とりあえず死ぬまでは生きてみる。

忌野清志郎が「幸せになりたいけどがんばりたくなぁ~い」と唄っているのを聴いて妙に共感した、猫と朝寝が大好きな人の日記。

「世情」で暮れる

2005-12-31 19:06:05 | ねこの日常
 年の瀬。といっても、私自身はいつもと何も変わらない日常なのだけれど。

 変わらない日常だけれども、1年という時間が過ぎたということをひしひしと感じる季節ではある。人間に向いてないにもかかわらず人間に生まれて二十余年。この間に、私の内面はもちろん大きく変化してきたし、家族の内面も変わった。

 国土交通省のサイトにある航空写真で実家を見てみた。家族も一緒に見ていた。ちょうど私が生まれた年の写真。家の周りは結構空地が多かった。今はもうない建物・・・かなり趣が違う。当時のことなど覚えているわけもないのだが、懐かしかった。

 懐かしい、という感情は、もうちょっと具体的に言おうとすると、どういう感情なのだろう。

 その頃に戻りたい、という気持ちだろうか。たぶん違う。

 変わってしまう、ということへの心の抵抗。「変わった」ことを受け入れるための、心の準備。



   世の中はいつも 変わっているから
   頑固者だけが 悲しい思いをする
   変わらないものを 何かにたとえて
   その度 崩れちゃ そいつのせいにする
            中島みゆき「世情」

酔余どうにでもなれと思って

2005-12-17 14:12:51 | ねこの日常
 夜になると寒くて仕方がない。4枚5枚と重ね着をしても、顔や手が寒い。てぶくろがないと、こういう時に困る。

 だいたひかるによれば、去年の今頃と寒さを比べるのは、どうでもいいことの部類に入るそうだ。もっともかもしれない。しかしそれにしても寒い。去年の今頃よりおそらく寒い。野生の動物はどうやって寒さをしのいでいるんだろうか。

 今期は取ってる科目が著しく少ないこともあって、朝からしっかり学校に出なければならないわけではないので、また睡眠のリズムが遅くなってしまった。それもあってか、体調がすぐれない。他にもいろいろあって、気分もすぐれない。

 とりあえずさっさと目の前にあることを済ませて、さっさと学校を出て、さっさと試験に合格して、さっさと仕事を覚えて、さっさと稼いで、さっさと引退して、さっさと天寿を全うしたい。でも、人生そううまくもいかないのだろう。

 この前、みずほ証券が誤発注でジェイコム株を売りまくってしまったゴタゴタの中で、24歳の人が何億も儲けたというニュースがあった。ジェイコム株が急激に下がったところを、20億円以上の自己資金をつぎ込んで買いまくったということらしい。報道が「自己資金」という単語をどういう意味で使っているのか知らないけれど、それこそほんとに誰から借りたものでもなく自分の好きになるお金なのだとしたら、そんなリスキーなことして増やさなくても、その20億で引きこもって暮らせるのになあ、とか思った。というか、一生の引きこもり資金としては、2億あれば十分(インフレリスクは度外視)。

 25日のM-1グランプリを早く観たいなあ・・・。

僭越ながら、芸術のこととか

2005-12-04 02:49:54 | ねこの主張
 数日前、また美術館に。

 最近は、現実逃避も兼ねて(?)西洋美術史の本を読んでみたりしている。これまでは、そういった予備知識を入れずに美術館で鑑賞をしていたのだけれど、美術史をさらっとでも全体を見渡してから行くと、見方がかなり変わる。沢山の絵をグルーピングして、共通の表現技法を抽出しながら1枚1枚観ていくと、読書でいう「行間」のようなものがちょっとばかしは理解できるような気がする。



 それにしても。

 20世紀の芸術はよくわからない。かつて、白い陶器の便器に、「泉」という題をつけて出品して物議をかもしたおっさんがいたりした。

 芸術の定義とは何だろうか。

 「芸術」にとどまらず、「アート」、「デザイン」という言葉ですら、かつて(今も一応)特権的な響きを持っていた。でも、そういったある種の特権は、かつての表現物が、「芸術的表現と感じられる何か」を内包していたからだけでなく、表現者が「匠の技」みたいな優秀かつ真似の困難な表現技術を有することに対する敬意によって与えられていた部分もあったのではないかと思う。

 表現の素材とするための「モノ」(例えば、プラスチック板、電球、陶器の便器)が大量に生産されるようになっただけでなく、パソコンなどという文明の利器が容易かつ安価に使えるようになった現代では、何かを表現するにあたって、「額縁」とか「素材」といった制約から解放されている。だから、それなりにセンスのある人が「いっちょやったるか」、と何か表現物の制作を始めたら、最低限の技術的習熟は必要だろうけど、19世紀までに生きた人が表現物を制作しようとした場合と比べて、遥かに短時間のうちにやってのけてしまうことが可能になっている。そんなこともあって、現実に、溢れるばかりの作品がネット上にも公開されている。勿論、それらのうち「芸術的表現と感じられる何か」を持ち合わせていると一般的に認められるものがどれだけあるか、ということは別問題である。でも、一応芸術の範疇に入れられるようなものに限定するとしても、その数は膨大。推測ではあるけれど、その数は19世紀までの芸術作品の総和を超えるのではないか。

 芸術作品の価値というものは、数値化することがほとんど不可能である。そうなると、芸術作品とされるものは一応等価として扱われることになる。そして、等価なものが大量に作られたらどうなるか。価値の下落しか行き場はないのではないか。1つの通貨単位でくくられた通貨が過量に作られたらインフレが起こるのと同じ。

 このように、芸術作品の数の著しい増加、及びかつての芸術作品が備えていた高度の技術性専門性の低下という2つの理由により、これから先、「芸術作品」というものがずっと生まれ続けるのか、先行き不透明だなあ、とか思った。

 芸術の定義とは何だろうか。

 結局のところ、それは「『芸術』と呼ばれているもの」という同語反復な定義にしかなりえないような気がする。でも、そんなふうに中身の変化を前提とした定義だったら、「芸術作品」もこの先ずっと新たに生まれ続けるかもしれないなあ、とも思った。