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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

再考~「アキレスと亀の競争」

2023-03-21 12:08:59 | …絶対矛盾…

再考~「アキレスと亀の競争」


「アキレスは亀より10倍速い」。
「亀はアキレスより100m前方からスタート」。
「両者は同時にスタート」。
ここで以下のように考える
アキレスが、一歩・100㎝=1m進んだ時、
同時にカメは、五歩・2㎝×5=10㎝=一歩・2㎝進む。
アキレスが一歩進んだ時、同時に亀は五歩進んでいる。
アキレスが一歩⇒1m=100㎝⇒カメは五歩⇒2㎝×5=10㎝、進んでいる


1mは10㎝の10倍である。
アキレスの一歩に、カメは五歩進んでいるが、亀の一歩が短い為、進める距離はアキレスと同じである。
この場合も、思考・思惟過程として、重要なのは、何が同じで何が違っているかの考慮であろう。

速さは、アキレスが亀の十倍。
歩数は、亀はアキレスの5倍。
アキレスの1歩と亀の5歩分。
アキレスの一歩はと亀の五歩が同じ距離。
アキレスと亀の一歩の初めが一緒(同時)、
アキレスの一歩目の終わりと亀の五歩目の終わり一緒(同時)。


では、アキレスと亀の全力競争の始まり・始まり~

カメ露アキレス、同時にスタート~

アキレス、前方1にいた00m前の亀に、100m÷1m/歩=100歩で追いついた。
その時、亀の歩数は100歩×5=500歩進んでいるので、亀は2㎝/歩×500歩=1000㎝=10m進んだ。

そこで、更にアキレスは、10m前にいた亀の位置へ10m÷1m/歩=10歩進んだ。
その時、亀は、5㎝/歩×10歩=50㎝アキレスの前にいる。


更に、アキレスは、50㎝=0.5m前の亀を目指して一歩1m進んだ、
この時、アキレスの一歩は、途中0.5m(半歩)・亀の元いた地点を通過して、
移動前のカメの地点より0.5m=50㎝先に着地した。

その時、同時にカメは、1歩×5=5歩、2㎝/歩×5歩=10㎝進んだ。




カメは、前回より10㎝、先の地点。
アキレスは、前回の亀のいた地点より50㎝前の地点。

トータル比較なら、
アキレス100m+10m=110m
カメ100m+0.5m=100.5m

両者は、各々の地点に同時に着地・到達している。
この時、アキレスは既に亀を追い越している。

この思考・思惟方法であれば、時・時間…という言葉・概念を使う事無く、
「ゼノンの絶対矛盾」は、
思考として可能であっても、
思惟としては無理がある…という矛盾を解決できた。


空間とは、何もない空間ではなく、人間に見えるモノの存在する周囲に、見えるモノがない場所・状態。

時・時間とは、物事・事象の変化・運動の始まりと終わりの間隔、と言えようか…




続・「アキレスと亀の競争」について…

2023-03-18 17:39:49 | …絶対矛盾…
続・「アキレスと亀の競争」について…


「アキレスと亀の競争」について…前回とは、異なった視点で書いてみた。


カメもアキレスも競争であるから、当然に全力で走るだろう。
全力と言えども、二人とも同時に二歩だして走る事は不可能であり、
出した一歩を中途で止める事も、また不可能であろう。

そこで、亀の一歩を「1㎝」、アキレスの一歩を「1m」とし、
また、二人ともは同時に一歩ずつ出して走る、と仮定する。

スタート地点は、亀が、アキレスより100m先である。

アキレスが、亀の位置100m先に100歩で到達する。
その時には、亀は100歩さきの100mm=10㎝地点に到達している。

次のアキレスの一歩は1mだから、到着点は「101m」てあり、
カメの到達点「100m+10㎝」には、止まれない!
ここで…すでにアキレスは亀を追い越している。

アキレスが、その「10㎝」先の亀の位置に到達した時、確かにカメは「10㎝」より少し前に進んでいる。
しかし、それでも、アキレスが「10㎝」先を通過したのは、アキレスの一歩の途中である…。
両者の競争である以上、アキレスは出した一歩を中途で止める事はあり得ない。


このように条件を変えて考えるなら、確かにアキレスは亀の到達点に到達・停止する事は不可能である。
しかし、アキレスは、101歩目に、亀の到達点を越えてしまっている。


