S多面体

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」のショート版

「S多面体」と「多面体F」の統合

2022年07月08日 | 総目次を作成

「S多面体」を立ち上げたのは、2021年6月だった。長引くコロナ禍で、イベント、集会が激減し、博物館・美術館も閉館しているので、多面体Fのネタ探しが大変になってきたことが立ち上げの理由だった。
しかし、ここ2カ月ほどコロナ状況が改善し、イベント、集会がわりに順調に開催されているので、また元のように多面体F1本に戻そうと思う
そこで、本来ならS多面体にアップしそうな
 2022年6月20日 さようなら、岩波ホール
 2022年7月8日  ヒューマニズムを凌駕するカネの力  デュレンマット「貴婦人の来訪」
の2本を多面体Fに掲載した。
S多面体も、リンクなどで見にくる人がいる可能性もあるので当分削除せずこのまま休止状態にするが、多面体Fにも同じ記事を転載するつもりだ。
本日は、2021年6月コロナ禍の銭湯巡り・十思湯から8月の公開中 東京銭湯フェスティバルで見た二つの銭湯アートまでの5本を転載した。
ということで、今後は多面体F https://blog.goo.ne.jp/polyhedron-f をご覧いただければとお願いする次第だ。

ただし、収まりつつあると思った東京のコロナ新規感染者数が、ここ1週間ほど急激に増加している。参議院選が終われば一段と数字が増えそうだ。そうなると都や国は、また何らかの規制をせざるをえないかもしれない。以前のようにふたたびイベント、集会が規制される状況になれば、S多面体に避難することもないとはいえない。
先のことはわからない今日この頃だ。


トークインを聞いた第96回国展

2022年05月16日 | 展覧会・コンサート

六本木の国立新美術館国画会第96回国展をみた。
コロナ禍のせいで、国展が国立新美術館で一般公開されるのは、2019年以来3年ぶりのことだ。やっと日常が戻りつつある。とはいうものの相手はウィルスなので、ふたたび新規感染者数が増えつつあり、収束を見通せないのだが・・・。
今年は運よく、トークイン「聞こえますかアートの声」のツアーに参加することができた。7年前に一度当たったことがあった。1グループ20人ほどに分かれ、1部門につき作者1人の声を15分ほど聞くツアーで、5部門あるので全部で1時間半ほどになる。
もちろんトークインの目玉は作者の思いを直接聞くことだ。

坂本伸一 「円相」
絵画坂本伸一さんは、「子どものころから、そっくりに描くのが好きだった。大学生のころ「本質」は何か探ることに熱中し、たとえば椅子の本質は「座る」機能というように、プラトンのイデア論などを参考に、本質を見ることを考え、「そっくり」に描くことをやめ、写実から離れた」と語った。そしていちばん大事なのは宇宙だと悟り、色と光、見えないものを描くようになった。形としては円に辿りついた。丸のなかにCPU,メモリー、育てている花、貝など自分にとって大事なもの、好きなものを描くようになった。絵の形が菱形なのは意味がある。壁との境界を意識させ、壁にかかった見えないものを見せたいという意思がある。真ん中から外に、エネルギーが放射的に出ていく。見ていて楽しいといい。
彫刻新井浩さん。今回の出展作は、龍角寺の注文で制作した龍の彫り物だ。はじめは自分で龍を彫るつもりはなかった。しかし寺から、前回の作品は400年前の作で、次回は400年後の予定と聞いた。400年もの長い年月残るものとして何がよいか考えた結果「世の中を守る」という言い伝えがある龍、それも羽があり飛ぶ龍を選んだそうだ。応龍という水を司り治世を守る龍である。部屋の内部に貼る面(内陣)には龍、寺を訪れる多くの人が見る外側には、釈迦が牛になり飼い主に恩返しするシーンを彫った。釈迦がインドに生まれる前、ヒトや動物として生を受けていた前世の物語、釈迦本性譚のことでジャータカとも呼ぶ。

