気まぐれ人間の気まま情報新聞

どこかにいる、もう一人の自分のようなみんなへの、ひとりごとのような、語りかけのような、あいまいな発信基地不明の新聞です。

「詩」のことが気にかかって、ときどき読みます。

2009-07-25 21:39:05 | Weblog
書けないのに、よく読みます。はじめは読むこと自体しなかったのは先回書きました。絵とか、音楽とか、詩とか、よくわからないなと若い頃思っていて、コンプレックスに近かったです。

たとえば絵です。見てても「わからない絵」ってありますよね。「なに書いてんの」と思ってしまうわけです。でもあるとき「意味」って考えてたら、つまらないと思ったんです。色がきれいだとか、なんかおもしろい感じとか、絵は見るんだから、こちらがふっと感じるの自分に自信もって、見てなんか感じればいいじゃんて居直ったんです。あほかっていわれそうですけどね。すこし自分に自信持てたので居直れたのかもしれません。

そうしたら、絵は前よりもっと心に深く受け入れられるようになってきました。抵抗がなくなったわけです。描いたひとと同じ意向でないにしても、なんか「そーか、いいね」思うようになりました。あー、心の普遍性ってあるなーと今は思ってます。

これは実は音楽にも、詩にも同じだったんです。「なに表現しようとしているの」「どんな意味なの」って考えていたのです。普通知ってる歌とか以外のクラシックとか、ジャズとになるととたんにそう考えてしまっていたのでした。絵や音はきっとことばよりももっと直接的な媒体なのでしょうね。耳や眼の神経はいちばん脳に近いところにあるせいかなと思いこんでます。

でも、ときどき、なに言ってんのと言われそうなことを実はまだ考えてます。色や音をなぜ人間は心地よいと思ったりするようにできているのか。すてきな色や音が
なかったら、どんなにこの世はつまらないだろう、あってよかったと思います。個人的にお酒がこの世界にあってよかったと思うように。

詩は絵とか音楽と同じように「意味、意味」て考えないように読むようにしていきました。そしてすこしずつわかるようになってきました。

今は、すべて芸術なるものは、絵に、音楽に、ことばにうまく表現できないもの、出したいのにできないものを必死に表現したいという心の深い欲求から出てくるのだなと思っています。それはどこかでうまく表現できないわたしにもどこかで共通するものだと思うようになりました。その成果を見てきっとわたしたちは感動しているのだと思います。

わたしの好きな吉本翁が、現代の有名な詩人が集まった講演で、詩のはじめは自己慰安からであり、好きな詩をまねしていったといっていました。きっとそれは絵にも、音楽にも同じ出発であると思います。自己慰安というのは、自分でそれをひとりでしているとほっとする、楽しいも含まれていると思います。

きっと何もできないわたしは、成果を手元においてそのすてきに浸りながら、どこかでわかる気がして自己慰安されている気がします。