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ロイス・タンノイ

タンノイによるホイジンガ的ジャズの考察でございます。

ジャズ喫茶『タル』

2018年01月15日 | 訪問記


三月のある日にふと思った。
桜の散る音はオーディオではどう聞こえるのか。
誰が風を見たでしょう、と童謡にも詠われていたが、よその装置では音楽がどのように表現されているのか聴いてみたいと思うものである。
このあいだもあるところで、エバンスがメロディをラファロに受け渡す一瞬の静寂のあとのフレーズにびっくりした。そこで家に帰っては、なにかをしてみるのがマニアのさがであるが、200Vから100Vに変圧するトランスを、とっておきのものに変えてみたら「ソーホワット」だって、それがどうしたのと言えない変わりようだ。チェインバースがブッビビン、ブビビンと盛んに背後から煽り、とうとうソロを取ってあのベースがのっしのっしと迫ってくるタンノイ特有の、あまりの格好良さにコーヒーカップを持ち上げる動作さえも空中で止まる。
だがここで格好いいだけのジャズに終わらせたくない。それがタンノイを鳴らすという事である。フレーズとフレーズの陰影が申し分なく聴こえると、どうしてこんなに嬉しいのであろうか、はたして夢まぼろしの音を求めて名人宅を尋ね歩く。そのオーディオ道に非常に感銘を受けたのが、これまで記録した方々の装置であった。

メンがわれていないというのは、とてもベンリだ。「T」は同業者であるところの先輩のジャズ喫茶で一関駅前の一等地に隠然たる勢力をめぐらすツウのための店である。友人に「ちょっと偵察して来い」と頼んだら、ヘビィスモーカーの彼は灰皿を出してもらえなかったと泣いて帰ってきた。やるな、なかなか。
次に常連さんを送り込んだら相手にされなかったと悄然と戻ってこられた。うーむ。この目で聴いてくるしかない「T」のジャズである。
昔、「八戸市のジャズはわたしが仕切っています」という旦那風のお客が夜にRoyceにみえたことがあった。和服を召されたマダムを同伴してこられて、さすがに会話もジャズである。こちらもそれに習って秘書を同伴してみたが、マスターはしきりにテーブルやイスを清掃しておりまだ店は開けないという。しかたなく大町界隈で時間をつぶしてから、再度のトライとなった。「T」のマスターはどこか迷惑そうでさえあったが、とにかく席に付かせてもらえてそれだけでほっとする。見ると驚いた。アルテックの大きなホーンのついたフロアースピーカーが一台堂々と中央の上席からあたりを睥睨している。ジャズはおいしい時代がほぼモノーラルレコードであるから、この一台モノラルという選択は正しいが、勇気がいる。アンプはと見るとうーむ、これは問題作である。
あきらかにコリコリの回路で、取り付いている部品がウエスターンの業務用アンプを思わせる渋い造りだった。
「これは、名のあるアンプでしょう」というと、知りあいに造ってもらったと、それだけで、何の薀蓄がきかれるわけでもないのは、わかるやつにはわかる、宗旨の違うやからはムダと思っているのだろうか。
ジャズボーカルが流れているので、マスターはコーヒーの豆を挽こうとしてややためらってからアンプのボリュームを静かに下げた。ボーカルは止まってかわりに豆を挽く音がブイーンと鳴った。「T」のマスターは、充分沸騰したお湯を糸のように細く豆の中央に注ぐ。
「なにか聴きますか」とリクエストをきかれて、今日はついてると思った。目の前にレコードジャケットが出されてカウンターのトップと縦横をきちっと合わせて置かれると、さながら一品の料理のように見える。ソウルトレーンを聴かねばならない。
「きょうは、タッド・ダメロンを聴きたい気分ですね」とヤボな注文をつけるとマスターはせっかく取り出した青と白に上下に割れたジャケットを棚に戻した。代わりにレコード棚から抜き出した凄い早さに唸る。古今の名演の在処はすべて頭に整理されているらしい。
後日わかったことであるが、MJ誌でおなじみあれが有名な館山「コンコルド」の当主の製作になる「佐久間アンプ」そのものであった。真空管プリメインアンプでボリュームつまみが中央に一個あるだけのいたってシンプルな外観がかえって気を引く。その隣のアンプもこれがワンセットでプリメインアンプとなっているそうであるから、世の中油断がならない。マスターはスピーカー一台で「レコードを聴く分にはこれで良い」と、迷える子羊に啓示をたれてくださった。
佐久間氏のセレクションを聴く機会はめったにないので、これがただの一台のスピーカーと思って聴くとえらいことになるのだが。
「T」の名前にゆかりのタル・ファーロウのレコードを、仙台の「バークリーレコード」さんにお願いしてやっと五枚集めていただいたので集中ヒアリングしてみたが、ウエスやバレルと違ったサウンドで、「いつもステーキを食べているからきょうはフレンチ料理」と友人に言ったら返事がなかったので見当違いか。どうも「T」のマスターのジャズは深い。
2006.3/23

SA氏の牙城を訪ねる

2017年12月29日 | 訪問記

以前、K氏のお宅にお邪魔したとき、「このアンプをRoyceでちょっと鳴らしてみましょう」と棚に並べてあったWE300Bがプッシュで使われたMONOアンプを一緒に運んでくださった。
これがウエスギと組んでも、マッキンと組んでも普通の音だったので、置いて行かれても困るとさえ思ったところが、九州のKU氏差回しのマランツ#7と組むと俄然とんでもない音が出てきたのである。
今まで数々聴いたアンプの中でもまったくの自分の好みが如実に再現されている一頭抜けた音であったので、ついにRoyceからK氏のお宅に戻ることは無かった。
いざ良い音が出てみると外観もとんでもない物に見えてくる。
貴重なウエスタン旧型三極管が大きなトランスをかこんで林立する。
二台が左右対称に配線された手の込んだ造りが秘めた造形美は見る者を期待させるに十分なものがあって、これを制作した人こそSA氏であった。
冬のある日、晴れ間を選んでK氏に伴われ隣の県にあるSA氏の工房に向かう道すがらのあちこちに、K氏の少年時代の思い出は残っていて楽しい。

翠緑北上畔 追憶昔日宴
風喰二十年 不帰再故山

画廊のKG氏がさらさらと詠んでくださったジャズのような詩を思い出すとき、オーディオもまた帰らざる旅か。
初めてタンノイⅢLZを聴いたときの感激をいまでも思い出せるが、たぶん今となっては、その音に戻れない耳になっているはずである。

SA氏のオーディオルームは24畳くらいの広さで4種類のスピーカーがセットされていたが、メインはアルテックのマルチドライブで8台の管球アンプが駆動する芸術品である。
訪問の目的は、不思議な縁でRoyceに届いた2台目のマランツ#7のオーバーホールであったが、解説も要領をえて丁寧で、ちょっとメモしていただいた図解も非常に明晰に書き込まれるので感心させられた。
用件も終わって余興にRoyceの装置の写真をお見せすると、しきりに首をひねっておられたが床に並べられた一群のアンプの一点を指して、
「これはなんというアンプでしょう」と言われた。
小さくトランスの頭が見えるだけであるが、ふっふ、やはり気付かれたか、
「どうもおかしい。昔、K氏に強引に持ち去られるようにお譲りしたアンプです」
と驚かれているが、その声はアルテックが鳴らすダイナ・ワシントンのボリュームにかき消されK氏には届かなかった。
そのK氏とて、うっかりRoyceで鳴らしてみたいと思われたのが運命のいたずら天の配剤であったか。
SA氏はいままで80台くらい制作していると申され、現在ではお仕事も忙しくこのような手の込んだ制作はもう出来なくなっているそうである。
この、WE300B左右対称モノアンプは面積の七割を電源回路が占めているそうで、技術者魂の思い入れ熱く非常に贅沢につくられたものであるが、15ワットの出力にもかかわらず、マッキン275より聴感で迫力が勝っており同時に微細な表現も綾なしてみせる作品であった。
Royceでメインのラインで活躍していることをお話しすると、オール・ウエスタンでかためた回路に一本だけロシアの球を使っていることをとても気にされている話ぶりで、後日わざわざウエスタンの球を挿しにおいでになった。これこそ製作者の真骨頂である。
そのさい、Royceの近隣に居られる300Bアンプ制作の名人達のことにふれると、
「ぜひ、自分もお仲間に加えていただき、勉強させてください」と、
どこまでも謙虚なSA氏であった。
帰り際、ご自身のアンプの制作室や部品のストックヤードまで見せてくださるが、そのとき某社の開発部長さん兼業であるので、以前のような製作は時間の都合から出来ないご様子であった。
K氏からもたびたび聞かされていた事であるが、SA氏の装置は、圧倒的威容で聴く者に迫ってくる。
アルテックの好きな人にはたまらない音造りで千枚以上お持ちのジャズからなんでも聴かせてくださった。
SMEアームのコレクターなのか新旧6本並べてある棚の右に、845シングルで販売の用意のできたものが1組置かれていた。

