続・悟りとは何か~悟りを開く、その意味
悟りとは何か~悟りを開く、その意味 (358v.net)
悟りとは何か~悟りを開く、その意味
悟りと言っても日常的な意味もありますが、ここでは仏教などで言われる「悟り」について、考えていきます。
このページの目次
• 「理解」ではなく「体験」
• 「悟りの境地」をディズニーランドにたとえてみよう
• 悟りについてよく言われること…一体感
• 「死」も「孤独」も消える
• ヨガはストレッチではありません
• ヘミンシンクと悟り
• 現代人にとっては大きな収穫
理解」ではなく「体験」
とは言うものの・・・悟りなんて、抽象的に定義をして理解したつもりになっても、何の意味もないことなんですけどね。^^;
それにおそらく、
「悟りを開いた」
「悟りの境地」
と言っても、経験した人によってそれぞれ違うのではないかと考えられます。
そしてそれは「理解」というより「体験」であると考えられます。
だから定義を聞いただけでは何も意味がないんです。
「悟りの境地」をディズニーランドにたとえてみよう
たとえばディズニーランドに憧れている人が、ディズニーランドがいかに楽しいかを本で読むのと、実際にディズニーランドに行って楽しむのとでは、まったく違うのに似ています。
本で読んだだけだと、
「楽しいに違いない」
と「信じている」だけですが、実際に体験すると
「ディズニーランドは楽しかった」
と「知った」ことになります。
「信じている」だけだと、たとえば友達から
「いやいや、噂によると実はそんなにたのしくないんだよ」
なんて言われると、「え? そうなの?」と信念が揺らいでしまうことも多いでしょう。
でも実際自分で体験して「知って」いれば、人に何を言われようと、
「いや、私も行ったけど、実際楽しかったし」
で、済むわけです。
悟りの境地を「信じている」のと「知っている」のとは、この違いと似たようなものでしょう。
とことわった上で・・・悟りについて、いろいろ考えてみます。^^
悟りについてよく言われること…一体感
まず、「悟り」についてよく言われるのは
「すべてのものと一体感を感じる」
ということだと思います。
スピリチュアルな考え方でもよく言われることですので、これ自体は「ああそうなんだな」と頭では簡単に理解できます。
でも一体感を感じることで大きな喜び、至福を感じることができるといいます。
これはどういうことか?
おそらくこれは、
「自分の本質は肉体ではない」
とわかるからではないかと考えられます。
「死」も「孤独」も消える
自分は肉体を超えた存在で、肉体が死んでも自分自身が滅ぶことはないし、それに他の人・・・というか霊というか天使というか神仏というか、そういう存在ともいつもつながっているから孤独でもない。
そういうことを「体験」として知ることができれば・・・そりゃ幸せな気分になって当たり前ですよね。
これまで最大の恐怖だった「死」がなくなるわけだし、同様に恐怖と言える「孤独」もなくなるわけだから。
それがはっきりと分かれば・・・体験によって知ることができれば・・・この世での悩みや不安、苦しみ悲しみなんて大半は消えてなくなることでしょう。
まさにこれは「悟りの境地」と言っていいのではないでしょうか。
もちろんそれに対して、
「いや、悟りとはもっともっとレベルの高いものなんだよ」
という人もいるでしょうけど、上記のようなことを「体験によって知る」だけでも、私たち多くの一般人にはとてつもなく大きな収穫だと思います。
たとえ「悟りの最初の一歩」であっても。
さて。
ヨガはストレッチではありません
一体感については、インド系の思想にもよく出てきます。
あの、インドというと・・・ヨガってありますよね。多くの人はヨガと聞いても
「ストレッチの一種でしょ?」
くらいにしか思わないわけですけど、あれも、もともとは「大宇宙の絶対者ブラフマンとの合一を目指す」ものなんですよ。
つまり、神様とでも呼べるような何かとの一体感を求めているんです。
その影響を受けてできた「禅」にしても、一体感を思わせる表現があります。
ある禅宗のお坊さんは、悟りを開いたときの感覚についてこう記しています。
