雑賀孫市(まごーん)の中の人ブログ

まごーん(中の人)が独りでぼちぼち呟く。

藪内敬治郎と奈良地理学会

2022年11月30日 23時16分00秒 | 日記

『地理学科10年の歩み』において、こんな一文が掲載されています。

「薮内先生は奈良地理学会にも呼ばれており

ということです。初耳情報だったので、気になりました。


奈良地理学会 1926年に設立された学会で、現在も活動している息の長い学会です。


 さて、松下進によれば、どうやら学会誌に書いてあるようなので、手元にある『地理学雑誌』をたぐってみます。








奥付のほうに、講演会の予定が記してあります。「薮内少佐の地形図製作法」と書かれています。

『奈良地理学会々報 第一号』にも講演会が行われてたことが載ってますので、たしかに学会に呼ばれています。


呼ばれた当時の薮内先生は、陸軍を予備役になり旧制天理中学校の数学科教員をしていた頃なので、その在地関係もあってのことでしょうか。


会報を見るかぎり(昭和2年現在)で、(予備役含む)軍人が呼ばれていたのはこの時のみなので、薮内先生の例外さが目立ちます。


何か情報お持ちの方おられましたら、ご教示くださると幸いです



参考文献

奈良大学地理学教室編『地理学科10年のあゆみ』奈良大学地理学教室、1979年

奈良地理学会『地理学雑誌』1926年

奈良地理学会『奈良地理学会々報 第一号 創設十周年記念號』1937年。



鉄道150周年〜マイテ49に乗車

2022年10月31日 22時14分00秒 | 日記
10月は14日が鉄道の日ということもあり、鉄道150周年関係のイベントが盛りだくさんでした。

まごーんも、京都鉄博のマイテ49-2乗車イベントに参加してきました。


内田百閒の『第一阿房列車』を読んで一度は乗りたかったのです。
ゆっくりながらも、三軸車の感触と、一等車からの梅小路の木立の眺めを堪能しました。
ただ15分スパンで、撮影はそんなにできなかったのが僅かな未練でした。



また10/30までの頭出しにも行き、初のナイトミュージアムも経験しました。
つばめのヘッドマークと、青大将色の塗料がみれてよかったです。




トワイライトもヘッドマークが付いてピシッとしておりました。

それではまた来月





羽黒山五重塔へいってきました。

2022年09月30日 20時56分00秒 | 日記
こんばんは。まごーんやで。
9月に初めて山形へ旅行してきましたので、それを記事にします。

まずは、致道博物館へ行ってきました。

いろんな重文建築などがあります。

郡役所(中は見れず)


警察署(青色の壁が良い感じです)

酒井氏庭園にある五輪塔(関西から伝播した?)
なぜか刀剣男士?のパネルがありました(女の子にしか見えないです)


旧酒井伯爵邸。中では庄内藩の展示のほか、歴代酒井氏に関するものが展示されています。


こちらは藩校、見学できなかったので外側のみ。


メインはこれです。夜間ライトアップ。よく見ると来年はやらないという。

入り口から少し降って歩くと五重塔に着きます。夜の虫の音と川のせせらぎでいい雰囲気でした。



なおスマホなどでみれる道路ライトアップがされていたのですが、どうみても地獄の道か何かにしか見えません。

とりあえずで書き抜きました。
また来月


阿部内閣寫眞銘鑒〔阿部内閣写真名鑑〕

2022年08月31日 22時35分00秒 | 収集品
昨日の8月30日は阿部信行内閣が発足した日です。来年1月に総辞職するまでの四苦八苦が始まりました。

というわけで今回は『阿部内閣寫眞銘鑒』を取り上げます。



阿部内閣の政策が載ってます。



そして内閣に名を連ねた13名の閣僚ほか次官参与の書が印刷されています。

ここには阿部信行総理大臣の書はありません。阿部本人が書をあまり書かなかったことは『北國新聞』(1939/8/30)に載ってますが、内閣寫眞にも、揮毫しないのは筋金入りです。
なお本書は製本ミスか、内閣の政策から大臣の揮毫ページまで重複しています。



阿部内閣の記念写真…なのですが、阿部の後ろの金光庸夫拓務大臣がそっぽ向いてます。なぜこれでOKがでたのか…。




 そして「賛成証」です。購入ではなく「賛成」なんですね。1部50円。
物価統計表. 昭和14年 - 国立国会図書館デジタルコレクションの38コマ目にある「内地玄米(中)」1石(144kg)が37.42円。農林水産省のPDFによる米価格は全銘柄平均60kgで約15,000円となっており、今でいうと大体5〜6万円あたりでしょうか。換算は苦手なのでイメージです。
…わずか4ヶ月でぽしゃった内閣の写真、売れたのでしょうか。