柴田吉郎「冬の旅(小谷)」
版画柴田吉郎さんは、出展歴35年、初期は多色の抽象木版だったが、20年前に白黒の具象、そして10年前から雪山をバックに村の暮らしを描く「冬の旅」シリーズを制作している。人間の逞しさや健気さが感じられる存在感ある風景を表現したいことがコンセプトで、表現としてはみずみずしく、柔らかな、味わいある水性木版画にこだっている。
今回の「小谷」は白馬三山をバックに中世の塩の道にある豪雪地帯の古農家群を描く。家の前の雪掻き人は、作者の分身で、宋の山水画の考え方に倣った。
写真部・乙女敏子さんは、地元大分の風景を撮り続けている。「息吹」は12月雨上がりの朝、木の水分が蒸発しているのが呼吸のように見え、その美しさを撮った。森や林の荒廃に心が痛むという。しかし仮に何もなくなったとしてもそれまでの「変化」を撮り記録として残したいと語った。
工芸部・谷淵洋子さんの「はな」は、花の雰囲気が出るようにと心がけている。何の花かはわからないがイメージで伝えたいとのこと。
わたしたち鑑賞者は、完成作をみてイメージを膨らませ好き嫌いの感想をもったり、見事な点、感心する点の批評をするが、作者はいろいろ考えながら制作していることを知ることができ、今後の観方に深さが増す体験となった。
作品解説のあと、質問タイムがあった。コロナ禍なので口頭でなく、タックシールに質問を書き、スタッフが集め司会者が取捨選択して作家に聞くかたちで進行した。
今回わたしが参加したグループは中高校生など若い人が多かった。おそらく美術部所属の「クリエイター」なのだろう。それで制作手順、技法、素材に関する質問も多く出た。
写真部・乙女敏子さんは、稲わらに上る蒸気、靄(もや)、霧や雲など水蒸気を素材にして白黒で完成させる作家だ。
白黒写真は現像・焼付けに完成度が大きく左右すると思われるので、やり方をお聞きした。まずカラーのデジタルカメラで撮影し、自分のパソコンで白黒に変換し、アドビで多少手直しするが、いじりすぎると汚くなるそうだ。デジタル時代にはそういうやり方をするのか、と了解した。ただし、いまも銀塩フィルムで撮影し、自分のラボで現像、紙焼きをする伝統的なやり方で行う写真家も健在だそうだ。
乙女さんは看護師、42、43歳ころから撮影を始めた。75歳のいまも午前は撮影、午後、老人施設に出勤し看護の仕事を続けているとのこと、ビックリした。
洋画の坂本さんは、ポリエステル樹脂が中心で、顔料で色を付け硬化剤で固める。とくに半透明の色を出すのに苦心されているとの話だった。貝など好きなものをひとつ置くたびに樹脂を流すので手間がかかる。
また作品の重量が、たとえばこの作品は25キロあり、体力づくりも重要だ。週1回ジムに通い鍛えている。
彫刻の新井さんは、必死にならないと世の中を守ることはできないので、「彫刻刀を抑制的に使い、龍のあごを引くようにした。刀は直角に当てるが、数を数えると300万回、すなわち300万刀だった」とのこと。仏師のような話だと思った。また木は、伊勢神宮の式年遷宮に使う予定だった300年ものの檜を使えたそうだ。300年ものといっても古木ではなく、つい最近まで森に生えていたもの。作品の側面をみると7-8センチあり、さらに彫面がそこから飛び出している部分がある。おそらく10-12センチの厚みのある一枚板の両面に「300万回」彫刻用の鑿(のみ)を当て、完成させたのだろう。
版画の柴田さんは、インクより墨のほうがよいが、これはアイボリーブラックを使っている、また黒は2版使っているそうだ。おそらく深みを増すためだろう。また「ぼかし」も重要で、影に深みをつけたかったそうだ。湿度も重要で、谷崎の「陰影礼賛」を参考にしたとのこと。

その後、展覧会場の各部を順番に回った。
写真部以外は自由に作品を撮影できる美術展だが、残念ながら記事の写真点数の制約から8点ほどしか掲載できない。国画会のサイトで、会員・準会員の昨年までの作品はみることはできるので、作風はわかる。下線のリンクをダブルクリックしてご覧いただければ幸いだ。

池田リサ「板締絣着物」、右は山口小枝「春はすぐそこに(水仙)」、左は徳永伊都子「モリノオト」
まずわたくしが一番好きな工芸部から。好きだった作品を列挙するに留める(以下、原則として敬称略)。
で今年わたしが好きだった系統は2つある。ひとつは緑色系統の作品。石田直「杉の森」、村江菊絵「冬華」、池田リサ「板締絣着物」の両側もたまたま緑の作品だった、杉浦昌子「あめんぼう」、濱本初美「草木染め紬織 アヤソフィア」も緑の系統だった。おそらくちょうど新緑の季節なので、心地よく感じるのだろう。

東嶋眞由美「光燿」
もうひとつは紺やベージュなど上品な感じの作品。たとえば和宇慶むつみ「花織着物 水鏡」、石黒祐子「回雪」、足立紀美子「紫雲」、東嶋眞由美「光燿」など。

小島秀子「crossing time」(中央)
いつも楽しみにしている小島秀子の今年の作は「crossing time」、「+」マークを紺、黄緑、白抜きの3種と白抜きの「-」の4種をひとつおきに組み合わせたパターン柄だった。左右の帯と比較するとわかるが、幅が3倍ほど広い。パッチワークのようにつないでいるようだ。ただ両端の帯はしっかりしている。これは制作意図を聞いてみたい作品だ。
今年3月7日人間国宝・宮平初子さんが99歳で死去した。追悼記念をやらないのか、受付で聞いたが今年は間に合わなかったようだとのこと。宮平さんの作品は、わたくしが国展を見はじめた2008年ごろ首里花織に感動した。作品の出展は2012年ごろまでで、2018年にはお嬢さんのルバース・ミヤヒラ吟子さんも亡くなられた。

染・柚木沙弥郎の4点の記念展示
で、今年10月柚木沙弥郎さんが100歳を迎えるので過去の作品4点の記念展示をやっていた。柚木さんは1959年24歳で初出展、今回で73年目になる。作品は右から2014年、92年の「萌」と「巴」、70年代の「注染布」だ。わたしが一番好きなのは2014年、すなわち90代のシンプルな作品だ。なお今年は、大澤美樹子「夜間飛行」、三戸和雄「じゅげむじゅげむ」など大柄で力強さのある染の作品に魅かれた。藤岡あゆみ「めぐる」も緑という点で好きだ。

