気まぐれ人間の気まま情報新聞

どこかにいる、もう一人の自分のようなみんなへの、ひとりごとのような、語りかけのような、あいまいな発信基地不明の新聞です。

油断するとゴミはウイルスのように忍び寄る。

2009-07-10 22:09:12 | Weblog
片付けられない人々は見るところ独り住まいが多いような気がします。その点わたしも十分資格があると思います。ペアともどもというのはあまりいない気がします。二人いるとどちらかが気がついてチェックがはいるような気がします。

片付けるというのは身についているかどうかで違う気がします。いちばんかわいそうなのは「片付け方がわからない」というのです。これはしつけのせいですかね。美的感覚とかの前の段階です。これなどは昔の自分も含め同情します。

テレビなどで「困った人々」として取り上げられますが、気持ち的にはだれかペアがいればなーと思ってあげてしまいます。

独りになると片付けに厳格な規律のないわたしなどはふっと気を抜いて「ちゃんとこんどするから今日は、」などとふところの深いところを自分に許し、日を繰り延べます。でも二日も気を抜くと読むはずだった新聞の朝夕刊が分厚い宣伝をはさみこみ、帰りに買うビニール買い物袋、とうもろこしの皮、枝豆の食べがら、焼酎のビン、発泡酒の350ミリ缶、ついでに台所の皿やコップ、箸などがところ狭しとわたしを鞭打ちます。反省が苦手なわたしですが、犯罪の証拠を目の前に突きつけられ、「このままでは生きていけない」と苦悩し、「近々片付けを実行にうつす」と覚悟を決めます。これができなければ人生の落伍者と同じだと自虐的な気持ちになるのです。

これからも意識的努力をして、きれい好きになり、禍根を残さず死にたい、・・・、嘘です。

いまのところ急に湯を吹き上げる間欠泉のように、ギリギリの1週間ベースでふっと幸せになれています。でも、これをもう少し・・先に延ばしたら・・・、きっとあのテレビの人のように・・・。どこかで持続せねば・・・。かっこいいことばなど人に吐けない。かっこよくしゃべっていて、台所を思い出したら、なにもいえなくなる、かもしれない。

きれいに片付き、高級そうな安いワインを静かに飲みながら、わからないジャズを
知っているように聴く。世界の不幸を憂い、そう思う自分に祝杯をあげる。

やっぱりゴミのほうが現実的で、身につかない。これからもゴミに追われる自分との戦いを繰り返す。

しかし、秘かにこの頃思ってます。ここにわたしは存在するという「心の実感」はないけれど、「食べ続け、生き延びているこの身体は存在」するというのをゴミは周りを囲んでくれることで、わたしにいつも自己確認させてくれる。こちらのほうが確かなのではないか、あやふやな心などとくらぶれば。

ちょっとわれながらさびしい自己覚醒ですが、このあたりからしか自分の影が確かめられない気がちょっとしているのです。時間は止められない。でも身体の存在した影はもしかしたら、残る。

絵とか音楽は残る。文章は心もとない。バナナの皮でも残そうか。誰かがかつて存在して食べた証拠ののように。