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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

不自由論から始める自由論(その三)

2024-04-20 11:51:32 | 自由論
不自由論から始める自由論(その三)


あ~あ…
本当は、もっとゆっくり・じっくりと記事を書き続けながら、

自由について結論を出したい(思い)なのに…
なかなか出さない・出せない(思い通りにならない)」
という「不自由」を味わいながら、自由論を書こうと思っていたのに…

弥勒お宅が
「…寄筆さんの自由観は「自分に由(よ)るのだ」というものだったと思い…」
なんてコメント寄越して急かすから…


元々は、以下のような事柄についての子供と大人の比較を書こう…と思っていたのに…

例えば尿意・便意について、赤子は、感じたら即、オムツに排出。
その後、少々我慢してトイレで排出。
トイレがない時、幼児なら、その場で排出。
子供でも、トイレがないなら、場所を選んで排出。
でも…普通の大人は、必死でトイレを探して排出。


尿意・便意は、体外への排出を求める本能レベルの欲求。
その「欲求」に対して、大人と子供とでは、「思い」が異なる。
普通の常識なる大人は、「トイレで排出」という思い。
少々野性味ある大人なら、「トイレがないなら隠れて排出」という思い。
赤子は、何の思いもなく、そく排出。
子供は、周囲の大人の思いによって「トイレで排出」へ。


このような大人達の「排出したいのにトイレまで我慢」…排出が思い通りに即できない「我慢は不自由」。
この不自由の理由・原因は、「場所を限定」であり、それは「人間だけの思い(認識)」だから…
でも、選び場所は、子供ならどこでも(それでもズボンを脱ぐまで我慢・不自由)、
大人でも「隠れて排出」、「絶対にトイレで排出」…と、その人間の「思い」次第で「我慢の時間が異なってくる」。


仮に、大人でも、パンツ・ズボンを汚してもいい!と思えたなら、
その場で、そのままに、即排出!「我慢なし」で自由である。 
まあ~そんな事は「下痢ピー」でもないが切り…あり得ない。
因みに、中学時代に「屁が出る!」と思って「屁」をしたら、下痢ピーだったのでビックリした記憶がある。


結論的に書けば、人間の「不自由・自由は、全て(その)人間の認識に由る」。
その「思い・認識」を変えれば「不自由が自由」へ「自由が不自由」へ変化し得る」


人間が、「空を飛びたい!鳥のようにと飛びたい!」と思えば、
思い通りに飛べない人間は「不自由」。


でも、鳥のように、空は思い通りに飛べないが、
人間は「地上を思い通りに歩き・走れる」から「自由」。



本能的な動物には、人間のような「思い」がない、
そんな動物達には、自由も不自由もない!


動物達の中に、自由・不自由を見て取ったとしたら、
それは、それを見て取った人間の「自由・不自由」認識。


例えば、以前読んだ「五体不満足」の著者は、
生まれながらに「両手両足が殆なかった」…
なのに…その事に不自由を感じる事無く、普通の人生を生きた、ようだ!

その理由に、著書に(私の記憶している内容)によると…
彼の母親が全く悲観する事無く、
一般的には「不満足な五体」に対して、それを個性としての普通と受け入れ…
普通に育てた結果…なのだと私は理解している。


彼も、生まれつきの状態が「彼の普通」だと自然に納得して、生きていった。
確かに現代科学・医療器具・道具のお蔭もあろうが…
そんな不満足な五体でも、生活可能な道具の数々があった事。
そして何より、彼が、自分の不自由を受け入れ、その範囲内で自由に生活できた事。


不自由を受け入れたとは、五体満足な人間と全く同じ生活は無理・不可能だと納得して、
五体不満足な自分のレベルでの最善の生活様式を選択し続けた結果。

五体満足な人々が出来ても、五体不満足な自分には絶対にできない事は求めない。
でも、普通の人達に出来て、彼にも可能な事は、無全力でトライする…

五体不満足でも、思い通りになり得る範囲なら必死でトライしていく…
そんな覚悟があったのだろうか…


人間は・自己の能力の範囲内で納得・満足できているなら、それは自由。
自己の可能な範囲を越えた物事の「思い通り」を欲した時に、不自由が発生する。


これが、「自由とは、自らに由る」の意味なのだろう。








不自由論から始める自由論(その二)

2024-04-17 16:36:35 | 自由論
不自由論から始める自由論(その二)

「自由」とは~
例解新国語辞典[第二版]三省堂
自由―他から制限されたり邪魔されたりしないで、自分の思い通りにできること。

「自由」が上記のような意味であるなら、
「不自由」とは、他から制限されたり邪魔されたりして、自分の思い通りにできない事。



さて…では、「思いのない赤子」が、泣き続けるのは、「自由」or「不自由?
赤子が泣き続けるのは、何か「不快感」があり、その「不快感」を解消したいから…
でも…赤子自身に、『不快感を解消したい』という思いはまだない。
そもそも…その「不快感」の正体も不明なのが…赤子であろう…

では、乳幼児が、尿意・便意を感じて、そく排出は、自由 or不自由?
「尿意・便意そく排出」の場合、そこには『排尿・排便したい』という思いがない…
言うなれば、「本能的・直観的」…ヘーゲル流には「即自的」反応と言えよう。
従って、自由ね不自由もなく、即自的「問題の発生そく解決」~終了!