布川穣「色釉扁壺 芽吹」
陶の新人賞・岡本ゆう「飴釉陶箱」の飴の渋い色がなんともいえずよい。瀧田史宇阿部眞士などの白磁はやはり好きだ。松崎健「窯変灰被花器」は不思議なフォルムと色の器だった。窯変天目という名はよく耳にするが実物をみたことはない。こんな色合いなのかもしれない。また布川穣「色釉扁壺 芽吹」は白地に深緑と藍色、グレーの壺だが、デザインっぽい作品でとても陶器にはみえず、陶はこういう可能性もあるのだということを実物で示してくれた。わたしには実験的な作品にみえた。
 

伊東啓一「既視感の情景2022―A,B」
絵画は5部門のなかで社会の動きをいちばん反映しやすいが、2月末に始まったウクライナでの戦争を取り上げた作品は4月22日受付締切りということもあり、時間的にムリなのでなかった。ここ2年続くコロナをテーマにした作品はあった。伊東啓一「既視感の情景2022―A,B」だ。防護具を付けた救急車の職員や医療関係者、わたしが嫌いな「Social Distancing」(Physical Distancingと呼べばいいのに)の看板と大勢の人、バックには墓地がみえる。真ん中に希望に満ちたような4人家族、なぜかハダシだ。長引くコロナ禍での「希望の見えない社会」の皮肉かもしれない。柳裕子「Power of Soul Ⅰ」は助けを求める人のようにみえた。
スーパーリアリスティックな青木勇治「聞こえるB」も強く印象に残った。
坂谷和夫野々宮常人東方達志安原容子瀬川明甫推名久夫上條喜美子らはいつもの作風の作品で、3年ぶりだったが、なんとなく安心しほっとした


黒沼令「画家Ⅲ」
彫刻部では、大きな作品が目立った。たとえば入口にあった小林駿「生命」はマンモスの頭部にみえる。会場の中心にあった杉崎那朗「大地の化身」は相撲取りの土俵入りのシーンだが、大きく、かつ鉄製なので、重量を感じる。黒沼令「画家Ⅲ」の靴とズボンの質感のリアルさは半端でなかった。坂本雅子「そーっと」は、寝入った幼児を起こさぬよう微笑むお母さんの姿にほのぼのとした。また原敏史「生きる」は狸(あるいはアライグマ)が罠にでもかかったのかゴロンと横になった情景、しかし生きようとあがく。一方、こじまマオ「銃よ・・」はチンパンジーと銃をもつ褌姿の男性が向き合って座るシーン。銃が暴発するとどうなるのかと思う。ウクライナで戦争継続中だけに、人はチンパンジーと同等だと皮肉ったブラックユーモアの作に見えた。
写真部は作品の紹介ができない。石堂孝司「光を感じて」、藪本近己「浴場」のヌードはたしかに美しい、また鈴木里奈「透視眩」は、障子の前で舞う赤い帯の女性を丸いのぞき窓を通して見るシーンだが、構図のいい作品はやはり美しい。

西野通広「明日があるさ」
最後に版画部3年前同様、自然に西野通広「明日があるさ」に目がいった。JRのガード下の居酒屋「呑み処みさ」コロナだからか、扉が開いていて、客が少なくとも1人いるのがみえている。外を歩いている人は店に注目しているが、入るのだろうか。「明日があるさ」というほど希望にあふれているわけではない。コロナ禍もあり、心のなかはやけっぱちなのかもしれない。
木村哲也「キャンプファイヤを囲んで」は猫のキャンプ場。「受付」があり、竈があり、バンガローがある。釣りをしたりバーベキューを焼いたり。夕日が沈み、真ん中ではキャンファイヤを囲み、大勢の猫が歌を歌っている。懐かしい風景だ。

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寅さん映画の高梁、津山への旅

2022年04月21日 | 旅行

岡山に旅をした。「男はつらいよ」の車寅次郎は啖呵売の仕事で旅していたので、北海道から沖縄まで全国どの県にもロケ地がある。岡山県では高梁と津山である。
高梁は71年冬公開の第8作「寅次郎恋歌」(マドンナ貴子=池内淳子)と83年冬の第32作「口笛を吹く寅次郎」(朋子=竹下景子)、津山は95年の最終第48作「寅次郎紅の花」の舞台となった。
高梁は博(前田吟)の実家がある場所で、8作では母の死、32作では父の三回忌が行われ、博の兄弟家族が集合する。
高梁の駅は71年の木造駅の面影はまったくなく、2階から下りるようになっていた。観光案内所とレンタサイクル貸出所があるはずで、自転車は間違いなく地上なので1階で探したがわからず、2階に戻るとツタヤ経営のカフェ兼図書館の向かいのみやげものコーナーにあった。