またSA氏はちょうどウエスギアンプの修理を手がけておられたが、お持ちしたステレオサウンドの以前の号を開かれて、さかんに首をひねって唸っておられる。
覗いてみるとそこには若き日のウエスギさんのお部屋が登場していてマランツやマッキントッシュがラインナップで活躍しているみごとなオーディオ環境である。
SA氏は、「このマランツ、マッキンを使いこなされた方が造られたにしては?」
とウエスギアンプの音色があまりにおとなしいので、乖離にとまどっておられるのかもしれないが、経験から言ってそのことはクラシックを主として聴く人にはあまり問題が無いと思える。
一方から見ればマランツ、マッキンには(一つの表現だが)音域に伏兵が隠れており、弦のハーモニーが微妙に色付けられたり、コーラスで一人だけ突出した歌い手のようで邪魔になるように聴こえることがある。
このコントロールがマニアには面白いのであり、普通に聴くぶんにはウエスギアンプは音楽性に優れ丈夫で長持ちでめんどうがない。
普通で済まない人々の目標は底なしで、次元の違う話となる。
そういえば上杉アンプにも特注という手段があり、プリアンプの蓋を開けて中を見たとき、マランツ#7とは対極の配線の美に考えさせられた。
2006.3/5

ジャズの地平線

2017年12月28日 | 訪問記


あるとき、姪のY嬢の慶事で上京することになって、千葉の大先生に連絡すると、
「四谷においしい鯛焼きの店がある。ぜひ行きましょう」と言ってくださった。
SU氏はジャズの大先生だが、剣の達人ほど剣を抜かないという。
ブルーノート1500番台の或る盤をリクエストした時のこと、傍にいたSU氏「プッ」と吹いたので、チッ!1500台じゃイモ扱いかと、いささか気分が引いた事があった。
ケリーブルーなど人の寝静まった夜にこっそり聴くイタになってしまったか。
SU氏と昔、一緒に川向うの『B』を訪ねたことがある。
奥の丸テーブルでマスターはSU氏の前にグラスを据えトクトクッと赤ワインを注いだ。
そのとき古いとっておきの名盤がかかっていて、そこでSU氏は聞えるように独り言をもらした。
「このレコードは音が悪いと言われているけど、やっぱりそんなことなかったね」
おーっと、これは『符丁』だ。
マスターはポーカーフェイスで、ピクリと耳が動いた。
「自分はジャズはシロウトであるが、ジャズ喫茶で作法はあるのか?」
以前Royceに来られた真面目なお客に、そうきかれたことがある。
本を読んではいけないとか、しゃべるなとか、そういう作法も良いが、あの『符丁』を発するセンスこそ、一番の作法かもしれない。
さて、鯛焼き屋に行ってみると行列が出来ていた。
この鯛焼きは皮がぱりぱりと薄くてほとんどあんこだけの絶品であった。おいしいものは人を無口にさせる。
「何個食べます?」ときかれたときに二個と言わなかったことを、思わずくやんだ。
甘党の大先生は両手に鯛焼きを握りつつ、懐かしそうに周囲の家並みを見回して回想してくださった。御幼少のころ、四谷はこの近くに住んでおられたそうである。
次に昼食のため向かったところは「○○や」という支那そば屋であるが、またまた行列の店であった。
いなせな男衆がどんどん客を捌いている。大理石の床のひんやりした店内で、スープまでペロリといただくと汗がぶわっと吹き出した。

「後藤さん、いるかな」
腹ごしらえもすんで外に出るとSU氏はジャズの名所『いーぐる』に向かって歩き出した。
待ってました!いよいよ硬派のジャズ喫茶にくり出すのである。
四谷の広い交差点を渡って、地下の入口の看板のところで記念写真をパチリとやる。
我が『Royce』の前でも遠来のお客はよくやっておられるが、これは神社仏閣に千社札を貼るに等しい、お参りしましたという気分だ。
さて、階段を下りて、思いっ切りバターンと轟音を出してドアが閉まるとそこは『いーぐる』だった。
後藤マスターはモルツのシャツにエプロンのいでたちでカウンターに忙しくして居られたが、オーッ!と、SU氏を見て親しく旧交を温めておられる隙に、
こちらは地下の長椅子のフロアーに陣取って歌枕『いーぐる』のサウンドに両耳全開で浸る。のびのびとスケールの大きいサウンドである。
「ドラマーは、演奏旅行でシンバルだけは持って行く。シンバルは命」
とSU氏はのたまって、シュパーン、チチチーンと飛んでくる高音はマークレビンソンとJBLのコンビネーション特有の、手で掴めそうにリアルなものだ。
さすがにこの命のかかったシンバルは英国耳にもタンノイの及ぶところではない。
低音もブン!と風圧があるのは箱を壁面に埋めて一体バッフルとしているからか。
JBL4343にデンオンのカートリッジは七十年代のジャズを次々と快調に轟かせている。
曲を繰り出すお弟子さんの交代の時間らしく、また屈強なお弟子さんが現れて、後藤マスターの睥睨する店内で、思いおもいのスタイルでジャズを楽しむ客にスインギーな時間が流れた。
耳をかたむけているSU氏から折に触れピッピッと短いコメントをいただくのがツボにはまってこたえられない。
そこには、練達の大先生のジャズのヒントが隠されている。
まったく突然、何十年も前のことになるモノクロテレビ時代に放送されたジャズのクイズ番組のことを思い出していた。
数人の解答者が目の前のボタンを見つめて気を張り詰めている。
出だしの数秒を聴いてジャズの曲名を当てる一瞬の神業に、一人の青年が優勝を攫った。
やがて後藤マスターは我々のテーブルに来られて、親しく歓談してくださった。
後藤氏とSU氏に対峙したジャズ的にナゾの男、すなわち自分であるが、このさいを両先生におまかせし、竹光を決して抜くまいと沈黙を決め込むと、
「ロイスとは、綴りはどう書きます?いずれから取ったか名前の由来は?」
など心使いしてくださった。
「Royceの綴りを○○シンガーからいただき、発音はイングランドの古城から取ったものらしいとのウワサです」
あくまで遠回しに言ったものだが、これを聞いたSU氏と後藤マスター、なぜか身を引いてやや無口になってしまわれた。
新参モノが、貴重なお名前、戴きまして申しわけありません。
マスターは、そこでカウンターに戻ると『クリス・コナー』の名盤をかけてくださって、ありがたくも鞘を払って刀を抜いてみせてくださった。
「白モノ」というセンスも良いが、めったな符丁を繰り出して馬脚をあらわしてはならない。
ここで店内の写真などをパチリとやって、御咎めなくすんだ。
さきごろRoyceに来られた客が、入ったばかりのベイシーでものすごく良い曲がかかりイモな振る舞いはできぬと、
「泣く泣くレジで金を払いつつ傍のジャケットを盗み見て記憶し、外に出てからタイトルをメモしました」と言われた。
これは!というディスクがかかれば、プライドと天秤のジャズの刹那だ。
そのお客が、気仙沼港から持ってきてくださった捕れたてのアワビ二個の味が忘れられない。
都会的な思い出深い選曲の続いた『いーぐる』であったが、なかでもウイントン・ケリーが、いつも聴いているタンノイとはやっぱり違う聴こえかたでとても記念になった。
そのうえSU氏の口添えあらばこそ、記念撮影にも収まってくださり、これがいささか男前である。
後藤氏の著作から受ける硬派のイメージと違って、柔らかな人であると思った。
真新しい珈琲色のシャツに着がえておられた後藤マスターに一礼してジャズ界の名所をあとにした。
二人の大先生は遠来の新参者にジャズの心をかいま見せてくださった。