「目覚めてみれば、そこもかしこも観音様だ」
つまり、自分も含めてみんな観音様、みんな一体、しかも観音様というくらいだからみんな慈愛にあふれているということですよね。
それはもう・・・大いなる喜びの体験に違いありません。
ヘミンシンクと悟り
昔の人にとっては、悟りを得るための方法は座禅とか瞑想とかヨガしかなかったのでしょうが、今はそのための方法も増えています。
・・・と言っても、本質的にはやっていることは同じなんでしょうけど。
たとえば「ヘミシンク」という方法が一部で有名です。
そのヘミシンクを紹介した坂本政道さんの「あの世はある!」という本にもこういうことが書かれています。
ヘミシンクで何度も「あの世」的なものを体験すると、そのたびに少しずつ確信が強まっていくと。
そうしてついにはその確信が確固たるものとなり、「死の恐怖」を完全に消し去ることができると。
そうなるともう、人生はまったく違ったものになるということですね。
これも今風の「悟り」の方法だと言っていいでしょう。
「体験するたびに少しずつ確信が強まっていく」というのは「小さな悟り」を積み重ねているとも言えそうです。
仏教の本を読みますと、「悟り」にも「大きな悟り」「小さな悟り」と「段階」のようなものがあると書かれています。
ヘミンシンクによっても、「小さな悟り」を得ることができ、それを繰り返すことで「大きな悟り」に至ることができる、と考えても良さそうです。
現代人にとっては大きな収穫
まあ、「あの世の存在の確信」「死に対しての認識の変化」程度を「大きな悟り」なんて呼んでいたら、本気で修行しているお坊さんには笑われそうですね。^^;
それに、昔の人はその程度のことは普通に知っていたでしょうし。
でも現代人にとっては、たったこれだけの「悟り」でも、大きな収穫となることは間違いないでしょう。
自分が死ぬ恐怖、そして愛する人を失う恐怖、そういうものから解放されるわけですから。
この後に
私のブログ「悟りを求めて…」を見たら、
2017年02月14日
悟りを考えると…
悟りとは!何なのだろうか?
それは、絶対的に解決不能な問題の解決方法なのだろうか?
絶対的に解決不能なのに…そこに解決方法がある、とは矛盾であろう…
これは言いかえるなら、
事実的唯物的には絶対に解決不能な問題を、論理的観念的に解決する方法、だろうか…
悟りの具体的な形態が
① 宗教的な悟り、
② 学問的な悟り、
③ 武道的な悟り、 なのだろうか?
絶対に解決不能な問題の一つに、
絶対に老いて死にゆく人間が、不老不死を求め続けるコトがある。
この問題を~
①の宗教では、
絶対者である神を信じ、その神と己自身を一体化する事で、
人間として老いて死んでも、神として生き続ける確信=悟り。
②の学問では、
世界と関わり、その本質を究明し尽くす事で、
老いて死にゆく人間を世界の本質の一部と位置づけ、
人間として死んでも、世界としては生き続ける確信=悟り。
③の武道では、
生死を懸けた武道勝負で「生の為に死」を見つめ続ける事で、
生死一体の境地を体感・実感する事で、死も生も同じモノと確信=悟る。
宗教は、神の中に己、己の中に世界全体・神を包含しての一体化を目指し、
学問は、自身を世界の一部と位置づけ、世界の部分として一体化を目指し、
武道は、生と死の境地の一体化を目指し、求め続けるモノなのだろう…
出発点として相違は~
宗教は、絶対者である神という、全体的なモノからの出発であろう…
学問は、人類の文化・学問の学びが出発点なのだろう…
武道は、武技・武術の学習・習得・修得から始めるのだろう…
それでも、人間が悟りを求めるのは、絶対的に解決不能な問題に直面して、
絶対に解決不能なのに、『絶対に解決したい』希求するから…なのだろう…
似たような事が書かれていました。
でも、私は、2017年02月14日
悟りを考えると…
私は、こんな事を書いた覚えがない。
ここでは、
ウェブ2017年11月27日 · 悟りと言っても日常的な意味もありますが、
ここでは仏教などで言われる「悟り」について、考えていきます。「理解」ではなく「体験」とは言うものの …
やった!
私の方が早い!でも嬉しい、私の勝ち?
