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ロイス・タンノイ

タンノイによるホイジンガ的ジャズの考察でございます。

『ノーマン・ロックウェル』

2022年03月18日 | 徒然の記


五味康祐さんがタンノイに傾倒し渡英を画策していたころ、
中学の当方の住む町では『コンバット 』 の白黒テレビ放映が始まった。
メインストリートにデパートなるものが開店するというので日曜に行くと、 
最上階にS画伯の個展が、賑やかに開かれていた。
大勢の関係者が集まった会場で目に付いたものは、
赤いフエルトをバックに銀色に横たわる大魚の絵で、
カンバスに盛り上った絵具の眼がギラリとしていたが、
同じように横たわる裸婦のオダリスクの前には、
友人たちが賑やかに輪を造り、ダブルの背広の雄弁な御仁が
「腰の曲線のタッチが、素晴らしいわけであります 」 
褒め囃すと、みな満面の笑みでドッと沸いた。
颯爽たる大型商業ビルの最上階に集合したお大尽たちが、
芸術の難しいことは抜きに、開店の祝いで底抜けに明るい。
後年になっても、集う喜びのシーンを思い出すが、
タンノイの音も、喜色満面でいきたいものである。
その階下に注目のプラモデル売場はあり、ショーケースは学童で賑わって、
テレビのノルマンディ上陸作戦に直結しているアイテム陳列が、
当方を幸福にいざなうひとときであった。
アメリカのモノグラム社の箱絵にノーマン・ロックウェルが描いた爆撃機
などを見るにつけ、目がクギ付けに埋没した。
マルサン社の小松崎茂氏の絵が太平洋を対峙していた記憶が有る。
子供の予算でプラモデルを蒐集し、売場のコンテストがあると誘われて、
『M4シャーマン 』 を出品したことを笑う。
ノーマン・ロックウェルは写真のようなイラストで多方面に活躍していたが、
作品管理施設が被災し大部分が失われたらしい。
オークションで17億の値の付いた絵も有った。
ローリングK・ウイスキーの景品絵皿に3枚のデザインが使われて、
原画がメーカーに残っていればお宝鑑定団でマルが幾つも並ぶのであろう。
2012.3.27
日本もアメリカもドイツも、現在のウクライナ同様に太平洋戦争にまみれて、
やっと脱した世界の子供プラモは、ディズニー遊園地のように楽園だ。
腰の線を誉めて底抜けに笑って、苦渋の一切をほうむる時がくれば。

エヴァンスの『ダニー・ボーイ』

2022年03月16日 | 徒然の記


これ以下はないくらいベースもドラムスも控えめに黙って、
曲の始めからおわりまでエヴァンスの静かな旋律は奏されている。
シェリーマンやM・パドウイックではない面々とでは、
はたしてこの曲の演奏は、どうなのか。
トリオのアイルランド民謡に、巨大な期待感が
星雲の中に空いた穴のように残って、演奏は終わった。
おおげさに願望を言うと、キープニュース氏ではないが
休憩時間にそっと近寄って、ベースもドラムスもこの曲にもうちょっと
音符の多いところを女王は聴きたがっている、
とか言って、むりやりお願いしたい。
レコードでは次の曲にうつり、シェリーマンらしい切れ味鋭いブラシの音になるが、
『ダニー・ボーイ』では無理かと、旋律の構成を思い出してみる。
もう一度聴いてみると、エヴァンスのピアノがタンノイの空間に
大きな音像で叙情的に響いて、M・パドウイックが次の間に
ズイーンと低く唸ると、シェリーマンが小さく固いカキーンという音を鳴らす。
やっぱりこれでよいのか、テーマはエムパシーである。
客人に、カフェオレのペットボトルをいただいた。
2012.2.22
ローマ人は地中海の周囲を征服し、チュニジアにも
神殿や闘技場文化を多数残していた。

