宗教的なところからではなく、「心理相談でどうしてクライエントへの共感が必要なのか?」という本質的なところから
18〜19世紀の精神科医であるメスメルが提唱した「ラポール」という信頼関係が心理的な関わりを成功にも失敗にも導くという「そこ」に原点があると理解できました。

神庭さんの文章には、その人類の精神医学や心理学における学的根幹が欠如しているんですね。

私が「この人物は本当に大学教授なのか?」と憤る所以ですよ。
返信する
Unknown (ギルガメシュ)
2024-07-11 07:44:06
>無理、無理、

失笑ですなw 「無理」「出来ないよ」と反応するところがお宅のステレオタイプの貧弱な教養を物語っていますよw

>私の「遊び心」が分からない

分かる必要もないでしょうな。個々人にはそれぞれの自由がありますから、自分が必要だと感じたものを必要なだけ探究して取り入れることが可能なのですよ。

>「徒花なのかも?」という問い掛け

お宅がそれを必要だと感じるならばお宅自身の毎日の思考に適用すれば良いでしょう。ですが、まあ「徒花」という言葉の元々の意味を振り返るならば「徒(いたずらに)」という「無駄」だという意味の根源に「実を結ばない」「子孫に繋がらない」ということがあることが、南郷先生なんかの「後継者を育てる」「教育論と上達論」という論理的な繋がりになっていくのだと思いますけど、確かに例えば女性の美しさというのは異性を惹きつけて生殖活動をし子孫を繁栄させるためのものだという一面は間違いなくあるわけですから世界的な女優であるイングリッド・バーグマンやオードリー・ヘップバーンに子供がいるのとは裏腹に日本の原節子や稲森いずみ、沢口靖子らが生涯独身で子供をもうけなかったのは「徒花」ともいえるのかも知れませんね。
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無理・無理,、自信過剰なお宅には (自由びと)
2024-07-10 16:33:57
ギルガメシュ

・コメント
>>人生、何事も遊び心を持って楽しんだ者が勝ちでしょうが…

>お宅は本当に阿呆というかおバカの極みですね。私の遊び心というのが様々な専門家の見解にアクセスして自分の視野を広げていくことだと述べているのに、自由びとお宅のつまらぬ発言につまらぬことだと感じることが人生において全てのことに喜びも楽しみも感じられないでいるのだとスリ替えてしまうわけですから。


私の「遊び心」が分からないお宅の為に少し具体的に書きましょう!
それは、自分が『詰まらいと感じる他人の発言』でも…
その他人に二重化して、その人の立場に立てたなら~
結構、意外な「面白さ」の発見が可能なのです。


>お宅はもしかしたなら京都の寄筆氏かも知れぬと想像したこともありますが、そんなおバカで独りよがりの見解では他人のカウンセリングなど出来るはずはありませんよ。


例えば、
上記のお宅記述のように、私にとつては私が誰かなんて明白でも…
私の正体を知りたいとい強い思いから「寄筆氏だろう!」連想なんて…
私には、とても可笑しく笑えてしまうの事てすが…
このお宅は、真面目にやっているようですね♪♪♪

>そんな、どんどんと発展して己れの中に喜びを見出せている自分と比較しての十年一日のおバカな自由びとのつまらなさ。そんな(自分が)面白いがゆえに(自由びとが)つまらないという弁証法的な関係も、「面白いのか?つまらないのか?あっちか?こっちか?」という自由びとに根強く染み付いた思考習慣からは理解できないのも無理はありませんが。


この>「どんどんと発展して己れ中に喜び…」ですか…
さてさて…その発展は真の発展なのでしょか?(そんな自己問答もなく…よく書けているね…)
そこに、ただの「徒花なのかも?」という問い掛け、
それに対して「否!現実の生活の発展がある!」という事実があるか・否かが問題です。



>>私は「弁証法の達人」と評価されている理由が…

へー、お宅は弁証法と認識論とを区別して神庭さんが論じているのは弁証法ではなく認識論なのだと述べていませんでしたか?確か最新号の神庭さんの文章も「認識論を説く」みたいな書き方だったと記憶していますけどね。


やはり!お宅には「弁証法」の習得・修得・技化…というモノが、分かっていません~
弁証法とは、森羅万象・万物の変化・運動性である弁証法性の法則化、なのです。

それは、自然の弁証法性・社会の弁証法性・精神の弁証法性の法則化…
これらの弁証法が体得されれば…どういう事が可能になるか?

それは、この神庭さんの場合は、
彼女の弁証法的思考・思惟・能力で海保さんの弁証法学を学んだ結果、
言うなれば、「海保・認識学」を自己の目的に即して自由自在に駆使可能になっている。
その結果が、神庭さんの「弁証法を駆使(頭脳内活動)した認識論」という結果。
これが「学問的なモノの捉え方・考え方・合現実的な発展の仕方…。

外側は認識論でも、その中身には達人的弁証法的頭脳活動・能力~
この中身わ見て取るには、神庭さんへの弁証法的な二重化能力が必要ですね。


まあ~お宅には、「無いモノねだりの子守歌」ですかね…







>一重だった問い掛け認識を、
>プロ看護師に二重化している自己的

申し訳ないが、何を言ってるのか良く分からない。


そりゃ~無理でしょうが…お宅には~
この事が分かるには、
「海保認識学の正しい学び・理解」と「弁証法の正しい学び・体得」が必要だから~


お宅が、それらを正しく学ぶには、お宅の学問的な自信が、邪魔ですかね…
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Unknown (ギルガメシュ)
2024-07-10 07:49:02
>時間が余裕がない

お察ししますね。私も自由びとお宅のコメントを期待して書いているわけではありませんから何らのご心配は無用です。

>もう少し要点を絞って端的に書いて頂ければ…

失笑ですねw

>ブログでの言動=現実界のモノ〜この二つを同一視している…

めんどくさいですが以前に「ゴルフ保険」の話しを持ち出したときから「自由びとお宅=義務教育の教員補助」だというのは疑わしいと思っています。それ以前から私は素性の知らない相手の文章からの情報をそのまま信じるということはありませんから「素性を隠した人間が適当なことを書いている」という前提でお宅には何も期待せずに私の書きたいことだけを書いています。

ですから「現実世界の自由びとお宅とは京都の寄筆さんか?はたまた玄和の但馬さんか?本田克也さんか?いやいや、そんな名の知れた人物でなく本当に無名の玄和末端会員だった御仁だろうか?」などと想像することはあっても、所詮はそれは分からないことですからブログに書いてある文章だけから判断するという当然のことしかしていませんね。自由びとお宅が「本当の私は現実世界のこんな凄い肩書きの、お前が恐れ戦くような人間なのだ」と悦に入っていても、それは自由びとお宅の心情が「自分を認めて欲しい」という承認欲求に満たされているというだけで私(ギルガメシュ)がブログと現実との関係性を分かっていないなんておバカな話しではないと思いますよ。

ついでに私が「お宅」という全くの日常語を使うのは私と自由びとの所属している共同体が明確に異なるということを言語で意識的に表したもの以外ではありません。

それは自由びとお宅が「南郷継正は大山倍達なのだ!」とか「南郷継正は高岡英夫なのだ!」とかいった法律用語でいう「欺罔ぎもう」だとか「錯誤さくご」だとかいったものを故意に生じさせて「瑕疵」の状態で相手を意のままにしようとする行為をすることへの「お宅はお宅、私は私、別の家の人間ですよね」ということを明らかに表明しているだけなのですよ。

現実の自由びとお宅がどれだけ社会的に高い地位の人物だとしても、玄和関係者であるという一点によって、私は別の高い地位の人との関係化を望みますね。
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時間が余裕がない! (自由びと)
2024-07-09 17:58:14
いや~四連続コメントとは、文字文字モリモリで嬉しいのですが…
いちいち一つ一つ読んでコメント書くのが面倒なので…

一応は、ここに公開しておきます!
もう少し要点を絞って端的に書いて頂ければ…
自由びとコメントも書けるのですが…

まあ~時間の余裕ができれば自由びとコメントが書けかも…



ただ一言!自由びとの事を「本当に阿呆というかおバカの極み…」なんて書いていますが…

それは、お宅の感性の問題なのですよ。
自由びとは、自由に生き・自由に書いているだけです。
そんな自由な言動を「阿保、バカの極み」とは~

それは、ギルメッシュお宅が、
私の、この自由びとブログでの言動=現実界のモノ~
この二つを同一視している…という大きな勘違いなのですよ。

そんな違いに気付けずないなんて…何なのだろうね?! お・た・く・は?