まず駅裏の薬師院に向かう。入口に「男はつらいよ ロケ地」の石碑があるのですぐわかる。映画ではずいぶん高そうな石段だったが、段数を数えると途中の踊り場も含め64段でたいしたことはない。見下ろすと法事の酒で酔っ払い、手すりにつかまりフラフラ上る和尚(松村達雄)を追う和服姿の朋子(竹下景子)が「お父さん、だいじょうぶ? ありゃりゃ、やっぱり酔うとる、しょうがないなあ」と声をかけていたシーンが思い浮かぶ。上を見上げると境内から「寅さん、明日の法事のことで電話が」と声をかける朋子へ「はいはい」と上機嫌で石段を駆け上がる黄と緑の袈裟姿の寅さんが見えるようだ。寺そのものは、申し訳ないがそれほどの規模ではない。この山裾のあたりは寺町でいくつか寺が並ぶが、もっと大きな寺もありそうだ。墓の近くで集合写真を撮ったとき寅さんが「笑って」といい失敗に気づき、次は「泣いてー」と声をかけた巨福寺と寿覚院の境界も少し北にあった。
博の実家のある武家屋敷の岡村家と平時に備中松山藩藩主が居住した尾根小屋の跡地にある県立高梁高校をみて、紺屋川(こうやがわ)筋美観地区へ。まず観光物産館を訪ねる。高梁が舞台の8作、32作だけでなく50周年記念の50作(2019年末公開)のコーナーもあった。スタッフ以外にたまたま地元の方がおられ、ハンコ屋さんは映画のころはここにあったが、いまはここに転居したとか、昔はここに肉屋さんがあったなど、地元の事情を親切に解説していただいた。50年も昔の話なので当然町は変わっている。
しかしひろみ(杉田かおる)の実家、白神食料品店の店はあったし、店の前の石の相生橋はそのままだった。

方谷橋を渡り、ひろみが寅さんにグチをこぼす方谷(ほうこく)林公園を探したが、山の上り口が右か左か判断がつかない。建設工事の交通誘導をしていた係員に「もし、おわかりでしたら」と声をかけると教えてくれた。そう遠くはないところに在住の方だったのだろう。都会では考えられないことだ。
しかし「公園」というがかなり高いところまでいってもそれらしいところがみつからない。がんばって頂上にたどりついたが少し下に「岡山県原爆慰霊碑」しか見当たらない。どうやら中腹の「高梁三賢人詩碑」のあたりから高梁川と町を見下ろしたシーンのようだった。なお「方谷さんを大河ドラマに!」のポスターは街の各所に貼ってあった。キャンペーン展開中のようだ。
高梁でロケした2作の作中で「誰か故郷を想わざる(作詞:西條八十、作曲:古賀政男)が何度か歌われる。寅さんが「ペコペンポンポーン」と口ずさむと博の父、ひょう(風へんに火が3つ)一郎が「ちょっとその歌やめなさい」とたしなめた歌だ。そのあとリンドウの花が咲き誇る農家の茶の間の夕食の風景の「いい話」に移る。しかし32作ではいい気分になった和尚(松村達雄)までこの歌を歌っていた。高梁のテーマソングにしてもよさそうだ。また8作は、初代おいちゃん(森川信)が登場した最後の映画だった。
なお高梁には、たかはしフィルム・コミッションがあり、寅さん映画がいちばん古いほうで、その後「八つ墓村」(77年版、96年版)、「東方見聞録」(96)、「県庁の星(2005)、「バッテリー(06)、「釣りバカ日誌18(07)、「ルパンの奇厳城(10)、「アニメ:愛・天地無用!(14)などの映画のロケ地に選ばれた。

次に津山を訪れた。48作のロケ地といってもメイン・ロケはリリーが暮らす奄美大島で、津山はプロローグの美作滝尾の駅舎での「尋ね人」の新聞広告とタイトルバックの津山祭りを含めても10分程度しかない。しかし48作全体のストーリー上では、大きな意味をもつ。満男がダスティン・ホフマンになりきり、泉の結婚式をぶち壊すのだから重要なロケ地だ。
まず満男のレンタカーが新郎新婦の車を妨害する場所を探した。津山の城東地区には東西方向に3筋の通りがある。箕作阮甫旧宅・造り酒屋・旅館など伝統的建造物が並ぶ南の旧出雲往来、少し坂を上がった通り、そして妙津寺、津山祭りの大隅神社、蓮光寺、千年寺、大信寺などが並ぶいちばん山側(北側)の通りだ。観光客のほとんどは南の道を歩いている。満男の車が停車したのは真ん中の通りで、大信寺への参詣道との交差点付近ということになっている。車に立てこもった満男が外に出て「泉ちゃん、結婚なんかやめろ!」と叫んだのは、写真のあたりかと思われる。だがロケから25年もたち、建て替えた家も多いと思われる。入道坂から2度ほど往復してみたが、はっきりはわからない。ただ軽自動車でもすれ違えない一車線の狭い道路であることは変わらないはずだ。自転車と車でもどちらかが譲り、脇道によけないと無理だった。

美作滝尾の駅にも行きたかったが、片道10キロ以上あり時間的にムリそうだった。電車で往復とか片道はバス利用も考えたが、本数が少なすぎて難しい。あきらめて、代わりに泉の夫になるはずだった若い医師の実家に行くことにした。瓜生原という地名はわかっていたが、範囲が広く、自宅で距離を測ったときはいちばん近いところをみたのか片道2㎞くらいと思い込んでいた。しかし実際には目的地まで片道7㎞近くあった。集落のあるあたりを歩いてみたが、わからない。たまたま畑で農作業している方をみかけ、お聞きすると「あの白壁のお宅」と教えていただけた。たしかに立派な門のひときわ立派なお宅があった。屋敷の庭で記念写真を撮り、白無垢姿の泉が出てきた門だ。
戻ってから今度は城西地区を回った。江見写真館、作州民芸館(旧土居銀行津山支店)、城西浪漫館(旧中島病院本院)、津山高校旧本館(旧津山尋常中学旧本館)など洋風建築が多い。明治村に来たようだ。
商店街の出口のあたりでお茶屋の店の方に道を聞いたとき「西の毛利の侵入を恐れ、入口を寺町にし、寺の物蔭からズドンと鉄砲を撃てる街づくりにした。藩主・森家の菩提寺・本源寺は他の寺より少しはずれ奥まったところにつくった」と歴史的な町づくりの経緯まで解説していただけた。「東京から旅に」というと、その方も長く東京で働いた体験があるとのことで、少し話すと近い業界におられたことがわかり話が弾んだ。その他、津山観光センターのスタッフ、城東の作州城東屋敷のスタッフもともにていねいで親切だった。

