綾戸智絵がコマーシャルで障害がある母親らしきひとと共演し、さらっとあの猛烈な元気さで「リハビリは生きることよ」っていう場面がありました。えっと思いました。それは障害やリハビリは特別のものではない、生きていく過程に起こりうる自然なことでしかないという考えのように聞こえました。そしてそこから出発してリハビリするのは、そのものが元気に生きていることと何の変わりもない生きることよというメッセージに聞こえました。
NHKで脳出血でマヒ障害になったキャスターが、リハビリ番組を主催していました。日本の昆虫の世界的写真家が脳出血で身体不随になり、「写真家は死にました」と挨拶状を出し生きる気力をなくしていました。でもリハビリをするなか、散歩の途中、リハビリで花の咲く場所に案内され、写真のことを思い出さされます。その後彼は昆虫のいる場所に変え、身体の動く場所での写真を撮りはじめます。「身体が不自由でもそのなかでできることがある」それが彼の今の生きる気力、迫力になっているといっていました。
わたしは老年であることが実はリハビリ対象であると年とともに感じ始めています。それは突然来るかもしれないし、影のようにかもしれないが、しかも確実に近づいてきます。
それは受け入れます。しかし、同時に受け入れたくありません。若者のように戻れないことは残念ですが、そのまま受け入れるのではなく、できる範囲で抵抗したいと思います。それはリハビリと同じ考えです。それは生きていく限り当然のことのような気がします。
そして抵抗はそれなりに効果を出していることを感じています。わたしはテニスが好きでしたが、股関節の痛みで1年間無理でした。でも痛み治療や太りすぎの体重を落としたり、カルシウムを取ったりしたのがいいのか、今は1週間に1回のテニススクールに通い、不思議ですがだんだん早く動けるようになってきています。続けていくとほったらかしより、回復していくことができるのです。
心が絶望してリハビリをあきらめても、身体は期待して待っていることがあるのです。だから、リハビリは生きていこうとする意志と同じであり、その意志は生きることと同義な気がします。
でも、予期せぬことはこれからもあるかもしれませんが、死なない限り、そこからできることはしていく以外にないだろうと思います。
NHKで脳出血でマヒ障害になったキャスターが、リハビリ番組を主催していました。日本の昆虫の世界的写真家が脳出血で身体不随になり、「写真家は死にました」と挨拶状を出し生きる気力をなくしていました。でもリハビリをするなか、散歩の途中、リハビリで花の咲く場所に案内され、写真のことを思い出さされます。その後彼は昆虫のいる場所に変え、身体の動く場所での写真を撮りはじめます。「身体が不自由でもそのなかでできることがある」それが彼の今の生きる気力、迫力になっているといっていました。
わたしは老年であることが実はリハビリ対象であると年とともに感じ始めています。それは突然来るかもしれないし、影のようにかもしれないが、しかも確実に近づいてきます。
それは受け入れます。しかし、同時に受け入れたくありません。若者のように戻れないことは残念ですが、そのまま受け入れるのではなく、できる範囲で抵抗したいと思います。それはリハビリと同じ考えです。それは生きていく限り当然のことのような気がします。
そして抵抗はそれなりに効果を出していることを感じています。わたしはテニスが好きでしたが、股関節の痛みで1年間無理でした。でも痛み治療や太りすぎの体重を落としたり、カルシウムを取ったりしたのがいいのか、今は1週間に1回のテニススクールに通い、不思議ですがだんだん早く動けるようになってきています。続けていくとほったらかしより、回復していくことができるのです。
心が絶望してリハビリをあきらめても、身体は期待して待っていることがあるのです。だから、リハビリは生きていこうとする意志と同じであり、その意志は生きることと同義な気がします。
でも、予期せぬことはこれからもあるかもしれませんが、死なない限り、そこからできることはしていく以外にないだろうと思います。