更に言わせてもらえば、
私が、お宅を「○○お宅」呼びするのは、
お宅が、コロコロとコテハンほ変えているからなのです。

コロコロ変えているコテハンの後ろに「お宅」を付ける事で、同一としているだけですよ。
そこには、それなりの私的な意味ある「お宅呼び」なのに…

お宅は「自由びと」という基本的に不変的なコテハンを使っている自由びとを「お宅」呼ばわりするのは、ただの意味なき模倣で、全く芸の無い行為に思えていますが…
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Unknown (ギルガメシュ)
2024-07-09 07:10:35
自由びとお宅が神庭さんについて「弁証法の達人」なる評をしたので私なりの感想を更に認めておきたいと思います。

私が個人的に思うには『学城』最新号の神庭さんの文章に登場する「赦しなさい」と言った宗教家は人類史における智慧や深層心理に深い理解をもった人物だと思いますね。

「相手を赦す」ということは日本文化において「赦す」という言葉がどのように使われてきたかを見れば容易く想像できることで「大赦」「恩赦」だとかの「牢獄から解き放つ」ことを意味し、「幽閉」などの「閉じ込めている状態」からの解放→自由を意味しています。

相手を縛り付けているということは自分も縛り付けられていることを意味し、相手を赦し解き放つことは自分もまた解き放たれることを意味します。

そうした心の法則と呼んでもさしつかえない古代からの智慧を宗教家は心得ていたのでしょうが、残念ながらクライエントには理解できなかった。

ですから精神衛生に関わる保健師としては「そうだ、許さなくていい、許せなくて当然だ」とクライエントの今の心情に「受動的に二重化する」ばかりではなく、「こう考えてみたらどうでしょうか?」と宗教家の言葉のリフレーミングを図り「能動的な保健師側の考えにクライエントの方が二重化してもらうように働きかける」という「能動と受動の対立物の統一としての共感」を行うのが弁証法的ではなかろうか?と、達人なんておこがましい、せいぜいが神庭さんより少し実力が上の弁証法家として私は考えますね。

そして、この関わりは一般に「認知療法」と呼ばれているものなのだ、とね。
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Unknown (ギルガメシュ)
2024-07-09 04:14:50
>時に、指導者の指示・監視下の元で敢えて、黒帯でないモノに下の級の指導、もありましたね

絶対に無い!大学ならばもしかしたらあるのかも知れないが夏合宿だとか本部道場たる青◯塾では絶対に、ない!

と言いたいところだが、ふと思い出すと私が有級者のときに入門してきた白帯の医師のタマゴに指導をさせられたことがありますね。あれは上の人のどーゆー意図だったのか?私は他人に指導するというのは好きではありませんでしたから、あまり好ましい記憶としては残っていませんけどね。
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Unknown (ギルガメシュ)
2024-07-09 04:02:59
>彼女の表現がシンプルなだけに

そうですか?シンプルに説明するって案外に難しいものだと思いますけどね。それで保健センターにおける心理相談って何をするのか?何をしたことが職責を果たしたことになるのか?ということを、薄井先生の「何がなぜ看護の情報となるのか?」みたいな「看護」だとか「保健」だとかの専門性から説明するのがシンプルだと私には思えるんですよね、「観念的二重化」という何か技法的なところから説明するよりも。

そうすると、例えば保健センターでの心理相談が公衆衛生のうちの精神衛生だとカテゴリー化されて、そのお仕事が神経症や精神病などの早期発見や予防に繋がるお仕事だと系統的に理解されたとしたならば、「心の健康を保つ」ということが「例えばコレコレのような病的な状態に発展する可能性もある」という今現在は目の前に見えないことも想定するのが保健師だとか看護師だとかのお仕事かも知れないと考えるんですよ。

そうすると、相談者の苦しみに二重化(共感)できて良かったね、で終わる話しではないように思われますけどね。

もっとも、自由びとお宅は神庭さんをプロの看護師だと決めてかかっていますけど、私が色々な場所で勉強に行って知ったところでは、大学の教壇に立って看護教育を行う「看護教育者」と病院などの臨床現場で毎日のように患者と向き合う「看護師(看護実践者)」とは相当に違うお仕事のようで、神庭さんは今は臨床現場にいないのではないかな?附属の病院などもない大学だったと思いますし。

自由びとお宅のような「食べてるモノに対する理解はなくとも、実際に様々なモノを食べて健康なのだ!」という「健康の実践者」で満足できる人間ならば、南郷先生が滝村先生から「あなたは理論家でなく実践家なのだから実践していれば良い」と言われたときの葛藤など共感の対象などにならないでしょうから、人間は自分が共感したい相手とだけ共感するのだ!という世の中の流れも得心いくでしょう。

例えば「私は飛翔隊なのだから実践してれば十分で、理論だとかの学問的なことは社会的分業で論研のメンバーに任せているのだ」で納得できる輩というわけで。
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Unknown (ギルガメシュ)
2024-07-09 03:25:47
>人生、何事も遊び心を持って楽しんだ者が勝ちでしょうが…

お宅は本当に阿呆というかおバカの極みですね。私の遊び心というのが様々な専門家の見解にアクセスして自分の視野を広げていくことだと述べているのに、自由びとお宅のつまらぬ発言につまらぬことだと感じることが人生において全てのことに喜びも楽しみも感じられないでいるのだとスリ替えてしまうわけですから。

お宅はもしかしたなら京都の寄筆氏かも知れぬと想像したこともありますが、そんなおバカで独りよがりの見解では他人のカウンセリングなど出来るはずはありませんよ。

そんな、どんどんと発展して己れの中に喜びを見出せている自分と比較しての十年一日のおバカな自由びとのつまらなさ。そんな(自分が)面白いがゆえに(自由びとが)つまらないという弁証法的な関係も、「面白いのか?つまらないのか?あっちか?こっちか?」という自由びとに根強く染み付いた思考習慣からは理解できないのも無理はありませんが。

>私は「弁証法の達人」と評価されている理由が…

へー、お宅は弁証法と認識論とを区別して神庭さんが論じているのは弁証法ではなく認識論なのだと述べていませんでしたか?確か最新号の神庭さんの文章も「認識論を説く」みたいな書き方だったと記憶していますけどね。

>一重だった問い掛け認識を、
>プロ看護師に二重化している自己的

申し訳ないが、何を言ってるのか良く分からない。
返信する
事実は小説より奇なり (自由びと)
2024-07-08 17:18:57
>コメントを書いた人
>ギルガメシュ

>コメント

>しかし、自由びとお宅のコメントはアクビが出るほど退屈で、時として「お前は本当に義務教育の現場に立っていた教育指導関係者なのか?」と怒りが湧き上がるものでもありますね(笑)。


>「…コメントにアクビ…退屈…」とは可哀そうなお宅…憐憫…
人生、何事も遊び心を持って楽しんだ者が勝ちでしょうが…
退屈だろうが…面白しろくなかろうが…ここで読み続けるなら「楽しむ」事。
それを「楽しめないなら」心なら、、サッサとここから退散・離脱がベストでしょうが…



>それは私が神庭さんの文章を読みながら「この人物は本当に大学教授なのか?」という憤りが湧き上がるのと類似していますけど。


へ~そう?
私は、彼女が「南郷氏から弁証法の達人」と評価されている理由が、最近少し分かってきましたよ。
今回の「学城」での記述でも…
自分の中に、相手の如くに強烈に共感して悲し自己(問い掛け)認識の生々生々…
と同時に、プロ看護師として冷静にその共感している強烈な悲しみと対峙可能な自己(問い掛け)認識…
そんな、自己の「問い掛け」的な認識のに二重化…

