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禅と薔薇

高島市 曹洞宗 保寿院 禅の話と寺族の薔薇のブログ

区分

2015年04月08日 | 小さな法話
桜前線が、北へと移っていきます。

季節がめぐるのは、地球が太陽の周りをまわっているからです。

「私」は季節の「外」にいるのではありません。

季節と私は、同じなのです。

知識の中で、勝手に区分をしているに過ぎないのです。

お釈迦さまは、「空に東西の区別など無い。人は自らの心によって区別を作り出し、
それを真実であると信じる」と説かれました。

川北忌

2015年04月07日 | 小さな法話
桜の咲く季節は、川北隊という部隊の慰霊の季節でもあります。
慰霊碑にお参りすることはできないのですが、11日の土曜日にお位牌に丁寧にご供養申し上げます。

太平洋戦争のさなか、今津にこられた川北隊は、出兵命令を受けます。
そして南方へ出兵され、多くの方がお亡くなりになったそうです。
見送った方々も、悲しい、つらい思いをされたことでしょう。

今年は太平洋戦争が終わって70年という節目の年です。

私たちひとりひとりが、仏さまの教えにそって、自らをはからわず、人に思いやりの働きかけや言葉がけが自然とできる世の中であることが、誰もが望む穏やかな日につながるのです。



合掌

2015年04月02日 | 小さな法話
白鳳十四年(西暦686年)に天武天皇の勅が出されました。
「諸国の家ごとに仏舎を作り、仏像や経巻を置き、礼拝供養せよ」というものです。
これが、今日の仏壇のはじまりという説があります。
他にも。説はあるのですが、いずれにしても自分の家族や知り合いなど人間ではなく、木や金属などに手をあわせるのです。
血の通ったものではありませんが、たくさんの人々の念の入ったものです。

先祖や家族の拝んだものという他に、私たちのうちにある「仏」を拝むのです。それが信心です。

逢花打花逢月打月

2015年04月01日 | 小さな法話
逢花打花逢月打月 (はなにあえばはなをたし、つきにあえばつきをたす)という禅語があります。
咲いている花を美しいと思い、月を見上げて月の灯りを思う。
出会ったことをそのまま受取り、あるがままの私であること。
あれがどうだとか、これがどうだとかではなく、そこにある世界を感じる事こと。

もの事はいつも変化し、この私もいつも「新しい私」を生きているのです。

口中に生じた斧

2015年03月31日 | 小さな法話
ある男が、お釈迦さまに馬事雑言を浴びせました。
お釈迦さまは、これを黙っておられました。

男が言いくたびれて、一息ついたときに、お釈迦さまは尋ねました。
「あなたのお家にお客さんは来られますか?」

男が「ええ、来られますよ」と答えると
「そのお客さんに御馳走を出されたことはありますか?」
「ええ、ありますよ」
「もし、そのお客さんがその御馳走を頂かれなかったら、その御馳走は誰もものになるのでしょう」
「もちろん、誰のものでもない、私のものになりますよ」男は答えました。
そこでお釈迦さまは、
「あなたは私にいろいろおっしゃったが、私はその言葉を頂きません。
だから、その言葉は他の誰のものでもない、あなたのものです。」とおっしゃいました。


お釈迦様の言葉に「人は実に生まれながらに、口中に生じた斧をもっている。
人は悪口を言っては、その斧で自分自身を斬る。」という言葉があります。

他の誰でもなく、自分自身を斬るのです。

薔薇が一斉に春を満喫しているようです。