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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

今の気持ち…

2024-05-12 12:21:35 | 自由論

今の気持ち…

書きたい!書きたい!

何とか、どうにか書きたい!
今の私の気持ちを書きたい!
今の感情を書きたい!

書く事で、モヤモヤしたモノを形にしたい!
そのモヤモヤしたモノは何?
今の想いであり、今の思い!
今の気持ちであり、今の感情であろうか…

そんな色々なモノが、モヤモヤして心の中?頭の中?渦巻いている?


先日、小一の算数の補助に入って思った事~

私は、昔…思っていた~
「指を使って足し算・引き算」をする事は良くない!?
「教室で算数ブロック」を使っての計算は良い!

実際の授業では~
指を上手く使えない・算数ブロックの上手く扱えない児童。
指で数えられるし、ブロックでも簡単にできている児童。
指で数えられるのに…ブロックではダメな児童…

自分の指を使った計算と算数ブロックでの計算の相違は?
同僚の補助員曰く、自分の指だと数えにくい、ブロックは数え易い…

小学生の頃…両親が一円玉の釣銭を詰めた瓶を小遣いとしてくれた。
それを、私は十個ずつ積み上げて、合計金額を計算して記憶がある…

過去の塾講師の時に、一二年生に、熊のプラスチックの小さな模型を大量に並べて数えさせた。
また、正方形の段ボールに、数字を一から三十位まで書いて並べたその上を~
「1⇒2⇒3⇒…」一歩・一枚ずつ…
「2⇒4⇒6⇒…」一歩・一枚飛ばして歩く…
「3⇒6⇒9⇒…」一歩・二枚飛ばして歩く…

そんな風に身体運動・操作を通して、数の概念の体得を期待して教えたが…

そう言えば…不思議…というか興味ある児童がいた~
二桁・三桁…の縦式の筆算は普通に出来るのに…
一桁・繰り上がりのある横式や言葉での計算問題・足し算は、指を使ってやらないと出来ない…

視覚から入る縦式・数字の操作は可能でも…
認識・頭脳内でのイメージ概念…未形成なのだろう…

その理由して考えられるのは、思いっきり自由に指を使っての計算をやれずに…
それが、中途半端な形なのに…縦式の計算を習い覚えたから…
そう言えば、父親が、彼が二年or三年の頃…
まだ指を使って(横式)計算しているのを見て、塾を退会させた。

目の前の数字を操作しての計算…
目の前の数字を概念化した頭脳内認識としての計算…の相違~

例えば~

9+5⇒ 「4+5」+5 ⇒ 4+「5+5」 ⇒4+10=14
9+5⇒ 9+「1+4」 ⇒ 「9+1」+4⇒ 10+4 =14

これらは、サクランボ算と言われるモノで、今では小一から習っている…
ここでのポイントは「10になる足し算」…「10の合成」…であるが…

一年生では、まだ「10の概念・10の合成」が未熟なのに…
それを使ったサクランボ算を教えられている…


結果的に概念形成よりも先に、知識的計算方法・分解・合成法を体得していく。
確かに、この「サクランボ算」的な思考法・計算法は非常に有効・有用であるが…

数の概念そのモノが未熟・未体得…なのに、それを教え・覚えさせるのに…時期早急…なのでは~
確かに、このサクランボ算を通して「10の合成・分解」を覚える事は可能であるが…
それでも…その事の学習から「数の概念レベル」の概念化へ進むか否かは…
その児童の運・不運・実力次第…なのだろう~


それよりも…先ずは、大量のペットボトルの蓋、
(寄付の為に学校で集めている数百個あるモノ)を授業中に組み分け・集団での計算…
そんな事の繰り返しの中での、「10・20・30…100・200…」の体験が必要なのだろう…


こんな他愛のない事を書く事で…
私の中のどんなモヤモヤが、形として明確化できているのだろう…
それには、まだまだ書き足らないのだろうか?!














何を書きたい?自由びと!

