ひこうき雲

旅がしたい。

3.11を忘れない Part.7

2014-07-16 22:16:39 | 2014 東北
奇跡の一本松の駐車場近くには八木澤商店という小さなお店があります。
地元の醤油製造の企業が作ったお店で、醤油はもちろん陸前高田関連グッズも売っています。

その日はちょっと暑かったのでしょうゆソフトクリームを

余計なものが入ってない味でおいしかったです!
一本松に訪れた際は是非。

あと、気仙沼の商店街でも売っていて気になっていたマスカットサイダー。

陸前高田の神田葡萄園の商品です。
暑い夏にはたまらないですね。
おいしいマスカット味ですが、無果汁です。



その後、陸前高田の追悼施設があるという、道の駅高田松原跡へ。


道の駅だったというこの建物、コンクリートが残るのみ。

配線はむき出しのまま。



こちらが追悼施設。

ここでも黙祷しました。
安らかにお眠りください、この災害を語り継いでいきますと。

その隣には石川啄木の石碑が「仮」設置されていました。







追悼施設には、高田高校水泳部の亡くなられた生徒さん、先生へのメッセージがありました。
この高田高校水泳部について調べてみると、このメッセージは定期的に変えられているようでした。
海岸近くのプールで練習していた部員のほとんどと、その生徒達を迎えに行った顧問の先生が亡くなったそうです。
今年の成人式シーズンに、未だに行方不明だった娘さんに振袖を着せた合成写真を持って成人式に参加したお父さんのニュースが流れていましたが、その娘さんも高田高校水泳部だったとのこと。




今回お邪魔した被災地の中で一番心に衝撃を与えたのは陸前高田だと思います。
街並みがまるごと津波に流されてしまったその光景は衝撃的です。
市街地だった場所を車で走ってもどこに駅があったのか、どこにメインストリートがあったのか、全然わからないのです。

住宅があったであろう場所にはたくさんの花束。
きれいな彩から、定期的にお花を供えに来ている人がたくさんいるのだということがわかります。




小さな商店街から街を元気にしていこうという希望が見えた南三陸、地元企業がどんどん戻ってきている気仙沼と比べてしまうと、陸前高田の時間はあの日からあまり進んでいない。



このあと、陸前高田の物産センターで日本酒を購入しました。
陸前高田の地酒、酔仙。
先日家で飲みましたがおいしかったです。
自分にできることはこれぐらいです。



被災地を訪れてからこのブログを書こうとするまで約1か月の時間がありました。
あの日自分が見たものをより深めていくためにインターネットでいろんな記録を探したり、津波の映像を見て、あのあたりはこんな被害に遭っていたのだと確かめたりしていました。
津波の映像は久しぶりに見ましたがやはり精神的にきついです。3年前1日に何回もよく見れていたなと思うぐらい。

3年前の3月11日、これだけ悲惨な災害が日本で起きたのだということを記録しなければと思い、こんなちっぽけな個人ブログですが編集して載せようと思い至りました。

もしかしたらこのブログを見る人が国外にもいるかもしれない、などと考えました。

自分も忘れないために、だれもが忘れないために、こうして記録していくことが未来のためになると信じて。

3.11を忘れない Part.6

2014-07-16 21:49:07 | 2014 東北
ホテルのあたりを後にし、気仙沼の中心地へ向かいます。



フェリーターミナルなどがあるあたりです。



ここの復興商店街で生の冷凍フカヒレスープを購入しました。
まだ食べて無いので楽しみです。

そのお店のおじちゃんは、あの有名な、住宅街に打ち上げられた漁船が撤去されたことに関して「気仙沼の人はみんなバカじゃないのって思ってんだよ。あれを見に来る人がたくさんいたからね。」と仰ってました。
まだ残っていたらきっと私も見に行ったと思います。
でもそこに家があった人からすれば、見るだけでつらいのかもしれません。
でもそれによって人が集まってくる、難しい問題ですが、気仙沼は撤去を選んだのですね。

こんなものもありました。

誰もこんな大きな津波が来るなんて思ってもいなかったでしょう。





続いて、陸前高田へ。
ここも絶対に来たかった場所。
あの日テレビにかじりつきながら、「陸前高田市の市街地は壊滅状態です」と何度も繰り返されていたのが頭に焼き付いているからです。
街が壊滅状態なんて当時の私には信じられませんでした。