備中高梁は伯備線、津山は津山線で行った。どちらも岡山駅が基点である。
渥美清つながりでもうひとつ、岡山が舞台の「拝啓天皇陛下様(野村芳太郎監督 松竹)という映画がある。1963年の映画なので、渥美がまだ35歳のときの映画だ。NHKの「夢であいましょう」「若い季節」で全国的に有名になって2年後の映画である。
岡山の歩兵第10連隊や中島遊郭が出てくる。連隊の跡地は岡山大学津島キャンパスとのことだったが、北に遠そうなので行っていない。中島遊郭跡地は通り過ぎたが、少しだけ残る古い木造家屋の2階の窓などに面影らしいものがみられただけで、いまは普通の住宅街だった。映画としては、渥美の1年後輩の新兵役・藤山寛美の演技がすばらしい。渥美はこの映画でもマドンナ・高千穂ひづるに振られる役だった。

また岡山市は、今年4月8日まで放送された朝ドラ「カムカムエヴリバディ」の第一部・岡山編の舞台である。里帰りしたときと最終週に孫のひなたと祖母・安子がダッシュしていた商店街に行ってみた。天満屋デパートから100mほど南へ行った栄町商店街からさらに100mほど先の紙屋町商店街、そして角を左折して西大寺町へと向かうルートだ。
ドラマを連想させることというと、わずか50-60mの範囲に大森楽器店、服部管楽器、長谷川楽器と楽器店が3店もあることだ。ジャズ喫茶はみつからなかったが、外観が似たような店はあった。ただしサンドイッチとピザの店だった。帰京してからネット検索したちばなのモデルのひとつ、翁軒もすぐ近くにあった。店の前を通過したはずなので惜しいことをしたと思った。
総合グラウンドにある偕行社へも行った。外観はドラマのままだったが、屋内のホールをみようとすると、喫茶しかなく、あれはテレビスタジオのセットだという話だった。なおグラウンドは旧陸軍の演習場だったということなので「拝啓天皇陛下様」で昭和天皇が白馬で閲兵した場所なのかもしれない。
そのあと安子と稔が自転車の練習をしていた後楽園近くの緑地にも行ってみた。相生橋を渡ったところから歩き始めた。河原に下り「水辺のももくん」を探した。対岸の中州にあると気づかず、かなり上流まで歩き渡橋をみつけるまで不安だった(といっても往復500mくらいでたいした距離ではないのだが)。
「たちばな」で思い出した。るいが京都の植物園近くで営んでいた店は「大月」だった。回転焼きが名物かどうかはわからないが、回転焼きも置いている和菓子店で「鼓月」というチェーン店がある。ただし読み方は「こづき」でなく「こげつ」である。それほど古い店ではなく、敗戦直後の1945年10月創業、53年1月に鼓月と店名改称。わたしは京都の北のほうの店だと思い込んでいたがネット検索して本店が中京区西ノ京、千本丸太町の南西500mくらいにあることを知った。

津山城のさくらまつり
岡山はどこも、桜満開から散り初めの旅だった。とくに津山ではたまたま「さくらまつり」開催中で津山城(鶴山公園)の夜桜はみごとだった。長年蓄積したライトアップ技術の集大成だったと思われる。また地元の方の話では、例年雨に降られることが多いそうだが、今年は快晴かつ温暖で人出も多かったそうだ。
今回は3つの街ともレンタサイクルで回った。メリットは時間的効率がよいこと、デメリットはバス旅行同様、目的スポットのみ少しだけつまみ食いしすぐ次のスポットへ移動という旅になりがちなことだ。今回は高梁が2時間半、津山が昼間は4時間半のみとそもそも時間的にムリがあるスケジュールで、そういう感が強かった。それから地方ではどこも同じだろうが、自動車交通が当たり前で、狭い道やカーブでも車が結構なスピードで走っていて引っかけられないか不安を感じること、そして歩行者が稀で道を聞く人をみつけにくいことだ。なお岡山市はレンタサイクルのシステムもしっかりしていて、かつ自転車で走りやすい道路になっており、助かった。
徒歩にしても自転車にしても、いちばん心に残るのは地元の方とのふれあいだ。これは時代も場所も違っても、学生時代の旅からずっと同じ感想だ。岡山はどの町でも、観光案内所スタッフはもちろん、店の人も、通行の中年女性、作業中の男性、女子高生などみな親切でホスピタリティにあふれていた。たとえば岡山駅西口で測量作業のようなことをしていた方に、この方なら詳しそうだと道を尋ねた。するとその人もこの場所に来るのは初めてでわたしと同じ立場の人ということがわかったが、親切にスマホで現在地を確認し教えていただいた。方向音痴のわたしなので、180度間違った方向に走っていたことが判明した。