☆この話を聞かれた宇部市の名医が学会の途中『いーぐる』に寄られたそうで、「男前でしたね」とご報告があった。
2006.3/4


沢辺宿の三菱2S-305

2017年12月26日 | 訪問記

芭蕉が平泉をめざし、はるばる白河の関を越えて奥州路に分け入ったのは元禄2年春。
いよいよ平泉という一歩手前の一関で、磐井川のたもと『二夜庵』に投宿し旅の疲れを休めたのは、5月14日という。
二夜庵と、ジャズのメッカ『B』は目と鼻の先、現代の芭蕉達も、夜にちょっと旅籠を抜け出して一杯やりながらジャズを楽しんでいる。
市街地の中央を流れる磐井川は、遠く雪をいただく1627mの須川岳を源流として、或いは急に或いは緩く流れ下り、Royceのそばをかすめ『B』の傍を流れて北上川に合流し、太平洋にそそいでいた。
先日、二人のお嬢さんを伴ってRoyceにおみえになった宮城の客人は、同じ須川岳を源流とするもう一方の三迫川のたもとで瀟洒な店を経営されている、旧家のご主人である。
「ひさしぶりでオーディオらしいオーディオを聴きました。やはり継続は力なりですね」
などと符丁を発しながら、三菱の2S305を御自作の真空管アンプで鳴らして居られるようである。
音好きなら日本を代表したスタジオモニター2S305の名を知らない人はいない。
モニター仕様でないサランネット仕上げのものを、中野のジャズ好きの知人宅で聴かせてもらっていたが、アンプによって音の印象は違ってくるものの、落ち着いたバランスの風格のある音がする。
昔、冷蔵庫を購入しに道玄坂のYに出かけたときのこと、どこからともなく良い音が聴こえてきた。
音をたよりに狭い売り場の端にある階段をどんどん昇っていくと、5階ほど昇って最上階とおぼしきリビング家具の並んだフロアの一角で、静かでありながら腰の強い音を階下まで響かせていたのは2S305であった。
階段を吹き抜けて静かな音を浸透させる力は小型のスピーカーには無い。
客もめったにそこまでは上がって来る様子のない天使の売り場に、2S305を鳴らしているマニアが居る。
あらためて、昔日が重なった。

2.
或る日、まだ見たことのない宿場町沢辺を訪ねてみた。
地図をいただいていたので三迫川と旧街道の交差するところに『OM』を探し当てたが、時代を経た太い柱の門構えを一画に残している、モダーンな板張りの喫茶店であった。
一抱えも有る壺の並ぶ入口から店内に入ると、天窓の大きくとられた中央にカウンターがあり、壺や皿の陶器、和箪笥、大和絵など、主人のメガネにかなった骨董もびっしり陳べられている。
見回したが、この店内にスピーカーは置かれていない。
快活なご主人は骨董についての経験を披瀝されて、楽しい音楽のように会話が店内に流れる。
珈琲についても焙煎や生豆の扱いを懇切にお話くださるのが興味深かった。
カウンターで一筋の湯気の立ちのぼるカップを前に、小鼻を膨らませてコーヒーの香りを喫すると、一瞬、思考の中心で何かがはじけるような気分がする。
中世の羊飼いが野性のコーヒー豆を焚き火にくべて始まった歴史のいわくが思い起こされるブラックコーヒーは、上品な風味のブルーマウンテンである。
これに、砂糖を加えたらどうか、手触りもどっしりした真鍮の曲線を描くスプーンを渡された。
形に見とれていると、懇意の職人の作品であるそうで、
「よかったらどうぞお持ちください」とまで言っていただき、嬉しい。
お客で店内も込み合ってきたので、おいとましようと腰をあげると、
「どうぞ、スピーカーを見ていってください」
店のお客をそこに残したままご主人は、別棟のご自宅に案内してくださるという。
すぐさま車にとってかえし、二重モードラを附けたコンタックスを掴んでご主人の後を追った。
一面の大きな壁を背にセットされた2S305の端正な威風から、無窮の時を奏でる音楽がしのばれて、うらやましく思った。
その時階下から、ご主人を呼び求める新たなお客の声がし、後ろ髪引かれる思いで早々においとました。
おぼろげな記憶ではあるが、オーディオアンプやテクニクスのPS-10プレーヤーを据えられたクローゼットの中央に一枚のポートレートが有り、Rivieraの風景だ。
ニースの紺碧海岸を背景に、二人肩を寄せて撮影された記念の一枚のようであった。
俳人芭蕉は、長い旅をなぜ平泉までやってきたのか?
伊達藩の瑞厳寺を探る幕府隠密説があり、時代を四百年遡る歌人西行の歌枕を偲ぶ旅ともいわれる。
歌枕には、人を引き寄せる秘密がある。
旅をかさねた芭蕉が「かるみ」という枯淡の心象風景を弟子に語っているが、するとジャズでは、オーディオの枯淡とは、侘びの風趣を聴かせる粋な音か。
五味さんの到達した、無音のタンノイか。
或る日のこと、夢の中でついに最高のオーディオ装置の音を聴いた。
なるほどこれが
そうだったか、と納得のいく、まだ聴いたことのない音であった。
目を覚まして、夢ではない確かに聴いたと記憶のあるうちに何かに刻みつけたかったが、まもなくやはり夢であった。
無粋となっても76センチウーハーを正面に装備したロイヤル76で、バックロードと合わせた風を、頬に受けてみたい。
2006.2/20

メイコ・プレイズ・ベイゼンドルファー

2017年12月25日 | 訪問記


江戸に水戸、紀伊、尾張の御三家があったように、東京オリンピックのあの頃トリオ、サンスイ、パイオニアがオーディオのご三家といわれ、パイオニアの看板モデルとして存在感のあったスピーカーが『CS-100』だ。
その図体のせいか値段のせいか、秋葉原でもめったにお目にかかれない逸品を聴かせてくださるというので、京浜東北に乗って大森まで遠征したことがある。
Y家に着くと、大きな木が茂った二階家の旧家で、引き戸の広い玄関を入ったところに年配のご婦人が出迎えてくださって、大きなアンモン貝の化石がゴロゴロ置いて有る棚を眺めながら、二階の和室へ上がったことを憶えている。
隣りの部屋まで二間を開け放した開放感のある室内に、その大きな『CS-100』はあった。
桜材の一枚板と思われる贅沢で堂々たるスピーカーは、正面から見たネットを囲むフレームの厚みが四センチくらいは有るのか、押しても引いても動きそうにない重量感が音にも現れて、落ち着き払った渋いサウンドが時には唸りをあげ、そしてたなびくように飽きさせなかった。
このときY氏はオープン・テープのソースに凝っていて、2トラック38センチの『メイコ・プレイズ・ベイゼンドルファー』という菅野録音は、ほれぼれするような音だった。
打鍵のなまめかしいダイナミックレンジに無理のないスムーズな和音がビューンといつまでもペダルの踏まれている間、明瞭に聴き取れて、カートリッジによるLP再生では歯が立たないとすぐにわかった。
あのときすでにオーディオはピークに達していたのだろうか、知りたいものである。
Y氏は父親の形見のニコンのプロトタイプのカメラを見せてくださったり、オーディオの話も尽きなかったが、息抜きにおもしろいレコードを聴きましょうとかけてくださったのが『エルビス・オン・ハワイ』であったから1973年のことである。
2006.4/12

