goo blog サービス終了のお知らせ 

禅と薔薇

高島市 曹洞宗 保寿院 禅の話と寺族の薔薇のブログ

すとん

2014年11月17日 | 小さな法話
三浦 しをんさんの著書「お友だちからお願いします」に、著者が二十歳ほどの頃、山奥の村に住む祖父の葬儀に立ち会った時の様子が書かれています。

「家族、親戚、近所の人たちは一致団結して、祭壇を飾ったり棺の用意をしたり料理を作ったりと、休み間もなくてんてこ舞いだった。
「飾りもんの向きがちがう!」と村の長老格が作業を監督し、「あいつは若いころ、酔っぱらって軽トラごと沢に転落したもんやった」などと祖父の幼なじみがしんみり語りあう。(中略)
そして葬式の慌ただしさが飽和点に達した瞬間、お坊さんの読経がはじまった。かなりご高齢のお坊さんの、ムニャムニャしてかすれがちだが哀感漂う読経の声を聞いたとき、私は「ああ、そうか」とすとんと納得した。
遺されたものが悲しみにばかり沈まぬように、「葬式を出す」という形式はあるんだ。死者の記憶を共有するひとたちが、一緒に忙しくて動くことで、「死」を体にも心にも納得させるためにあるんだ、と。
その思いは、初七日とは四十九日とか一回忌といった、節目の形式を経験するごとに深まった。時間が経つにつれ、悲しみはゆっくりと薄らいでいく。だが、祖父が完全に消えてしまったのではないこと、交わした言葉や楽しい思い出はずっとずっと私のなかにあるのだということに、節日があるからこそ明確に気づけたのだった。」


私が住職となった頃は、土葬と火葬が混在した時代で、お葬式に立ち会うと、近所や親戚の人がうるさいぐらいの中で準備作業にあたっておられました。あるところでは読経中にも話し声が聞こえることがありました。荘厳な雰囲気というより、騒がしさがありましたが、ここに集まっている方はどなたも故人と関わりがある方で、皆さんが悲しみの中におられるのです。その中での行動は、よくよく考えてみますと家族の大きな悲しみを和らげる、そんな智慧だったと思えます。

*文中「一回忌」と記載があるのは、原本どおり記載しました。


庭の隅にある薔薇、チンチンが美しいオレンジの花を咲かせようとしています。


壺の中

2014年11月16日 | 小さな法話
いつも時間に追われるような暮らしから、細かな時間に追われる必要がなくなりました。
電池が切れたのを契機に、腕時計をはずしてみました。
最初は、少々不安もありましたが、慣れてしまえば不便はありません。
いざ、時間はとなれば確認する方法はいくらでもあります。

壺中日月長(こちゅう じつげつ ながし)という言葉があります。
中国の昔、壺公(ここう)という一人の薬売りの老人がいました。壺公は毎夕、店を閉めると店先にぶら下がっている小さな古びた壺に飛び込みます。
このことは誰も知らなかったのですが、ある日費長房という役人に見つかってしまいます。
費長房は壺の中がどうなっているか興味がわき、自分も一緒に連れて行くように言います。そこでしかたなく、一緒に壺に飛び込みます。
その壺の中は狭い世界ではなく、この世界と同じような世界が広がっていたのでした。
そして壺公はその国の主人でした。
費長房は、数日の間いろいろなもてなしを受けます。やがて壺の世界から帰ってくると、この世界では十数年も経っていたということです。


忙しい現代社会の中で、時間が私たちを追いたてるようなことがあります。腕時計が手錠のように感じることがあるかも知れません。
時間に追われるより、心の持ち方を変えて、充実した「今」を過ごす、それを積み重ねていく毎日でありたいものです。


「アイスバーグ」が白く美しい花を咲かせています。










造花

2014年11月15日 | 小さな法話
造花の由来

お寺には生花のほかに、常花のように生花を模した造花があります。
お葬式のお供えにも、金銀などの色紙で作られた造花が供えられることがあります。

お釈迦さまが入滅されようとしているとき、阿闍世王(あじゃせおう)は仏前の飾りとするために、慇懃(いんぎん)の志を尽くして、他人の助けを借りずに自らの手で造花を作りました。
しかし、あまりに手間をかけ美しく仕上げたため、完成した時には、お釈迦さまはすでに入滅されてしまいました。阿闍世王はむなしく花を捧げ、嘆き悲しんだために仏は再び生身を現され、説法されたということです。

これが仏前に造花を飾る由緒になったという伝承があります。


「花は半開を看、酒は微酔に飲む 此の中に大いに佳趣有り」という言葉がありますが、「レディ リヒンドン」が半開です。
これは造花ではなく、本物です。もうすぐ咲きそうです。


2014年11月14日 | 小さな法話
仏教説話にこのような話があります。

あるとき、お釈迦さまは人々が怠けて教えを聞かないことを憂いられました。
そこで誰にも告げず忉利天(とうりてん)という天界に昇られました。
そこには生母の摩耶夫人(まやぶにん)がおられます。
摩耶夫人はお釈迦さまをお産みになった後、わずか七日後に亡くなられたのち、忉利天に昇られていました。
釈尊は、その摩耶夫人に対面され、夫人のために説法されました。
忉利天に昇られている時間はわずか4分程度でしたが、この地上の時間としては3か月に及びました。
この3か月の間、カウシャーンビー国のウダヤナ王とコーサラ国のプラセーナジット王は、お釈迦さまを慕うあまり病気になってしまいました。
そこで臣下はお釈迦さまの像を作ることを建言し、王はこれを聞き入れ像が作られました。
こうしてはじめての仏像が作られました。この仏像によって王の病は癒されました。
そして、お釈迦さまが忉利天から戻られてから、ウダヤナ王はこの仏像をお釈迦さまに見せられ、「このような仏像を作らさせていただきましたが、よろしいでしょうか」と尋ねたところ、お釈迦さまは「仏像を作れば多くの功徳福報が得られる」とお説きになりました。

これは説話であって、実際に仏像が作られたのはずっと後の時代になります。
手を合わす心に「ほとけさま」はおられます。


きょうも「ジャストジョイ」が新しい花を咲かせています。

撫で仏

2014年11月13日 | 小さな法話
「びんずるさん」と呼ばれ親しまれている仏像があります。
賓頭廬尊者像(びんずるそんじゃぞう)と言います。
自分の病の部分と、その像の同じ箇所をなでると病が治ると信仰されている「撫で仏」ですが、この賓頭廬尊者は、実はお釈迦様のお弟子である十六羅漢の筆頭です。
この賓頭廬尊者が得道され、その神力を試みられた時に大地震が起こり、たくさんの死者がでたそうです。
そのため仏は賓頭廬尊者を西洲という、この世界からは遠く離れた地に住まわせました。
賓頭廬尊者は、「もし私の形像を作り、信心あって仏を念じ、わが分身の形像に手を触れれば、その人は一切の身の苦しみが無くなるであろう。」と言われたと「賢愚因縁経」という経典には書かれているそうです。
今日、あちこちのお寺の外陣に賓頭廬尊者が安置されているのは、この故事によるものです。

ちいさな薔薇ですが、濃い色がきれいな「コーヒー・オベーション」です。