気まぐれ人間の気まま情報新聞

どこかにいる、もう一人の自分のようなみんなへの、ひとりごとのような、語りかけのような、あいまいな発信基地不明の新聞です。

見られることを人間は独特に意識する。

2008-10-20 23:43:01 | Weblog
動物は鏡を見ても、そこに映っているのが「自分」であることを最後まで意識できません。ところが人間はある時期から「ここに映っているのはこのわたし」と意識する段階がきます。

わたしはこの時期をまったく覚えていません。この時期は明確に取り出せないと思います。でもまちがいなく、皆さんもその時期をいつか通過しています。

この段階を重要視して「鏡像段階」として名づけ、人間が動物から分離していく心的段階として重要視して取り出したのはジャック・ラカンという精神分析学者です。

見ると向こうもこっちを見ているような不思議な感覚、そんな時期をみんな通過しているのです。「あなたはだーれ」

ところで、思春期と名づけられた頃わたしも鏡を秘かに見て、眼がちゃんと二重でないとか、鼻が低いとか、ものすごく気にしていた時期があります。皆さんいかがですか。今でもあまりもてそうもないなとか後遺症のように鏡を見ることがあります。そんなこと気にしない人はきっと美男、美女なのでうらやましい限りです。

ただ、今は人から客観的にどう見えるかを「人の眼差し」のように見ようとしているのですが・・。人間は他人には絶対なれない絶望を感じてます。人間て最後まで自分中心なのかなと思ってます。

普通わたしたちは生活のなかでは人を見つめたりすることはありますが、人にそんなに見つめられることはないと思います。

でも、ある時期わたしたちは見つめることが見つめられることであるような経験を
長く持っているのですね。

それは自分では何もできない誕生から歩けるようになる時期のことなのですね。その時期わたしたちは母的存在の眼差しのなかで、全存在をかけて母的存在の出現を待ち、見つめられる、こちらを見てくれるのを待っていた時期があるのですね。そしてその時期見つめられるその眼差しを期待に全身を乗り出して見つめ返していたのだと思います。

わたしはこの時期に眼差しを含めたすべての表情を喜びと悲しみととまどいとして
眼差しを理解していったと思うのです。

そしてこの時期、見ることの幸せと見つめられることのいっしょになる喜びを味わっていたのですね。

そして、みんな好きな人ができたとき、その喜びを無意識に取り戻そうとしているのではないかとわたしは秘かに思っています。そんな気がしてきませんか。

見ることは、向こうから見られることでもあるということ、それをどこかにみんな残しているのです。

だから、自然をやさしく見つめて受け入れるとき、自然もあなたを受け入れるように感じられるのだと思います。

この見つめることと、見つめられることの幸せをどこかで持っている人は幸せですね。そしてそのことのなかで表情の豊かさを理解することができるようになるのだと思います。

そして、こんな幸せなときに眼を伏せてしまう人は、それが少なかった悲しい人なのでしょうね。そんな人は人の表情が心から理解できないかもしれません。





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