S氏の桃源郷

2017年12月24日 | 訪問記

地図を頼りに1時間以上山里に車を乗り入れた、そこに装置は在った。
つるりと額をなでながらS氏は「このあいだお酒が入って足元ふらついて300Bを踏み潰してしまって」と、いまだショック覚めやらぬ失敗をぽつりともらされた。
そこにはアキシォム80がジャンクの山から頭を出し、部屋中オーディオトランスやレコード、雑誌等々がいっぱいの床が見えない桃源郷で、来訪者は与えられたスペースから一歩も踏み出すことはかなわない。
みるとS氏とて獣道を爪先立つように歩かれるので真空管の1本くらいは犠牲になってもおかしくないミニ秋葉原のラジオセンターがそこにあった。
ジャケットの無いレコードも積んであるがどうやって選曲するのであろうかと不思議に思う。
ケースの無い剥き出しのトーレンス124に、今はめずらしいロングアーム用のボードがつけてあり、名前は忘れたが、アームパイプとシェルがカマキリのようにつながっている指かけをひゅっと掬って、S氏の表情は童心に帰っていた。
はじめて見る形式の自作スピーカーから出てきた音はペッパーのミーツザリズムセクションで、一聴してジャズもクラシックも両方聴く人の調整バランスかなと聴こえたのだが、なかなか良い! 音だった。
この音はタンノイとは違う音色ではあるが、好みである。
S氏の自作になるスピーカーユニットはアルテックのようにも見える。だが、アルテックからこのような音はまだ聴いたことが無いとサクスのフレーズを耳で追いながら思った。
ペッパーのサクスはチャルメラ的な音になる部分があって、これが装置の特徴を測るにはもってこいだが氏の調整になる装置はすべて感心するばかりである。
そしてこれこそがバイタボックススリーウエイのマルチチャンネルの音ときかされて、心底感心した。
自作300Bアンプで駆動するバイタボックスは日頃聴きなじんでいるタンノイと比べて、自分好みのものさしで言えば、しばしばそれ以上の音も現れては消え、硬い音もやわらかい音も甘い音も辛い音も必要なときに出てくる小気味のよい装置であった。
「これはすばらしい音ですが、ところで、プリアンプはどれですか?」
S氏はニコッと表情をくずして弁当缶のようなケースを指した。
EMT927のヘッドアンプ回路を真似て造ったそうで、ゲインを調整する真鍮の棒まで様子が似ておりあっけにとられる当方であったが、いきなりパワーアンプから球を一本引き抜いて別の球にひょいと差し替えた。
音が出ている最中のアンプであり、ぎょっとして身構えるこちらをかまわず電源が入ったままのアンプは一瞬音が溶けるように崩れてから、再びアートペッパーがサックスを持ち替えたかのような音を出す。
あまりのサービスにふたたびあっけにとられていると、
「やっぱり球で音が変わるねー」と満足そうであった。
「ウーム、これはあとの球のほうが断然良いですね」と言ってはみたものの、どうも欲深い耳には曲によってどちらも捨てがたいとも思える。
だからアンプや球は増えてしまうのであろう。
バイタボックスはコーナーホーンを昔、某所で聴かせていただいたので覚えているが、大型の純正エンクロージャーには遠くでゴロゴロ鳴っている雷がしだいにそばに来てバリバリ鳴り響くような箱鳴りがあった。
これがオーケストラの総奏でコントラバスの唸りが倍加してにくらしいほど具合がよく個性的である。
S氏の固い木材を使った自作の箱は予想に反して抜けがよかった。箱鳴りは必要な場合もあるし邪魔なこともある。決めるのは心の耳である。

「昔、ベーシーのS氏も来ましたよ」と氏は思い出話をしてくれた。
おお、するとたった一つしかないこの席はかのベーシーのマスターもお座りになった席なのであろうか。
そのとき先ほどから沸き起こっていた疑問を尋ねてみた。
多数の装置を聴く経験なしにこれだけの音のバランスはまとまらないと思うのだが、いったいどのようなオーディオ遍歴をされたのであろう。
答えはあっけなくわかった。むかし東京で働いておられたころ暇をみつけてはジャズ喫茶や秋葉沼めぐりをした。
館山のコンコルドをはじめ、寺さんのメグにも足をのばされた申し分の無い武者修行ぶりである。
千葉の大先生が「寺サン」と言うので感染してしまったが、大先生は「ファンキーは二階のアルテックがいいかな、うーん、アルテックいつか使ってみようかな」といいながら、なぜかジャズは当分休憩といってCDを500枚か送り届けてきた。
あまりの枚数にたじろいだが、まだ数千枚あるから、といわれて遠慮なくいただいてしまった。
ベーシーに行ったとき、スピーカーに尻を向けて?座ることを教えてくれたのも彼であった。逆さ富士とか逆見の天の橋立の境地もあろう。
S氏は滑らかな動作で「なにか聴きたい曲がありますかネー」といいつつ決してリクエストはさせずに次々とレコードをかけ替えてゆく。
そして曲の途中でもおかまいなしに切り上げる。
こういう人には初めてお目にかかれたが、なにかすばらしい。レコード演奏バッパーとでもいったらよいのか、真似のできるものではない。
カルーショーははじめてまともに聴いたが、キースジャレットの非常に良い演奏がかかって、ジャケットを見せてくださいとお願いすると、「これねジャケット、無い」とのことで、やはり人生一期一会もあるなと思う。
まだ聴き足りたわけではなかったが、謝して部屋の外に出ると、庭のすぐ前にピラミッドのように裏山がそそり立ち、上って来いと手招きされているような気分になる。
S氏によれば、熊が出るから止めたほうがよいとのことである。
マツタケの宝庫を熊に守らせている仙人の話を聞いたことがあったが、S氏は仙人なのだろうか。
山で熊と出くわして格闘した逸話を直接ご本人から漠然と聞かされたのはそれからしばらくあとのことだったが、腕に残る名誉の痕跡を思いだして、そういえばある大雪の日、そのS氏から電話をいただいたことがあった。
「いま、新しく300Bを組んでますが、ところであの、是枝さんのアンプ来ましたか?」
かくも熱心な方がごろごろしているこの地の「歌枕」を訪ねて巡る、これが漂泊のジャズの旅か。

是枝アンプ

2017年12月24日 | 訪問記

以前、メーカーオーバーホールから戻った『オースチンTVA-1』を聴いて、あのときは淋しく変貌した音に泪した。それゆえ、修理で戻ってきた『WE300BPPアンプ』を当のSA氏の前で鳴らし、万一、泪など出てはと鳴らさなかった。
SA氏は非常に良い人で、磐乃井の生酒に舌鼓をうってご友人と3人で四方山話のあと「まあ、あとで音を聴かれた結果をメールででも教えてください、もうしばらく迫市におります」と帰られた。
昨日、メインの『845アンプ』から『WE300BPP』にいよいよ繋ぎ替えて音出ししてみたところ心配はまったく杞憂におわり、新しい発見のある良い音に仕上がっていた。SA氏はやっぱりすばらしい技術者であった。
アンプの出会いは数々あるが、是枝アンプのことを思い出す。
気仙沼市に、めずらしい是枝アンプを使っている人が居ると、静かなウワサがRoyceに聞こえていたが、或る日前触れ無く登場されたMS氏がその人であったので大変驚いた。
さてその『是枝アンプ』とはいかなる物か、岡山県の『オーディオマエストロ』という工房の制作で、個性的な一徹の製品が耳目を集め全国に静かにフアンを広げている。
◎かつての究極のテストレコードCBS-STR120が製造中止になっては、何十万円もする価格のカートリッジは一体どうやってその性能を確認しているのでしょうか
◎何のためにプレーヤを作るのと問われれば管球フォノイコライザを作るためと答えます
◎創作意欲を掻き立てる真空管がないことには良いアンプは生まれません
◎最近は管球フォノイコライザの開発に熱中しており、間もなく完成するでしょう
技術雑誌でこうのべられた是枝氏だが、自身で納得された稀少部品のみで少数台こつこつと造られる貴重品であるらしい。
そのようなアンプを、受話器を握って直接岡山の是枝氏の耳に「なにぶん、どうかよろしく」とオーダーされたそうだが、聴いたことも触ったこともない高額な一品制作品に大枚をはたかれ、枕の下に写真をしのばせて完成を半年待たれるような、半端な情熱ではないそのマニアぶりも怪しい人である。
以前、この『是枝アンプ』の同じ製品を発注した九州のKU氏が「クリスマス試聴プレゼントです」と送ってくださったことがあった。
大変高額な製品を、ご自分で聴くよりさきに当方に送ってくださった希有の存在、KU氏のご厚意にもかかわらず、当方の技倆物量及ばず、ついに腰を抜かすような再生音は再現できなかった。
「いったいどんな音がしています?」
若干の危惧の念を持つこちらの視線を軽く受け流して、RoyceのソフアでくつろぐMS氏はおだやかに言った。
「Royceさんでは是枝をパワーアンプだけ試されたと思いますが、当方では、対になるプリアンプも発注してあるのです」
な、なんてこった。すごい入れ込みであるが、万が一、上手く行かなかったときの経済的反動は大丈夫なのかと、下世話な心配までするほどそれは高額だ。
こちらの気持ちを察したかわからぬが、MS氏は左右の眉をピクピクと二度ほど上下されて、細かなところまで打合せをしたそれはカスタムメイドであると自信たっぷりに申された。
話は、それで終わらなかった。
「これまで使用していたローサーのスピーカーは英国製で、髪の擦れる音も聞こえるような装置ですが、なにぶん箱が小さく低域が十分ではありません。そこで、Royceさんの低音の好みも考慮に入れて他のスピーカーに替えておきますからすべてが揃うまで、しばしお待ちください」
自信ありげに言われた怪しいMS氏であった。
それから半年も経った若葉の5月であったが、MS氏は「いつでもおいでください」と一枚の地図を書かれ、ついに門を開かれた。
いったいそこで鳴っている音は、どのような音なのか、イギリス好きのこちらのことまで考慮したという、組み合わせているスピーカーのことも興味津々である。これはぜひ遠征して拝聴しなければ。耳の穴を揉みほぐして気仙沼に向けて出発した。
一関から東に国道284にのって太平洋側に50キロ行くと、宮城県境の港町、気仙沼市がある。トンネルを抜けるとMS氏のお宅は市街地から山沿いに少し入ったところにあって、絶好のロケーションである。
坂道を降りて迎えに来られていたMS氏の後について二階の八畳の和室に案内されると、そこには大きな三つのソフアと見慣れぬスピーカーがあった。
『ダリ』のグランドというデンマーク製スピーカーは、トールボーイ型で、座ると丁度耳の位置に高音がある。
結論を急ぐようではあるが、この音を聴かされて腰が抜けるほど驚いた。
箱の大きさからまったく想像もつかないほど伸び伸びと堂々たる迫真の音が鳴っている。
ホーンスピーカーのような金属的重質量をも伴って腰のある中高域をこれでもかと聴かせてくる。低音も立派だ。
このような音を出すエンクロージャーは見かけより相当重量がありそうである。
タマの音、対するトランジスタといったデバイスの傾向を意識させない音であると聴こえる。八畳の空間でこのような堂々とした音が聴けるものかと驚いた。
「ビル・エバンス」の〈ビレッジバンガード・ライブ〉も、どうかな?と聞き耳をたてると、ブルブルと地震で家が揺れているかのような極低音がして、あの問題の地下鉄の通過音がたっぷりと再生され、これには感激した。
ご本人にうかがうと、とぼけておられるのか「ハウリングだと思います」といわれたが、これはオーディオマニアのあいだでは通行手形に書かれてある。

