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禅と薔薇

高島市 曹洞宗 保寿院 禅の話と寺族の薔薇のブログ

一水四見

2014年11月12日 | 小さな法話
能面の展示会を拝見しました。どれも素晴らしい作品ばかりです。
能面は、その形を変えることは無いのですが、見る方向や光の当たり方で表情が変わります。

禅語に「一水四見」があります。
水は、人間にとっては普段の飲み水であっても、魚にとっては住処であり餌を求める生活の場となります。
天人には、きれいに透き通ったガラスのように見え、餓鬼には飲もうとした瞬間、火に変わる苦しみの水となります。
同じ水でも、人間・魚・天人・餓鬼とでは、それぞれ異って見える、という例え話です。
能面にも、見方によって変わる「一水四見」があります。
私たちは、一方向にとらわれることなく、いつも「一水四見」を心得ていることがいるのです。

「チャイコフスキー」の白い花が咲いています。もうしばらくでしょうか。

落ち葉

2014年11月11日 | 小さな法話
美しい紅葉の比叡山で、道元禅師得度霊跡の清掃でした。
落ち葉を掃いても、またすぐ落ち葉が落ちてきます。
それでも、しっかりと清掃します。

江戸時代の俳人、瓢水を慕い、ひとりの僧がその庵を訪ねます。
しかし、風邪気味の瓢水は、町まで薬を買いに出かけています。
僧は「せっかく訪ねてきたのに、さすがの瓢水も命が惜しくなられたか」と言い残し帰っていきます。
戻ってそれを聞いた瓢水は、まだ間に合うだろうからと、句を僧に届けさせます。
その句が「浜までは海女(あま)も蓑着る時雨(しぐれ)かな」です。

海女は海に潜るので、身体が水に濡れるのは当たり前です。
でも、雨の中を海岸まで行くのに、どうせ濡れるのだからと思うのではなく、海に入るまでは身体を冷やさないように蓑を着ていくというのです。
命が惜しくないという生き方ではなく、風邪をひいたら養生するという生き方こそ真理にそった生き方です。
仏になろうとする自分を、大切に生きることこそが、私たちの生き方です。

庭では、「ベルデスピヌーズ」が咲いています。

こたえ

2014年11月10日 | 小さな法話
陽が昇れば、 明るくなる。
陽が昇れば、 今日が始まる。

陽が暮れれば、 暗くなる。
陽が暮れれば、 家に灯りがともる。

風が吹いたら、 桶屋が儲かる。
風が吹いたら、 葉が落ちる。

雨が降ったら、 地固まる。
雨が降ったら、 水たまりができる。

晴れたら、 洗濯物が乾く。
晴れたら、 いいな。

氷が解けたら、 水になる。
氷が解けたら、 春になる。

いつも「こたえ」はひとつとは限らない。


きょうの薔薇は、「ペルシアンミステリー」です。

舟に乗ると岸が動く

2014年11月09日 | 小さな法話
自分の眼は、自分の眼を見ることはできません。眼だけではなく、顔さえも見ることはできません。
私たちは、鏡などをとおして、自分の顔を見ているわけですから、鏡を見ているともいえるのです。

「人、舟にのりてゆくに、目をめぐらしてきしをみれば、きしのうつるとあやまる。目をしたしく舟につくれば、舟のすすむをしるがごとく、身心を乱想して万法を辨肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。もし行李をしたしくして箇裡に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。

道元禅師は『正法眼蔵』現成公案の巻でこう説かれています。

舟に乗って移動していると、まるで岸が動いているように誤って見てしまう。もちろん舟が動いていることは、わかっているのですが、つい、見誤ってしまいます。
これと同じように、諸行無常の中で、自らの心身が無常の外にあると錯覚しないように心がけねばなりません。


きょうの薔薇はミニバラです。オレンジ色が少し薄くなってきましたが、結構長く咲いています。

蜘蛛と蝶

2014年11月08日 | 小さな法話
一匹の蜘蛛が、蜘蛛の巣をはっていました。
そこに蝶が飛んできました。
蝶が、蜘蛛の巣にひっかかりました。
A君がかわいそうだからと、蝶を蜘蛛の巣から逃がしてやりました。
それを見ていたB君が「ダメじゃないか。そんなことをしたら、蜘蛛がかわいそうじゃないか」と言いました。

慈悲の心は、どうあるのでしょうか?

蝶だから、蜘蛛だからという見方は必要なのでしょうか?
ともに自然の摂理の中で、生きています。

私たちはたくさんの命をいただいて、この命をつないでいます。
たくさんの命に感謝し、またその命に懺悔し、いただいた命を大切にしなければなりません。
もし、たくさんの命を粗末にするならば、それは自分を粗末にしていることになるのです。


きょうの薔薇は「レディ・エマ・ハミルトン」です。大輪でうつむいている花です。
人を意識することなく、ただ咲いています。