2024-05-06 12:36:12 | 自由論
何を書きたいの…

弥勒お宅は、コメントで自由びとに以下のよう書いている~
>私が自由びと氏の文章に空虚だというのは、以前も書いたように「内容が虚しい」ということではなく「本当に何を書いているのか理解できない」からなのです。

そんなお宅の言葉を受け…ここ暫く私は考えている。

『私は何を書きたいのか?』
『私何を求めているのか?』
『毎日私は何を思い・何を考えて生活しているのか?』
『私は、本心から悟りを求めているのか?』
『本当に悟りを欲しているのか?』

思えば…家内が亡くなる数年前から…
若い頃、幼少の頃、家内と出会う前の時々の私がそうだったように…
ある瞬間、突然に「スーと淋しい・切ない風のようなモノが通る」感覚・感情…が生じて始めていた。
それは、家内と知り合い・結婚して…から殆ど感じなくなっていた感覚・感情だった…のに…
それは、過去の記憶が…
例えば父の介護生活の前に住んでいた近所を通った時や…
息子の幼少時・昔の写真を見た時とか…過去の時々の生活を想い出した時に、生じていたようである。
最近は、少し落ち着いて…「スーと感」はそれ程ではないが…

私は、そんな「スーと感の根源の追及」がしたいのかも…と思ってか…と最近ふっと思った…

私の中学時代は、楽しくないモノだった事を~
小中一貫校で、小6までは人数も多く活気あるクラスで担任も若く…とても楽しい充実した日々だった事を~
でも、中学へ進学したら、多くの友達が公立中学へ転向して、クラスの人数は半分以下に減少した事…
担任も年配で、とても口うるさく…褒める事より指摘・注意が多く…時に非常に愚痴っぽく長々と説教していた。
時に、国語の時間を一時間丸々愚痴のような説教で終わってしまう事をあった。

そんな担任でも…聞くところによると…
数十年前の若かりし頃は、熱血感があり、とても頼りがいのある教員だったらしい…
でも…年と共に…その熱血の表現が、愚痴や説教に変わったのだろう…
実際、私の母親は「とても熱心な先生!」と担任を評価していた…
年配の保護者達…には、その熱心さ真面目さは見え分かっても…
中学生の私達には見えない分からないモノだったようだ…

そんなクラス学校生活でも…
学校ではなく、放課後の習い事・スポーツ…で有意義な日々を送っていた同級生もいたが…
私の親しい友達は私と同様な感じで日々「面倒臭い…かったるい…疲れる…」と何かした訳でもないのに…
そんな…思春期…大切な日々を無益に過ごしてしまったのだろう…


また…私の根底・原風景(南郷氏的表現)は、「淋しさ」のようである…
それは、一人っ子、幼少時に両親との交流の浅さ…両親から離れていた日々の暮らし…


そんな~私の原風景の「淋しさ」も結婚・生活・子育て…と忙しい日々の生活中で…
何時の頃から、忘れてしまっていた…
そして…月日は流れ…父親が亡くなり介護の日々の終了…息子も大学生となり、家内もオーケストラという趣味に熱中…
私の日々の労働・生活も、父親の遺産相続で非常に楽になり…以前のように生活費の為に七日間フルに働く事も不要になくなった…

忙しい日々の中では、私の原風景は見えていても…気にしている程の余裕がなく…
殆ど、前面に出る事はなかったのだろう…
でも…生活が落ち着き初め…家内も息子も自分の趣味や生活に前向きになったのに…
私は、日々の労働なら解放されたら…自分のしたい事も趣味もなく…手持無沙汰になった…
そんな中で、ココロの目は、自然に我が心の原風景へ~なのだろうか?
それとも…加齢の為の…老化現象…なのか?

