気まぐれ人間の気まま情報新聞

どこかにいる、もう一人の自分のようなみんなへの、ひとりごとのような、語りかけのような、あいまいな発信基地不明の新聞です。

見える聞こえるは簡単そうに思えるが・・

2008-10-19 23:47:39 | Weblog
好きになった女性の眼をじっと見るのは恥ずかしくてできませんでした。また、その人に見られるのもどうしていいかわからない気持ちで見返すことができませんでした。今でもどこかにそうなりそうな危険も感じます。

でももしかしたら、これとは違っても、じっと見ることに不安を感じて、そのものを「見つめる」(見・詰める)ことができない人は意外といる気がします。

恋だって「あばたもえくぼ」でときどき焦点があいません。

あるとき、野球のボールが高く青空に上がって落ちてくるのに走りながら、なんか距離感があいまいでボールをやっとの思いで取ったことがあります。ボールが飛んでくると不安な人は多いと思います。自分の身体の位置がボールとの関係で見ていても、うまく測れないのだと思います。

もっと一般的なのは高所恐怖症です。もう下のほうを向いただけで「見ていられないし、見ていない」わけです。この原因をかなり考えたことがあります。結論はこうでした。

「人は自分の空間的位置づけが不安定になったときは不安を感じる」というものです。地上から同じ上を見てもあまり恐怖や不安は感じない。ところがそんな上はいつもいるわけではありません。上に上がって下を見下ろすようなことはあまりありません。そうすると安全とはわかっていても、もう自分の居場所が不安定で「居ても立っても居られない」状態になるのです。覗き込むとよけいにそうなります。

もしかしたら、好きになった人の前でわたしは地上なのに、心的には「自分の位置が不安定」になってしまったと感じたのかもしれません。「身の置き場」がなくなったと感じるのかもしれません。これは急に思いついた考えですが、ちょっとあっている気もします。

でもここには「見られることの不安」の問題がありそうです。これは人間と人間の関係の問題がありそうです。自然を見るのとは違う問題があります。でも、これはまた、別に考えて見たいです。

でも、高いのが大好きな人もいるみたいです。わたしは無理です。そしてほかのこともいろいろ考えていってこう思うようになりました。

何かを見るとき必ず、人は「ここに自分がこの位置にいて、この程度の身体つき身長である」ということを知らずに前提にして周りのものとの空間的位置づけを自然に繰り込んで「見ている」ものであるということですね。

たとえば、あなたがある建物を見ています。そのとき自然にそこまでの近いとか遠いとかだいたいの距離感や低いとか高いとかという高さを見ています。それは物差しで計ってはいませんが、どのくらいでそこまで行けるとか、だいぶ高いとか自然に測っていると思います。これは不思議でもなんともないと思われると思います。
でもちょっと待ってください。

でも、こう考えてて見てください。あなたが。巨大なビルのような巨人(あなたが好きな巨人を思い浮かべてください)だとして見てください。

ビルとの距離は一歩でしかありません。ビルの高さは足をあげればこれも一歩でしかないことになります。巨人から見たら、建物の距離や高さは全然違う感覚になります。巨人とわたしたちが見る視界や距離感は違うのですね。

ここで覚えている人は覚えていると思いますが、ちっちゃい頃にいった離れたところに住む祖父母の家やずっと帰っていなかった実家に帰ったとき、「あれ、こんなにちっちゃい狭い家だったかな」と思ったことはありませんか。また周りの自然や風景もなんかこんなに規模が小さかったかなんて思ったことありませんか。

それはあなたが少し巨人になったからです。
そして今現在身長の止まったあなたはその「自分の位置と大きさ」の視線で世界を見ているわけです。ときどき、幼児からわたしがどう見えるか考えたりします。

人はただ誰もが同じように「見ている」と思って不思議に思わなくても、実はその見ることの中には「自分の位置関係(場所と大きさ)を自然に繰り込んで見ている」ものだということです。

普通単純に「見ている」ということのなかには、実は単純ではなく、自然に「見ている」自分が実際は見えていないのに、「ここにこうして在る」ことを無意識に繰り込んで見ているものだというということです。

実はもっと言えば、聴覚があります。普通聴覚は「なにかを聴く」と思われています。でもそれだけで片手落ちなのです。実は聴覚は見ること以上に「わたしはここにいるという「位置関係」を教えてくれるのです。聴覚は時間的より空間的なものです。あなたは遠い雷鳴を聴く。そのときあなたは「ここにいるあなたと雷鳴との距離を」測っているのです。

きっと人間はこの延長のなかで、遠い、見えないものや聞こえるものを近くに見えるようにしたり聞こえるものにするようになったのでしょうね。

そして、人間は視覚や聴覚のなかに、この空間的位置づけのためだけではない、もっと別な人間的なものも見つけました。

視覚はすてきな色や形態の美しさをまた聴覚は素敵な音を見出し、絵画やファッションや音楽を人間の心の富にしていったのですね。

そして今では小説を読んでいても行間から、気に入った登場人物の姿、形や声までも想像できるように視覚や聴覚をみがいてきているのですね。

でも、眼と耳って頭のいちばん近くについているんですね。これはすごく重要な気がします。口もそうだけど。ほんとうに誰が考えたのでしょう。











コメントを投稿