陸前高田に着くと、最近ニュースで見たベルトコンベアがたくさん。
あとは更地なので、未開の地に近代的なベルトコンベアの橋がたくさん建てられている、という光景。
ここに市街地が広がっていたとは到底想像できませんでした。


陸前高田に来たなら奇跡の一本松を見なければと思い、専用の駐車場から歩きます。



歩いてる途中、泥のにおいがきついところもありました。

しばらく歩くと一本松が見えてきます。


その横には無残な姿の水門。




看板の写真を見ると、このあたりにたくさんの松が生えていたのだとわかります。

しおさい橋と書かれた石も傾いてます。そしてその後ろにはベルトコンベア。


平成6年3月完成。松原は津波によって流されてしまいました。


根本だけ少し残った松たち。一本松だけじゃなく、まだ残っている松は実はたくさんあるのです。


人工の松になってしまいましたが、言われないとわからないぐらい本物そっくり。




後ろには奇跡の一本松と一緒に有名になった陸前高田ユースホステル。

在りし日のYHの写真を探すと、松原に囲まれたYHであったことがわかり驚きです。
今や海辺のYH。

かすかに見える室内と、エアコンの室外機。




献花台

この場で黙祷。


一本松とYH。





この立派な橋もベルトコンベアです。

地元の小学生によって「希望の架け橋」と名付けられたとのこと。
この技術で陸前高田の復興にスピードが出ることを願います。

3.11を忘れない Part.5

2014-07-16 20:43:40 | 2014 東北
気仙沼で迎える朝。

朝食会場は2階。

イカが少しだけついてました。
しっかり朝ごはんを頂きました。

2階までは浸水したということで、じっと見てみると所々それらしき跡がありました。
でもたぶん言われないとわからない、という程度だと思います。

昨晩はまったくわからなかった周りの景色を。

右手に見えるのが一景島神社。

かつてはこのあたりも海で、この神社が小さな島だったようです。なので住所も弁天。


チェックアウト後はホテルの周りをうろうろ。

こちらが今回お世話になった一景閣さん。

老舗ってかんじです。


ホテルの裏にはこんな立派な建物が。

3階以上は無事に見えますが全く使われていないようです。


先ほど部屋から見えた一景島神社を参拝しました。

後ほど声をかけられたおばさんによると、この鳥居は津波で流された電柱で作ったものだとか。

一景島の歴史が書かれた看板。


現在はつかえなさそうでした。


神社では被災地の復興を祈願し。。




このあたりでは、新しい基準の高さに道路も土地も盛土していました。

手前が新しい高さ、その奥が昔の道路です。

わかりづらいアングルです。。

こちらのほうがわかりやすいかも。

被災する前まで現役だったであろう消火栓もありました。

津波によってぐにゃぐにゃになった道路標識。

前から見ると

津波の威力がわかりますね。
書かれている南気仙沼駅は現存していません。

流されたものが引っかかったままの標識。



漁港は復活し、漁船もたくさんいました。それでも震災前よりは少ないんでしょうね。




元々漁港の施設だった建物。


今はカラスの住処となっていました。

このあたりは、新しく立て直した倉庫も数多くありました。

甚大な被害に遭ったにもかかわらず、同じ土地でまた商売をやろう、という心意気に驚かされます。
気仙沼の人々の熱意を感じました。


壊れたライン。



先ほど見た、ホテルの裏の立派な建物は、なんと猪苗代医院というクリニックでした。

クリニックにしては規模が大きいので、きっと上の階は賃貸だったのだと思いますが。
定礎石を見ると、建ってからまだ10年前後でした。




このあたりで美容院を営むおばさんに話しかけられました。
「気仙沼に来るのは初めてなの?」と聞かれたので初めてだと答えると、「もっと早く来てればもっとすごいのが見れたのにねえ」と。
瓦礫もかなり片づけられてきれいになったということですね。
このあたりの新しい倉庫や工場も、ここ一年でかなり増えたとのこと。気仙沼パークホテルもつい最近再築オープンを果たしたと。
「○○さんも戻ってきてくれたし、パークホテルさんも復活したし、このあたりがまた盛り上がるといいねえ」
と、前向きでした。
また、あの震災の日、そんなに大きな津波は来ないと思っていたそうですが息子さんに促され、車で避難するも、道は渋滞。
息子さんに「車おいて逃げるぞ」と言われ、びっくりしたそうですがその通りにした助かったのだと話していました。
柔軟な判断力のなかった人は助からなかったんだと。