否!私の中の南郷師範認識の勝ち!なのです。
それで、ここ何回かの自由びとさんの投稿を拝見して「これは何らかの心理学的なスキルを意図的に使ったものだろうか?それとも特定の仏教なり禅宗なりの修行過程で身につけたものだろうか?」との関心が湧いてきたんですね。
仏教の特定思想からしたら「これ」は「無我」というか「大我」というか相手と一体化して全体なる《われわれ》となる」ことだと解釈もできはしますが、「他人のものを無条件・無制限に自分のものとしたいという《エゴ》」の表れだとも理解し得るのです。
自由びとさんの投稿は「永遠なる無我、大我」へ向かう仏教的な悟りの方向であるようにも見えながら、他者の自我を蔑ろにするマインドコントロールの方向であるようにも見えるわけです。
私は「これは良い機会だ」と西田公昭さんという公認心理士さんのマインドコントロールの本を注文したんです。
ちなみに南郷先生の小論「悟りとは何か」では「悟りを宗教的、学問的、武道的の三つに区別する」とは書いていなかったことは指摘しておきたいと思います。
あの小論は1978年(『空手道綱要』が発刊された1977年の次の年)に秋月龍眠さんの著作集の付録のために書かれたもので、「悟り」というのは仏教・禅宗のもので、学問は心を安らぐためには「悟り」は使わないという趣旨だったと思います。
その「悟りを得る体験」「目覚める体験」は「光の体験」とも呼ばれ、道元も著書において「光」という言葉を使っていることから、これを「感覚的な光を脳内に感じる体験であるかに」説いている論者もいるようですが、私はこれは仏教用語の「無明、明かり(光)が無い、何も見えない」という比喩から来た「見えるようになった、意味が分かるようになった」ことだと理解しています。
その始まりはブッダが樹木の下で坐禅をして瞑想=個的コミュニケーションを図ったという、真我と仮我の対話をしたという話しにあるのだと考えます。
とにかく私たち日本は先進7ヶ国の一つとして欧米型の「自我を育む教育」を文科省が中心となって行われていることが幸いです。
そのことがマインドコントロールから己れを守るスタートですから。
2023-04-12 07:17:19
>私も徐々に興味が湧いてきて「悟り」について調べ始めました。何しろ長い年月の中で多くの識者が発言してきた事柄ですから、膨大な学術論文の蓄積があります。
↑
それって…一人ではない大勢の識者の記録ですよね!
それっい…そんな何十人、何百人の人生の結果をお宅独りの頭脳に記憶可能なの?
>それで、ここ何回かの自由びとさんの投稿を拝見して「これは何らかの心理学的なスキルを意図的に使ったものだろうか?それとも特定の仏教なり禅宗なりの修行過程で身につけたものだろうか?」との関心が湧いてきたんですね。
↑
残念な事に、私にはそんな心理的スキルはございません。
それがあったなら…人生で四回モノの精神的危機に遭遇しませんよ。
仮に遭遇しても、その心的なスキルで簡単に通過可能だったでしょうね…
>仏教の特定思想からしたら「これ」は「無我」というか「大我」というか相手と一体化して全体なる《われわれ》となる」ことだと解釈もできはしますが、「他人のものを無条件・無制限に自分のものとしたいという《エゴ》」の表れだとも理解し得るのです。
↑
私が思うに、宗教の一体感とは、己の自我を滅して、姿なき神と一緒に歩む事、です。
それは、姿なき神を信じ 姿なき神に合わせて 己の主体性を滅する事。
しかし、玄〇会の師範の教えは、師範のカタチある空手を信じて、空手の習得です。
>自由びとさんの投稿は「永遠なる無我、大我」へ向かう仏教的な悟りの方向であるようにも見えながら、他者の自我を蔑ろにするマインドコントロールの方向であるようにも見えるわけです。
↑
私が「蔑ろにする」のは、私に直接向けられている
「お宅のような素性のハッキリしない者達のコメント」へです。
信頼感がなく、その人間性が分からない者のコメントは、信じられません。
「お宅=師範」とは、あくまで私の想像・妄想ですから…
そのコメントを私が「師範」と思わなければ、師範ではありません。
>私は「これは良い機会だ」と西田公昭さんという公認心理士さんのマインドコントロールの本を注文したんです。
↑
読んだら、内容を教えて下さい!
人間「持ちつ持たれつ」ですよね♪♪♪
>ちなみに南郷先生の小論「悟りとは何か」では「悟りを宗教的、学問的、武道的の三つに区別する」とは書いていなかったことは指摘しておきたいと思います。
それって…私が、勝手に考えたモノです。
今では、
宗教修行を通しての「悟り」⇒個別宗教の変化・運動性から~
学問修行を通しての「悟り」⇒専門分野の変化・運動性から~
武道修行を通しての「悟り」⇒個別武術の変化・運動性から~
>あの小論は1978年(『空手道綱要』が発刊された1977年の次の年)に秋月龍眠さんの著作集の付録のために書かれたもので、「悟り」というのは仏教・禅宗のもので、学問は心を安らぐためには「悟り」は使わないという趣旨だったと思います。
↑
人間が「あれって何?」と問うても「答えは不明」、
「知りたいでも知り得ない」でも「どうしても知りたい…」
知りたいのに知り得ない事って、不安ではありませんか?