立春、夜明けのマイルス

2022年03月09日 | 徒然の記


熟睡している丑三つの刻に、
親に命じられ遊びに行った家で、
「さあ、起きて 」 と起こされた。
中学生であったかの当方が眠い目をこすると、
大きな男がゴム製のダブダブの服を着せてくれた。
ゴム合羽が歩いているように越喜来の夜道を港に降りて行った。
五隻ほどの船が、出港の準備で薄暗い海にざわついて、
漁を経験させる船主は、波を分ける舳先に
すっくと立って、遠くほの暗い沖を見ている。
やがて船達は、くろい浮き玉の浮かんでいる仕掛網の
周囲を取り囲むと、十数人がタイミングをそろえて声を発し、
網を手繰りはじめた。
はじめに見えてきたのは、魚の背を別けて網の中を泳ぐイカの群れである。
最近、三百キロの黒マグロが網にかかったニュースをテレビで見て、
遠い記憶を思い起こした。
モーゼルワインが、カビネットでも甘さと酸味のコントラストが良く、
少々のつもりでオルトフォンの針圧も指先に軽い。
漁の出港にも、雪の夜道のドライブにも似合って、
タンノイのマイルスは鳴る。
2012.2.5

ホウの木

2022年03月08日 | 徒然の記


生家の境界に排水の掘堰があり、
大きな木が一本茂っていた。
子供のころ、木の上に小屋を造る夢想をして、
布団に入っても完成の情景がよく浮かんだ。
あるとき、木に登って周囲を見わたしていると、
隣家の裏庭で、見慣れない男が手招きしている。
鉢巻きを締めた若い大工さんを
たまにみかけていたが、その家の住人ではない。
周囲の板を集め蔵のまえに腰を下ろし、
「鳥の巣箱をつくってやるから 」 という。
アイスクリームの蓋を板にあてエンピツで円を描いて、
細い鋸で丸く穴を切った。
本職の手際であっというまに完成させ、
こちらがいままで登っていた木を指して あそこに、
と言い残すと、その人を見ることは無くなった。
今の庭を造成したときも、境界に大きな木が伸びていて、
もはやターザン小屋を造る夢も消えていたのはなぜだろう。
晩秋の落葉の散らかりようがホウノキは半端でなく、やむをえず
二股に分かれた位置から一方の幹を鋸で強引にカットした。
すると、その年だけは落ち葉も少なかったが、翌年から、
根の吸い上げる栄養が残った一方にピストン輸送されるのか、
それとも危機を感じたか、みるみる以前と変わらない枝を伸ばし、
そのうえ、初めて見る大きな白い花を空じゅうにいくつもつけて、
抗議のデモンストレーションのようで、非常に驚いた。
腸をこわして生まれて初めて入院生活をしたとき、六人一緒の部屋に
しばらくお世話になったが、窓際のベッドに沈黙する人の様子が、
何か言いたげでおかしい。
それとなく観察していると、打ち解けて全員雑談話をしている時間に、
こちらの子供の時を知っていると言っている。
職業を聞いて、ふと思った。
―― 鳥の巣箱を作ってもらいましたね。
あれから半世紀も過ぎていれば面影も覚束ないが、
あてずっぽうに、たしかにうなずいた。
袖摺りあうもえんと、ベッドのうえの退屈な時間は云う。
自宅の荒れ地のわずかな空間に、植物はどんどん茂っていった。
写真の端に映るホウの木は、冬にすべての葉を落とし、
針金のような枝をみせているが、342や343街道の山沿いを走ると、
盛夏に印象的な姿のホウの木をみては、気に入っている。
2012.1.21


ワーズワースの庭

2022年03月08日 | 徒然の記


髭狸卿の回線から戻って、前回のつづきを思い出した。
当方の朝の日課は太極拳ではなく、
マッシーで3回素振りをすること。
そのスペースだが、
引き前工事によって箱庭は、ことのほか狭い。
それから10年で植物は少し回復したが、
ワーズワースの風景からは遠かった。
振動の福島から、金田アンプを組立て、
ビンテージナショナルユニットをお楽しみの紳士が
立ち寄ってくださった。
本棚に並ぶ書物の背表紙が、ご自分の好みに似ていると。
数年前の花巻の客人は、室内の寒さに笑いながら、
ワーグナーをお願いします、ベートーヴェンも良いが、 とのこと。
英語の発音の美しい御婦人もご一緒に。
その花巻からエンジニアが正月に立ち寄られて、
モノラル再生が良いと同志を糾合しているご様子に、
しばらく喫茶タルのモノラルサウンドを回想した。
ドラムスの御仁から電話を受け、
ピアノトリオのツアーをそちらで聴きたいか、お尋ねである。
すばらしい。
2012.1.17