一重だった問い掛け認識を、
「被看護者に二重化した認識内自己的」と「現実界のプロ看護師に二重化している自己的」

言うなれば、
社会的・個人的な強烈な共感・同情的な認識的な「問い掛け」、
社会的・プロ看護師的な沈着・冷静的な認識的な「問い掛け」の二重化~







>もっとも、神庭さんの講演会に行ったときに「何なんだ?この講義は?」と呆気にとられる私とは裏腹に周囲の看護関係者の方々は「何という素晴らしいお話しを聞かせてくれたのか」と感動し憧れの眼差しを神庭さんに向けていましたから、もしかしたなら専門性の違いなのかも知れないなとは思っていますけど。


彼女の表現がシンプルなだけに…
現実的に「そのシンプルな事を実践・実現する困難さ」が分からない人には…
『そんな事に感激するの?』的に、なんて事ないモノなのでしょうね…

>自由びとお宅の「基本技」についてのコメントは「南郷先生の『武道への道』を読んでシッカリと記憶しているのですね」ぐらいの感想しか浮かんできませんでしたよ。それは「基本技」についての浅はかな理解しかもっていない、自分の流派の完成形だけからモノを語る、宗教的には創価学会やモノミの塔なんかに類する「知らぬがゆえの自信満々さ」なんでしょうね。


その決められた「基本技」の型のマネ・体得の難しくないのですが…
それを、如何に自由自在に変化させて使える為の「基本技の技化」が至難なのですよ!


それは、神庭さんの言葉を理解・納得して共感・同感・痛感しても、
決して、それだけでは、彼女と同様な看護ができない現実がある、という事でする

>それは自由びとお宅の「自分の少し上を目標にする」という現代社会では常識的でもあろう見解が、「南郷先生はそんなことを説いていただろうか?」という疑問とともに湧き上がり、
現代社会においては入社一年目の新人が二年目の社員を目標にするなんてのは常識でしょうけど、
南郷先生は「新人には一年目の奴に指導させろ」とか「二年目の奴には三年目の奴が指導させろ」なんてことを説いていただろうか?それは自然成長的な在り方で、新人には絶対的な道標となるような「指導者」として教えることを許可された人間に指導させよ!ではなかったか?



>「自分の少し上を目標にする」
直接的にそのよう事は説いていませんが…
確か、どこかで、「大学の学習目標に対して、その過程に個々の教授?を目標に設定…」
そんな弟子のレポートを載せていた記憶があります。

玄〇会での白帯の指導は「黒帯」以上が普通ですが…
時に、指導者の指示・監視下の元で敢えて、黒帯でないモノに下の級の指導、もありましたね。

そもそも…例えるなら、上達の過程とは、高所へ行く時に、階段を一段つづ…二段づつ…登っていくようなモノです。
ただ、現実の階段は見えています…でも、上達の為の階段は見えません。
だから、自ら指導者の言葉・指導を参考に、周囲の同志・仲間の中に「自らの上達の階段」を自ら見つけ出す、のです。




>白帯の指導を紫帯や緑帯にやらせているなんてことは、玄和はもちろん他の団体でも無いのではないか?

たまたま、黒帯不在の時に、指導者の監視・監督の元に、指導される事はあったかも…ね。
それは、白帯の指導と、その白帯を教えているモノの指導を、指導者が意図してやる場合なのかも…、

そうそう…小学校の算数授業でも、プリント・課題が先に終了した児童に
「ミニ先生」と称して、今だ未終了の児童に教えさせる事が多々あります。

私からすれば…なんで「答えを伝えているの?」的な児童もいますが…
中には必死に分からせようと頑張っている児童もいます。

算数の先生は、それが分かっていての「ミニ先生」なのです。



>そこから当然に生じる問いかけは「自由びとお宅さん、お宅は南郷先生や玄和会本部から他者を指導しても構わないという許可を得た人間なんですか?」ということですよね。


この場合の、私の説いている指導とは、稽古・練習の初めから終わりではなく、
基本的に全体的には、黒帯・指導者の元での稽古・練習であり、
その時々の部分練習の場合に、敢えて黒帯以外のモノに指導をさせる…



まあ~表現・語学下手の自由びとのコメント・解説~なので、
自由びと言説に二重化でき難いお宅には、
その言説の(自由びとの認識の)正しい理解は至難でしょうかね…

でも…しかし…時々痛感・激感している事があります。
それは、このお宅は、私の言いたい事が分かっていて、
敢えて私の表現不足に突っ込んで、そのより正確な表現をさせたい!


事実、そんなお宅とも関わりも…十年以上続いているのでしょ~
そんなお宅コメントのお蔭をもって、私の認識は、
私の実感している限り大きく変化・運動してきている!


まあ~そんな・こんな痛感・激感も~
自由・妄想・幻想・空想・暴走びと、だから、たいして、あてにはなりませんがね…

ここでの問題は、
現実・事実して「このお宅に自由びと・へルビ的好意がある」?
自由びとの妄想「このお宅は私の為に指導・ヘルプしてくれている」?

この解答は、お宅の真意は不明!
しかし、私自身が、お宅の言説を自己の認識に練り合わせて、
更なる高みほ目指している事は事実である。

ただ…疑問・不信が…私の言説・思考・思惟…が、更なる高みへ登っているのか?
その答えは~私の日々日常…にあり!
それは、現在勤務している小学校での児童達と関わり~
私の言動・関わりへの児童の反応・変化の反応であろう。


それとまた周囲の教員・同僚達の私への態度・反応…なのだろうか?!
返信する
Unknown (ギルガメシュ)
2024-07-08 14:08:06
しかし、自由びとお宅のコメントはアクビが出るほど退屈で、時として「お前は本当に義務教育の現場に立っていた教育指導関係者なのか?」と怒りが湧き上がるものでもありますね(笑)。

それは私が神庭さんの文章を読みながら「この人物は本当に大学教授なのか?」という憤りが湧き上がるのと類似していますけど。

もっとも、神庭さんの講演会に行ったときに「何なんだ?この講義は?」と呆気にとられる私とは裏腹に周囲の看護関係者の方々は「何という素晴らしいお話しを聞かせてくれたのか」と感動し憧れの眼差しを神庭さんに向けていましたから、もしかしたなら専門性の違いなのかも知れないなとは思っていますけど。

自由びとお宅の「基本技」についてのコメントは「南郷先生の『武道への道』を読んでシッカリと記憶しているのですね」ぐらいの感想しか浮かんできませんでしたよ。それは「基本技」についての浅はかな理解しかもっていない、自分の流派の完成形だけからモノを語る、宗教的には創価学会やモノミの塔なんかに類する「知らぬがゆえの自信満々さ」なんでしょうね。

それは自由びとお宅の「自分の少し上を目標にする」という現代社会では常識的でもあろう見解が、「南郷先生はそんなことを説いていただろうか?」という疑問とともに湧き上がり、
現代社会においては入社一年目の新人が二年目の社員を目標にするなんてのは常識でしょうけど、
南郷先生は「新人には一年目の奴に指導させろ」とか「二年目の奴には三年目の奴が指導させろ」なんてことを説いていただろうか?それは自然成長的な在り方で、新人には絶対的な道標となるような「指導者」として教えることを許可された人間に指導させよ!ではなかったか?

白帯の指導を紫帯や緑帯にやらせているなんてことは、玄和はもちろん他の団体でも無いのではないか?

そこから当然に生じる問いかけは「自由びとお宅さん、お宅は南郷先生や玄和会本部から他者を指導しても構わないという許可を得た人間なんですか?」ということですよね。
返信する
記憶も希薄の筈なのに… (自由びと)
2024-07-07 16:40:56
>・コメントを書いた人
>ギルガメシュ

>・コメント
>色々と書いてらっしゃるから自由びとお宅は気持ちが千々に乱れながらも感情的な言葉が溢れてくるのでしょうね。

>ですが、残念ながら?申し訳ありませんが?その一つ一つに回答していく気持ちにはなりません。南郷先生の説く「カントの対話相手」じゃありませんけど、自由びとお宅の発言内容は私にとってはどーでもいー事柄ばかりです。


別に、お宅の「回答」なんて求めていませんよ!

