気まぐれ人間の気まま情報新聞

どこかにいる、もう一人の自分のようなみんなへの、ひとりごとのような、語りかけのような、あいまいな発信基地不明の新聞です。

この、なんかどこかにあるあせりのようなもの

2008-10-25 00:02:54 | Weblog
飲んでカラオケあほげに歌っても、それなりに焼き鳥食べておいしい気持ちになっても、その日だけ。元のもくあみの翌日。気晴らしでしかないのもわかるけど、それが時々なきゃ、やってられないような気持ち、どこかでゆったりした気持ちになれない。ほんとはなんか晴れてる感じはない。

釣りをしてる人見てて、じーと別世界のように釣り糸に集中してるのを見てうらやましくなる。自分でもやればと思うけど、忘れることはできそうもない自分を先取りしてしまう。だからできない。

買い物依存症の人なんかのこと、急に考えた。きっとどこかでどうしていいかわからない、あせりのような、不安なようなものがあるような気がする。わたしの友達だ。

この違和感はわたしのせいだけではない。世界がスードを求めすぎるのだ。早くないことは遅れていることだと経済や社会が耳元でささやき、追い込んでくるに違いない。

それに合わせようとするのが普通の日本人なんだと思う。まじめだから。だからちょっと不真面目なわたしみたいな者さえ、あせっちゃうに違いない。

ここから、脱出する方法、それは引きこもることでも、買い物しすぎることでも、無限のおしゃべりすることでも、彼女や彼氏をつくりまくることでもない。

自分のなかのすなおな弱い自分をあせる自分をそのまま受け入れること、さみしさを自分に許すこと、そしてそこから自分がいちばんほっとする心の場所を心に書きとめ始めること、そこにいれば「自分だけだけど、いい自分がいる」心の場所を拡大していくこと。

ちょうどテレビで教授という人が言ってました。海馬というところはあることに集中したり、夢中になるとどんどん細胞が年取っても増えるらしいのです。いちばん敵はストレスなんだって、ちじんでしまうらしい。

この頃ちっちゃい頃の夏休みが終わって学校が始まるときの、あの絶望的な気持ちのミニ気持ちが歳のせいか日曜日が終わると起きてくる。

でも、みんなに悪いけど、少しまじめなこんなブログを書き終わったとき、少し焦りがおさまるのです。

おしゃべりな自分が少しづつ、無口になって自分と自分が内語して耐えているような感じがちょっとはあるのです。

そうすると、猫や犬や植物が言葉にできないのに思ってる思いが、黙ってるわたしの思いに似てくるような気がするのです。

でも、もっと人間以外はすなおだね。なんで人間て、もっと太陽見て、海にひそって、魚のようにすいすい泳げないのでしょうか。

向こうから人間見たら、なんでか不思議でしょうね。悩んでるような顔して。

今日は低音ばっかり鳴ってるところで書いてるみたいです。しばらくカラオケ行かないぞ。気晴らしはもうちょっとだけ我慢します。明日になったら知りませんが。






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