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首都圏9音大選抜オケの「ブルックナー」コンサート

2022年04月01日 | 展覧会・コンサート

3月26日(土)午後、ミューザ川崎で「音楽大学フェスティバルオーケストラ」のコンサートを聴いた。
  

このオケは、上野学園、国立、昭和、洗足学園、東京音大、藝大、東邦、桐朋、武蔵野首都圏9音大選抜メンバーで構成されている。メンバー表をみるとたとえばヴァイオリンでは1st、2nd各14人で、9大学各2人で17人(東邦のみ1人)、そのほか、桐朋3、武蔵野3、上野、国立、東京、藝大、昭和各1人、コントラバスは8人だが上野学園を除く各1人と、大学間のバランスに配慮しているようだ。在籍者数でみると、東邦や上野学園のように1学年50人台から洗足学園の600人台、国立の300人台と規模がさまざまなので、なかなか大変だと思われる。演奏者だけでなく、実行委員が各大学から4-6人、ライブラリアンや舞台スタッフも各大学から参加している。 
ただ、演奏指導者5人と練習会場提供は今回は東京音大だった。おそらく回り持ちかと考えられる
指揮は下野竜也さん、桐朋学園やイタリアのキジアーナ音楽院で指揮を学び、28歳より大阪フィル・朝比奈隆のもとで研鑚を積み、31歳でブザンソン国際指揮者コンクール優勝、2017年から広島交響楽団音楽総監督、京都市立芸術大学音楽学部教授という経歴の方だ。わたしが生で聴くのは初めてだ。
曲目は三善晃「祝典序曲」、ブルックナーの交響曲4番「ロマンティック」ハース版の2曲。
三善晃「祝典序曲」はまったく知らない曲だった。1970年3月の大阪万博用につくられ、しかももともと野外演奏(万博のお祭り広場)のつもりで作曲された。
4分ほどの短い作品だが、トランペット6本、ホルン6本、打楽器8人と、かなり派手な曲だった。木琴とティンパニーが大活躍、ラチェットも出てきた。曲が終わってから気づいたが、ハープ、ピアノまで入っていた。
演奏後、下野マエストロの指名賞賛奏者のトップはティンパニーの女性だった。

1曲目と2曲目のあいだに、管・打楽器メンバーが全員入れ替わるため5分ほど間があり、その時間を利用して下野マイスターから解説があった。このコンサートは新型コロナパンデミックで2回中止になった。日本の音大なのに、戦後有名になった日本人作曲家の曲があまり演奏されないので、今回は三善晃の曲にすることにした。当初、交響四部作の最後、「焉歌・波摘み」をセレクトしたが、4曲演奏のプログラムで進めていたのにコロナのため2曲に絞り、かつ休憩なしへと変更になった。ある程度大規模編成ということで「祝典序曲」を演奏することにした。
この曲は三善晃先生が37歳のときの曲で、パリ帰りの先生だが、歌舞伎の音楽や相撲の柝の音(きのね)などジャポニズムのエッセンスも織り込まれている。
マーラーやR.シュトラウスのアルプス交響曲は取り上げられたが、ブルックナーは初めてだ。それどころか下野マエストロが学生に「初めてブルックナーを演奏した人」と、手を上げさせると半分以上のメンバーが手を上げた。団員数が大きいアマオケでもマーラーと並び、ときおり演奏されるので意外だった。
マイスターは「ブルックナーというと、朝比奈隆オイゲン・ヨッフムのようなおじいさん指揮者の曲というイメージがある」「わたしは今年53歳になるが、50代は指揮者としてはまだハナ垂れ」と謙遜し「しかし若い指揮者、若い演奏家のブルックナーの『旅』をするのもよいのではないか」と考えたという。指揮者本人直々にコメントを聴けるとは、得した思いがした。

さてブルックナーの1楽章、冒頭ホルンがとても安定したソロを吹いた。トランペットもうまい。チューバの響きもすばらしい。フルートも安定した演奏だった。
2楽章は、コントラバスのピチカートやダイナミックな演奏が印象に残った。木管の掛け合いや、ヴィオラの澄んだ音もよかった。わたしは1階の6列目、舞台に向かってやや左に座っていたので、ヴィオラの音が耳にまっすぐに飛び込んでくる。弦のハーモニーをつくるうえでこんな重要な役割を担っていることをはじめて体感した。
ホルンのソロにクラリネットやヴィオラがかぶさる部分も聴きごたえがあった。
3楽章のホルンとトランペットにもシビれた。
4楽章は弦のトレモロ、ティンパニーの連打、ヴィオラのさわやかな合奏、管のハーモニー、そしてホルンがこの楽章でも、やはりすばらしかった。
1時間以上の大曲だが、あきることなく、音楽に酔いしれた。
プログラムに「次代を担う若い音楽家のドリームチーム」と書かれていた。性格上、この2日間のために編成された「一期一会」の特別なチームだと思う。何度くらい全体合奏できたのかわからないが、管打分奏指導の水野信行さん(東京音楽大学教授)はじめ、分奏指導の5人の先生方の力が大きかったのかもしれない。
下野さんは、立っているとき周囲の弦楽器の女性たちと比べても小柄な方で、上半身がしっかりし下半身が細く小さかった。指揮台での立ち姿がとても「絵」になる方だった。端正な指揮だが、鋭いところはとても鋭く、統率力が優れている。いまでも有名人だが、今後10年、20年、ますます期待したくなる指揮者であると思った。
終演後、拍手が鳴りやまなかった。歓声は上げられないが、2階席で「Bravo」の横断幕を掲げ振っている人がいた。カーテンコールも何度あったかわからない。指名賞賛奏者1番は予想どおりホルンのトップの女性だった。
祝典序曲もブルックナーも女性、ヴァイオリンのトップ、コンサートミストレスも女性、というかどのパートも7-9割は女性メンバーだった。まあ、そういう時代なのだろう。
日本のオーケストラの今後は明るい、と感じるコンサートだった。

