本日は
広島原爆記念日
別に原爆を作ったわけじゃなくて
広島に原爆が落とされた日(←そんなことをいう必要もないね。)
広島では超有名なことではあるが
これが他県だと意外と知られていない
戦争・平和の代名詞
広島・長崎原爆記念日
しかし、そう思っているのは
自県だけなのかもしれない。
確かに
おいらが他見のお祭り
例えば・・・
青森ねぶたや、京都祇園祭りを知ってはいるが
いつやるのかまでは、知らない。
そんな感覚なのかもしれない。
広島・長崎から平和を考える
確かに一般市民を巻き添えにしたにくい敵、原子力爆弾。
それと同時に考えるべきは
なぜ落とす羽目になったのか?ということだと思う。
そこには本当に作ること・落とすことが必要だったのか?ということ
現在から考えるのではなく、当時から考える必要があるということ
日本だって、真珠湾攻撃から始まって、風船爆弾、細菌兵器を作り
特攻部隊を編成して戦っていた
今考えたら、いい加減なところで
和平への道というものがあったのではないか?
どっかで意地を捨て、講和条約を結べば
広島・長崎の悲劇はなかったのではないのか
と考えるが・・・・
特攻部隊をつくり戦うということを選択している時点で
それはできなかったのかもしれない
一方、アメリカはなぜ原爆を作ったのか
近年はいろいろな番組でいろいろ放送しているが
おいらは
焼夷弾で焼き尽くしていたアメリカは
勝利を確信しながら
その先の戦争(対ソビエト)を視野にいれ
日本と戦っていたのではないのか?
日本は焼夷弾で壊滅的な現状があるが
アメリカは本土に空襲を受けていたのかそれはおいらは知らない。
それでもなお作る必要があったとするなら
それは、デモンストレーション
そして実際の核実験だったのではないか
つまり、対ソビエトに対しての自力を見せるための意地だったのではないか
と考えるようになった
なったということは考えが変わったということ
戦争を早く終らせるために原爆は投下されたと
以前は思っていた、そしてそれは仕方のないことだと
しかし今は違う。
戦争とは結局、お互いの利権に目がくらみ
いい加減なところで手を打てばよかったのに
我が強すぎて戦ってしまいそして一方がつぶれる
両立はできないのだ
戦争する限りお互いを高めるのではなく
お互いを陥れるのだという思いになっている。
これはおいらの考えで、別に誰にたいして訴えているわけでも
なんでもなく、ただ心の中にあるがままに書いているだけなので
賛否両論あることは知っている
ただ、お互いがお互いを認識しわかりあうということ
それがなくてお互いの利権のみ要求していれば
きっと平和なんてこないのだと思う。
平和とは何か?
タヨちゃんが生まれた今年、もう一度じっくり考えて見たいと思う
長くなったが、最後に
あの日亡くなったすべての人に哀悼の意をささげる合掌。