>「弁証法は様式」だとは自由びとお宅は間違いなく述べていますが、それが何月何日のどこで、「ほら、お宅は間違いなくここに述べいるだろう」なんてやる気も私にはありません。それくらい「自由びと」という人物への関心は希薄ですね。


「希薄」なら、その記憶も希薄だろうから…
それは間違いなく、お宅の記憶間違いですね!

そもそも…「希薄」なのに…「間違いなく述べている」とは、矛盾していますよ!
「希薄」なら記憶も希薄の筈にのに「間違いなく」では…変ですね!

>>「バカの一つ覚えで弁証法の追求」

>やはり自由びとお宅と私とでは「バカの一つ覚え」ということの理解からして全然違ってますね。まー、それもどーでもいーことでしょうけれど。私はシュリーマンのように執念をもって一つのことを追い求めた人物を同じ「一つ」という部分だけの共通項から「バカの一つ覚え」だとは理解しません。自由びとお宅はどんな脳味噌してるんだい?w


弁証法とは、自然・社会・精神…全てに共通する法則だ、そうですから…
万物・森羅万象・全てのモノコトの運動中に弁証法あり…
全ては、弁証法繋がり、「バカの一つ覚え」での弁証法追及の何かマズイのですか?
朝起床して「弁証法」、学校勤務で「弁証法」、昼食・夕食も「弁証法」、就寝時の「弁証法」…
一日中「バカの一つ覚え」の弁証法~は、「バカの一つ覚え」ではないのですか?

ならば、私達互いに現代国語を話しているつもりが…
もしかして…異次元的な言語での会話なのかもね!

ただ…仮にそうであっても、ここは自由びとの個人ブログ世界なので…
個々の言語・意味解釈は、全て自由びと的にお願いしますよ。
「郷に入っては郷に従え」てすね!




>>「弁証法とは、弁証法の法則化」

失礼!訂正!「~弁証法とは、弁証法「性」の法則化」

>ここは些か考えさせられました。この規定だけでは何とも味気なく?何も言ってないに等しいと思うのですが、三浦の『弁証法はどういう科学か』の「世界のありかたをどう見るか」に似たような記載があるのですね。それを改めて読んでみると三浦もやはり靴下掻痒な書き方をしていますね。

>私はいま、社会科学の様々な法則の学習をしていますが、そのイワユル「個別科学の法則」と三浦のいう「弁証法の法則?」との対比で色々なことが見えてきています。

>弁証法でいう「対立物の統一」は本当に法則なのか?ドナルド・デイヴィッドソンのいう「非法則」ではないのか?法則と非法則とを統一して取り上げるのが弁証法だとしたならば、その全体を「法則」と概括して良いものだろうか?とか考えてますね。



まあ~御自由に思考し続けて下さいな!

「対立物の統一」とは、法則は法則でも、新たな運動の発生の要因の事でしょうかね…
あるモノが、ある運動状態から異なった運動状態への変化が発生(生々・生成)した時、
そこには、何かの要因があり得る。

それは、対立物(他の運動体との遭遇・衝突・影響…)の結果の「統一」である
~そのように私は理解していますが…。
返信する
・ふ・し・ぎ・考 (自由ひど)
2024-07-07 14:59:16
>・コメントを書いた人
>ギルガメシュ

>・コメント
>>win-win

それは理想ですよ。本当にそうであれば喜ばしいのですが、自由びとお宅のほうから私に何らかの学ぶべき知見を発したことはほんの少しもありません。


自由人・他人から何も学べないお宅は、その学習能力皆無とも言えますね…
だって…「人の振り見て我が振り直せ」ってのも学びですよね!
私にとっては、自由びとandお宅のやり取りは、学びの宝山ですよ♪♪♪



>私は私の気がついた事柄を同じように、あるいはそれ以上に深く探究した先達がいないか常に調べることが習慣になっています。その一つが先に述べた神経解剖学者であるフレクシッヒの連合野の話しです。

>そのように私は常に様々な専門家、それも学者が多いですが、そうした方々とアクセスして世界が広がっていくわけです。しかし自由びとお宅の場合は繋がりをつけるのは南郷継正唯一人だと始めから決めつけていますから、私のように常に発言が更新されて新しくなっていくことがありません。


私の南郷氏からの学びは、弁証法・認識論・論理学・哲学・学問…です。
それらを、その他大勢から学ぶより、南郷氏一人に絞って学んだ方が、一本筋が通ったモノが学べるでしょうね。
バラバラの寄せ集めよりも、ぐっと本質へ近づけると私は確信しています。




>自由びとお宅のいうことは毎度毎度の「私は学者じゃないから学問的なことなど知らなくてもいい」「私は八百屋じゃないから野菜のことなど詳しくなくてもいい」「私は魚屋じゃないから魚のことなど詳しくなくてもいい」etc. といった他を排斥していく発言ばかりで、その発言を総括したならば「私は勉強したくないし漫画ばかり読んでいたい、それでも私は南郷継正の家来である!」ですよ。


野菜について、学問的知詳しく知らなくても、色々な野菜を食べる事で健康な脳細胞が創られます。
また、魚の事も学問的に詳しく知らなくても、色々な種類の魚ほ食べれば。健康な脳細胞が創られます。
「色々と知る事」よりも、色々な種類を食べて消化する事が大事ですね…
お宅はいつも「色々と学問的に知る」だけ…それでは、栄養にはなりませんね!


>それはそれで個人の勝手ですけれど、私には何も益するところはありませんね。

それは、お宅の学び能力不足の告白ですかね…
人間…学習心さえ、あれば~万物・森羅万象…全てのモノコトから学べル生物ですよ!



>自由びとお宅が合気道について振りましたけど、最近、佐々木貴さんという開祖・植芝盛平翁がご健在だった1962年に本部道場に入門した先生のブログを見つけましたよ。そこで「神籬磐境(ひもろぎいわさか)」という自由びとお宅も経験したことのあるらしい神秘体験が綴られておりますが、それでも盛平翁が追究したのは「秘儀の深奥」ではなく「愛と和合」なのだと私には思いたいですね。



それは、認識・表現の問題でしょうね…
植芝氏は、彼の「秘儀の深奥」を「愛と和合」と表現したのでしょうね…

そもそも…「宗教の悟り」も「武道の悟り」も…「悟りの境地」も…誰もが実感・体験・経験し得るモノではありません。
また、体得者・体験者同士が、同じ言語表現ができ得るモノでもありません。
「悟り」は、超の付く超人的な個人技なのです。
技が個人的なら、その言語表現も個人的なのですよ!
何故なら、その実物の共通認識を創り難いから~

そんな簡単且当然の事も分かっていないで「学問」ですか…ふ・し・ぎ…ですね。

学問史を読み解いて下さい!
過去の当初の学者?的な人々が、その言語表現に如何に苦労してきていた事か…
それをお宅は、他人の言葉から学んで、
その他人の言葉を使っている自分が…「その学問がお宅のモノ化した!」と誤解の連続ですよ。

それは、概念と表現の問題でしようね…
その概念を、そのモノコトから直接的に学び取ったなら、その言語表現は、その人的なモノになり得るのでしょうね…


>まあ、自由びとお宅の言語活動=脳内活動が特異なものであることは長い長い人生の果てに辿り着いた境地なのかも知れませんけど、私には何の役にも立たない奇妙な思考としか思えませんから。


それは大きな誤解・間違いですね!
私の「言語活動=脳内活動が特異なもである」なら…
私は、現在の日々の小学校の補助員の仕事をまともに、こなせる筈がなく…
もう~とっくに首になっていますよ!