これを不安とするなら、知る事で安が得るから、学問も悟り、なのでは?
>Unknown (雲海)
2023-04-12 07:31:58
>仏教の「悟り」は「覚醒」とも呼ばれブッダとは「目覚めた人」を意味します。
その「悟りを得る体験」「目覚める体験」は「光の体験」とも呼ばれ、道元も著書において「光」という言葉を使っていることから、これを「感覚的な光を脳内に感じる体験であるかに」説いている論者もいるようですが、私はこれは仏教用語の「無明、明かり(光)が無い、何も見えない」という比喩から来た「見えるようになった、意味が分かるようになった」ことだと理解しています。
>その始まりはブッダが樹木の下で坐禅をして瞑想=個的コミュニケーションを図ったという、真我と仮我の対話をしたという話しにあるのだと考えます。
>とにかく私たち日本は先進7ヶ国の一つとして欧米型の「自我を育む教育」を文科省が中心となって行われていることが幸いです。
>そのことがマインドコントロールから己れを守るスタートですから。
↑
私は、マインドコントロー」とは、その人の潜在意識が求めたモノなのでしょう。
以前、高校時代、後輩三人に催眠術を掛けた事があります。
三人に「好きな人は誰?」という質問をしたら、
それに答えたのは、一人だけ、後の二人は、無言でした。
仮に「マインドコントロール」という手法?で、
言う通りにさせようとしても、本人が望まない限り、従うとは思いません。
ただ…当人の心が弱った状態で「他人の助けを求めている状態」なら可能でしょう。
よく、刑事の尋問で、被疑者を睡眠不足状態にして、
「眠る為なら何でもする!」状態する事も「マインドコントロール」と思えるのですが…
信頼感がないのはお宅のほうでしょうね。お宅は中国人だそうですが、日本への滞在はどのようにしているのですか?観光ビザ?就労ビザ?
日本で10年以上働いて滞在していても永住権を得るのは難しいらしいですね。むしろ日本人と結婚してしまうのが日本での永住権を得る最短の方法だと聞きます。
>もちつもたれつ
お宅は全く玄和的ではありませんね。玄和では南郷師範が「この本はこういう内容だ」と説明しても、あらためて自分でその本を読んで自分で確認して自分の考えを持つように指導していたはずですよ。
お宅は全く玄和的でなく、青雲さんが言っていた「支那人」的であり「他人への寄り掛かり人間」だと言えますね。
私はお宅から何か得られるものは何もありません。自分で思考・頭脳がどんどんと進化していきますから。
書名や思考の筋道を教えただけで満足できずに聞いてくる、その乞食根性が「支那人」の中でも人間的な身分の低い者だと判断できます。
今まで努力をしないで生きてきたのでしょうね。
・コメントが届いた記事
書いた覚えがない!
・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/398b3af21619558d4a266af29a8428d7
・コメントを書いた人
・コメント
>信頼感がなく
>信頼感がないのはお宅のほうでしょうね。お宅は中国人だそうですが、日本への滞在はどのようにしているのですか?観光ビザ?就労ビザ?
↑
そもそも…私が思うに、「信頼感とは」、相手との関係性で発生するモノであり、
その発生理由を、生まれた場所・国籍・宗教の違いの相違から…にしてはいけない!
それでは、このお宅のように「心狭い」に人間になり果ててしまう、からです。
例えば、学校での「教師・児童」の信頼関係不足を、
教師は、児童・親に問題あり、保護者・児童は、教師の努力・実力不足にあり…
としたとて…互いに、何のメリットがある、でしょうか?