ウサギと住む家

2022年03月07日 | 徒然の記



先年の大地震の襲来では、
家屋はガタガタに揺さぶられた。
「自宅はどこにありますか 」
喫茶の客人からたまに問われるが、
喫茶の分だけ庭を狭めて母屋を移動したことを、
業界用語で『引きまえ 』 工事といっているようだ。
「誰が床下にもぐっていくのか、様子をみていたが、俺だったぁ 」
休憩の時、職人さんは缶コーヒーを飲みながら、
工事の様子を縷々説明してくださった。
太田牛一は、1580年安土城建築の時に、
数千人で引いたロープが切れて、巨大な石はズルッと、
予期せぬ方にすべったと信長公記に書いている。
ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは現場にいて、たまげた手紙に、
150人ほどが一瞬にして息がなかったと、事故の状況を書いている。
安土の坂を引いた大石は持ち上げてどこに使われたのか、
捜してまだ見つかっていないことを考えて、
天守閣の礎石に地下に埋められているとか。
当方の鄙びた旧住居は、安土城と比べるほどでもないが、
引きまえ工事も無事に、大地震でもなんとか建っている。
ゆかにビー玉をおいてみた。
土台枠の支えに造った構造物は、がんばっているらしい。
地下にもぐって作業していただいた時の写真を見たが、
母屋はこのうえに乗って、そこにウサギと住んでいる。
それを一般に、うさぎ小屋というのかもしれないが。
2012.1.2

夜光物体

2022年03月02日 | 徒然の記


空から見下ろせば、
海に横たわる東北の大地に三列の縦皺が走っている。
日本海に沿って出羽山地は標高2200mの鳥海山、
中央の奥羽山脈に1600mの須川岳、
太平洋側の北上山地に1350mの五葉山が横一列に尖ってそびえている。
先日の夜、国道343を海側から内陸に向かって車を走らせていると、
山道に分け入ったころ ダケカンバ、ミズナラ、ケヤキ、アカマツ
森林の深くに人知れず生息しているシカやイノシシが、
わずかにちらりと姿を見せた。
ここにはクマやサルも野生し、
夜遅くに車の途絶えた343国道を自由に横断している獣達に
突然遭遇して、ヘッドライトに反射する眼がピカッと発光している。
静かに彼等が移動している傍まで寄っていくと、
光はシカの群れであった。
漆黒の森の入り口でじっと振り返ってこちらを見ているシカに、
車はどのように映っているのか。
シカどもにとっては、森や林を分け入る舗装道路に高速で
唸りながら夜道を突っ走る得体の知れない四輪の発光物体である。
ふだん固い路面を走るばかりで森に入ってくることはなく、
離れて見ている分には危害がない。
だが今日、その生き物は闇に停まってエンジンの唸りをやめ、
あいかわらず二筋の強い光を目から放射しながら、静止している。
国道343は、山地に分け入る道の多くが、フクロウや、
キツネや狸、アカシジミ蝶など動物昆虫の宝庫であり、
11月の初旬には青い空に山容を染める紅葉がすばらしかった。
道は、急いでいる人には曲がりくねった難儀な峠であるが、
いったん野生に目を転じてのんびり走ると、静かな時間が流れている。
数日あと、巖美渓に泊まったと申される5人の剣客が、
ウエスタン16Aの轟音を堪能したそれぞれの感想をもらされながら、
ROYCEでコーヒーを喫した。
一時広告に載ったWE-16Aの健在ぶりをうかがっていると、
クリプッシュ・ホーンとWE-16Aの二つの装置がだが、
渓谷の流れを挟んだ吊り橋のうえあたりに、ステレオになって
深甚なる轟音が咆哮しているありさまを想像するのは一安心で、おもしろい。
日本の四季を花札に造った『任天堂』は1889年京都東山に創業した。
当方もガキのころ、夜の座敷に集まって遊ぶ諸先輩を眺めたが、
2011年 東日本大震災の義援金があった。
2011.12.1

