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禅と薔薇

高島市 曹洞宗 保寿院 禅の話と寺族の薔薇のブログ

真珠の涙

2015年04月21日 | 小さな法話
江戸時代の禅僧、白隠はたくさんの僧や人々に法を説いていました。

その中に、さつというひとりの老婆がおり、たいへん熱心に法を聞いており、白隠からも認められていました。

ある日、さつさんの孫が、幼くして亡くなりました。
可愛がっていた孫の死に、さつさんの悲しみはたいへん深く、お葬式の場で人の目も気にせずに大泣きをしました。

あまりの悲しみ様に、ひとりの人がさつさんに言いました。
「おさつさん、白隠禅師に認められているあなたが、そんなに泣いては禅の悟りも無意味になるんじゃないか」

するとさつさんはすかさず
「私の流している涙は普通の涙ではありません。真珠の涙を流しているんです。」と答えたということです。

「目に入れても痛くない」と比喩されるほど孫は可愛いと言われます。

禅は、喜怒哀楽の感情を押し殺してしまうことだと思われているようですが、そうではありません。

悲しいときには悲しみ、悲しみの真珠の涙を流すことが、禅の心なのです。

蜜湯

2015年04月16日 | 小さな法話
仏さまにお供えするものは、線香やお華、お菓子や果物などさまざまです。
その中で、お茶と並んで、蜜湯をお供えします。

仏さまは、温かいもの、甘いものを好まれると言われ、神様は冷たいもの、辛いものを好まれると言われています。

かっては、砂糖がなかなか手に入らない高級品であり、身近にとれる蜂蜜を湯に溶かしてお供えをするのです。

疲れを取るのに、甘いものは欠かせません。
信心をもってお供えし、手をあわせることは、私たちの心の仏を目覚めさせるものです。

言葉

2015年04月13日 | 小さな法話
うららかな春の季節です。
午後からは、眠たくなる頃です。
特に、人の話を聞いているときは、居眠りをしている方を見かけます。

ついつい「春眠暁を覚えず」という言葉を使ってしまいます。
その出典は、孟浩然の詩『春暁』の「春眠暁を覚えず、処処啼鳥を聞く、夜来風雨の音、花落つること知る多少」です。

春の季節の睡眠はたいへん心地よく、つい夜明けも知らず、鳥のさえずりが聞こえてくる。昨日の夜は、ひどい嵐だったが、おそらくたくさんの花が散ったことだろう、という意味です。

ついつい昼間でも眠たくなることの例えに使ったりしますが、これは本来は朝方のことであり、昼間の事ではないようです。
そして、春以外の季節には使わないものです。

同じように、小春日和という言葉は春に使う言葉ではなく、11月頃に春のような穏やかな日が続くときに使われる言葉です。

役不足という言葉も、自分と役を比較して、役の方が軽い、または自分の方が優れている時に使う言葉で、逆の意味で使う言葉ではありません。

日常の中で意味を勘違いしている場合が多いものです。日本語は難しいと思うより、正しい意味を適切に使うことが大事になります。

自分の言葉ではなく、相手にあった言葉が必要なのです

パン

2015年04月11日 | 小さな法話
ボランティアといってもさまざまな活動があります。
素晴らしいものから、いろいろです。

東南アジアに「学校」を贈る活動をされている方があります。
毎年、その状況を確認しに行かれるそうですが、その際訪問した学校の子どもたちに「食事」をプレゼントされるそうです。
ある年も子どもたちに、パンを配られたそうですが、大勢の子どもたちが喜んで食べている中で、ひとりの少女が食べずにパンを握ったままだったそうです。
「どうして食べないの?」と尋ねると、その子は「弟や妹に持って帰るの」と答えたそうです。

地域によっては、食事に困っている人々がたくさんおられるのです。

その少女もきっと、おなかをすかせていることでしょう。
食べたいに違いないのですが、それよりも弟や妹のことを思う気持ちが強いのです。
自分のことより、誰かを思う気持ちなのです。



観音菩薩

2015年04月10日 | 小さな法話
お寺参りというと、京都や奈良の観光寺院にでかけることや西国三十三か所めぐり、四国八十八か所めぐりを想像します。

お寺の伽藍を見に行くのではなく、祀られている仏様を拝みに行くのです。

お釈迦さまや不動さんなど様々な仏さまがおられますが、観音さまが多いようです。
室町時代から江戸時代にかけて、観音信仰が広まったようです。

観光寺院でも無い当山にも、檀家さんの信仰の表れとして三十三身観世音菩薩が祀られています。
33という数字は、観音菩薩が衆生を救う時に,33の姿に変化すると言われているからです。
一切の罪が消え、苦しみから救われる。その願いを観音菩薩にたくすのです。

菩薩とは、悟りを開くために、諸行をしている仏で、梵夫の私には身近に感じる仏であります。