人間は「認識的実在」なのです。
認識は、頭脳の機能・活動です。
特異的脳内活動なら…

うん!「脳内活動とは、何と非学問的な言語表現!」
人間の頭脳活動とは、脳内ではなく、頭脳全体が神経細胞であり、その活動は、頭脳の外内関係なく全体的な頭脳活動です。そして、神経細胞もまた頭脳の一部ですから、「頭脳活動時は、全身の神経細胞も活動しているのです」

分かりますか?
お宅の言語表現が如何に、お宅的な観念的な学問的な表現になり得ているか…
それは、頭脳の唯物的な活動表現ではなく、お宅的な観念的な「頭脳の活動表現=脳内活動」です。
そもそも…何故に「脳内活動と言うのか?」それは、医師が機械を用いて脳内活動を見ているからなのです。
その機器そのものが、脳の内部を測定するモノだからなのです。
しかし…事実は、頭脳・神経全ての活動なのですよ!

そうそう…そんな頭脳活動が特異的とは、非社会的という事ですね…
それが、子供時代の発達障害児なら正常化の可能性はありえても…
大人・高齢者の私が「特異的な頭脳活動の保持者」なら…
まともな合社会な職場生活は、無理無理至難でしょうね…
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Unknown (ギルガメシュ)
2024-07-07 07:48:10
色々と書いてらっしゃるから自由びとお宅は気持ちが千々に乱れながらも感情的な言葉が溢れてくるのでしょうね。

ですが、残念ながら?申し訳ありませんが?その一つ一つに回答していく気持ちにはなりません。南郷先生の説く「カントの対話相手」じゃありませんけど、自由びとお宅の発言内容は私にとってはどーでもいー事柄ばかりです。

「弁証法は様式」だとは自由びとお宅は間違いなく述べていますが、それが何月何日のどこで、「ほら、お宅は間違いなくここに述べいるだろう」なんてやる気も私にはありません。それくらい「自由びと」という人物への関心は希薄ですね。

>「バカの一つ覚えで弁証法の追求」

やはり自由びとお宅と私とでは「バカの一つ覚え」ということの理解からして全然違ってますね。まー、それもどーでもいーことでしょうけれど。私はシュリーマンのように執念をもって一つのことを追い求めた人物を同じ「一つ」という部分だけの共通項から「バカの一つ覚え」だとは理解しません。自由びとお宅はどんな脳味噌してるんだい?w

>「弁証法とは、弁証法の法則化」

ここは些か考えさせられました。この規定だけでは何とも味気なく?何も言ってないに等しいと思うのですが、三浦の『弁証法はどういう科学か』の「世界のありかたをどう見るか」に似たような記載があるのですね。それを改めて読んでみると三浦もやはり靴下掻痒な書き方をしていますね。

私はいま、社会科学の様々な法則の学習をしていますが、そのイワユル「個別科学の法則」と三浦のいう「弁証法の法則?」との対比で色々なことが見えてきています。

弁証法でいう「対立物の統一」は本当に法則なのか?ドナルド・デイヴィッドソンのいう「非法則」ではないのか?法則と非法則とを統一して取り上げるのが弁証法だとしたならば、その全体を「法則」と概括して良いものだろうか?とか考えてますね。

泥棒さん。
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Unknown (ギルガメシュ)
2024-07-06 19:33:29
>win-win

それは理想ですよ。本当にそうであれば喜ばしいのですが、自由びとお宅のほうから私に何らかの学ぶべき知見を発したことはほんの少しもありません。

私は私の気がついた事柄を同じように、あるいはそれ以上に深く探究した先達がいないか常に調べることが習慣になっています。その一つが先に述べた神経解剖学者であるフレクシッヒの連合野の話しです。

そのように私は常に様々な専門家、それも学者が多いですが、そうした方々とアクセスして世界が広がっていくわけです。しかし自由びとお宅の場合は繋がりをつけるのは南郷継正唯一人だと始めから決めつけていますから、私のように常に発言が更新されて新しくなっていくことがありません。

自由びとお宅のいうことは毎度毎度の「私は学者じゃないから学問的なことなど知らなくてもいい」「私は八百屋じゃないから野菜のことなど詳しくなくてもいい」「私は魚屋じゃないから魚のことなど詳しくなくてもいい」etc. といった他を排斥していく発言ばかりで、その発言を総括したならば「私は勉強したくないし漫画ばかり読んでいたい、それでも私は南郷継正の家来である!」ですよ。

それはそれで個人の勝手ですけれど、私には何も益するところはありませんね。

自由びとお宅が合気道について振りましたけど、最近、佐々木貴さんという開祖・植芝盛平翁がご健在だった1962年に本部道場に入門した先生のブログを見つけましたよ。そこで「神籬磐境(ひもろぎいわさか)」という自由びとお宅も経験したことのあるらしい神秘体験が綴られておりますが、それでも盛平翁が追究したのは「秘儀の深奥」ではなく「愛と和合」なのだと私には思いたいですね。

まあ、自由びとお宅の言語活動=脳内活動が特異なものであることは長い長い人生の果てに辿り着いた境地なのかも知れませんけど、私には何の役にも立たない奇妙な思考としか思えませんから。
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バカの一つ覚えで求めるモノ~ (自由びと)
2024-07-06 17:42:53
>・コメント
>自分がバカだという理解が出来ないなら、何をコメントし続けても変化はないでしょう。


ほ~う…
自由びとを分からせられない・納得させられないお宅の能力不足を嘆くのでなく…
お宅の書いている事が分からない自由びとの事を「バカ」と言い切るのですね…

そもそも…お宅は初めから「自由びとの変化」なんか望んでないしょ!
お宅勝手な持論を自由びとブログのコメント欄で、お宅勝手に展開している…だけでしょうが…
自由びと言説へ言い返す事ができなくなると…
いつも~お宅は「自由びとがどうの・こうの…」と「負け犬の遠吠え」ですよね!




>「基本」という最重要事項に関する理解もなく、それを指摘した私のコメントも非公開で、これがまた『学城』で勝手に利用されるであろうことを残念に思いますけどね。

↑~
「基本という最重要事項」…とは…
基本が、重要なのは、それを基本として、正しく、体得・修得する事で可能性が広がるだろうからなのです。
そもそも…空手の基本にしても…流派ごとに大きな相違はありません。
重要なのは、どのような目的意識で、どのような過程で、その基本をどのように体得・修得させるか?という事です。
その基本に対する基本的な目的意識的な「認識の指導・教育」の部分ですかね!
闘魂・不屈の精神・意識の持ち方の教育・指導…

だって…確か、合気道では、「初めに奥義あり」でしたね!

>「弁証法は様式」だと結論づけたお宅自身の癖になっている思考習慣も、tada氏が指摘した「庄司和晃、特殊性」ということもお宅には何の気づきもなく、相も変わらずおバカな思考の繰り返し。


え!?「弁証法が様式」なんて…言った事も書いた事もありません。
そもそも…私は「○○様式」なんて言語表現は使いません。
そもそも…確か、私は「弁証法とは、弁証法性の法則化」と書いていたと思います。
そして、技化した弁証法は、その人の思考活動です。
そうそう「思考様式」とも言いません・書きません・書いた事もありません。
自由な思考活動には、「様式」といモノはありません。
「様式を求め囚われたら、不自由ですね…」

それは、技を出すのでなく、「動けば技になる」と同様に「思考活動そのものが弁証法的」

>私には自由びとお宅と玄和会総長まで辿り着きながらもおバカゆえに新井さんに代筆をしてもらっている田縞某とが二重に映りますね。


そんな本当か嘘か、事は知りませんが…
「代筆してもらったらおバカ」とは…なんと浅はかな認識~
人間は、得意・不得意があって当然なのです。

とても深い想い・思いがあって、眼前の特定の相手に個人的に伝える事は上手でも…
不特定多数に伝える事が不得手な者が、その認識・感情を代筆してもらって何が「おバカ」なの?
問題は、自己の認識を如何に正確に大勢の会員に的確に伝えられるか…でしょうね…


>『学城』の加納某という御仁も実力ある人物とは思えませんね。

上・上記のような事が平然と書けているお宅に、正しく相手の実力が読めるとは思えませネ…

>どんな約束組手やろうが玄和は弱いわけですから、私にとってはどーでもいーことですが、バカの一つ覚えでドリルを解くのとバカの一つ覚えで基礎理論を考察するのとでは雲泥の違いですよ。

そうですね!
でも、私の「バカの一つ覚え」は、お宅の想像とは違っていますよ!
それは、「バカの一つ覚えで弁証法の追求」ですかね…

過去の大勢の偉人は、バカの一つ覚え的に人生を生きた者達も大勢いますね…
「トロイの木馬」遺跡発掘した誰だっけ…なんて…確か周囲から馬鹿にされ続けていたでしょうが…


お宅は、上記のように長々とコメントを書こうが…その内容は、殆ど毎回いつも同じ!