NikonFTN

2022年02月17日 | 徒然の記


季節に隠然と世情を潤すボーナスを、
当方も手にしていた記憶がある。
大部分が、山手線の秋葉の沼に吸い込まれてしまったが。
男子元服してはじめて白河の関をこえて江戸にいくと、
あてがわれた鷹番の社員寮に居たのが京都人の先輩N氏で、
二間の部屋に暮らしながら『ミンガス』の直立猿人をドーナツ盤で聴き、
A・アシモフの話をするのを聞いた。
彼のような人物で、京都はうまっているのか、と思った。
ある年末に旅行した京都の旅館で近所に菓子店を探し、
小さな電球を灯すガラズ戸をガタピシ曳いて入った。
奥から娘さんが出てきて
「そのウインドウの菓子をいつ食べなはる、おつもり? 」
―― あした、関東に戻ってみやげにします。
「ほな、無理どす 」
あっさり断られて、アーン、彼女は奥に入ってしまった。
そのとき自動的に、懐かしくN氏のことが思い出された。女もそうなのか。
全国各地の出身者のいた鷹番寮だが、
隣室の同期が大きな水槽に熱帯魚を飼い始めて、
ブクブクが湿気でたまらんと困惑する同室がいるのに、
何処吹く風の人物であったのがすばらしい。
絵を描いてみたりする彼は、日曜の皆が出払った或る日
「もしもし、ちょっと 」 と呼びに来た。
行ってみると、大きなバットに紺色の表面が光ったものが入っていて、
「いま作った水羊羹だけど、食べる? 」
まもなくこの頃、大阪万博は始まって、世界中から
そうそうたるアーチストが大挙して日本にやってきたので、
心得のある人々は大忙しであったはず。
このころ憧れていたカメラはコンタックスとニコンFTNだが
高価で手が出ず。 頼まれたわけではないのに、寮の全員が
何は無くとも一眼レフや大判カメラだけは自慢そうに持っていたのがおかしい。
最近、ニコンFTNを使ってみた。
露出もヤマ感でバラバラを、ラボはさりげなく良い色で仕上げるのがすごい。
長椅子にいて、ちょっと午眠しようとゴルゴ13のマンガを床に落としたら、
杉並のS先生から電話で、ウエストレークのその後をお聞きした。
地下要塞のボンジョルノ・アンプは、いま海を渡って九州に行っている。
2011.7.9

ベクレルの雲

2022年02月17日 | 徒然の記


誰がベクレルの雲を見ただろう。
テレビが教えてくれた計測800ベクレルの一関と、
かの発電所との距離は、直線にして約150キロである。
京でいえば桂川の右岸に嵐山があり、一関でそれに比肩する
末広町から見た磐井川の対岸。
嵐山の頂上に、いまでは大きな運動公園があり、
スポットポイントの測定結果がたまたま800ベクレルでした、という。
テレビと新聞でそれを知って、途中の仙台よりもどこよりも、負けない
高出力の近所に見える山頂に、誰も、どこ吹く風で暮らしている。
地形と気流のせいか、顔なしがバケツで汲んできたのか、わからない。
先日のこと浪江町から3人のオーディオ人がお見えになって、
コンラッド・ジョンソンを鳴らしたそうであるが、
災害のおさまった後のお話が想像を超えている。
「津波がコンクリートのオーディオルームをそっくり浚って持っていき、
あとで帰ってみたら砂の中からアンプが出てきました 」
呆然と、どこか堂々としていた。
オーディオの再構築をはかる方々にとって、
こちらのどのような言葉も気泡であるが、800?ベクレルという
まぶしい測定値を、ご報告したい。
運動公園の夜景を、堤防の写真の大先生の邸宅から眺めたことがある。
サーチライトのような強い光が山の上に見えて、
風流もこれまでか、とご感想をたずねると、
「あそこに人がいる、という眺めが、一人住まいの晩を忘れさせてくれるのでね 」
柿右衛門の茶碗に、玉露をゆっくり注ぎながら、
意外なお答えが返ってきた。
翌日の昼、800?ベクレルの空気とはどういうものか、クルマを走らせて
運動公園の坂道から下界の景色を眺めてみた。
天気は良いのだが、こころなしか、光はベクっている。
六月や 峰に雲おく 嵐山
2011.7.3
屋根に降った雨が雨トイで1か所に集中し、ドブの泥に放射能は溜まる。
風景では山容の植物が一旦赤くなって、魚や野菜の残留放射能がいわれ、
近海マグロ5千円おばちゃんが売りに来たのを食べてみた。
山菜キノコも当分販売できない2011年。