ミューザ川崎の通路
このフェスは1999年にスタート、一時中断を経て2009年再開、今回は第11回だった。会場のミューザ川崎は2004年7月オープン、約2000席のホールで、サントリーホールのように舞台を360度取り囲む客席になっている。3階や4階はともかく、下の座席の音響はとてもよかった。パイプオルガンも設置されている。通路の壁の高いところに加工した写真が何枚か展示されている。おそらく、かつての川崎の風景だと思われる。どこかに解説板がありそうなので、次回来たときに探してみよう。

☆帰りに、東口・京急川崎駅から5分ほどの「立飲み 天下」に立ち寄った。ミューザの帰りはこの店へという定番ルートができてしまった。
マスターがたいへん低姿勢 「ごめんなさい」が枕詞のようにつく。こちらも自然に穏やかな気持ちになる。立飲みだが、けんちん汁(310円)、しゅうまい(250円)といった料理もある。酒と白ワインを2杯のみ、いい気持ちになった。
客は男性ばかり5人くらい。テレビでは巨人―中日戦の中継中で、8回ちょうど巨人が大量5点を取り、逆転しているところだった。そのまま試合が終了すると、大相撲14日目に切り換えられた。  
わたしは浜田さんのブログで知ったみせだが、たしかにいい店だ。

●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。


オーケストラコンサートも、社会情勢を反映する

2022年03月18日 | 展覧会・コンサート

人に誘われ、2つのオーケストラコンサートを聴きに行った。
ひとつは、3月11日(金)夕刻池袋西口公園の野外スタジオで行われた「ウクライナ応援コンサート(指揮・小林研一郎 主催:豊島区、コバケンとその仲間たちオーケストラだった。
曲目は、シベリウスの交響詩「フィンランディア」、ラヴェルのボレロ、アイルランド民謡ダニーボーイ(ロンドンデリーの歌)の3曲。

タイトルからもわかるよう、2月24日にロシアがウクライナに侵攻した戦争への抗議とウクライナを支援する趣旨のコンサートである。
主催者あいさつで知ったのだが、豊島区は1982年に23区初の非核都市宣言を採択した区ということもあり、3月2日、高野之夫区長・磯一昭区議会議長の連名で「核兵器の使用を示唆するようなプーチン大統領の一連の行為に対する厳重抗議」をプーチン宛に発出した。その関連のコンサートである。コンサートの話が持ち上がってから1週間で実現とのことで、 そのスピードには驚かされた。 
だから主催が豊島区なのだが、まず高野区長から趣旨説明を兼ねたあいさつがあり、続いてオクサーナ・ステパニュックさんの「ウクライナ国歌」独唱が披露された。この方は藤原歌劇団所属のソプラノで、かつウクライナの民族楽器「バンドゥーラ」の名演奏家だそうだ。

わたしは、基本的には「君が代」をはじめ国歌は好きではないが、ステパニュックさんの「ウクライナ国歌」(このサイトの10:53)は時機が時機だけに迫力を感じた。また開会に先立ち、会場で配布されたウクライナ国旗が青と黄の2色ということはたいていの人が知っているが、青は空、黄は麦を表す、だから「青を上、黄を下」に掲げるようとのアドバイスが、司会の朝岡聡さんからあった。これは聞いてよかった豆知識だった。
いよいよシベリウスの「フィンランディア」の演奏が始まる。金管(トランペット、ホルン(あっ、ホルンは木管だが)各4人、トロンボーン6人、計14人)はステージ上の2階席ひな壇のようなところに1列で座っている。コロナで密を避けるためと考えられるが、朝岡さんから「マエストロ小林じきじきに、いっそう輝かしいサウンドになることを説明するようにいわれた」とのコメントがあった。
2階席に金管、舞台下には男声合唱団が並ぶ
舞台下に30人くらいの衣装はバラバラの男性が並んでいる。警備スタッフではないフィンランディア賛歌を歌う合唱団で、慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団早稲田大学グリークラブのOB合同合唱団だった。急な話だったので、こういうことになったのだろう。
屋外の演奏で全員立ち見、マイクを通しスピーカーで大音量で流すので、重低音の迫力は感じるものの、演奏内容のほうは判断をつけがたかった。わたしは前から6列目くらいのステージに向かってやや右手で立っていたが、立ち位置や前に背の高い人がどのくらいいるかでも音環境はかなり変わると思われる。
小林さんの姿は、人と人の間から、小さくみえるだけなので、もっぱら舞台上部の大型モニターを見ることになった。
コバケンさんの指揮はたしかに見ものだった。7年ほど前のラ・フォル・ジュルネで小林研一郎指揮、日本フィルハーモニー、合唱・東京音大のベートーベンの「第9」の4K映像を見たことがあるが、「炎の指揮者」と呼ばれるだけあり、たしかに熱い演奏だった。
残念ながら、わたくしがコンサートを聴けたのはここまでで、あとはユーチューブで視聴このサイトで全体を視聴できる)しただけだったが、やはりプロの指揮者は違うと思った。
なおこの日集まった寄付金は、4月に小林氏がハンガリーを訪問するときに、ウクライナからハンガリーに避難した人たちに直接手渡すとのことだった。
また、目の前の東京芸術劇場1階で「キッズゲルニカ ウクライナ」という絵を掲示していた。ウクライナの子どもたちが描いた絵で、ピカソのゲルニカと同じ3.5m×7.8mのサイズの大作だ。