私のコメントの否定のみであり…
私のコメント・言説を自らの思考過程に加えて、新たな思考展開を求めようとはしていない!
だから…お宅の思考活動は、毎回「お宅様式」で、いつも同じモノ。
そう変化がないから、「様式」!「様式に拘り過ぎて自由度のない・ガチガチ様式ですかね…


私にとって、ここで書かれている言説・コメントの結果なんて…どうでも良いのです。
現実の生活で、私が、ここでのお宅のコメントと私コメントの統一の過程で得た「ウイン・ウイン」的な思考法が使えればOK!なのです。
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Unknown (ギルガメシュ)
2024-07-06 13:09:50
自分がバカだという理解が出来ないなら、何をコメントし続けても変化はないでしょう。

「基本」という最重要事項に関する理解もなく、それを指摘した私のコメントも非公開で、これがまた『学城』で勝手に利用されるであろうことを残念に思いますけどね。

「弁証法は様式」だと結論づけたお宅自身の癖になっている思考習慣も、tada氏が指摘した「庄司和晃、特殊性」ということもお宅には何の気づきもなく、相も変わらずおバカな思考の繰り返し。

私には自由びとお宅と玄和会総長まで辿り着きながらもおバカゆえに新井さんに代筆をしてもらっている田縞某とが二重に映りますね。

『学城』の加納某という御仁も実力ある人物とは思えませんね。

どんな約束組手やろうが玄和は弱いわけですから、私にとってはどーでもいーことですが、バカの一つ覚えでドリルを解くのとバカの一つ覚えで基礎理論を考察するのとでは雲泥の違いですよ。
返信する
観点の相違ですね♪♪♪ (自由びと)
2024-07-06 11:53:56
「バカの一つ覚え」ですか…「バカの一念岩をも通す」なんてね♪♪♪

う~ん!
「基本技」ですか?
確かに…私には、事実「基本技」という言葉・概念は出てこなかったな…。
また、言葉で言われれば、「基本技の繰り替えし」は当然の「当たり前だのクラッカー」ですね。
確かに[基本技」を繰り返す事に間違いはないのですが…

しかし「基本技」を飽きずに繰り返し続けられるモノは何?
私自身が非常に飽きっポイ性格で、同じ事の「繰り返し」だと直ぐ飽きて止めてしまいます…

そんなこんなで、出て来た結論が、
「バカの一つ覚え」的に、兎も角「繰り返す」という信念・精神・意志…の「一念」!

その場でのテーマは「二重化」です。
ならば、「同じ事の繰り返し」と「二重化」の関係は?

同じ事の「繰り返し」わ続けられる事、
その苦痛に耐えられ続けモノは、その者の意志・精神という事ですかね。

師範が説いていました「受け技とのコミュニケーション」~
意志・精神と基本技との相互浸透・二重化てすかね…



そもそも…本来の「基本技」とは、応用範囲が広く、とても役立つだろうモノ…ですが…
それが、組織・流派・団体で同じではありません。
また、そのモノが「役立つ・役立たない」が、初心者には分かりかねます。
だから、初心者は、指導者に言われた「稽古・練習」を「バカの一念」で繰り返す…という結論でしょうか…

また、達人・名人になれば…
「その自己の闘い方の基本形式」を自己の基本型として創出して、
日々繰り返し稽古・練習をしていた、ようですし。

なので~
基本技と言われた・教えられたモノを繰り返し続けるには、
「バカの一つ覚え」的な反復稽古・練習が不可欠なのでしょう!

ただ…現代の空手界では、
その「基本技の約束組手」の方法がマズイのでしょうね…

本来の約束組手では、その基本技の使い方を創る練習であるべきモノが…
現実は、ただ「突い」、ただ「受ける」…だけ~

そこには、
「ゆっくり・確りと相手の突きを見るだけ稽古」もなく、
次に「見た突きに対して、ゆっくり・確りと受けを出す」稽古もなく、

また、見える・受けれる…なら、本気で突いて、本気で受ける稽古。
こんな稽古をすれば、本気で受けられない・受け技が確りできてない…
自覚が生れたなら「基本創出練習にも力」が入るだろう。

言うなれば、同じ「基本の繰り返し」を飽きさせずに、
目的・意識的に続けさせられる、ような練習体系になっていない!という事。
だから「バカの一つ覚え」が有効!

しかし、上記のような確りとした体系的な練習ならば、
使えない受けの「バカの一つ覚え」的から、使えるの受けに「繋がる賢者の一つ覚え」的練習になろうが…
返信する
「二重化」違い! (自由びと)
2024-07-06 11:15:42
>コメントを書いた人
>ギルガメシュ



>今回「連合」について自説を述べたことで、あらためて「弁証法の教科書」である三浦つとむの『弁証法はどういう科学か』を読み返したんですよ。

>それで「観念的な二重化」について改めて気がつくことが出来たんです。三浦の『弁証法は~』において「観念的な二重化」というのは「対立物の相互浸透」の所に出てくるわけですけど、それは「いま現在の現実的な反映」と「未来の来るべき世界」との二重化なんですね。


それって…「世界の二重化」それも、「未来予想の為の二重化」なのでは?
「二重化」には、それ以外にも色々あり~
眼前の現実を正しく認識する為の二重化⇒「過去から現時点までの自己の記憶の想起」or現実界の事実・事件の調査…
眼前の相手をより正しく・詳しく分かる・理解する為の二重化⇒「相手の体験・経験…語り事・言動・感情変化…への二重化
または、ペットの習性を正しく分かる・理解する為の二重⇒一般的学説・事実…を調べ…ペットの日頃の行動と比べて…
一言で「二重化」と言っても、その人の目的に合わせて、色々な二重化があり得ます。


それでも…二重化とは、自己の認識内に、
眼前の現実的な対象の反映・認識に対して、その反映とは別に認識内での対象に関する新たな認識を生じさせる行為。

現実からの反映されている対象・認識と認識内での対象・認識という「二重の認識(化)」の事。
ただ…その時、その二重化された対象認識とは、別に自己の「問い掛け的な認識」があろうが…
それは「二重化」されている認識と一体的になっているのだろう…
言うなれば、「●〇?」的な問い掛けの結果が、認識内の対象認識であろう。



>それを三浦は「自己の二重化と世界の二重化」といってますけど。これはプラトンの「ニ世界論」だと思います。つまりは、三浦のいうところの「哲学の遺産を科学として生かす」ということで、南郷先生の著述でいったなら「トーマス・ヒル・グリーンから河合栄治郎へ繋がる《理想主義》」、私の先生の著述でいったなら「レアール(現実)とイデアール(理想)」という《二重》なんだと思いますよ。



ふ~ん…
私的には、
「哲学の遺産を科学として生かす」ではなく、
哲学の遺産を使って「自己の世界を豊かに広げる」と思えるのですが…



>それがマルクス主義の場合には現実世界の「資本主義」に重ねられた「共産主義」という理想像が《観念的な二重化》だったのでしょうが、それがどういった経緯で海保静子や南郷学派の「自己の他人化」が即ち観念的な二重化だと考えられるようになったのか?確かに三浦の「相互浸透」の説明には他者と対話をしていく過程で互いに相手の性格を受け取っていくと説明されていますが、そもそもの「観念的な二重化」の「プラトンのイデア論」からの遺産という性格(対比的には東洋的な諦観(そういうものだと諦める、観念することの否定)から省みれば、医療従事者(もしくは心理カウンセラー?)が現在の患者さんの状態を超えたところに未来の回復した姿を重ねて見ることが「ドイツ観念論=ドイツ理想主義」の本質的なところだと思いますから、神庭さんの「そーだ、男を許すな!」みたいな対応がクライアントと同じ感情を共有した・同じ考えを持った、だから二重化なのである、みたいな理解は「観念的な二重化」の根本的な基本「プラトンのイデア論やドイツ理想主義の遺産を継承する」を分かっていないのだと思いますね。