家内が亡くなり…一年半近く…とても淋しい心だった…ようだ…
それは、自分で淋しさを直接に淋しさとは感じられない程のモノだった、ようだ…
私は思う~
過去に未体験の強烈な感情・強烈過ぎて大き過ぎる感情の中では、
(私の場合は)感情そのモノの全体像が見えない・見て取れない…ようである…

数か月前に、近所に住む旧知の知り合い石さんに出会った…
彼に曰く「元気そうだね…この前(家内の亡くなった時)合った時は死にそうな顔していたよ!」…
どうやら…日頃の私を熟知している人には、私の心の中は丸見えのようだ…


多分…私には以上のような感情が根底にあり…
私が何かを書く時、その時々の感情・感性が、私の理性・記述へ干渉していくのだろう…
その結果、読む人が読めば…感性部分も含めて理解しよう・してしまう人が読めば…
「…何を書いているか理解できない…」なのだろう…
それは、たぶん私の感性と理性の葛藤の結果なのだろう…

それでも…私は、その記述の結果から私の感情への理解が深まっているのだろう…
だから…それは思想ではなく、私の精神活動であり思考過程でもある…

思想は出来上がっている。ある形としての「思い想う」であろう…
思考過程・精神活動は…過程として・活動として、形はあっても…
その過程・活動の結果には、まだまだ未到達なのだろう…
しかし…67歳で未到達とは、結果的に死ぬまで「未到達」の可能性のあり得るのだろう…
それでも…私自身が「未到達・未完」という自覚を持ち得る限りは、
それは、完結・完成ではなく、未到達・未完成…

完成・完結は、自己満足へ~
未到達・未完性は、不満足の連続へ~


以上が、お宅の言う「空虚」=「何を書いているか理解できない」記述なのだろう…
私は私の中で日々活動している「私の感情」を知りたい・確定したい・書きたい・表現したい…のだろう…
しかし、変化・運動している感情そのモノの表現なんて…
それは、書いても・書いても・書き続けても変化していくモノ…
そこには、正解なんてないモノ…
何を書いても「正解」であり「不正解」でるモノ…
ある感情を正しく捉えて表現した瞬間には、別の感情へと変化してしまっているなら…


どう…弥勒お宅唐~
上記のような捉え方なら、お宅の「空虚」に近づいているかも…











より自由な自由びと言説!

2024-05-05 11:58:08 | 自由論
想い思うままに、より自由な自由びと言説!

ここは自由びとの個人ブログ…
大した数の読者もなく、世の中に大した影響も与える事もなく…
ただただ…己が自由獲得の為に、自由びとが書き続けているブログ記事…

さてさて…いつものお宅コメントもなく、邪魔するお宅言説もなく…
記事の始まりを自由びと自らが決めようとする行為は、いささか面倒であるが…

そこで…今回は?も!…なんの前触れもなく「諍い・戦い・闘い・争い・戦争」について~と…
より詳しくは、下のような意味・内容・概念…であるが…


>「諍」は「いさか」と読み、「言い争うこと」を意味します。物理的な暴力を伴う「争い」とは区別され、口論を中心とする揉め事であれば、規模や程度に関わらず「諍い」と表現できます。夫婦の口論、ご近所トラブル、国家間の利害不一致による緊張関係なども「諍い」に該当します。

>「戦い」は勝ち負けや優劣を競うことを意味し、「闘い」は困難などに打ち勝とうとすることを意味します。
>「戦い」は、軍事上の力や兵力を使う争いや、選挙や試合で決着をつける争いのときに使います。

>「闘い」は、物理的な争いに限らず、目に見えないものとの争いも想定した言葉です。自分の要求を勝ち取ったり、困難を克服したりする場合に使います。また、権利や利益を守るための言論による争いや、障害・困難・苦しみなどに立ち向かい努力するときに使います。
>「漢字の使い分けときあかし辞典」(円満字二郎・研究社)は、「戦」は結果、「闘」は状態に重点があると説明しています。

>戦争と争いの違いは、争いの対象や規模です。戦争は国家間で武力行使を行う争いを指し、争いの対象は国家です。一方、争いは2者以上の争い事の総称で、争いの対象は国家に限らず国内、社会、個人などあらゆる関係です。



自然界の動物間では、どのようなモノがあるだろうか?
肉食動物vs草食動物では~
ライオンvsライオン…そう忘れていた喧嘩の事を~

>喧嘩とは、互いに相手を負かそうとして、言葉や暴力的な行為によって争うことです。一方、争いとは、互いに相手より優位にたとうとすることです。
>喧嘩にはルールがないため、勝敗の条件や終わるタイミングは決まっていません。どちらかが逃げ出したり、うずくまって反撃しなくなったりしたら、その時点で喧嘩は終了になります。


動物同士の「縄張り争い」とは?
ケンカ? Or 争い?…戦い?