それらは、自己満足に過ぎません。
そもそも…外国人=日本へ労働・観光の為と決めつける事は、非弁証法的です。
直接は知りませんが…テレビや聞いた話によると、
多くの外国人が日本の文化・伝統…に憧れて日本に移住してきている、そうです。
また、海外では、和食は良さが評価され、多くの外国人に和食が食べられている、そうです。
確か、過去の極〇会では、英国人の??ハワードさんが、
内弟子になって日々慣れない日本の生活に苦労?していたなんて「空手バカ一代」に描かれていました。
そんな事と比べたなら、このお宅の狭き心・極小の了見の持ち主という事になり得ます。
この国際化の時代では、「日本の恥」・「日本人の恥」とも取れるお宅・言説ですね。
>日本で10年以上働いて滞在していても永住権を得るのは難しいらしいですね。むしろ日本人と結婚してしまうのが日本での永住権を得る最短の方法だと聞きます。
↑
知らないのですか? 父の友人から聞いた話ですが…
数十年日本で過ごした多くの華僑や、その子供達は、永住権を持っている、そうですよ。
>>もちつもたれつ
>お宅は全く玄和的ではありませんね。玄和では南郷師範が「この本はこういう内容だ」と説明しても、あらためて自分でその本を読んで自分で確認して自分の考えを持つように指導していたはずですよ。
↑
確かに、私は、師範の「武道の理論」を「空手」で確認できません、でした。
何しろ、なまじっか松濤館空手を齧った私には「武道の理論」の空手での確認は至難だったのです。
それでも、師範の理論を論理的に捉えて、私の人生・仕事・人間関係で確認する事に成功した…と実感しています。
>お宅は全く玄和的でなく、青雲さんが言っていた「支那人」的であり「他人への寄り掛かり人間」だと言えますね。
↑
お宅には、歴史性が分かっていませんね!
国家名称の変遷を認める実力がありません。
過去の「ビルマ」は、現在「ミャンマー」で、「ソビエト連邦」は「ロシア」です。
過去の「支那」の時代の人々には、民族への誇りがあったようです。
だから、「他人に寄り掛かり人間」は、「支那人」とは言えません。
過去は「支那」でも、その後「中華民国」、今は「中華人民共和国」なのです…
青雲さんは、今なら「支那そば⇒中華そば」、「支那人⇒中国人」と表現すべきモノを…
「支那 (しな)または シナ とは、 中国 またはその一部の地域に対して用いられる地理的呼称、あるいは 王朝 ・ 政権 の名を超えた通史的な呼称の一つである。」
↑
「心に青雲」を抱けても、その頭は、通史的な過去の遺物ですね。
例えば…
立派な大人になった人物の過去・失敗…を暴露して喜んでいる人間…
そのいう事にしか、快感・喜び…を感じ得ない者達は、
本当に人間として、最低レベル・人間の恥、民族の恥 のようモノですね。
>私はお宅から何か得られるものは何もありません。自分で思考・頭脳がどんどんと進化していきますから。
↑
お宅って超やば!
私は、お宅との会話から、どんな糞・糞のような記述…でも、
そこには、必ず「学ぶべきモノがある」という事を学びましたよ。
仮に、私の頭脳自体の進化は皆無だった⁉としても、
お宅の糞・糞ブリに対しての、私の糞・糞・糞ブリ姿から、
私は、自分の頭脳進化の為の方法論は学び取りましたよ。
>書名や思考の筋道を教えただけで満足できずに聞いてくる、その乞食根性が「支那人」の中でも人間的な身分の低い者だと判断できます。
>今まで努力をしないで生きてきたのでしょうね。
↑
↑
これは、お宅の腐った人間感の表現と受け取り、ました。
そうそう…
過去の日本民族は、当時の「支那」から、
多くのモノを教えられ、学んだ、そうですよ。
「遣隋使」・「遣唐使」の時代ですよ!
お宅の言葉は、知りたい事・分からない事を、聞こう知ろう とする者への侮辱ですよ。
それは、過去の日本民族への侮辱的記述でもあります…。
もしかして、お宅って、最低レベルの異国・野獣国の野蛮人でしたね…♪♪♪
お宅が野蛮人なら、文明人の事は、分かり難いのは然すね…
猿の脳細胞を持っていているモノ、文字の書けるサルの姿ですね。
一度、鏡(と書いても野蛮人なら分からない・持っていない)にお宅の姿を映してみて下さい。
自分には分からなくても、他人の心鏡には、お宅の真の姿が映っていますよ!
それも嘘といって語弊があるならば勘違いでしょうね。南郷先生も松濤館空手から始めたわけですし玄和の稽古ないしは『空手道綱要』は松濤館空手の影響が色濃く現れています。
「技を作る、技を使う」の区別だとか「上達論と勝負論の区別」なんてことは松濤館空手を知っていれば空手の基本稽古の形が自由組手から乖離しているかに見えるところに由来することは明白ですよ。
それが後の武道講義で個別技の誕生なんて形で語られてるわけで。
松濤館空手を齧ったから30年以上も玄和空手をやったのに武道の理論を空手で分からなかったなんて頓珍漢な話しはありませんよ。