この問題は、求める結果である「アキレスが亀の到達点に到着・停止する事」に無理があったのであろう。

より論理的解答を書くなら、「全力で走る構造」には、分離不能な「距離(空間の切断)・速さ(かかる時間)」の一体的・必然的な関係性がある。
なのに…ゼノンの「アキレスと亀の競争」では、時間・変化・運動のスピードを無視して作られ・考えられている。
このような「一体的・必然的な両者の関係を断ち切った」状態での認識・活動が故の「絶対矛盾」発生なのだろう。








雲海and自由びとコメント(その2)

2023-02-26 12:50:52 | …絶対矛盾…
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・コメントが届いた記事
絶対矛盾コメント

・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/6e1f2a7ea5296e1c861793f68c459e13

・コメントを書いた人
雲海

・コメント
>猫の件でいうならば、私は人間以外の動物と生活するのが好きではありませんから猫を飼った経験がないんです。


私も猫は初めてですが…
なかなか可愛いです。
犬とは違った「女性的な可愛い」さですね。
また、犬と違った本能的なモノを持っています。
特に、私の家の猫は、家内が墓場で拾っていた野良ですから…
強い野性的な本能でしょうか…
それでも、飼い始めて10年が経った今、息子にも私にも、とても懐いています。
もっとも…それは「イヌの懐き」とは、違った猫的なモノですが…

柴犬と雑種のトラ猫を比べた時、共通性が゜見られます。
私の飼っている柴犬は、過去に飼っていたゴールデン・レトリバー犬に比べるなら野性的です。
一説によると、それは「西洋犬と日本犬の違い」だそうですね。
日本犬は、オオカミの血が濃いらしいです。



>それで少し調べてみたら飼い猫の爪を切っておくのは引っかかれて感染症にならないために絶対に知っておかなければいけない知識らしいですね。
しかも自由びとさんの場合は血統書つきの綺麗な猫ではなく拾ってきた野良猫ですから、雑菌は比較にならないくらいあったでしょうね。


外で生きている野良猫なら、そうでしょうが…
私の家のように、室内で飼われている猫の場合は、爪に危険な雑菌が付着する可能性は低い、ようですね。
現に、私は何回も飼い猫のマニャに引っかかれていますが…
多少痒くなりましたが…今日まで全く問題は発生していません。

拾って来た当時は、家内が動物病院へ連れて行って、予防注射を打ちました。
医師が言うには、生後2週間位だ、そうです。



>『野良猫の飼い方』なんて本があるのか知りませんけど、ペットショップで買った猫なら店員さんだとか詳しい人が知識を授けてくれたでしょうに、何も知らずに引っ掻かれながら体得していくなんて類いの話じゃないと感じますね。


家内は医者に色々と聞いたり、ネットで調べたりして…当初は牛乳を飲ませていました。
当時、小学生の息子は、段ボール箱で、マニャ用の二階建ての家を作ってくれていました。
一回をトイレ・スペース、二階が生活スペースにしていました。

>時として猫というのは女性の喩えとして持ち出されますけど、野良というのは迂闊に家に入れると金目のモノを持ち出して逃げたりしますから気をつけたほうが良いでしょうね。


私の場合は、マニャの外への出入りは禁止・制限して家の中だけでした。
困った事は、大きくなった当初、その辺に置いてあるお菓子の袋を破いて自由に食べあさった事でした。
その後、食べられないように、置き場所に気を付けました。が…

父の介護で現代の家に移ってからは、二階をマニャの生活空間としています。
それでも、うっかり息子が部屋にお菓子の袋を置き忘れると、あっという間に食べられますね。



雲海and自由びとコメント

2023-02-25 11:03:42 | …絶対矛盾…
▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
絶対矛盾コメント

・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/6e1f2a7ea5296e1c861793f68c459e13

・コメントを書いた人
雲海

・コメント
>まあ、また自由びとさんお得意のご持論が始まったわけですね(笑)。


自分のブログで「持論を書いて」何が悪い!
最も…悪いとは書かれていないが…

それでも(笑)と馬鹿にしているようである…
自由びとの自分のブログでの持論展開する事への(笑)か?
それとも、その持論の内容への(笑)か?
その両方への(笑)か?

いずれにしても…他人の個人ブログ記述・内容への
(笑)コメントとは…なんと礼儀知らず者なのだろうか…
社会的な礼儀作法を知らない無知者だろう。
このお宅は、礼儀の知識なんかより、
お宅が、役立つている信じ込んでいる「知識」の方が、大切なのだろう。



>私は記述したように自由びとさんが独りよがりに考えていることを否定してなどいませんから。


このお宅には分かっていない…
己が数々の否定的なコメントを書き込んでいるのに、
その記述行為が、その内容が、「否定的である」事を分かっていない…

それとも、分かっていながら~
わざわざ「否定してなどいません」と書いているのだろうか?