念のためニューヨーク地下鉄の音がズバリ収録されているキャピトルレコードを手に入れて聴き比べたことがあるが、その経験からいって、やはりそれは地下鉄の音。
ジャケットを見ると、デビィのシルエットの印刷色が黒色のこれは、小鉄盤モノラルカッティングのほうだが、ひょっとしてモノラル盤のほうがたっぷり入っているのか?
わけがわからず陶然として唸った。
いったいこのような音は、スピーカーの力だけかといえばそうではなく、意外にアンプの性能だと思う。
あまりにも部屋とアンプによって音は変わりはてるので、真のスピーカーの音は永遠にナゾと言いたいくらいオーディオは不可解だ。
初めて見た是枝プリアンプはこれまで想像していたどのイメージとも違い、どこかアールデコのようなツマミが視線を誘う。
昔、彗星のように現れて消えたオーディオデバイスというメーカーがあったが、形状が似ていて、電源ユニットのメータも意表を突く外観だ。
パワーアンプとセットで聴いた期待に違わぬ音は、さてはこのアンプが出しているのかと恐れ入って、二つのユニットに別れたその形容しがたい不思議なデザインをしみじみ眺めた。
ラインに繋がれたカートリッジも、ダイナベクターといえば、記憶のかなたに消えつつあった過去の商品名と思ったが、現在もニュータイプが月産数個のゆっくりしたペースで造られていた。
このカスタムメイドのカートリッジの出す音は、伸び伸びとしながら引き締まって、トランペットの切り裂くような音でも危なげなく、ラッカー盤もかくやと思わせる音ミゾに溶着したようなトレースであった。
帯域を伸ばした是枝アンプにはこのようなカートリッジがベストチョイスなのかもしれない。
1個20万という性能を誇示する値段に、ご丁寧に専用ヘッドアンプをあわせて使っておられるMS氏の、それがオーディオに見せた静かな迫力である。
さて驚かされたMS氏の音に、朦朧としかけた気を払って部屋を見渡すと、所狭しと立てかけたレコードジャケットが床の間から溢れ足元までさざ波のように迫って来ていた。
何十年もかけて選び抜かれた名盤揃いのそれは垂涎のコレクションだ。
ブルーノート1500番の100枚の厚みは32センチ。モノサシがわりに両手を広げてその巾ざっと600枚と数えるが、眼で計って二千枚はありそうで、MS氏のこれまでの彷徨を語っていた。
夜道を一関に戻りながら『ダリ』のジャズが、しばらく頭に鳴り止まなかった。
2006.2/25

志津川街道の旅

2017年12月20日 | 訪問記


昨日300BPPアンプの修理が完了しSA氏は友人を伴われ二台をROYCEに搬入してくださった。
定電圧回路をバイパスするか名医は逡巡したが、やはり従来の音で、ということになった。
SA氏は先日まで一人で中国に渡り特殊な技能を生かして、かの地の発展に寄与していた。仕事が終われば異郷の人々と白酒を酌み交わし身振り手振り交流したお話を伺い、杜甫李白の世界に更けてゆく夜を思った。
万葉の歌人大伴家持が『あずまなる みちのく山に くがね(黄金)花咲く』と詠んだ東北の産金地帯には、黄金のオーディオ装置もあちこちに眠っている。
SA氏のご紹介で、あるとき大型JBLの3チャンネルマルチセットを鳴らしているというSS氏を訪ねたことを思い出す。
無類のオーディオマニアのK氏が、御自分の高級車をご提供くださった。
初めて乗った車は、路面の上を吸い付くようにゆったり移動して、大型スピーカーのようなけっこうな案配である。
途中、北上川にかかる大きな橋のたもとで車を停め、大戦中、米国のグラマンが機銃掃射したといわれの残る鉄橋のアングルに弾痕を探していると、地元の老人が通りかかって「あのへんだ」と漠然と天を指してみせた。
やがて道は海辺に抜けると、そこにおだやかな志津川の町は広がっており、近代的に整備された海浜公園から美しい景観が広がっていた。
一関から直線にして50キロの距離である。
SS氏とは一度の面識があるが、どうも以前から知っていたような気がする人と思うのはなぜか。迫市にあるSA氏のオーディオ工房に入り浸ってアンプ作りに熱中し、遅くまで作業してそのまま泊まり込むことしばしばで、ついにSA氏の奥方が「あなたたちはどうなっているの?」と冗談話がオーディオマニアの身につまされる。
お宅に到着したとき、ちょうど工場から出てこられた人がいてSS氏ではないのかと遠目に眼をこらした。
SS氏も、こちらを何者か?と波長が遭って、
「きょうはいよいよ、装置を拝見しにまいりました」と挨拶すると、
SA氏からもお話が通っていて快く工場に案内してくださった。
途中、左手に牛舎があり数頭の牛が真っ黒な宝石のような眼をして口をもぐもぐさせていた。
右手に鳩小屋のようなものがあって思わず覗き込むと、微妙な鶏が一匹。
眼を凝らすと初めて見る鳥骨鶏と言うそうな。
SS氏はひょいと抱き上げて箱から外に取り出し、目の前にどうぞと置いてくれた。
育ちがよいのか大人しくトサカに羽根状のふさふさしたかんむりを持ち、足の蹴爪がクエスチョンマークのように曲がっている、とても優雅な動きの鶏であった。
いよいよ案内された工場の一角に鎮座しているJBLを見てドヒャーとのけぞった。
観葉植物に隠れてはいるが、これはどう見てもベイシーと瓜二つのビッグシステムではないか。
予想外の光景に息を呑んでSS氏を見ると、パチパチンとスイッチをさわって切り替えて、まず「げんこつ」のほうを鳴らしてくださった。
ほかに蜂の巣ホーンもあって適当に気分にまかせて鳴らされているそうである。
メインの大型装置が鳴り始めると、驚いたのが真空管で駆動した時のベイシーサウンドである。
JBLを6台の真空管マルチで鳴らしたらどうなるか。
オーディオマニアならあれこれLPジャケットと音を空想しないではいられない。
それを実現しているのがこのSS氏だ。
音の印象は、点ではなく面で放射されるサウンドといったらよいのだろうか。とろりとした重厚な音である。
工場の機械の音とJBLサウンドが溶け合って、自分の好みと違和感無く楽しめたので、かえって首をかしげるしまつである。
ユニットのパワーが騒音を楽々と押さえ込むのであろう。
「重要文化財級のすごい内容です」
と微笑まれるので、さもありなんと底力のある音にクラクラしながらそのさされた指のさきを良く見ると、
スピーカーのことではなく、真空管やコンデンサーの覗いている航空母艦のようなデバイダーを指している。
一抱えもある大きなマルチチャンネルネットワークは迫市SA氏の設計になる管球デバイダーであるが、中身はすべてUTCのトランスでかためてあるそうで、重量もかなりありそうだ。
たんたんとしたSS氏が唯一自慢された物件であった。
三相200Vから電源を取っており「工場のラインと同時に稼働すると、やはり音がちょっとゆるいですね」と言われたが、
やがて静まり返える無人の構内に、ひとりJBLスピーカーが楔を解かれて、
マイルス、ロリンズ、コルトレーン、続々とステージに駈け上がって乱舞する光景を想像すると、
うわさの黄金郷を見たような気がし、思わず興奮がわき上がる。
工場の操業も終わって一杯やりながらズズズン、ズババンと鳴らしていた夜のこと、外に出てみたら、牛どもが一列に横に並んで工場の方に聞き耳を立てて首を振っていたそうであるからすごいマルチ装置だ。
正確に言うと、とほうもなくジャジーな牛どもである。