>現在の患者さんの状態を超えたところに未来の回復した姿を重ねて見ることが…<

南郷学派の医学では、「未来の回復」ではなく、「病気になる以前のような健康状態への復帰・回復…」であり
そんな「イディア的な」理想の状態への「未来に回復した(理想的な)姿」ではないのでしょうね…
病気になって完治しても、それは、病気になる前の、その人の健康状態以上にはなり得ませんよ。

更に、精神疾患…等の精神的な病気では、その精神状態の把握が至難なのでしょうね…
この状態の正確な把握の為の
「相手のと会話・関わりを通して相手へ二重化が必要・大切…」と神庭さんが説いていると理解していますが…



>それが自由びとお宅の、私がこれっぽっちも尊敬の気持ちが湧いてこない「信じろ!信じろ!信仰しろ!神庭純子と同じ考えになれ!」という軽蔑すべきおバカな繰り返しだと認識しています。


だから…お宅の考えを根本的に否定するつもりはありませんが…
神庭さんの書いている「二重化」は、
言うなれば「その時点の、その患者精神疾患を患っている人物の世界への二重化」であり、
お宅の書いているような「哲学的・一般的な世界への二重化」ではないのですよ!

「信じろ」とは、神庭さん、「二重化の方法」・やり方であり、
それは眼前の患者への二重化。そして、それが「患者を理解するのに有効なモノ」(この事を信じよう)

彼女の説く「二重化」は、このコメントでのお宅が書いているような、
書物に書かれている「二重化」というモノへの理解の為の二重化ではありません。



>それが三浦も『弁証法は~』で触れているように「連合」ということならば「現実世界の理解に関する連合」と「まだ見ぬ未来へ向けての連合」というように「連合の中身」が二つに区別される所以だと考えますね。


だから…人間の認識というモノは「連合」と思おうが・思うまいが…
その人物的には、全てを区別と連関的に連合してしまっている、のです。

その「連合」の失敗例が、多重人格的な認識の保持者です。
その人達は、自己の中で区別と連関で、個々の思惟・思考の「連合」に失敗した人々でしょうね…
「連合」できないなら…バラバラにして、別人格的な扱えば、それはそれで納得・整合性がある…から~

問題は、哲学・学問的な「連合」と自己の自然成長的な「連合」の相違を自覚して、
自己に中に、新たな合・現実世界的な「連合」の創出でしょうね…
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Unknown (ギルガメシュ)
2024-07-06 04:41:34
しかし、私の「何を繰り返すのか?」という発言に南郷先生が書いている「基本技」という言葉が出てこずに「バカの一つ覚え」なんて発言がなされたのには苦笑してしまいましたよ。

様々な文化に「基本」というものがありますし、それは空手だとかでも流儀や流派によって相当に違っていたりもしますが、立ち方だとか拳の位置だとか突きの軌道だとか、非常に沢山の注意点が細かく分析されて伝えられていて、「基本の発見」というのは人類の文化史上に残る最高の発見だと私には思えますけども。

試しに弓道を調べてみても立ち方から呼吸の仕方、手の使い方、胸郭の使い方など沢山の基本の注意点があって、これを自分が入り込んだ文化の中で自分で基本を作り上げてみろ!と言われたなら中々に難しくて容易に何を意識したら良いのか?を認識するのは困難ですよ。

「バカの一つ覚え」とは笑いましたが、基本ならぬおバカを繰り返すのはお宅(自由びと)だけで十分だと進言しておきます。
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Unknown (ギルガメシュ)
2024-07-06 04:18:29
今回「連合」について自説を述べたことで、あらためて「弁証法の教科書」である三浦つとむの『弁証法はどういう科学か』を読み返したんですよ。

それで「観念的な二重化」について改めて気がつくことが出来たんです。三浦の『弁証法は〜』において「観念的な二重化」というのは「対立物の相互浸透」の所に出てくるわけですけど、それは「いま現在の現実的な反映」と「未来の来るべき世界」との二重化なんですね。

それを三浦は「自己の二重化と世界の二重化」といってますけど。これはプラトンの「ニ世界論」だと思います。つまりは、三浦のいうところの「哲学の遺産を科学として生かす」ということで、南郷先生の著述でいったなら「トーマス・ヒル・グリーンから河合栄治郎へ繋がる《理想主義》」、私の先生の著述でいったなら「レアール(現実)とイデアール(理想)」という《二重》なんだと思いますよ。

それがマルクス主義の場合には現実世界の「資本主義」に重ねられた「共産主義」という理想像が《観念的な二重化》だったのでしょうが、それがどういった経緯で海保静子や南郷学派の「自己の他人化」が即ち観念的な二重化だと考えられるようになったのか?確かに三浦の「相互浸透」の説明には他者と対話をしていく過程で互いに相手の性格を受け取っていくと説明されていますが、そもそもの「観念的な二重化」の「プラトンのイデア論」からの遺産という性格(対比的には東洋的な諦観(そういうものだと諦める、観念することの否定)から省みれば、医療従事者(もしくは心理カウンセラー?)が現在の患者さんの状態を超えたところに未来の回復した姿を重ねて見ることが「ドイツ観念論=ドイツ理想主義」の本質的なところだと思いますから、神庭さんの「そーだ、男を許すな!」みたいな対応がクライアントと同じ感情を共有した・同じ考えを持った、だから二重化なのである、みたいな理解は「観念的な二重化」の根本的な基本「プラトンのイデア論やドイツ理想主義の遺産を継承する」を分かっていないのだと思いますね。

それが自由びとお宅の、私がこれっぽっちも尊敬の気持ちが湧いてこない「信じろ!信じろ!信仰しろ!神庭純子と同じ考えになれ!」という軽蔑すべきおバカな繰り返しだと認識しています。

それが三浦も『弁証法は〜』で触れているように「連合」ということならば「現実世界の理解に関する連合」と「まだ見ぬ未来へ向けての連合」というように「連合の中身」が二つに区別される所以だと考えますね。
返信する
難しい問題! (自由びと)
2024-07-05 15:37:00
・コメント
>その「時代的な要請」とは、いつの時代でしょうか?

「現代」ですよ。「現代」の「医療専門職」の資格を得るための専門的な養成機関で学んだ人間ならば、医師だろうが看護師だろうがリハビリ士だろうが必ず学ぶことを義務づけられている解剖学・生理学的な観点ですよ。では、それが「いつから?」と言ったなら遥か古代から正しいものとして受け継がれているものもあれば、つい近年に発見されたものもあるわけですから、発見された年度というのは本質的なことでもないとは思いますけれど、
そういう奥歯にモノが挟まったような核心に触れない言い方だと釈然としませんから明確に述べるなら、それは「脳の《連合》」という機能です。「いつから始まったか?」というならば、ポール・フレクシッヒ(Paul Emil Flechsig)という精神科医で神経解剖学者が命名した脳の解剖学的な場所であり機能だということですよ。

年代でいったなら19世紀に当たるようですが、それが20世紀でも21世紀でもないということで「今はもう新しいことが発見されているだろう、そこ(連合野)は今は連合させる場所ではないと認識されているだろう」と夢想するのは、医学的な学習・訓練を受けた私らのような医療専門職ではない学校教育者としての訓練を受けた自由びとお宅には共感できないかと思いますけども、分かる人によっては私の言う「中身のない自動思考の弊害」を理解していただけると痛感していますよ。









>「現代」ですよ。「現代」の「医療専門職」の資格を得るための専門的な養成機関で学んだ人間ならば、医師だろうが看護師だろうがリハビリ士だろうが必ず学ぶことを義務づけられている解剖学・生理学的な観点ですよ。


「時代の要請」が、<現代>ですか?
現代・社会の要請ですね!

