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『参謀必携』(陸軍少将山川浩旧蔵か)

2018年05月02日 19時44分51秒 | 収集品
5月になりました。雨が降ったりあったかくなったりと、身体に大変悪いですがいかがお過ごしでしょうか。

今回の紹介の『参謀必携』(下に一部写真)は国立国会図書館や図書館サーチでも引っかからなかった冊子でしたので掲載します。

『参謀必携』は明治15年(1882年)に作成されたものです。
内容は参謀の性質や戦略、戦術、万国公法など多岐にわたる基礎知識のほか、清国八旗の軍旗(写真)や、外国旗が掲載されています。


また、この本は編纂を担当した西部監軍部参謀香川景俊歩兵大尉より「献 親友 山川大佐君」へ献呈されています。山川大佐は明治15年の時期的に元会津藩の山川浩(のち少将)と推測されます。
(なお見開きに西川の小印もありますが詳しくは不明です)

ここで、2人の経歴を簡単に載せます。
香川景俊は弘化4年(1847年)頃に生まれた陸軍軍人で明治10年(1877年)の西南戦争へ従軍。明治12年7月に西部監軍部へ異動し参謀に就任します。西部監軍部へは少なくとも明治17年まで勤務しているのが確認されます。明治21年に陸軍少佐へ進級し、明治32年10月に休職し、翌月予備役編入となり軍を辞めます。
残念ながら明治27年9月調べの『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿』の中に掲載されておりませんので出身が分かりませんが、『毛利貞松院極楽往来伝』(1903年)の編集発行人として確認できますので、長州藩の出身であると思われます。

一方の山川大佐と思われる山川浩(上の写真)は会津藩士として弘化2年(1845年)に生まれます。
鳥羽伏見の戦いや戊辰戦争に従軍したのち、明治6年(1873年)に陸軍へ入り佐賀の乱を経て、明治7年4月に陸軍中佐となり、西南戦争で征討軍団参謀として活躍し、明治11年12に月名古屋鎮台参謀長を務め、明治13年5月に陸軍大佐へ昇進、明治15年3月に工兵第四方面提理となり、その後も陸軍省人員局長兼輜重局長や総務局規制課長となり明治19年12月少将へあがり2年後に予備役編入をしています。のちに男爵となり貴族院議員にもなります。

この2人がどこで知り合って親友となったのか、経歴からは判然としません。ただ、年齢も二つほどしか違いませんし、明治15年時点で「山川大佐」へ『参謀必携』を渡すとなると、かなり限られるのではないでしょうか。山川浩は明治15年の前は名古屋鎮台で参謀長をやっていましたので『参謀必携』を渡すに十分な理由があります。また、明治13年に大佐に昇進していますから階級も不思議ではありません。

古書には時々このようなワクワク感をくれるので良いですね。それではまた来月に。

参考文献
「小沢陸軍大佐青森県士族山川浩本省ヘ採用ノ儀ニ付待罪伺」
(国立公文書館所蔵、Ref:公01228100)。
外山操編『陸海軍将官人事総覧』(芙蓉書房、1981年)。
維新史料編纂会編『華族譜要』(大原新生社、1976年、1929年原本)。
宮内庁三の丸尚蔵館編『明治十二年 明治天皇御下命「人物写真帖」-四五〇〇余名の肖像』(公益財団法人菊葉文化協会、2013年)。
以下、アジア歴史資料センターより
「参謀本部 東中西監軍部 日報 総務局(5) 」C09060012300。
「辞令大日記陸軍省人事課 明治21年2月分(1) 」C10060124000(8画像目)。
「陸軍輜重兵中佐正六位勲五等増野助三以下二十四名叙位ノ件」A10110640700。
「香川少佐結婚願の件」C07071585800。
「7月26日贈達分」C10072403200(4画像目)。

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