志津川街道の旅で次に向かったところはジャズ・パブ『S』。
マスターはどんな人であろうか。
『S』に到着すると、町内会の会合が丁度お開きとなって何人もの人がドアから出てくるところで、海の方から川沿いに飛んできた2羽のカモメが目の前をゆっくり弧を描いた。
入れ換わりに中に入るとこれは広い。
ジャズパブと銘打たれた多目的ルームのような、照明も効果的な落ち着いた空間がそこにあった。
一方の壁に『パラゴン』から始まる6組のスピーカーがバランス良くセットされてある。
事前に足を運ばれたK氏によれば「マスターは、あまりお笑いにならない人のようです」とのことで、
招かれざる客になってはと神妙にスピーカーの直前に席を取ると「そこは音が直接飛んでくるから、こちらの方が良いでしょう」と後の席を指してくださった。
「きょうは早仕舞いしましたので準備よしです」
引率役のSS氏が申されて、ビールを痛飲する態勢も整いテーブルのジョッキのハンドルに指をかけ、そのままの姿勢でなにくれとなく気配りされる。
ドイツのビール飲みは、自分の足のつま先が見えるようでは一人前ではないといわれたもので、SS氏は途中からワインに切り替えるそうである。
「十八才のころオーディオが始まりました」と言うと
「自分は中学のころに造った鉱石ラジオが出発点ですから、だいたい同じくらいの年月ですね」
と応酬されて店主はライブセッションに乗りが良く、当方のコンタックスを指して
「それはキャノンでしょ」と、突っ込みが来た。
ベイシーもコンタックスだと申されて、業界のことは詳しいご様子である。
やがて鳴りはじめたパラゴンは、いたって高域のなめらかに調整された音に聴こえた。
「これは良い・・・」とポロリと言うと、店主は傍らのアンプラックの中が良く見えるようにガラスケースの戸を開けてくださった。
球の素性を拝見しようとしゃがみ込んだところ、、
「テレフンケンは十五万・・・」と石綿の巻かれたあの部分を指さして説明される。
ウーンと眼を丸くするこちらをしり目に、まだまだという顔をされて、隣の仕切りのガラスのフタを開けた。
そこに二台のシングルアンプが仕舞われてあったが、
「こちらの球は1本20万・・・新しい仕様でメーカーに発注しているアンプもいずれ届きます」と、特注の仕様書を見せてくださった。
Royceにお見えになった松並先生も、下段のアンプの真空管の素性を確かめようと床にカエルのように手をついておられたが、
やはり大先生もかくのとうりマニアはどうも音楽を聴くだけで済まない。
心理を心得た店主のお話の端々に、オーディオとジャズについての深い造詣が滲んでいた。
秘蔵の球を聴かせましょうとラックの裏に廻られた店主は、電源を入れて、真空管は青いリングを茫々とうかべて輝きはじめた。
「ところで、どうしてトランジスタでなく管球アンプを選ばれたのですか?」
と尋ねると、居あわせた全員が管球派で、みな瞬時に一致し、なにをいまさら...といった管球梁山泊の空気があたりを覆った。
誰も話の続きを引き取る人がいなかった。
次に鳴り始めた『エクスクルーシブ2404』は、JBLのロカンシーが開発したスタジオモニターで、
一見小振りなエンクロージャーにウーハーは40センチの大口径だ。
スピーカーの高域の性能は装置の性格を左右し、垂直方向に指向性を広げた形はセッテイングがむずかしい、
横に広げすぎた形のホーンは焦点がぼやける、などのことはよく知られてマニアを悩ませているが、
装置の贅沢なウッドホーンがいかにも豪華だ。
シリーズにダブルウーハーの大型もあるが、ご主人のお話によると位相か何か若干の問題ありと選択されなかった由。
スピーカーから、ステージさながら男性のなめらかで興奮した声がサラボーンを紹介すると、観客がドッと沸いて拍手が巻き起こる。
静かに歌い出したサラボーンを「モノラル後期の録音ですね」と言うと、
「ミスターケリーです」店主はここではじめてにっこり笑ってくださった。
終わりに聴かせていただいたのは、ケイコ・リーである。
「当代随一の実力です」と店主はお気に入りだ。
ミネ・ジュンコ、カサイ・キミコなども聴きたくなってくるが。
たっぷり楽しませていただいて、腰を上げると、
「ボクは残りますからここはおまかせください」
SS氏がテーブルの向こう端でちょっとワイングラスを上げるのが見えた。
「車内にでも吊るしてください」店主は小型カレンダーをくださったが、写っていたものを見てあっ!と眼を剥いた。
『S』に登場してトランぺット片手に丁々発止とやっている若きT・Hではないのか。筋金入りのジャズパブだ。
※ K氏から「カモメのようですが、あれはウミネコです」とお言葉があった。


次にご紹介をいただいたところは、HS氏と申されるアルテック・スピーカーを各種管球アンプで鳴らされている方であった。
訪ねてみるとお仕事の真っ最中であったが、突然の来訪者にさして慌てる様子も見せず、仕事場からのっしのっしと入口前の陽溜まりに姿を現されると我々に一瞥をくれ、
「いま両手がふさがっているので、勝手に見ていくように」と、鷹揚に申される。
もちろんSS氏が遠来の我々をもてなすため、すでに携帯電話でゴニョゴニョッと話をつけてくださっていたのだ。ありがたいことである。
小心の自分などは身を小さくして、SS氏を先頭にぬしのいないお宅に上がり込んだ。
オーディオの絡んだこのさいである。目指す装置は、玄関の隣の部屋から入って階段を登り直進して左に曲がった最初の部屋にあった。
廊下には大量の「MJ誌」が本棚に収まって有り、お話は伺えなかったが、口火を切れば相当マニアックな会話となるであろう。
廊下の先に大きな天体望遠鏡が宙を見ていた。
或る時は牡牛座カニ星雲などを眺め、また或る時はジャズに無限の宇宙を聴いておられるのであろうか。
初めて障子戸を開くと、どどんとあったのは845管をプッシュプルで使用した巨大なモノアンプである。
それを見たK氏はオオッ..!と息を呑んで眼を輝かせておられる。
ウーム、正直言ってやはりプッシュプルは良い!
見た目からして贅沢で麗しい、と周囲にシングル党の居ないのを幸い、
「トニー・ウィリアムス」の食い込み鋭いハイハットなど思い出しながら3人でひとしきりプッシュ礼賛を口々に唱える。
シングル党の傍でこのての話は禁物であることは申すまでもない。
どのような反論の嵐となるか知れたものではないぞよ皆の衆、か。
背後のラックには、上から下までずらりと管球アンプがコレクションされてあり、ご本人から詳しいお話を伺えば、今夜は管球の明かりを枕に一泊しなければならないところで、これが志津川金鉱の露鉱床である。
スピーカーはアルテックの『9844』と思われるが、ホーンを下に台座に据えられてあった。
『9844』スピーカーはスタジオなどで壁面にぴったり設置するモニター用に見かけるが、
箱のサイズからうかがい知れない堂々とした纏まりの良い音で定評がある。
HS氏のように堅牢な櫓に据えて鳴らされると、いかような福音を奏でるのかぜひ聴きたかったが、
ぬしのいないスピーカーは、黙して語らず音無しのかまえであった。
2006.2/24

