S多面体

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」のショート版

初めての大相撲観戦

2022年01月23日 | 都内散策

大相撲初場所は関脇・御嶽海が優勝し、足を痛めたこともあり照ノ富士の3連続優勝は成らなかった。
大相撲は年6場所、2週間の取組み、ということは2カ月に1度半月間やっているのだからいつでも観られると思っていた。しかし原則として3場所は地方なので、両国国技館は年3回、コロナ禍で無観客開催ということまであるので、観られるうちに一度観に行こうと、両国に行ってみた。
相撲というと、わたしにとっては柏鵬時代だ。その前は栃若時代があった。若乃花栃錦に3年遅れて横綱に就いたのが1958年春、そのころは小学校低学年で、大鵬柏戸がともに横綱に昇進したのが61年秋だったのでそのころが一番テレビ観戦していた。野球は王・長嶋の巨人に川上監督が就任したのが61年、まさに「巨人・大鵬・卵焼き」の時代、テレビの黄金時代だった。
その後、若貴時代もあったがあまり興味はなかった。ビッグコミックの「のたり松太郎(ちばてつや 73.8―98.5)はコミックを読むときは見ていたが、オリジナルの「浮浪雲(ジョージ秋山)ほど気に入っていたわけではなかった。なぜか田中(田中清 駒田中)という小柄な弟弟子が気になった。

 国技館に出向いたのは9日目の1月17日(月)だった。「初心者向け・相撲観戦の楽しみ方!」というサイトをみて12時ごろ入館した。入口で「本日の取組表」と「観戦ガイドブック」を受け取る。まず相撲博物館やみやげもの売場を見学し、ちゃんこを食べたがその話はあとに回す。
わたしは13時半ごろ、三段目の最後のほうから見始めた。
まず呼出しが力士の名を呼びあげ力士が土俵に上がり、四股を踏む間に行司が名を呼びあげ、最後に場内アナウンスで名前のほか出身地や所属部屋が紹介される。終わったところで、制限時間一杯。行司が「待ったなし」「手をついて」と声をかける。十両以上は四股の間に力水をつけ、土俵にを撒き、中入り後は、呼出しが懸賞旗を持ち土俵を一回りする。負けた力士は一礼しそのまま退出し、次の力士がのっしのっしと入場する。ちょうど場内アナウンスをしているころだ。行司も交代する場合はそのあとをスタスタ入場する。客の出入りはその後だ。
また関取は専用の分厚い座布団があるようで、呼出しはいちいち取り替える。また勝負が決まった後、行司に懸賞の束を渡したり、物言いのあと審判に解説のためのマイクを渡すのも、土俵の上下の掃き掃除、触れ太鼓・はね太鼓の太鼓叩き、拍子柝打ちも呼出し、だ。テレビの解説で呼出しの仕事は多いと言っていたが、たしかに呼出しの仕事は数多い。
場内アナウンスは行司が担当するそうだ。アナウンスで担当呼び出しや決まり手も教えてくれる。行司や呼出しは独特の「なまり」のせいで聞き取れないこともあるので初心者にとっては大変助かる。テレビではあまりわからないが、現場でみると行司、呼出し、場内アナウンスそれぞれが客にとっては対等に重要だ。

「観戦ガイドブック」(左)と「本日の取組表」 
力士により座布団に座る前に準備運動をする人もいればそのまま座る人もいる。塩も照強のように雪玉くらいたくさん豪快に撒く人もいればちょろっと土俵に振るだけの人もいる。四股も佐田の海のようにずいぶん高くまで足が上がる人もいる。
テレビでみていると制限時間一杯までの時間が長く感じるが、現地でみると、いろいろ見るべきところがあり、長くは感じなかった
勝負そのものは10秒くらい、長くて30秒のことが多い。1分を超えると「大相撲」という感じになる。とくに幕下など下位の取組みは勝負が早い傾向が強かった。バチンと一発ぶつかりそのまま一気に押し出し、土俵際で粘ったりうっちゃったりの攻防はあまりない。行司の「残った、残った」という掛け声も「がんばってもっと残れ!」という励ましかと感じた。客はいまは原則掛け声禁止だ。
日本人なので小兵力士が図体の大きい力士相手に熱戦を展開すると判官びいきというのか、拍手がわく。牛若丸対弁慶のようなものだ。たとえば宇良(176㎝ 147kg)と逸ノ城(190cm 206kg)の取組がそうだった。この日は逸ノ城が勝ったが、客席から「アーッ」というため息が広がった。
5人の審判は序の口から幕下までは1組30番ほどで4組、幕下上位5番から十枚目(十両)17番が1組、中入り後は10番ずつ2組でローテーションがあるようで、多くの審判は2回役を務めるようだった。
行司は序二段までは1人7番、三段目から4番、幕下から2番のみで交代している。呼出しの名は幕下からしか書かれていないがやはり1人2番だけで交代している。
よく相撲を現地で見ると、力士の表情や仕草、肌の血色がみえて感動するという話を聞くが、わたしは2階の後方席だったので、とてもそんなものは拝めなかった。また押し出しや投げ技はわかるが、足をかけたりすくったりの技は上から見下ろしているのでまったくわからず、突然片方の力士がコロンと転ぶようにしかみえなかった。
わたしは2階のイスB(平日)5000円にしたが、感想としてはせめてイスA8000円かできればS9000円、あるいは1階マスC席8500円にしたいところだった。なお正面席がまだ空いていたので正面で取ったが、これはテレビと同じに見えるので初心者には正解だったと思う。