言葉の細かい意味・解説…は取り敢えず置くとして…

何の為の「縄張り争い?」…

さてさて…ここで話題は変わり以下の「二ホンサル」の生態について~

>ニホンザルはヒトと同じく、日中に行動し、夜は寝る、昼行性の動物です。朝、夜が明けるころから活動を始め、行動範囲の森林を群れで移動しながら、食べ物 を探して食べたり、休息したりを繰り返します。そして日が暮れて暗くなるころ、その日の泊まり場が決まると移動をやめ眠りにつきます。そして夜が明けると また移動と採食を繰り返します。このような生活を遊動生活と言います。

ここでは、
「…行動範囲の森林を群れで移動しながら、食べ物 を探して食べたり、休息したりを繰り返します…」と書かれている。
この行動範囲が言うなれば「縄張り」であろう。


縄張りを守るとは、生活範囲・食べ物が容易に獲得可能な範囲…という事であろう。
縄張りを荒らされると時、それは、食い物を奪われる事。

だから、食糧確保・生きる為に「縄張り確保の為に戦う!」
猿の軍団同士の戦いは、「場所取りの戦い」と言えよう。

戦いの過程で、劣勢になりダメそうな時、そこから退散すれば…戦いは終結…となろう…
そこには、互いに殺し合うまでの戦いはないのであろう。

そんなサル軍団が、人へ人間へと進化の過程で、ある場所に定住生活を始めた時…
そこでの、食糧・植物の栽培・確保を始めた時…
そこから、殺し合いレベルの戦い・争い・戦争・が発生したのだろう…

定住民・安定民vs遊牧民・浮遊民…の戦い・戦争~
定住民は負ければ、開拓した土地と保存した食料を全て奪われてしまう事になる戦い~
他方の遊牧・浮遊民は、勝てば、安定した食料の継続的な確保となろう…


そんなサルが人・人間へ、浮遊・遊牧的な生態から定住生活へと変化していく時、
そこに、より確かな細かな共同生活が起こり得たのだろう…










夢って不思議!?

2024-05-02 12:18:31 | 自由論
自由なのに不自由な夢!?
不自由なのに自由な夢?!


夜中に寝床で見る夢は、
「不自由or自由」・「自由or不自由」~

見たい時に、見たい内容の夢を見られないのは、不自由。
でも現実にはできない事が思いっ切りできる夢は、自由。
それでも…そんな自由な夢を想い切り自由に見られない。


そんな不思議な夢について~私の体験を書いてみよう!


今朝の六時頃トイレに行って戻って布団の中で、ウダウダしていた。
その時、歩いていてガクっと躓いた(夢の自覚なし)…
すると…頭のガクっとなり、唇を噛む感覚が…

夢なのに…本当には、歩いていないのに、体は横に寝た状態なのに…
頭が「ガクっ…」それって、不思議だ!

ここでは、似たような夢~過去に見た四つの夢を書いてみよう!
何故に書くの?それは、後々…私が、このブログを読んだ時に、当時を想い出せる為…

一つ目・二つ目は、似たような夢で~
夢の中の認識・観念的な現実界での私は、相手に殴られ(蹴られ)…
やり返したくても、…手(足)が動かない…
そこで、思いを込めて・思いっ切り手(足)を出そうと頑張った結果…
「ボン」という横の壁に手(足)が、当たる感覚で目覚めた!


三つ目は、数年前に見た夢でここか?or旧「悟りを求めて…」に書いたが…

それは、私の存在状態から始まっていた。
ある場所、ハッキリ思い出せないが…とても嫌な場所・絶対にいたくない場所…
そんな感じの中で…周囲に窓・扉もなく…絶対に逃げられない感じの場所…
そんな中、私に「これは夢!」という自覚が生れた。

そこで、『ここから脱出してやるぞ!』『夢かに覚めてやるぞ!』・「ワ~!」と叫んだ(声になったかは不明)…
すると…目が覚めて…『ヤッパリ夢か…』と納得…



さて四ツ目の最後の夢は、今年の4月12日に体験したモノ…
この夢には、驚きと閃きがあった。



場所は、子供達がいたので…たぶん学校…
そんな所で、理由は不明…私は子供に噛み付かれて(どこ?を!)