人間の大人、不快感を自覚可能な者なら不快感の解消の努力をするだろう~
その時、赤子のように、自身の不快感の原因・正体が分かり得ないなら…
その者は、不快感を解消したい思いがあるのに…
その原因・正体そして解消の方法が不明で、思い通りにならない「不自由」を味わる事になろう。


人が「自由を求める」時、そこには、「不快感・問題意識」…
「何か上手くいかない…」、「いつもは『〇』!なのに…何故か、今日は『×』」…といった思いがあろう。

いつもは「思い通りなのに」…「今日は思い通りにいかない」…そのような『思い』があろう。
そこで、その「思い通りにならない、「制限・邪魔モノ」が見つかれば、
その排除によって、「不自由から自由への道」が開かれる、のだろう…

例えば、ここ数日の私は、右股関節の痛みで、思い通りに歩けていない(非常に不自由に感じる)
その理由は、数年前も同じように不自由だったが…
昨年の夏あたりから「痛みが解消」されて、自由に歩けて、
更に、ここ数年不可能だった「全力走」のできるようになっていた。
そんな自由・快感の後…の「右関節痛」での不自由さ…それは強烈な不快感。
そこで、整骨院と整体院と二か所へ通っていたがヤッパリだめ…

原因は、空手時代怪我…それに加齢による生活の変化…あり過ぎて特定し難い…
でも…過去の私的な体験から、こんな時は「プールで治療・回復・運動」…
その理由は、整体院・整骨院の先生が口御揃えて「左右差」が原因と言い切っている。


「左右差」解消・軽減には、「プール」水中での全身運動!
その結果、まだまだ完全解消には至っていないが…
今日の「右股関節」は、ここ数日の中で、一番痛みが少なくなっている…

師範曰く、達人への道は、人間体から脱却(武道体へ)、そして「再び人間体への収斂・復帰」…

現代の私の身体の中では、空手修練を通じて、目的意識的に鍛えた骨・筋肉・神経…と
今までの日頃の生活の中で無自覚的に使っていた骨・筋肉・神経…等が、混じり・合い重なりあっている。


加齢による老化では、
「自然的+空手的骨・筋肉・神経」と
「ただの自然的なモノ」では、
老化によう衰退のスピードが違ってくる。

その事による「左右差」・「部分差」の結果…全身のバランスに崩れが生じて…
その現象部位が、今でも故障中の「右足小指関節の亜脱臼」…
その結果が「右股関節」の強烈な痛み…

では、何故に、昨年から一時期、全力走が可能になる程の解消回復があったのだろうか?

今回は、ここまで、それなりの反響があれば…つ・づ・く・かも?










不自由論から始める自由論(その一)

2024-04-13 18:50:48 | 自由論
不自由論から始める自由論(その一)



例えば、学校で運動神経抜群でスポーツ万能、
特に「走るのが得意」で、運動会の短距離・長距離走では、
毎回トップ…そんな男子Aがいたとします。


当然、彼は水泳も得意…
ただ彼の学校にはプールが無く、水泳に関しての学校での競技はなかった。

そんな彼の学校にプールが完成して…授業中に競泳したところ…
残念な事に、トップを取れなかった。
トップは、保育園からスイミングスクール通っていた女子Bだった。

この時、競争・運動・スポーツで、「トップが当然」・一位を取りたいAは、
思い通りに「トップ」になれない…だから「不自由!」…と感がるだろうか?


一般的には、「負けて…悔しい!」or「相手は保育園からスイミング…負けて当然」…だろう。

自分が、負けた事実を否定して、「くそ!次は勝つ!」
自分が、勝てないのは当然!「…実力差はしょうがない(断念)。」


仮に「次は勝!」を選択したら、彼も「水泳の特訓」・スイミング教室への参加が必要。
彼の今までの自己流「思い通り」の水泳では勝てない。
だから、指導者に勝つための「自分の思い通りではない」泳法の体得が必要。