>ただ私とは住む世界が違うだけの話しで、私は南郷氏独自のヘーゲル論だとか空手論だとかを非公開にしているのに世に出させて知りたいとも思いませんから、自由びとさんが「どんどん変化して昔発表したものとは比べ物にならないくらい進んでいるから追いつけない」なんて言って安堵しようとしても全然気にならないんですよ。


「バカか?」こいつ!
「住む世界が違う」なら、価値観・考え方・思い認識…が異なって当たり前!
従って、こいつの、ここへの書き込みの全てが、否定的になってしまう…
そんな簡単な道理に事に気付けていない…

>「どんどん変化して昔発表したものとは比べ物にならないくらい進んでいるから追いつけない」なんて安堵しよう…<

これって…どうやら「絶対矛盾」の事のようである。
この理解も「絶対的に違う」=絶対的矛盾であろう。

現実と認識の「絶対矛盾」とは、人間が現実を頭脳内で認識した瞬間、その現実は変化・運動している。
だから、「人間は現実を正確に認識できない」のは変えられない現実であろう。
確かに、「自分は正確に認識できない事実」には安堵できるだろうが…
しかし、その現実を正確に認識していない自分には不安であろう。

自分の認識は、自分的・個人的には・的確な認識。
でも、社会的・事実的には、不的確なモノ。







>『学城』だとか『全集』だとかをパラパラ眺めて「ふーん」ぐらいの感想しかなく、「つまらんこと書いてるな」ぐらいなんですね。


ここでお宅のそんなクダラナイ事実の披露なんて…
こんな、どうでもよいお宅の個人的な事実を書き綴って…
それは、場違いな内容でありであり、
それは、私の読み方への「否定」でもある。


>ただ、私は自由びとさんが言うのとは反対に南郷学派はもう思考が枯渇していて今後の発展は無いだろうと予想してますね。その根拠は論者たちの問いかけ方なんですが、まあ自由びとさんは腹を立てずに「素人のヤブ睨みだね」ぐらいに笑ってくれれば宜しいかと思います。


分かっていないね…
「城学」は、学術雑誌であり、理論・論理…の展開の場である。
その理論・論理の実証は、現実の社会である。
社会で実践的に実証された理論な、個別的な書物で展開されてゆく、だろうに…

試しに「現代看護教育に求められるもの」 神庭 純子著 現代社」を読んでみると分かる。
そこでは、実際の看護の事例を使って、
その正解・不正解を「弁証法的」に、「認識論的」に、「弁証法認識論的」に説いている…




>自由びとさんの珍奇な屁理屈とは裏腹にココは自由びとさんの個人宅ではなくグーのブログですから、そこに存在するのは単なる書き手と読み手という人間関係ですよ。自由びとさんの「私(雲海)の思考を自由びとさん色に染めろ」という要求は何ら守る必然性は無い自由意志に任されたもので、互いに気にいらなければコミュニケーションを取るのをやめれば良いだけのこと。その方法が自由びとさんのほうは投稿されたものを削除する機能を持っていることで、私のほうは投稿を拒否する権利をもっている、ただそれだけですよ。

↑~
だから!
何度書けば理解できるのだろう?

私からすれば理屈でも、お宅からすれば屁理屈の展開は、
この自由びと記事・記述の内容であり、それは、自由びと精神の世界である。

その私の精神的な理屈を、この「グーブログ」とい現実の世界へ当てはめているお宅だから「屁理屈」となっているのに…

私の理屈は私の精神界の理屈であり、これをそこままストレートに現実界へ出すのでありません。

それの現実界への出し方は、私の理屈に沿って、私にも周囲にも矛盾なきように私の行為・言動を駆使して発現・行動…するのが正解です。

分かりますか?分からないだろうね!
知識は、知識のままでは人生に役立てられません。
その知識を、己の身体で自由自在に使えて初めて役立つモノでしょう…

知識を自分が使えるように工夫できた時、その「知識が智慧に量質転化化」するのです。
私からすれば理屈・お宅すらすると屁理屈は、
私の日々現実の人間関係・動物・モノ関係…で実際に試しているモノ・理屈なのですよ。