気まぐれ人間の気まま情報新聞

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「個」と「公共性]という考えの拡張について

2020-10-26 21:56:16 | Weblog
[個]があるから「公共性」という考えが発生するというのが前提です。「公共性」は無規定にいきなりあるのではなく「個」の具体性がイメージされ、その具体性の集まりとしての集合を前提して考えられる具体的なイメージでなくてはならない。具体的な「個」が思考の始まりになければ「公共性」は意味がない概念なわけです。
しかし、どうも「公共性」というのはいったんあると肯定されると、その概念の成立に不可欠な「個」は単なる具体的な数の集合として「個の具体的な顔」を抽象され一人歩きして以前から先験的にのっぺらぼうな「公共性」という概念があったかのようになっていくようなのです。

「公共性」は例えれば「法則性」のように「抽象」されるのが正しいと思われます。法則は個々の事象の影からぼんやり現れ、そこに共通の「法則」が見つかった時、個々の事案は捨象されて「法則性」が「概念」として現れる。
しかし、そこではその「法則性」は個々のもとの事案にも適用できるということは前提です。「公共性」も「法則」のように「個々」に戻っても適用できるという「抽象」でなくてはならないと思われます。でもどうも「公共性」はそうならず「個」が消えてこそ,あるいは個を否定してこそ「公共性」があるような顔をしているように見える。「公共性」は「法則性」のように「個」に戻っても「適合」できる関連性が維持されなくてはならないと思います。

ここで「共同幻想論」で国家のような「公共性」だけではなく、個人が集合としてある組織、システムの問題を「共同幻想」として、その問題を徹底して追求した戦後最大の思想家と言われる吉本隆明の著書から、「公共性」という言葉を使って書かれた文章を引用したいと思います。うっかり読み過ごしていた著書から見つけました。

【公共性、集団性、大秩序は個人の私的な「自由な意志力」の総和の意味を持つときだけ成り立つ。個人の「自由な意志力」が減殺される場合には、公共性、集団性、大秩序は成立しないとみるべきものだ。二十世紀の問題性、教訓性、倫理性について未来へ残るとすればそれが最大の点だ。そう述べた後次のように結論する「わたしが現在言えることは個人の「自由な意志力」の集まりだけを「社会」の公共性というべきで、そのほか「国家」とか「社会」とか「公共機関」と偽証することを許すべきではない」】(「中学生のための社会科」第三章 国歌と社会の寓話 4自由な意志力について)

ここには私が書いた以上の強さで【「個人の「自由な意志力」の集まりだけを「社会」の公共性というべきで】と書かれている。抽象どころか具体的な生身の生命を持った個の集まりそのものが公共性だと言われている。ただそれにはだいじな条件があり、その個人の私的な「自由な意志力の総和」として成り立つことが必要で、それが一部でも「減殺」されれば「公共性」「集団性」「大秩序」は成り立たないというのだ。多数決では「減殺」された「個人」がいるのが黙殺されることになり、それではだめだというのだ。私の考えは否定されたといえると思う。その現実に目をつぶる「国家」とか「社会」とか「公共機関」というようなないわゆる「公」を標榜するような組織は「偽証」(虚偽の陳述)であり、許されるべきでないというのだ。私のこれまでの考えもここでは否定されたと思える。もうひとつ個の私的な「自由な意志力」とはなにかが重要な成立要件であり、これについて次回検討したい。この「自由」はわがまま勝手とは違う個とは予感される。それを吉本の考えから解き明かしたい。

  

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