雑賀孫市(まごーん)の中の人ブログ

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収集品をネット展示してみる~石田保忠中将旧蔵の写真~

2015年09月05日 13時15分06秒 | 収集品
こんにちは、9月とはいえまだ暑いですね。
今日は、少し情報が欲しいもの。

石田保忠陸軍中将(写真はまごーん所蔵)
この方、石田保忠さんの旧蔵写真を私の持っている中から少しと、幸い、石田保忠の妻・石田文枝が自分史『知らず知らずに九十五歳 元女医の人生ひとり歩き』として記録に残されておりましたのでその中にあった写真を交え紹介します。
石田保忠略歴
陸軍中将 士27大39 東京
1915(T4).5 陸士卒
1915.12.25 歩兵少尉
時期不明 久居連隊付(1926年頃と推測)
1927.12.1 陸大卒
1928.12 千葉陸軍歩兵学校・長男誕生
1931.6 歩兵第一連隊
1932.8 千葉陸軍歩兵学校
1936.8 教育総監部
1937.8.30 欧州視察へ出発
1938.3.1 歩兵大佐
1938.3.25 第8国境守備隊第2地区歩兵隊長
1939.3.9 第16師団参謀長
1941.3.1 少将・第32歩兵団長
1943.6.10 第8国境守備隊長
1944.10.14 樺太混成旅団長
1944.10.26 中将
1944.11.20 戦病死・正四位
秦郁彦編『日本陸海軍総合辞典』第2版、東京大学出版会、2005年。
石田文枝『知らず知らずに九十五歳 元女医の人生ひとり歩き』博文館新社、2001年。
をもとに作成。
石田保忠は明治27年、陸軍少将石田保謙の五男として生まれました。
石田家はもとは加賀藩士の家であり、陸軍の名門一家でありました。
保忠の父、保謙は加賀藩士・林家から養子に来たのでした。当時の石田家は加賀藩目付家老本田家が嫁におりましたが、夫は鳥羽伏見の戦いで戦死したため、養子をとったのです。
石田保謙はその後陸士1期となり、少将まで登りつめました。
彼の子供は夭折した四男を除き、皆、陸軍へ入りました。
長男の石田保道は陸士18、陸大27で陸軍少将までになりましたが、折しも市川の野戦重砲第3旅団長の時、二二六事件において、部下数名が参加したため、予備役編入されてしまい、昭和42年死去。
次男の石田保秀は陸士20、陸大29で陸軍中将。陸大の成績は優秀でドイツ駐在も経験しました。昭和5年から侍従武官を務め、旭川の第7師団の留守師団長となりました。昭和44年に死去。
三男の石田保政は陸士23、陸大30で陸大を優等で卒業。類稀なる戦術家でその著書『欧州戦史』は有名です。しかし、病により昭和11年死去。死後少将となり、陸軍大学校内に胸像が作られました。これはメッケルと二つだけで、彼が如何に優秀だったかわかるでしょう。
そして、五男が石田保忠でした。彼もまた陸士27期で陸大39期でした。
2人の息子も陸士予科、陸軍幼年学校へ入っています。
陸士の卒業写真帖が出品されてましたが、私は手に入れられませんでした。

陸大時代の石田保忠と妻の石田文枝さん。(両人は大正14年2月11日に結婚)石田文枝の著書より。
陸大時代の石田保忠は昼も夜も勉強していたようです。
石田保忠は昭和2年12月1日に陸大を卒業。元隊の久居に帰ったとあるので、歩兵33連隊にいたのでしょう。
その後、千葉の陸軍歩兵学校、教育総監部を経て、欧州視察となります。
陸大卒業の翌年・長男である保久さんが誕生します。

長男誕生時の石田保忠。

千葉時代の石田保忠。抱えられているのはのちにインド史研究家の石田保昭さん。

1937年のときの石田保忠。
石田は昭和13年に第8国境守備隊第2地区歩兵隊長として羽田から満州へ渡ります。
そして翌年、武漢三鎮で活躍した第16師団の参謀長に就任し8月に内地へ凱旋。
当時の師団長は石田保政と陸大で同期だった石原莞爾でした。陸軍において秀才と言われた石原莞爾と石田保政が陸大同期だというと中々同期も肩身が狭そうですと勘ぐります。
石田保忠の妻である石田文枝は石原莞爾から中華料理などを教わったと回想してます。石原が女性に料理を教える……想像もできません。
さて、第16師団参謀長を務めた後、石田保忠は少将となり、第32歩兵団長で太平洋戦争を迎えました。

第32歩兵団長のときの写真(文枝さんの著書より)
その後、第8国境守備隊長となりました。
文枝さんの著書にその頃の手紙が載ってますので一部引用します(115ページ)
「(前略)文君は死ぬ迄めったに満州にも来れないだろーし、こちらでも色々整理を要するものもありますから、その頃一度海拉爾(まごーん註・ハイラル)に来ませんか(後略)」
(読みやすいよう、カタカナを平仮名に。句読点を挿入しました)
文枝さんは、夫・石田閣下からのお誘いで満州へ行くことにしました。この時、東京発下関行きの列車に甘粕正彦が同じ車両にいたと証言してますが、また確認する必要がありますね(116ページ)。
駅についたら石田閣下が文枝さんを迎えに来てたようですが「この三年余りの間にすっかり痩せて年をと」っていたそうです(120ページ)。
今回、私が所蔵しています写真はこのすっかり痩せた第8国守隊長時代の写真です。
それでは、少し公開しますので比べて見てください。

石田閣下(中央)

右側が石田閣下。

文枝さんの著書より。

石田閣下。
どうでしょうか?最後の写真がすこし疲れてるようにも見られます。
さて、まだまだ文枝さんの著書には石田閣下との話がありますが長くなるので割愛させていただきます。

私の所蔵しております、この写真数葉は、石田閣下旧蔵ですから、文枝さんが亡くなったのか、それとも次男の保昭さんか…と気になっております(長男保久さんは平成3年に亡くなっております)。

保昭さんは、wiki情報によれば現在もご存命でありますが、このような通常遺族が保管されてるものが出てくると、気になってしまいます。しかし、連絡をとろうにも取れないので、困っています。
もし、このブログを見たどなたか、保昭さんと連絡が取れるのであればご一報いただければ幸いです。よろしくお願いします。

また、偕行社に聞こうにも「亡くなりました?」とは聞けないので、なにか良いアドバイス等でもいただければと思います。