横綱・照ノ富士の土俵入り
それで、主としてショーやパフォーマンスとしての相撲の楽しさを書こうと思う。
十両土俵入り、幕内土俵入り、横綱土俵入りといったショー、弓取りや表彰式、加えて柝の音(きのね)や櫓(やぐら)太鼓による音の効果もお祭り気分を盛り上げる。
懸賞の場内アナウンスはスポンサーと商品名だけでよさそうだが、「相続のことなら辻本本郷税理士法人、事業承継も辻本本郷税理士法人」「税のことなら辻本本郷税理士法人」などとコマーシャル文句が入る。それも繰り返しがたびたびあったが、これは金額比例なのだろう。なかには「どくづきポケモン、グレッグル」とか「携帯パンといえばスナックサンド」「バイトするならエントリー」など、固有名詞が独特で笑いそうになるものもある。
売店にはありとあらゆるオリジナルグッズが売られている。人気の国技館焼鳥ちゃんこスープをはじめ力士ボトル焼酎、クッキー、チョコ、もなかなど酒・食品・菓子、湯飲み・茶碗・椀など食器、タオル・手ぬぐい・ブランケットなどタオルハンカチ類、力士名入りTシャツ、力士フィギュア、色紙、力士のぼり、軍配、扇子、ストラップ、キーホルダーなど、まるで日本のみやげ物の博物館のようなアイテムの多さだ。売店上部には、決まり手87手の図解があり文化的雰囲気を醸し出す。
入口で配布する取組表にも紀文、永谷園、なとりなどの商品広告がカラー印刷されている。そういえば、呼び出しの着物の背の大きな文字も同じメーカー名だ。
協会では、電子トレカ、LINEスタンプ、ユーチューブの大相撲アーカイブ場所などデジタルの「今風」のものも開発販売している。
弓取りのあと、コロナ禍で観客を時間差退場させようという意図だと思うが、お楽しみ抽選会があった。合計20人直筆手形などのプレゼントが当たる。ただ終了と同時に帰る人もやはりいるので、当選してもいない人が半分くらいいて、そのたびに引き直すのでわりに時間がかかった。
1階の飲食スペースには、ちょうちん、造花、屋上バルコニーに、いっしょに記念写真を撮れる人気力士の等身大パネルがあり、入口正面には賜杯と優勝旗の展示ケース、相撲博物館もあるので、テーマパークの要素もあった。
相撲は興行だが、歌舞伎やプロレス、歌謡ショー、映画も興行だ。同じように華やかさがある。一方、八百長相撲、野球賭博という黒い一面もあった。だから「暴力団や関係者の入場はお断り」と貼り紙や場内アナウンスがあったのかもしれない。