そこでAは、負けて悔しい…次は勝ちたい思いの実現の為に、
思い通りの泳法を(自由)否定して、思い道通りでない(不自由な)勝てる泳法の体得。


それは、
「将来の思い通り(勝利)」の実現の為に、
「現代の思い通りの自由(な泳法)」の否定・不自由」。

言い換えるなら~
自分の思い通り(自由)に、描いた将来の夢の実現の為に、
今の思い通り(自由な)の生活・現実を変える。

「将来の自由獲得の為の現在の自由の否定」
「自由獲得の為の不自由」

「よりレベルの高い自由の獲得の為に、現在の自由の否定」

「自由⇒不自由⇒自由」=否定の否定

この場合、不自由な「泳法」の継続・学習が、量質転化化・技して、自由な「泳法」へ

前も後ろも同じ「泳法」なのに…
当初は「不自由」でも継続・学習の結果は「自由」。

言い換えるなら「自由」も「不自由」の人間の認識次第?!
ただ…この場合の「泳法」とは、人類の創出して人工的なモノ…



そこが…問題であろう…










続・自由獲得への二つの道

2021-04-25 11:59:39 | 自由論


「自由」とは~
例解新国語辞典[第二版]三省堂
自由―他から制限されたり邪魔されたりしないで、自分の思い通りにできること。

自由が上記のようなモノならば…

不自由な状態とは、
「自分の思い」があり、それを「邪魔する何かモノ」がある。
または「何かモノ」があり、それが「自分の思い」の邪魔になる。

ならば、自由獲得への道は、
一つ、自分の思いを変える・断念する。
一つ、邪魔になるモノを変える・排除する。

自由獲得の方法は、
言葉にすれば上記のようにシンプルなのモノである。


でも、人には変えられない思いもあり得るだろうし…、
また、自力・人力では、取り除けない障害物もあり得るだろう。


主観的には、初めに「自己の思い」があり、それを邪魔する「モノ」がある。
客観的には、初めに「何かモノ」があり、それが「思いの邪魔モノ」になる。


「変えられない思い」とは、

今すぐには無理でも時間かければ変えられるかもしれない思い。
自力では無理でも他力があれば変えられるかもしれない思い。


人類の歴史には、不自由を自由に変えてきた数々の事実がある。
たかが64年間生きた結果の人生経験から、
絶対に変えられない思いがある!なんて思うのは思い違い、であろう。

しかし、変えられても、変えてはいけない思いもあるだろう。
それは、自己の生死に関わる思いである。

人間は生きて生活できて人間として存在する。
どうなに不自由を感じても、その思いを変える・断つ事は「死」であるなら、
その思いを変える・断つ事はしてはいけない事だろう。

人間としての不自由な状態から、自由になる為に死ぬのは、
本当に自由を獲得した事なのだろうか?

それは人間をやめた事であり、人間としての自由の放棄であろう。
自由を追求可能なのは人間だけであり、
不自由を感じられるのも人間だけである。


不自由を痛感できるのも、
そして自由を求められるのも、
生きた人間だから可能こそな事であろう。

不自由状態からの脱却は、その不自由を味わう・楽しむ心の余裕から生まれる。

もっとも…不自由を受け入れ・味わう事が「死」になり得る場合は、
己の生の為に死を賭けて邪魔モノを排除する事が最優先されようが…



自由獲得への二つの道

2021-04-14 17:14:05 | 自由論


自由獲得への道

初めに「自由」とは~
例解新国語辞典[第二版]三省堂
自由―他から制限されたり邪魔されたりしないで、自分の思い通りにできること。


上記の「自由」の意味を元に、具体的に以下のように考えた。

自由が上記の意味なら、
不自由は、自分の思い通りにできない・ならない…となろう。



身体的な自由~
右足でボールを蹴ってゴールへ入れたいと思った時、
右足が怪我をしていれば、思い通りに出来ず不自由である。
それでも怪我が治れば蹴れる自由だ。

生れ付き両目の見えない者が、空を見たい!と思って、
どんなに頑張ってもできない不自由だ。

社会的な自由~

医者になりたい!と思って頑張って勉強してなれる自由がある。
でも、天皇になりたい!と思って、どんなに頑張ってもなれない不自由だ。

精神的な自由~
自分だけで思いたいように思う事は誰にも邪魔されず自由だ。
自分の思いを全ての人に分かって欲しいと思った時は、
他人の心・思考が邪魔して無理がある不自由だ。


人間の「思い通り」には、
可能性のあるモノと絶対的に不可能なモノがある。

いつかは必ず死ぬ人間が「不死・不死身の身体になりたい!」と思った時、
それは絶対的な不自由。

でも、「百歳まで生きたい!」と思ったら、それは努力次第で可能な条件付き自由である。
条件付きとは、邪魔するモノはあるが、それを取り除ける可能性はある、という事。


「自由の結果」の二重性
一つ、達成可能な思いを抱いた時、その努力によっては可能で自由。
一つ、絶対的に達成不可能な思いを自由に抱いた時、絶対実現不能。


「自由獲得への道」の二重性~
達成可能な思いは、達成を可能にする条件に合わせて身体的努力をする事で自由へ。
絶対的に達成不可能な思いは、その思いを可能なモノに変更する事で自由へ。


不死・不死身の思いは、絶対的不自由であっても、

>ギネス認定の存命中の世界最高齢は日本人女性になっているようです。
>2020年9月19日現在ご存命中で117歳。
それを「117歳まで生きたい」という思いなら、
努力次第では可能であろう。

「不死・不死身の思い」を主観的に「達成可能だ」と信じる自由はある。
それでも、その思いは客観的には「達成不可能」な不自由なモノである。
その自己の思い形成は自由でも、その実現は肉体が邪魔をして不自由だ。