まあオチなしですが、今月はここまで。



阿部信行述『大東亜戦下の総選挙』(1942年、非売品)。

2022年07月21日 23時21分23秒 | 収集品
今月は選挙がありましたが、今から80年前にも国政選挙がありました。1942年4月の第21回衆議院議員総選挙です。

いわゆる「翼賛選挙」とも呼ばれる、昭和戦時下唯一の選挙でした。
この選挙において、すでに投票を呼びかけるはずの政党は大政翼賛会にはいり、国は翼賛会を推進するため、翼賛政治体制協議会(以下「翼協」)という団体を発足させました。

これは大政翼賛会が治安警察法第3条によって政治活動ができない「公事結社」とされたためで、翼協は政治結社でした。

そのトップについたのが阿部信行です*。この時点で、予備役ながら陸軍大将、かつ元総理大臣で貴族院議員の肩書きを持っていましたが、政治経験は濱口雄幸内閣時代の国務大臣、首相、汪兆銘政権承認の駐華大使の合わせてもわずか一年ちょっとのみというものです。

阿部をトップに上げたのは、大麻唯雄、前田米蔵、永井柳太郎、後藤文夫ら翼協幹部(旧民政党)でした。

ゴードン・M・パーカー『大政翼賛会』(山川出版社)によれば、「首相時代以来、政党指導者に尊敬の念を持っていた」阿部をトップに認めさせることで、既存政党勢力の維持を図ったとしています(245頁)。

で、今回は翼協総裁になった阿部が述べたものを纏めた『大東亜戦下の総選挙』を紹介します。





これはもともと3月22日の『讀賣新聞』に掲載された記事を冊子とした非売品です。
「熱読以つて、本運動の指針とされんことを望む次第である」と冊子にした目的がはしがきに書かれています。

まず翼協創立について述べています。
要点を言えば、それは政府が戦時下に「相応しき帝国議会の出現を希望し」て、「私共に研究工夫を要請」されたので、作ったとしています。

次に「改選を必要とする理由」では、「議会はこの急激なる変化の中に五年を経ている。」平時でも四年で改選し、定期的に議会の内容を入れ替えてるのだから、いまの代議士もこの間進歩しているだろうがこの間に出てきた議会以外の有能な士も無視できない、としています。

「先づ選挙観を一新せよ」では、選挙によって対立が起こるという指摘があるが、ならばこそ改選しなくてはならないと述べています。それはもとより「選挙は争ひでない」、「自らを選出せよと、強要請求し、嘆願すべき性質のものではなからう」と主張していました。

「新たなる議会の役割」では、官民一つになって、現職新人の有能な士とが一緒になり新しい議会を強いものにしていこうと述べてます。

「推薦は選挙民目標の焦点」では、翼協の推薦は、新しい有能の士が誰かわからず、バラバラに投票することのないように、指針として推薦という方式をせざるを得ないとしています。
そのうえで「如何なる人を推薦すべきか」では、「この推薦が候補者の利害本位でなくて選挙民のためである以上は、左様な[筆者注:当選不確実者を推薦するという]無責任な推薦は出来ぬと思ふ。同時にいたづらに当選確実らしい人を、その人柄如何をかまはず推薦して、安易な当選第一主義を毛頭考へてをらぬのである。」と説明しています。

以上が大体の冊子の内容なのですが、戦時下のことですから抽象的な表現が多く(有権者への調査でも同様の意見がみられます『翼賛選挙4』)、少なくとも、阿部がこの中で言いたかったことは改選をする理由を除けば、曖昧だと思われます、特に推薦人に関しては結局どの様な人物を推薦するのか明言できていません。これが説明できてないということは選挙にいく国民への「目標」も設定できていないわけです。

さて結局、翼賛選挙では都市部有権者は投票するなら現職か、官憲の指導があればそれに入れ、地方は地元有力者の意向を尊重していたようです。
それでも翼協推薦の当選は約80%と、「一応成功」(古川隆久)と言うことが指摘されています。
翼協は、そのあと翼賛政治会に改組され、阿部はそのまま総裁として横滑りしますが、そこでの話はまたいつか、今回はこの辺でおわりとします。

主な参考文献
古川隆久『戦時議会』(吉川弘文館、2001年)。

ほか
吉見義明ほか『資料日本現代史4 翼賛選挙1』
同上『資料日本現代史5 翼賛選挙2』大月書店、1981年。


*阿部が翼協のトップについた具体的な選考理由は不明。