吊り屋根の上には巨大な日の丸が。
伝統的な格闘技なので、さすがにしきたりや神式の作法がいろいろあるようだった。力水や塩撒きには「清め」の意味がある。力士は入場、退場その他で礼をする。「礼に始まり礼で終わる」という意味なのだろう。よく見ると、土俵の上の吊り屋根も伊勢神宮などと同じ千木と鰹木のある神明造りになっていた。さらに吊り屋根の上には巨大な日の丸が掲げられていた。表彰式のときの「君が代」斉唱により、君が代はお相撲の歌と子どもに呼ばれることは知っていたが、日の丸も大相撲では特別な意味をもつのだ。
極めつけは正面入り口左側の庭に豊国稲荷神社・出世稲荷神社の2つの神社が並んで建てられていることだ。「神の国・日本」の国技の殿堂なのだろう。ただ星取表の出身地でみるとモンゴルだけでなく、ブラジル、ジョージア、ロシアなど海外出身が幕内42人中9人、十両28人中3人、幕下30人中5人と17%いる。ラグビーの日本代表チームと意味は違うが、相撲も国際化してきているということだろう。 
行司や呼び出しの直垂、烏帽子、たっつけ袴の装束や柝の音、櫓太鼓にも何か神式と関係があるかもしれない。
別の話だが、行司は「待ったなし」「手をついて」とはいうが、スタートの合図たとえば「始め!」「よーい、ドン」「レディ、ゴー」という言葉は掛けない。あくまでも力士同士が気合を合わせてスタートする。これは神式とは関係ないかもしれないが、「空気を読む」日本文化と通底するかもしれない。ただし「待て」などストップは掛ける。

館内の相撲博物館特別展「白鵬翔」を開催していた。白鵬は、大鵬の32回優勝を大幅に上回る45回、通算1187勝の横綱で昨年9月引退、現在間垣親方だ。1985年3月生まれの36歳、15歳で6人のモンゴル人と共に来日した。翌年の2001年3月初土俵、06年大関に昇進し初優勝、07年69代横綱、以降10年9月63連勝(歴代2位)を達成するなど数々の記録を更新した。
会場には、初来日時のパスポート、入門時01年3月場所の前相撲の写真、片岡鶴太郎デザインの不動明王と白い鳳の化粧廻し、漢字の「夢」をかなの「は、く、ほ、う」4字で組み合わせた化粧廻し、土俵入りで使った太刀、21年10月引退会見の時の家族(妻と一男三女)と宮城野親方との集合写真、7枚のギネス認定証、43個の優勝賜杯(模杯)のタワー、父母との記念写真、2020東京オリンピックの聖火ランナーとして着るはずだったユニフォームなど珍しいものが並んでいた。
わたしは白鵬のファンではないし、現役末期の横綱らしくないいくつもの行動も知っている。しかし偉大な横綱であったことは間違いないので、たまたま足跡を「もの」でみられたことは幸運だった。

昼食は地下大広間とあるが、コロナのせいか地下ではなく1階の飲食スペースと屋外で食べる。12時半くらいだったが10人くらいしか並んでいなかった。屋外のイス席で食べる人も多くいた。500円のちゃんこには、鶏肉に大根、太めの糸コン、ニンジン、白菜、しめじ、ニラなど野菜がたっぷり。これだけ入っているのだからいいスープが出るはずだ。しかも温かいので寒空のなかの食事にぴったり。ただし汁もののみのメニューで米は入っていないので、別途お稲荷さん(180)を買うか、何か持参したほうがよさそうだ。コロナ禍なのでここにも「黙食」のポスターがあった。
コロナ禍なので、いろいろ普通と違う点があった。バルコニー入口には「安心・安全な大相撲観戦」という大きな看板、場内では、声援なしで拍手のみ、飲食禁止かつ「マスク着用」のプラカードをもつスタッフが場内チェックの巡回をしていた。その他、場内アナウンスには、コロナではないが「物を投げるな、座布団を投げるな」というものもあった。
この日の取組で、照ノ富士、御嶽海、阿炎はすべて勝った。貴景勝は4日目から休場だったが、新入幕の王鵬の勝ち相撲をみられた。21歳、191㎝、181kgと大きい力士だ。大鵬の孫とのことで観客の拍手も大きかった。今後期待したい。

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総目次を作成

2022年01月07日 | 総目次を作成

「S多面体」の総目次を作成しました。「最新記事」10本ほどはトップページの「記事一覧」で出てきます。しかし、それ以前のものは著者自身も右下の「バックナンバー」で月を推測して探すしかありませんでした。
時間がかかり不便なことも多かったので、年ごとの総目次を作成しました。 なお、一番上の右にある「検索」で「キーワードで検索」や「カテゴリー」で検索する方法もあります。
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新春の築地周辺 江戸から明治を思い浮かべつつ

2022年01月07日 | 日記

新型コロナ感染者再急増へ向かいつつある新年、近所の波除稲荷神社と鉄砲洲稲荷神社へ初詣に行った。とはいっても両方とも長蛇の行列だったので、心のなかで「よい年になりますよう」と念じ、行列を眺めて帰宅しただけなのだが・・・。