しかし、そんな現代・社会の要請に対して、
現代の学問レベルで、応える事が可能でしょうかね…

それが、「解剖学・生理学的な観点」ですか…
私が、思うに現代社会の要請に応えるには、そんな学問的な延長線上の「観点」でなく…
現代を越えた・新たな量質転化化した「真・観点」が求められるでは?





>それは「脳の《連合》」という機能です。
>…脳の解剖学的な場所であり機能だということですよ。
そこ(連合野)は今は連合させる場所ではないと認識されているだろう」と夢想するのは、医学的な学習・訓練を受けた私らのような医療専門職ではない学校教育者としての訓練を受けた自由びとお宅には共感できないかと思いますけども、分かる人によっては私の言う「中身のない自動思考の弊害」を理解していただけると痛感していますよ。


>「脳の《連合》」という機能…ですか?

私が思うに…連合も何も…本来の脳は、全身の神経の一体的・全身的なのは当然でしょう。
問題は、そんな全身・神経が一体的てある筈の人類が、
何で「頭脳の連合」という問題が生じたのか?を解く事でしょうね…

そもそも…認識・像も、本来は全頭脳が一体的な映像化であり、全身の神経が一体的に感覚・感情化している筈なのに…
低学年の児童なら全身で表現する喜怒哀楽…が、何故に成人・大人に、でき難いのか?
そんなテーマが、学的な問題となり得ていたなら…

やはり…現代の学問は、現代社会の要請には応えかねるのかも…

>「中身のない自動思考の弊害」…ですか?
なかなか興味深い言語表現ですね…

この表現・記述から連想されるのは以下のようモノです。
日々の生活習慣・日々の生活の癖化…「自動思考」


子供時代の生活習慣…成長期の正常な成長・発育・促進の為の「早寝・起き」…
その習慣を社会人になっても、深く考えずに続けている大人。
何も考えずに「それは常識だ!」と過去の悪しき慣習を続けている者達~

私からすれば…
お宅も、お宅の習得した知識類を、深く考える事無く「自動思考」的に書き綴っているような感じですがね…
返信する
Unknown (ギルガメシュ)
2024-07-04 12:15:04
>その「時代的な要請」とは、いつの時代でしょうか?

「現代」ですよ。「現代」の「医療専門職」の資格を得るための専門的な養成機関で学んだ人間ならば、医師だろうが看護師だろうがリハビリ士だろうが必ず学ぶことを義務づけられている解剖学・生理学的な観点ですよ。では、それが「いつから?」と言ったなら遥か古代から正しいものとして受け継がれているものもあれば、つい近年に発見されたものもあるわけですから、発見された年度というのは本質的なことでもないとは思いますけれど、
そういう奥歯にモノが挟まったような核心に触れない言い方だと釈然としませんから明確に述べるなら、それは「脳の《連合》」という機能です。「いつから始まったか?」というならば、ポール・フレクシッヒ(Paul Emil Flechsig)という精神科医で神経解剖学者が命名した脳の解剖学的な場所であり機能だということですよ。

年代でいったなら19世紀に当たるようですが、それが20世紀でも21世紀でもないということで「今はもう新しいことが発見されているだろう、そこ(連合野)は今は連合させる場所ではないと認識されているだろう」と夢想するのは、医学的な学習・訓練を受けた私らのような医療専門職ではない学校教育者としての訓練を受けた自由びとお宅には共感できないかと思いますけども、分かる人によっては私の言う「中身のない自動思考の弊害」を理解していただけると痛感していますよ。
返信する
ネットと現実は別物! (自由びと)
2024-07-03 16:56:35
>・コメントを書いた人
>ギルガメシュ

>・コメント
>新たに何かを思いついて、そのために文章を認めていくことは当人にとって、そしてその文章が心の琴線に触れた者にとっては大事なことだと思います。


同感・共感!

>そして、その自由びと氏の文章が数多の読み手の側に深く印象づけられるものであったなら幸いですね。


私も「幸い」を求めています!


>私は自由びと氏が扱っているような事例を「観念的二重化」というフレームでは扱いませんし、それは時代的な要請でもあると同時に学的な体系性のゆえでもあります。


その「時代的な要請」とは、いつの時代でしょうか?
もしかして…お宅の学んでいる「学問」は、もう時代遅れ?
仮に、時代の最先端だとしても…現代での革新スピードでは、直ぐ追い抜かされてしまうのでしょうね…
だから、「時代の一歩先を行く学問」が最高…なんて事を南郷氏が説いていたかも…

そうそう…それでの「アキレスと亀の競争」ではないですが…
時代の学問は、どんなに頑張っても、現実社会の歩みを追い越す事は不可能…と書いていましたね…


>それと共に「三浦つとむが著作で説いた観念的二重化というのは何だったのか?」という根本的・アルケーの問題を、自分の知的欲求に任せて探究しようと考えてますね。


他人にとっての「二重化」、他人の説いている観念的に二重化ではなく…
自分自身が使える・駆使可能な「観念的・観念の二重化」を、私は追い求めています!

>つまりは南郷先生が70年代に説いていた「秀才的と鈍才的」、「桃太郎の繰り返し」とは何を繰り返すのか?という本質的な問いなわけですが、


秀才とは、「器用貧乏」的なモノ、鈍才とは「馬鹿の一つ覚え」・「苔の一念岩をも通す」~

「何を繰り返すのか?」
自己の目的意識的な問い掛けを、意識的に「問い」続ける事だと、今の私は認識しています。
自己の自然成長的・感情的な問い掛けの「感情」部分を「目的意識的感情に量質転化化」する。
問題は、その「目的意識的な問い掛けの中身」…それが「弁証法的認識・思考活動」なのでしょうね♪♪♪

勉強を勉強し続ける事!
正体が明確でも、捉え難い・自分のモノにし難い~
そんな「弁証法的思考」の技化を求めての「桃太郎の繰り返し」ですかね…



>私の周囲の人が最近は盛んに「京大ぶっ殺せ」とメッセージを送ってくるのは、呑気な私が対話している自由びとという人間が京都大学を出た寄筆一元氏なのかも知れないとは、インフォメーションテクノロジーに疎い私には対話している相手が誰なのか皆目分からないものでも、岡目八目で客観している人間にはガラス張りのように透けて見えるのか!と。


成る程ね~「岡目八目…ガラス張り…透けて見える…」ですか?
確かに、私達二人のやり取りを第三者として、客観的に読み・理解するなら、私達二人の長短はハッキリ見えるでしょうが…
それでも、現実界の私達二人を知っている人物が読んでいる事は稀でしょうし…
仮に、読んでいたとしても、私達二人を現実的に特定する事は至難でしようし…。

更に、現実的に特定できたとしても、現実界の私とネット界「自由びと」は全くの別人レベルです。
このブログで書いているような事を、私の周囲の知人に話せる訳ないし…
仮に、話したとしても、「お前!何言っての!それってマジ・正気?」…と相手にされないでしょうね!
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Unknown (ギルガメシュ)
2024-07-02 18:33:43
新たに何かを思いついて、そのために文章を認めていくことは当人にとって、そしてその文章が心の琴線に触れた者にとっては大事なことだと思います。

そして、その自由びと氏の文章が数多の読み手の側に深く印象づけられるものであったなら幸いですね。

私は自由びと氏が扱っているような事例を「観念的二重化」というフレームでは扱いませんし、それは時代的な要請でもあると同時に学的な体系性のゆえでもあります。

それと共に「三浦つとむが著作で説いた観念的二重化というのは何だったのか?」という根本的・アルケーの問題を、自分の知的欲求に任せて探究しようと考えてますね。

つまりは南郷先生が70年代に説いていた「秀才的と鈍才的」、「桃太郎の繰り返し」とは何を繰り返すのか?という本質的な問いなわけですが、

私の周囲の人が最近は盛んに「京大ぶっ殺せ」とメッセージを送ってくるのは、呑気な私が対話している自由びとという人間が京都大学を出た寄筆一元氏なのかも知れないとは、インフォメーションテクノロジーに疎い私には対話している相手が誰なのか皆目分からないものでも、岡目八目で客観している人間にはガラス張りのように透けて見えるのか!と。
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