「これからを生きていく人にこういうことを語り継いでいかないとねぇ」

そう言いながら話してくださったこと、自分の子孫に語り継いでいこうと思いました。
貴重なお話を生で聞くことができたのですから。

3.11を忘れない Part.4

2014-07-16 20:19:34 | 2014 東北
石巻市に入ります。

駅付近は被災した形跡が見受けられませんでしたが急に景色が変わっていきました。



わかりますでしょうか、右側に機械が完全に破壊されたコインパーキングがあります。

このあたりから海にかけて津波が襲ったようです。

門脇、南浜地区へ行ってみました。



まだまだ新しい家。

取り壊した家がほとんどの中、稀にこのように残している家もありました。
大切な家だから、念願のマイホームだったからでしょうか。
色んな想像が働きました。

門脇地区には印象的な門脇小学校が。

インターネットで検索すると、すすだらけになった後者の写真がたくさん見つかります。
取り壊すか、残すかで議論が割れているそうです。

子供たちがいる時間は撮影禁止だそうですが、だれもいなかったので撮影させて頂きました。

とても立派な校舎だったのですね。

このあたりも南三陸同様、ほとんど建物がありませんでした。

残されたのは家の基礎。






そのあと、女川へ。
女川も、普通の景色から「被災地の景色」へ一瞬にして変わりました。
印象的だったのは医療センター。
町にしては立派なつくりでした。原発マネーでしょうか。
原発の恩恵を受けていたとはいえ、きつい報いです。

ここにどんな街が広がっていたのか全く想像できないぐらいになっていました。




女川を後にし、日帰り温泉で疲れを癒し、気仙沼の宿へ向かいます。
ちょうどよくまた南三陸あたりで夜ご飯時となったので再びさんさん商店街へ。

はしもと というお店でネギトロといくらの丼を頂きました。


タコも乗ってました。

昼も夜も南三陸で海鮮丼なんてなんて贅沢な・・・。

もちろんおいしかったです。

夜も営業しているお店はあまりありませんが、ここはしもとでは夜は地元の方々が集う飲み屋さんになっていました。
こういった場は大事でしょうね。



そしてどんどん車を北上させ気仙沼の宿へ。
今回は一景閣という宿にお世話になりました。
港からすぐの立地なので津波の被害にあったということですが2012年5月からリニューアルオープンしたとのことです。
津波の跡をあまり感じさせられないほどきれいな宿でした。

最上階には大浴場があるのでゆっくりお湯に浸かることができます。

部屋では晩酌を。


南三陸で買った日本酒と、石巻の復興商店街で買った笹かま。


たこさんの絵がかわいらしいこの日本酒。
飲みやすくておいしかったです。
また飲みたいなぁ。
笹かまもいつも食べるのとは一味違いますね。

こうやって地元の産業を応援するという形でしか被災地の力になれない私ですが、どの食べ物も飲み物もおいしく、被災地の皆さんに元気を貰っているような気がしました。

3.11を忘れない Part.3

2014-07-16 19:43:55 | 2014 東北
南三陸、続きです。



Part.2のあと海岸に近づいてみたところ、気になる建物があったので危険でない程度に近づいてみました。

調べてみると、この建物は「吉野会館」といって結婚式場だったみたいです。

病院やショッピングビルといった大きな建物も取り壊されているなか、なぜこれは残しているのか・・・。

水筒が落ちてました。

あの日、誰かがもって出かけたものかもしれませんね・・・。

テープカッター

スーパーなどで見るもののような?

エントランス

たくさんのものが当たった跡。

立派な建物だったんだなということが想像できます。


1階で止まったままのエレベーター。


エレベーターの外の花壇にはツツジが咲いてました。

津波に負けず生き残ったのかな?
元々ここに生えていたようでした。

3階まで津波がきたようです。


地面の排水溝は泥でいっぱいになって機能してなさそうでした。


有名な水門。

津波はこの水門を破壊するほどの勢いと高さでやってきたのですね。

ガソリンスタンド跡地。

現在はこのそばで営業を行っているようでした。



この後戸倉地区へ車を走らせます。

戸倉地区の水門。


仮設店舗のセブンイレブンでひと休憩。


被災した地区のコンビニエンスストアは大体仮設店舗でした。



続いて、次の目的地である石巻へ向かいます。