波除神社は1659(萬治2)年創建、旧・築地市場海幸橋入口脇にある。場外市場のいちばん外れである。
境内には活魚塚、海老塚、鮟鱇(あんこう)塚、すし塚、玉子塚、昆布塚などの石碑が並ぶ。変わったものでは吉野家碑がある。戦災復興後1号店を場内市場で開店したからだそうだ。
夏祭りは6月の土日で、3年に1度本祭、残り2年が陰祭で本祭には黒い天井大獅子(雄 幅3.3m)、朱色のお歯黒獅子(雌 幅2.5m)1対の獅子が登場するが、陰祭はどちらか1基のみという違いがある。本殿に向かって左右対称の獅子殿(雄)と弁財天社(雌)に1基ずつ展示されている。

鉄砲洲稲荷神社の創建は1624(寛永元)年、江戸初期である。湊1丁目の南高橋の近くにある。前身は別の場所にあったようだが、埋立が進み、この場所に遷座したとのことだ。諸国から米・塩・酒・薪・炭などが鉄砲洲や新川に荷揚げされた。湊も新川2丁目も氏子のエリアだ。本殿北の奥に富士山の溶岩で築いた高さ5mもの富士塚がある。富士信仰の場として有名だったそうだ。
中央区には新富座こども歌舞伎という団体があり、例年5月の子どもの日と11月3日に白浪五人男や寿式三番叟などの公演をこの神社の神楽殿で行っている。

昨年12月築地居留地研究会の報告会で菅原健二さん(東京都市史研究家、司書)の「居留地があった街をたどる」という講演を聞いた。
江戸時代初期にはこのあたりは全部海だった。家康が家臣とともに入城した1590(天正18)年、江戸の人口はわずか1万人程度だった。家臣の家族、参勤交代による諸国大名の江戸屋敷在住者、70年に及ぶ城下町建設の労働者、全国から集まった商人と職人などで1650年代には30万都市、文化文政期(1803-1830)には130-140万人へと急速に人口が増大していった。そこで海岸側への埋立てと当時の物流は舟運が主流だったので堀や運河づくり、さらに全国から物資を輸送し商品を取り扱う河岸づくりといった都市の基盤整備が、急務かつ重要になった。昨年、東京海洋大学の「船が育んだ江戸」展を紹介した記事で、関西や上州からの物資運送に触れたが、受け手である江戸も舟運の基盤整備が必要だったのだ。
まさに築地や八丁堀はそういう河岸地域だった。
明暦の大火(1657 振袖火事)で浅草(現在の横山町)にあった本願寺が、海を埋立て築地に再建されたのが1679年、そのとき築地一帯も造成された。築地周辺は大名や旗本の下屋敷が圧倒的に多く、町人が住む地域は1割程度に過ぎない。下屋敷といっても、国元各地の特産品を船で運び、出入りの専門問屋に売り捌かせるところだった。武家地では河岸とは呼ばず物揚場だったが機能や形態はほぼ同じだった。

かつて新川周辺には酒問屋が多かった(永代橋から下流を望む)
一方、諸国の廻船を相手に商売し、乗組員に水や野菜、小間物を供給する場でもあった。河岸は、荷揚場兼市場だったので、多様な業種の問屋が集まる賑わいある街として発展した。ちなみに河岸は海岸だけでなく飯田橋から神田までの神田川沿い、江戸城に近い外濠川沿い、日本橋から湊への日本橋川沿いにもたくさんあった。また幕末の沿岸防備用砲台というと品川のお台場が有名だが、浜離宮の南東や明石町にも構築されたそうだ。

東京初のホテル、築地ホテル館があった場所(勝どき橋から下流を望む)
幕末になると、黒船が来航し横浜、神戸などに居留地を開設することになったが、江戸は一番最後、1968(明治元)年に築地居留地(明石町)が開設された。貿易では繁栄しなかったが、教会、公使館、ミッション系の学校がたくさんできた。また外国人宿泊者のため、1868年築地ホテル館が開業したが、1872年火災で焼失した。
ホテルのあった場所は、元は幕府の御米蔵があったが、汐風で米がふけ、あまりよい場所ではないので浅草に移転し、幕末の1857年には幕府の軍艦操練所となった。ホテル閉鎖後、築地市場の閉鎖時点では立体駐車場として使われていた。その南隣にあるのが波除神社である。

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