なかなか離してくれないので、私も噛み付いた。
噛み付いても離れないので少し力を込めて噛んだ!すると猛烈に痛みを感じて…
『よし!離さないなら嚙み切ってやる!』と力を入れたら更に痛みが増し、
「ガチ」といった感覚で目が覚めた。
見ると、私の口の前に私の人差し指が見え、そこには横に赤いモノが…
明るい所で確認すると、横に二本線・歯型があり、赤く血が滲んでいた…


そう私は、私の人差し指を思いっ切り噛み切ろうとしていた…のである。
その自分で噛んだ人差し指の痛みが、相手が噛んだモノ…と思い込んで…
更に、強く噛み切ろう!としてしまった…
その結果、指が痛みで本能的に口から離れて行った?


この事から…私は、人間の言葉のやり取りにも似たような感じがあると思えた。


相手からの言葉は、音声・視覚・触覚…の表現であり、
そこには、直接的な人体への打撃・刺激はない筈…
なのに…人は他人の言葉でも、自分勝手?自由に!喜んだり・悲しんだり・落ち込んだ…感情が乱されてしまう。
そして、そこから、相手への自分勝手?自由に攻撃・言葉を発していく…

時・場所・相手によっては、相手を罵倒すればするほどに、
自分自身を傷つけてしまっている事になり得てしまう。

また…愛柴犬マロンの「自分の尻尾追い回し」ストレスについても…
マロンは、時々お尻に違和感が生じるようである。

そこで奴は、後ろを見て、そこにある尻尾が原因だと誤解して、
その違和感の解消の為に自分の尻尾を追いかけまわしていた。


そんな中、数年前に、マロンはついに自分尻尾の先に二・三センチを噛み切ってしまった。
その時、たぶん奴は、その噛み切った痛みも、尻尾のせいだと誤解して…更に追いかけまわしていた…


悲しいかな…私も夢の中では、マロン・犬レベルの認識だった…という事なのだろう。


こんな事・こんな事実は、誰もブログ書く事はないのだろう…
それでも…私は、私の思考・精神活動の視覚・言語化の為に、敢えて書いてみている…
それが、
>「本当に何を書いているのか理解できない」から…<
といった「空虚な言葉の羅列」とするなら、それは、それで間違いないのかも…

他人お宅にとっては「空虚」でも…
私にとっては「有益・意味あるモノ」だという事であろう。

書いた時点では、まだその記憶ある私にとって無意味だとしても…
近い将来に、その事を失念・忘れてしまった私にとっては、有益・有効であろう。

それは、買い物の為メモ言葉として繋がり意味ない単語・名称の羅列が記憶力優秀な者達には無用な「空虚…」なモノでも…
いつも忙しく、とても、忘れっぽい人々にとっては、とても有効・有益なメモであるように…






より自由に認識する「空虚」

2024-04-30 11:55:30 | 自由論
改めて自由に「空虚な言葉の羅列」について~

「空虚」について辞書で再確認した。
>空虚とは、① 中に、何もない事。② 形だけあって、価値や内容が感じられなくて、むなしい事。


成る程…
前回、説いた「言葉・言語の映像化が不能」の空虚とは、
言葉・言語を認識(ここでは自由びと認識)として見て取れずに語彙・語句…
唯の文字・記号としてしか認識できない場合であり…

これで間違いなのだが…
でも言葉・言語を理解可能な普通の大人には、このような事は、ほぼありえないだろう。

ならば…弥勒お宅の「空虚な言葉…」とは、
このお宅が「私の言葉・言語の価値や内容が感じられなくてむなしい」という事なのだろう…

しかし…ここで問題が~
弥勒お宅が「価値・内容」と感じる言葉・言語と私の感じているモノが同一であるとは限らない事。
「無用の用」と言った~一般的には「無用・無価値」でも、それだから「使える(価値ある)モノ」のあり得る…という事であろう。