K氏のマグニフィセント

2017年12月19日 | 訪問記



ある日のことK氏は訪ねてこられて、Royceの音を気に入ってくださったか、その後もよくおみえになった。
K氏は独特の静かな語り口で専用の一角を持つ存在感をみせ、かといって見慣れぬ客と重なると、たちまち空気に溶け込んでしまう不思議な方であったが、それで驚くのは早かった。
一年も経つか立たぬかのうちに、氏の所有するアンプがなぜかRoyceのメインとサブの座を占領していて、いつのまにかRoyce用の環境をお作りになったのである。
さすがにあるとき怪しんでお宅を訪ねてみると、以前はそこにあったアンプの代わりはやはり無く、据え置き台のみが堂々と在った。
今はRoyceに籍を入れたアンプであるが、この台の上に鎮座していた当時も凄かった。
片チャンネルだけで40キロの小山のような巨大なアンプで、高田のジャズ喫茶Jのマスターも「うへっ」とのけぞっておられたが、消費電力がベラボウな845プッシュプルは空前絶後の存在感がある。
「やはり、こちらに戻しましょう。ここの台が空なのはどうもマズイ」
と空白の台座を心配すると、K氏はすこしも騒がず、
「とんでもない、いいからいいから」
ということで、なにがとんでもないのかわからなかったがそれからずーっとRoyceに在る。
この845アンプは「サッシー・スイングス・ザ・チボリ」を聴いてすぐその特徴がわかった。
常用の300Bとくらべてサラの声もますます張りが出て、エーッ、バッキングがこんなに居たの!というくらい全員演奏の音になる。
K氏がそれまで持って居られた300Bモノプッシュでも十分な装備であるのに、なにかにひらめかれたK氏はさらに勇躍このアンプをメーカーに特注する。
何百キロも車を飛ばして工場に組み上がる過程を何度か見に行ったそうであるが、そのような旅はうらやましいが、特注じたい凡人にはむずかしい。
いまも合計七十キロのアンプを見ては、ときどきそれを納得する。
ジャズを聴きながら聞くK氏の話はいろいろと面白い。
K氏の瀟洒な庭に石で囲った池があって、ある日その池のほとりに鷺が舞い降りたのを縁側から見たK氏は、これは絵になる、とたいそう喜ばれた。
だが次の瞬間驚いた。
鷺は池に入り大事な鯉をしっかりくわえて飛び去ったのである。
光景を想像してめまいを覚えたが、ぜひその庭の写真がほしいとねだると、ある日「これが庭の写真」と、忘れたころに撮ってきてくださった。
めくっていくと最後に不思議なものが写っていた。
ちょうどそのとき鳴っていた曲まで衝撃のついでに憶えているが、あの空席だったアンプ台の上に、黄金色に輝くシャーシの「WE300B」を挿したアンプがデンと載っていたのである。実に大きな電源トランスに「ウエスタン300B」がそれぞれ2本も刺さってシャーシはなんと真鍮製である。
あきらかにRoyceを上回ることすこぶるの造りに唖然としたが、
「いえいえ、たいしたものではありません」
と顔色ひとつ変えず、いつもの様子に微塵の変化も見せない氏であった。
するとだいぶ前にこれをひそかに特注して出来上がるまで一人楽しんでおられたというわけか。
さぞかし楽しい毎日であったろうが、隠し事はいけません。
Royceにわらじを脱いだ845はこれで帰るところがなくなったので昔から居たような顔で用心棒アンプとなった。
そのK氏が一時熱心に探しておられたものに《マークⅢ》という放送局用のプレーヤーがある。
これがK氏にとっては夢にまで出てくるとおっしゃるほどの意中のアイテムで、雑誌に投書して探すなど八方手を尽くしておられたが、大昔に製造は終了しており、おもに放送局に納入された重量級ダイレクトドライブであったからまったく世間から反応がなかった。
それで一ランク低いⅡ型を取り寄せてみたものの、やはり横綱と小結ほど違ってはあきらめきれるものではない。
ところがである。なぜかそのマークⅢが続けて2台も別々の所から譲りましょうと連絡が入ってしまった。
一方は、タダで差し上げますとのことだったそうで喜色満面となりつつも一台で止めるのが普通だが、K氏は落ち着いたもので二台とも入手された。
そしてその落ち着きはムダではなかったというべきか、重量40キロもあったので、あるとき台の上に据えようとして腰を痛めてしまわれ、しばらくRoyceにお見えにならなかったが、
イスに座るのも大義そうでイタタ・・・といいながらその実、大変満足そうに見えたものである。
また、K氏は廊下に《三菱305業務用スピーカー》を置いておられた。
出力アンプを内臓するタイプで普通の人が持たれるなまなかなシロモノではなく、しかし置き場所が廊下というのは暗にいらないと言っているに等しいのだが、当方も二組のタンノイを持つ身で、やはり廊下に置くことになる。
廊下というのは左様に注目の場所であるが、K氏は大事なセットは二階に上げているらしいとの噂もあって、
ときどき写真では御開帳される軍団の装備も、全容は誰にもわからない。



ついにメインスピーカーのある応接間に通されたとき、ピアノと並んで組格子ネットをつけたフロアースピーカーが目に入って来た。
堂々たる存在感がすばらしい。
K氏のメインスピーカーは「アルテックA7」の応接間タイプと称する「マグニフィセント」である。
K氏もなぜか今様の装置をえらばず、現用アンプも五十年代のラインナップで揃えておられた。
自分の事はさておいて何故?と問うてみた。それほど昔の機器は良いのだろうか。
自分でも古いものばかり選んでいるので、愚問とは知りつつであるが。
「二階には蓄音機も少し集めていますよ、古いのが良いですね。」
写真を見せていただくとピカピカの大きいのが何台も写っている。
目を細めていつも穏やかに笑うK氏は静かなる男であるが、どうも情熱は見えないところで沸っている。
昔、東京に学生で下宿しておられたころ、二階の部屋に上がろうとしてなんとも良い音が耳についた。
なにげなく居間の方に吸い寄せられると、誰も居ない部屋で真空管ラジオが出している音であった。
こんな良い音が在るのかと若いK氏はしばらくそこを動けなかった。それが原体験と語る。
アルテック「マグニフィセント」は、ボリュームを上げていくとどんどん焦点が定まって床も震えるような振動すら足の裏に届いた。
庭に面したガラスに音がバンバン反射するようなボリュームに上げると室内は飽和したが、スピーカー自身は音が歪むでもなく限界が見えない。
わずかに高域のバランスが尖ってくるがこれがジャズには気配に聴こえて、まだまだどこまでも余裕を見せるスケールはやはり劇場用スピーカーだ。
応接間にガウンを羽織って中身は筋骨隆々のアルテックに恐れ入ってしまった。
ハービーハンコックの「Maiden Voyage」でトニー・ウイリアムスがヒュンヒュンと鳴らすシンバルを想像してみる。
またドーハムの「ロータス・ブラッサム」を想像してみる。
「このスピーカーを手放すなんてとんでもないですね」
と言おうと言葉が喉まで出かかったが、申し上げたところで、走り出したK氏を止められるものではない。
K氏はもっとホーンの滑らかなソノリティを望まれて、心は装備の入れ替えを準備中であった。
うっかり「パトリシアン」の話をすると、すぐに雑誌を見て細目を研究されておられたが、こればかりは鳴らしてみないとたしかなことはわからず、
六十一センチのウーハーの附いた「ハートレイ」だって候補になるが、
ひょっとして我が憧れの「タンノイ」にも六十一センチウーハーが附く日は来るのだろうか。ぜひ、来てもらいたいものだ。
2006.3/12