ON A CLEAR DAY

2022年02月09日 | 徒然の記


オスカーピーターソンのフォーメーションといえば、
R・ブラウンとE・シグベンのサウンドが記憶のセットであり、
黄金比のように約束の風景である。
では、たとえばベースをサム・ジョーンズ氏と
ドラムスをバビー・ダーラム氏が演じたLPの、
カッテイングが『Verve』でない『MPS』であったら、
サウンドのフォーメーションや音色の味は、はたしてどうなのか。
心得のある人はひとかたならぬ思いを持つ。
1967年のリリース盤は、新居に案内されたようなまぶしさがあって、
ピーターソンは楽しんで演奏している。
まるでハイファイ・セットのメーカーを入れ替えたような音の
ピーターソンを考えてもみなかったが、余震の隙をかいくぐって、
当方は演奏とサウンドを堪能することができた。
このような震災に、聴きようによっては、なぐさめているような、
励ましているようなピーターソン・サウンドが一時の喫茶時間である。
近頃のように、余震を百回以上も経験してみると、
ダダッ とおとずれる少しの揺れでも必要以上に身構えて、
いかな二本差しといえども、イースター島の石像のように
平然とたたずんでいることはどうなのか。
帝都お江戸の城の石垣も崩れないよう工夫されているが、
旗本八万旗の大久保彦左衛門のやせ我慢気分で、
きょうは平然とトーレンスを回転させて、LPジャズを楽しんだ。
2011.4/17
石越スーパーの鉢植がまだ葉が綺麗だ。


