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禅と薔薇

高島市 曹洞宗 保寿院 禅の話と寺族の薔薇のブログ

随処

2014年11月20日 | 小さな法話
おとなの中に、ひとりの乳児がいると、みんなの興味はその乳児に集中します。
その一挙手一投足に、みんなが注目します。このとき、この乳児はまさに「主人公」です。

私たちが日々を過ごしていく中で、主人公になる時もあれば、主人公にならない時もあります。常に主人公になるわけではありません。
思い通りいかないことが多い世間ですから、主人公になれない場合の方が多いでしょう。

随処作主、立処皆真(ずいしょにしゅなれば、りっしょみなしんなり)という禅語があります。

まわりに振り回される人生ではなく、しっかり自分をみつめることが大切です。
すると、欲望や不要なこだわりにとらわれなくなります。
自分が自分として、主体的に生きるところにこそ、常に「主人公」であるのです。


オレンジ色の薔薇「チンチン」が鮮やかな色です。

つながり

2014年11月19日 | 小さな法話
親、子、兄弟姉妹
家族はやがて、親戚へとひろがっていきます。
ひろがった人は、いろいろな「呼び名」で呼ばれます。

「叔父・伯父」は、前者は親の兄の場合で、後者は弟の場合です。
「はとこ」(再従兄弟)は「またいとこ」(又従兄弟)とも言い、 親同士が「いとこ」である関係のことを言います。
祖父の兄弟は「大おじ」、兄弟の孫は姪孫(てっそん)、いとこの子は「いとこちがい」と言うそうです。

知っているような、知らない言葉がたくさんあります。

父母から出でた命は、「呼び名」を変えながらつながっていきます。
いくつものつながりの末、やがて「呼び名」がつかなくなる関係になります。つまり「他人」の関係になるということです。

「他人」とは、まったく関係の無い人ではなく、どこかで「縁」のあった人と言えるのかも知れません。



庭では「ベルデスピヌーズ」の花びらが随分開いています。こういった美しさもあるのです。

水急不流月

2014年11月18日 | 小さな法話
私たちは、常に「普通は」とか「平均では」とか、周りとの比較を考えます。

十人十色という言葉がありますが、これから考えると「普通は」という言葉は意味を持たなくなります。「平均では」と考えるのですが、たとえばひとりの値がすこぶる高いと平均値は高くなり、残りの全員が平均より低いということにもなりえます。


「水急不流月」(みずきゅうにして つきをながさず)という禅語があります。
川を下る水はとても急な流れで、木の葉だけでなく、木や岩までも流してしまいます。時には岸までも削っていく激しいものです。
しかしながら、その水面に映る月は、どんな激しい流れにも流されることはありません。


水の流れを世間ととらえ、月を自分の心ととらえると、周りの常識や動向に、私の心が流されることがなく、「本来の自分」をしっかりと持つことの大事さをあらわしています。


「グリーンアイス」が小さな白い花を咲かせています。


すとん

2014年11月17日 | 小さな法話
三浦 しをんさんの著書「お友だちからお願いします」に、著者が二十歳ほどの頃、山奥の村に住む祖父の葬儀に立ち会った時の様子が書かれています。

「家族、親戚、近所の人たちは一致団結して、祭壇を飾ったり棺の用意をしたり料理を作ったりと、休み間もなくてんてこ舞いだった。
「飾りもんの向きがちがう!」と村の長老格が作業を監督し、「あいつは若いころ、酔っぱらって軽トラごと沢に転落したもんやった」などと祖父の幼なじみがしんみり語りあう。(中略)
そして葬式の慌ただしさが飽和点に達した瞬間、お坊さんの読経がはじまった。かなりご高齢のお坊さんの、ムニャムニャしてかすれがちだが哀感漂う読経の声を聞いたとき、私は「ああ、そうか」とすとんと納得した。
遺されたものが悲しみにばかり沈まぬように、「葬式を出す」という形式はあるんだ。死者の記憶を共有するひとたちが、一緒に忙しくて動くことで、「死」を体にも心にも納得させるためにあるんだ、と。
その思いは、初七日とは四十九日とか一回忌といった、節目の形式を経験するごとに深まった。時間が経つにつれ、悲しみはゆっくりと薄らいでいく。だが、祖父が完全に消えてしまったのではないこと、交わした言葉や楽しい思い出はずっとずっと私のなかにあるのだということに、節日があるからこそ明確に気づけたのだった。」


私が住職となった頃は、土葬と火葬が混在した時代で、お葬式に立ち会うと、近所や親戚の人がうるさいぐらいの中で準備作業にあたっておられました。あるところでは読経中にも話し声が聞こえることがありました。荘厳な雰囲気というより、騒がしさがありましたが、ここに集まっている方はどなたも故人と関わりがある方で、皆さんが悲しみの中におられるのです。その中での行動は、よくよく考えてみますと家族の大きな悲しみを和らげる、そんな智慧だったと思えます。

*文中「一回忌」と記載があるのは、原本どおり記載しました。


庭の隅にある薔薇、チンチンが美しいオレンジの花を咲かせようとしています。


壺の中

2014年11月16日 | 小さな法話
いつも時間に追われるような暮らしから、細かな時間に追われる必要がなくなりました。
電池が切れたのを契機に、腕時計をはずしてみました。
最初は、少々不安もありましたが、慣れてしまえば不便はありません。
いざ、時間はとなれば確認する方法はいくらでもあります。

壺中日月長(こちゅう じつげつ ながし)という言葉があります。
中国の昔、壺公(ここう)という一人の薬売りの老人がいました。壺公は毎夕、店を閉めると店先にぶら下がっている小さな古びた壺に飛び込みます。
このことは誰も知らなかったのですが、ある日費長房という役人に見つかってしまいます。
費長房は壺の中がどうなっているか興味がわき、自分も一緒に連れて行くように言います。そこでしかたなく、一緒に壺に飛び込みます。
その壺の中は狭い世界ではなく、この世界と同じような世界が広がっていたのでした。
そして壺公はその国の主人でした。
費長房は、数日の間いろいろなもてなしを受けます。やがて壺の世界から帰ってくると、この世界では十数年も経っていたということです。


忙しい現代社会の中で、時間が私たちを追いたてるようなことがあります。腕時計が手錠のように感じることがあるかも知れません。
時間に追われるより、心の持ち方を変えて、充実した「今」を過ごす、それを積み重ねていく毎日でありたいものです。


「アイスバーグ」が白く美しい花を咲かせています。