プログラム(右)は、予定された出演者のままで配布された
もうひとつ3月5日(土)午後、こちらも人に誘われて目黒パーシモンホールフレッシュ名曲コンサートを聞いた。曲目はベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲と交響曲7番、指揮・太田弦、オケ・東京交響楽団、ヴァイオリン独奏・高木凛々子というメンバーだった。じつは指揮・鈴木優人、独奏・戸澤菜紀で予定されていたのが、「公演関係者がPCR検査の結果陽性であることが判明したため、濃厚接触の可能性がある出演者を変更」した結果、ピンチヒッターで出演者が差し替えになったものだった。外国人アーティストが入国できず交代ということはよくあるが、主演の2人とも急な変更というのは、いかにもコロナ禍のできごとだった。
それでも無事に開催できたのは、お二人のおかげだろう。もしかすると、オケのメンバーでも感染者なり濃厚接触者で出演不能ということもありうることだ。
フレッシュ名曲コンサートは、東京都歴史文化財団が区市町村の団体と共催して行うコンサートで、2021-22年のシーズンではくにたち市民芸術小ホール、なかのZERO、ルネこだいら、練馬文化センターなど22の会場で22回開催している。東京都歴史文化財団は東京文化会館、東京都現代美術館、東京都江戸東京博物館など12の都の文化施設の指定管理者で芸術文化を振興する財団である。この日は目黒パーシモンホールの指定管理者・目黒区芸術文化振興財団の主催というかたちになっていた。
わたくしがプロオケを聴くのは、何年ぶりだろう。オペラの伴奏なら昨年の藤原歌劇団「ラ・ボエーム」の東京フィルハーモニー、新国立劇場オペラ研修所「悩める劇場支配人」の新国立アカデミーアンサンブルなどがあるが、まともなコンサートを聞いたのは相当昔のように思う。11年前のベルリンフィルまで遡るかもしれない。
予想通りといえばそのとおりだが弦の厚み、充実したハーモニーがアマオケとかなり違う。はアマもかなり高いレベルだと思っていたが、ホルンやフルートの重奏部分を聴くとここまでピッタリ合わせるのはアマには難しい。さすがだった。そして管弦打全体のバランスがよい。やぱりプロの楽団だと改めて発見することが多かった。
アマは人数の関係で、3管編成になることが多いが、この日は2管、それも金管はトランペットのみ、ヴァイオリン協奏曲はフルートも1本だけ、ティンパニも2台という簡素な編成だった。おそらくスコアどおりなのだろうと思うが。
太田弦さんの指揮は、交響曲7番でとりわけ光っていた。東京交響楽団とも過去演奏した経験ありとプロフィールにあったが、息がぴったり合って、終盤に近付くほど生き生きした演奏を聴くことができた。いつ緊急出演が決まったのかわからないが見事だった。高木さんのヴァイオリンは、落ち着いた演奏で、カデンツァも派手なところがなかった。ハーモニクスがとても美しい音色だった。ドラマティックさはないが、そういう奏者なのだろう。貸与のストラディヴァリはさすがで、よく鳴っていた。これだけでも聞きにいった価値があった。
アンコールでバッハの無伴奏パルティータが演奏されたが、これは名演だった。こういう曲が得意なソリストなのだろう。
開演30分前から15分ほどウェルカムコンサートが開かれた。プログラムはベートーヴェンの弦楽四重奏曲1番op18-1の1・4楽章、メンバーはオケから1stヴァイオリン田尻順、2ndヴァイオリン水谷有里、ヴィオラ小西応興、チェロ伊藤文嗣だった。
本番前のロビーコンサートや本番30分前の「解説」は聞いたことがあったが、舞台上の演奏は初めて聴く。これもコロナ対策で、ロビーでは聴衆が「密」になるからかもしれない。
演奏も4人の息が合ったよい演奏だった。なぜか2ndの水谷さんの音が目立って聞こえた。プロフィールをみると、まだ芸大の院生のようだが、大物なのかもしれない。
生の弦楽四重奏を聴くのも、数十年前の東京カルテットや巌本真理カルテット以来のはずなので、満足した。
めぐろパーシモンの大ホールには、15年ほど前の冬、高田馬場管弦楽団の定演を一度聴きにきたことがあった。1200人規模の大きさで、なかなかいい響きのホールだった。
前半に書いた「ウクライナ応援コンサート」がを反映していることはいうまでもない。フレッシュ名曲コンサートも、新型コロナ流行の影響を大きく受けている。そういう点で考えると、案外オーケストラのコンサートも社会情勢に影響され、社会情勢を反映したものだといえそうだ。
1945年敗戦のアジア太平洋戦争時の軍楽隊やオーケストラと同じ道を進まないことを祈りたいのだが・・・。

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