Night Has A Thousand Eyes

2022年02月08日 | 徒然の記


760年の再来ともいわれる強烈な地殻変動が押し寄せ、
当方のSUPも壊れて、時代の空気は停止したようだ。
あたりまえのきのうと、一夜明けた日の、飯のおいしさが
同じにあるとはかぎらない。
目の前の夕餉がやっと揃った数日あとに、
喜べるには何か足りないことに気がついた。
そのとき、ユサユサといつもの余震がおこって味噌汁がゆれて、
すこしほっとして箸をつけた。
当方は鳴らないタンノイとともに、頼りない陸地のうえに住んでいる。
子供の頃、よく聞かされていた母親の故郷に伝承の、大地震と津波の話であるが
「まず、目の前の海が沖まで引いてね、そのとき
カラカラカラと石が音を立てて湾の奥に落ちていくんだと 」
子供時代のC先生の授業に、スイスの物理学者が
日本にも挨拶に現れて、人気が騒がれ、
「記念に出版された著書が思いのほか売れて、
アインシュタイン氏は首を傾げていたが 『E=mc2』を理解できたのは、
そのころ日本で3人だけ、といわれているのになあ...」
と話しておられた。
『相対性理論』という漢字の意味を、C先生は小学生に言っても仕方がない
と省略したが、純粋な我々日本人は、接吻などという漢字が書物に、
散見されるだけで興奮する民族でそのころあったと、
遠回しに観察されたも同然か。
それなら『性』を除外してもう一度見る漢字の様子が、この相対という
二点間の慣性と重力場の距離に地球と月が引き合うとき、
潮の満ち引きや地震と関係してくることを、抱擁などの漢字と同列に
興奮してみるのも、震災の恐ろしさを知れば、非常時のいまは意味がある。
アインシュタイン氏は、お砂糖をまぶして恐ろしいことを言いに、
日本にやって来たのかもしれない。
月も終わりになったころ、やっと配給ガソリンを満タンにできたので、
頼まれたわけではないがわずかな荷物を積んで三百キロの沿岸の旅に出発した。
子供の時に聞かされたあのことがとうとう起きてしまったのか、
何かに背を押されるようでもあった。
もはや世代も替わって覚束おぼつかなく、取り込み中の迷惑を
陣中に見舞ったところ、家を無くされた人は言う。
「ここに上がって、うどんを食べていきなさい 」
屋敷の無事であった人は、忙しさを山のようにかかえて不在であった。
廃材のやっと避けられた海と同じ高さの路傍をいくと、
余震でドーンと揺れる交差路に体を張って交通整理の人がおり、
大阪○警も東北の沿岸の突端にいた。
呆然とした帰り道、フロントガラスの先に赤光を見て我に返ると、
夕暮れの340号線から無数の赤色灯をキラキラさせた光が次第に近づいてくる。
業務を交代する品川ナンバーの車両が、四十八台の隊列にそれぞれ電飾を
回転させたムカデのように連なって、対向車線をゴー、ゴーと帰っていくところとすれ違った。
震災直後に見た、闇夜に電灯のない黒々とした家並みと、
国道四号線に点々とヘッドライトが音もなくゆっくりいずこにか通過していたが、
それをコルトレーン楽団が有名にした『夜は千の眼を持つ』というテーマを思わせ、
フォーメーションの中心にサクスで光っている眼と、夜の星の意味を、
初めてひとつ暗やみに想像することができた。
英国の詩人の書いた、昼は太陽が一つの眼で空から見ていることを、
夜は星々がまるで千の眼のように、ささやく言葉の心を見ていると。
LPプレーヤーが直ったとき、タンノイの表現する千の眼を、
いずれあたらしく鑑賞してみよう。
2011.3.31

ハッセルブラッド

2022年01月21日 | 徒然の記


むかしお世話になったところに、いろいろな出来事があった。
「もめてます」と営業が持ってきた写真が、
手ごわい客が四の五の言っているからなんとかしてと、
あまり金額的に重要でないものは、回されてくる。
その写真を見た席を並べる隣が言う。
「フイルムを見ると、ハッセルで撮ったもので、
うまくはありませんがマニアですね 」
フレームの刻みを指して教えてくれた。
高校の同じクラスの子が泉ピ○子ちゃんだったと言って、
忘年会を沸かせたりする、まじめで楽しい人物に、
いつも助けられていたが、手のあいた時間に出発した。
恰幅の良い営業員が、申しわけなさそうにハンドルを握って言っている。
「この程度のことは、我々でも説明がつくのですが、
おまえに何がわかる!と、店主がご立腹で、ひとつよろしく」
車は品川の駅前に停まった。
見ると、ワンボックス写真店で、店は別に持っているけどと注釈が有り、
駅前の立地がすばらしく良いらしく、売り上げ高く鼻息が荒いそうである。
営業員は着くとすぐ当方を紹介しておいて、ちょっとこれ借ります社長、
などと店の前を箒と塵取りでゴミ拾いをはじめるそつのなさである。
「まて、やめろ。 綺麗にして儲けていると思われたら、お上がうるさい」
主人はポケットに手を突っ込むと、分厚い札束から一枚営業に渡して、
缶コーヒーを買いにやった。
それから当方に、おもしろいことを言い出した。
「その客には、まいっているんだ。できれば、うちに二度と来ないように、
ほかの店を紹介してもらいたい 」
半分冗談のように言い、謝ってこなくても良いから、まかせる、と
なんとも割り切ったもの言いだ。
その足で、近所の客の住所に出向いたわけである。
事務所のような部屋に通されたが、長年の写真が趣味である
仕上がりの不満をしばらく聞いた。
―― あの写真は、ハッセルブラッドで撮られていますが、なにぶん
光量が不足しているので、少々高くなりますが大切なシーンは
手焼き部門で完璧な調整をさせてもらうとありがたいです。
写真店さんにも、そのようにご説明しましたが、ハッセルと聞いて、驚かれていました。
すると相手は、何に感激したのかわからないが、少し態度をあらためて、
嬉しそうに、やっぱりその方が良いかね、と言ってくださったのでたすかった。
1959年の『ランデイ・ウェストン』は、ファイブ・スポットにおいて、
ドーハムやホーキンス、ヘインズ、Wリトルと堂々と「スポット・ファイブ・ブルース」
などをリーダーアルバムに残したが、一時レストランを経営していたことがある。
先日、ハッピィな四人の家族が仙台から立ち寄られたが、
あまりパチパチ写真を撮るので、たまには自分でも撮ってみた。
ジャズに詳しい御仁は、自分のオーディオ装置はいま蔵にしまってある
と申されて、以前秋田にニューヨークから遠征してきたB・エヴァンスを、
奥方とライブで聴いた思い出を話している。
2010.8.22