価値ある内容か否かの判断は、個人的な自由の範囲であろう。
それは、社会的レベルでも、人類レベルの全ての人々に価値あるモノは有り得ても…
全ての人々に無価値なのモノは有り得ない…のだろう…

モノコトは、そこにある・存在している以上は何らかの価値・内容がある。
モノコトは、その存在そのモノに価値があるのだろう。
「有」こそが「絶対的な価値・内容」であり、「空虚」という言葉には、
万人にとって表現価値があっても、現実に万人にとっての共通な空虚なモノコトはあり得ない。

ここは自由びとの個人ブログ~、
ここでの自由びとの自由な価値観の主張は、
全て(自由びとにとっては)「価値・内容」ある言葉・言説であろう。

その自由びと言説・主張に対して「空虚な言葉の羅列」記述・認識は、
ここ・この自由びとブログ内では…
それこそ、全く無意な「空虚な言葉の羅列」となり得る言語・認識であろう。

なんて…論理的な記述では、今ひとつ…ピンとこないでしょうから…

少し事実的に説いてみようかな…


大学四年生のT君が「俺は、東大現役一発合格だ!」と公言した!

それを聞いた中の良い三人の友達A・B・C…が以下のように答えた。

A-「よし!ガンバ!」
B-「空虚な言葉の羅列だね!」
C-「…………」」


この三人とも、今までのT君が、全く勉強をしていない事を熟知している。

そんなT君に~
Aは、日頃の彼の姿は棚に上げて一般論(頑張り続ければ可能)として「頑張れ!」
B君は、辛辣に、日頃から勉強していないAには、そんな言葉は無意味・無価値な「空虚な言葉…」
C君は、AとBの発言を聞いて双方に納得して…何を言えばいいか…迷ってしまい…「無言」

この場合の「空虚な言葉…」は、
日頃のT君を熟知している友達Bの言葉であり、
Tの希望認識vs現実・生活に対しての
「東大現役一発合格」という「空虚な認識…」は、
T君に対して友達として現実の直視を求めた忠告・アドバイス的なモノなのだろう…


このような言葉の記述・発信者を熟知しているモノからT君への「空虚」発言の場合は、
その発信者の現実・事実と、その言葉・認識の乖離の激しさからの「空虚」であり、
その「空虚」表現には、友達としての友情が含まれている。

しかし…ここでの弥勒お宅は、自由びと・私であるを知らない者~
私の日頃の生活を全く知らない者~
知り得ているのは、私がブログに書いている日頃であり生活である…
それら全てが、私の文字・言葉・言語的な認識表現である。

その言葉・言語表現から、それを私の認識・映像化するのは、
弥勒お宅の言語理解能力と人間一般に対しての理解・認識能力~

見た事も、会った事も、直接話した事もない…自由びと・私へ、「空虚」発言・記述…
しかも、この自由びと個人ブログ内でも、そのブログ主への「空虚」発言・記述…

この言動が意味する「人間性」に、
私は、大きな問題がある!ように見受けられる…

それは、例えば、全く見知らない他人の家に突然に訪問して、
開口一番~「この家! 汚い!不潔! だから何とかしろ!」~

そんな言動者のイメージが、
今回の弥勒お宅の「空虚な言葉の羅列」から、
私は認識してしまったが…

弥勒お宅に曰く、「私の幻滅は妄想」~
前向きな「学識豊かな弥勒お宅の姿」認識からの彼?に対する「私の幻滅」は妄想…
だそうだから~

どうやら、弥勒お宅を、私は、自分の都合のよい方に大きく誤解してしまっていたようである。
そこで今回は、そのような誤解無く、正しく、
ここでの、弥勒お宅の言動の現実・事実から上記のよう
弥勒お宅の姿・認識を判断したのであるが…


弥勒さんへ~どうですか?!
何か反論・異論・暴論・イチャモンはありますか?!