小林秀雄の「モオツァルト」

2022年01月10日 | 徒然の記


小林秀雄先生(以下、小林)は、酔って御茶ノ水のホームから落ちたとき、
あぶなく遥か下の地べたに叩きつけられるところを、
途中の櫓に引っ掛って助かったのに、本人はそれほど記憶がなく、
深刻な反省がなかったらしい。
酒豪のゆえんである。
酔っている小林が、モオツァルトのことを言おうとしているとき、
あの文はどうなるのか。
「モオツァルト」という彼の作品は、どう読んでも素面の筆致と思うが、
なぜか当方は最後まで読み終えるまえに用事を思い出してしまうので、
読後の記憶の薄いことが残念だ。
したがってわずか数十ページが、プルーストの長編のごとく、
霞のかかった行間に、かなしみは追いつけないのも当然か。
あるときタンノイでモオツァルトを聴いて、よしそれではと、
そこはぬかりなく飾っている小林冊子を開いてみると、
だいたい以下のようなことが書いてあると読める。
『モオツァルトの旋律は、親しみやすく美しく、わかったつもりでやってみると、
何時か誰かが成功するものかおぼつかないほど、実際にそれはむずかしい。
何度も旋律をなぞってふと気が付くのは、
人間どもをからかうために悪魔が創った音楽だ。
とゲエテが評したとエッケルマンの回想にある。
トルストイは、ベートーヴェンのクロイチェルソナタのブレストに興奮し、
一章をものして対峙したが、ゲエテはベートーヴェンの曲について、
頑固に最後まで沈黙を守り通していた。
ロマン・ロランは、それが不思議で、わけがあるなと研究したところ、
新時代の到来を告げるベートーヴェンの曲風が解らないではなかったが、
ゲエテの耳はおそらく完全にモオツァルトに成っていて、
明晰な頭脳も、入り口の鼓膜の習慣に阻まれてどうにもならなかった、
ということであろう。
メンデルスゾーンが、ゲエテに交響曲五番をピアノで弾いて聴かせて
反応をみたところ、部屋の片隅の椅子に座って不快そうにしていたが、
「人を驚かすだけで感動させるどころかまるで家が壊れそうじゃない、
オーケストラが皆でこれをやったら、大変じゃろう」
と震駭して、食事の席でまだそのことをぶつぶつ言っているのを見た。
だが、本当はゲーテは、ベートーヴェンの繰り出す和声の強烈な音響に
熱狂し喝采していたベルリンの聴衆の耳より、はるかに深いものを、
言いすぎかもしれないが聴いてはいけないものまでゲエテは聴き取って、
苛立っていたのではなかろうか』
さて、どうやらウサギに餌をやる時間なので、きょうもこのへんに。
2010.4/15
「ワシントンに社用で行ったとき、上司を説得してジャズクラブに入りました」
と先日の気仙沼の客が申されていたが、わたしはまだ独身だ、
とついでにそれも自慢していたのか。
気温4度で、屋根の雪が溶けている。

優駿

2022年01月08日 | 徒然の記


春の便りが届いた。

万年筆の具合と絵柄に、
優駿公園の桜の香りがする。

万馬券のほほえみを握りしめて、
一着といわず大名行列で乗り入れたいものである。

2010.4/1