T氏のJBL

2017年12月10日 | 訪問記

T氏は以前ご自分の装置のことを「ジャズ喫茶ベイシーと同じ構成です」といわれたのでびっくりしたことを覚えているが、いつかは立ち寄らせていただきたい「歌まくら」である。
ところが、一関から仙台に通勤されておられるそうで、なかなかスケジュールが合わなかった。
T氏は、ちょっとタル・ファーロウに似た紳士であるから、そこからご自宅のサウンドをある程度想像することができる。
はたして、ベイシーと同じ装置とはいかがな音のものであろうか。いよいよその音が聴けるとあっていささか微熱状態であった。
土曜の夜7時はたそがれ時をやや過ぎて、家並みは闇に隠れようとしている。
ついに見つけたT氏の家は、一品デザインのおちついた堂々たるシルエットで我が前にあった。
玄関脇のオーディオルームは十畳のスペースで一枚板削り出しの床に白い壁、天井はこれがなんと二階部分まで吹き抜けのオーディオのための豪華な造りである。
家の設計は盛岡の専門家に依頼し、主要な木材はご自分で秋田杉を買い付けにいかれたそうであるから木の厚みもすばらしい。
JBLは堂々たる威容をオダリスクのように床に横たえて眼前にあるが、ライトグレイに塗装されたウーハーエンクロージャーも非常に美しかった。
ベイシーの店内は照明が落ちているので装置の全容を記憶できる人はその道のマニアであるが、T氏の明るい部屋では、すべてが見通せて、レーシングカーのコクピットのような座りの良さで、手に取るようにジャズを楽しまれている。
かたずをのんでJBLの第一声を聴く。
一聴して、やかましい音が無いのに驚く。
これはどうしたことか、あらゆる部分を吟味すると、このように透明な音になるのか。
ここで、ベイシーの音とはまた違うシャープで造形の若々しいもうひとつのジャズの世界を教えてもらった。
さすがに十畳の部屋といえどもこの装置の大きさであるから、通常のコンポの音像の比ではない。
聴取位置はユニットに近いのでこれがかえって演奏者に接近したライブ感を醸し出す。
この装置をベイシーのような土蔵造りの入れ物に据えると、ドスの効いたあのような音になると知っても、これにはまると、大型装置を距離をとって聴く劇場型の聴き方にかえって違和感を持つかもしれない。
途中、T氏は行方不明になられてしばらく部屋にお戻りにならず、お忙しいのかと思っていたところ、戻られたその手にコーヒーの湯気の立つフラスコが握られていて感激した。
たっぷり時間をかけて淹れてくださった美味しいコーヒーだ。
2006,2/14




松島から仙台へ

2017年12月08日 | 訪問記


1、T氏のアルテックA-7
アルテックでもタンノイでも、どこの愛好家の装置も同じようなジャズが鳴っているのであろうか?それを訪ねるのが『歌枕』の旅だ。
松島町アルテックA-7はマッキンC-22と275の銘器、高域を300Bアンプで稼働するそのST氏が「ちょっとアルテック純正の球アンプに換えてみましたが申し分のない音が出ています」と、パワーアンプを4台調達されて、ダイナミックで潤いのある音が鳴っているらしい。
そろそろ街道の雪も溶けた或る休日、片雲の風に誘われてU氏とともに松島町の『歌枕』に向かった。
まだ冬のなごりが見られる山野の風景は穏やかに開けてレッドガーランドのピアノトリオがどこからか聴こえてくるようだ。
「この近くにマンガ家石森正太郎の生家がありましたね」
U氏の記憶をたどってゆくと、土蔵を改築した立派な記念館があった。道を隔てた所には石森氏の生家があり、訪ねた我々を受付の女性が快く招き入れてくださった。
いまも人が居住まいしているような内部を案内されると二人の先客が居り、庭先にそって小川が流れていた。それをテーマにしたマンガも描かれたそうであるが、こちらの気を惹いたのは南部箪笥の上の管球ラジオである。
高校まで住んでいたという石森氏の勉強部屋は二階の通りに面したところにあった。そこにもしマンガの落書きでも見つければ値打ちである。煎茶をご馳走になって記帳をすませ、ふたたび車上の人となる。
街道沿いの商店街にさしかかると「あの電気店には以前アルテックA-7がありました」とU氏はたいそう詳しい。
さらに市街地を抜けてしばらく行くと、風景の開けた崖地に原生人の住居跡といういくつも穴の穿たれた洞穴群があらわれて、車を停めてしばし魅入った。陽が昇れば獲物を追い、夜は星の下で焚き火をする、時の流れるままに暮らしたご先祖の生活に思いをはせる。
夢の跡 巌の庵や 蕗の薹
本歌取りは先人への敬意のあらわれであるが、下手な演奏ではかえって失礼か。なぜか急に空腹を感じて、上海風と書かれた看板に吸い込まれるように車を入れた。
「食事は早い方でしたね」とポツリと申されて、ヨーイドンではじめたわけではないが、終わってみると同時に箸を置いて涼しい顔のU氏であった。
駐車場から出発のとき、親切そうなワゴン車の運転手に道を尋ねると正反対の方向を示され仰天したが、あらためて交番で確認したU氏の最短のコースは正しかった。
いよいよ松島町に辿り着く。ST氏は玄関に我々を迎えて、二階の結界に招じ入れてくださった。アンプはすでに交換されて真空管が赤々とヒートアップされ、音楽世界はまた新たな展開をみせている。
目の前に2列並んでいるアンプはアルテックグリーンの塗装も眩い1568パワーアンプ4台で、迫町の大御所SA氏の装置が記憶から甦ってくる。さる知りあいの遊休ラインから一部を譲り受けることができて、豪華なマルチチャンネルを実現されたそうであるが、このように人脈とは魔法の鉱脈である。
「あまり欲しそうにしましては、値段は上がるもので、自制の心が肝要です」などとジョークをつぶやいて笑わせる。
カウントベイシー「ライブ・アット・バードランド」のB面がバリバリと空気を押し分けて眼前に音像が林立し、普段冷静なU氏もスリッパの先でヒョイヒョイとリズムを取っておられる。見事なアルテックの音が再現されてうっとりした。
「以前、マドリッドに上陸したことがありまして」とST氏は船乗りをしていたころを話題に、マニタス・デ・プラタのLPを聴かせてくださった。
だいぶ以前からジプシーの村にまぼろしの『銀の手』といわれるギターの名手がいるという噂があって、飛行機嫌いで村を離れることなくマスメディアと無縁の男に、米コニサー協会が録音機材一式を揃えて現地録音を敢行した貴重な名盤である。切れのよいジプシーのルンバが、ビリビリとホーンから吹き出すのを聴いて、なぜか静かな名曲『ジャンゴ』が頭に浮かぶ。

2.大槌の『Q』
各地のジャズ喫茶や歌枕を飄々と訪ねては、その印象をRoyceにて手短にお話しくださるST氏であったが、そういえば先日も、
「ちょっと大槌の喫茶Qに行って来ました」とそのときの様子を興味深くうかがったことがあった。
大槌といえば、岩手で一番最初にジャズ喫茶の誕生した港町といわれて『Q』がそれである。
これも以前Royceに登場した青年が話していたことだが、この大槌のQに入店しポケットから『或るCD』をカウンターに取り出すと、そのCDを見て驚いたマスターは入口にカギを掛けそうな勢いで、
「そんときはテレビドラマでやっている警察の取調べそっくりの目に合いました」と、よほど緊張したのか、思い出して笑顔が消えている。
『Q』のマスターは、青年の取調べを終えると受話器を握って、
「いま、オレの店におもしろいヤツが来ている」とどこかに電話をかけていた。それが『B』であると思ったと、繋がっている紐の先を推量した。
青年は車まで戻ってそのCDを取ってきてくれた。その間いったいどんなCDかと考えてみたが、驚きである。
「カウント・ベイシーの権威と席を同じくすることもあるでしょうから、これを一通りおさらいしておいたほうが良いでしょう」と、二年も前のことになるが、千葉の大先生が届けてくださったその同じCDが目の前にあった。
1937年から39年のベイシー演奏を網羅した完全盤といわれる三枚組CDで、最後まで所在の解らなかったFare Thee Honeyの録音をイタリアの海賊版から探し当てたなど、オリン・キープニュース氏とスタッフの献身的努力が実を結んでこの62曲完全盤は完成したそうである。
ST氏から『Q』のジャジーな雰囲気を聞くと、あの因縁のCDのことも浮かんで、いつかぜひ訪れて、歴史の重みに浸ってみたいと思う歌枕である。
手元にいまから十年ほどまえ『鎌田竜也』氏が全国のジャズ喫茶にアンケート調査したマイフェイバリットデスク十選の記事がある。そこには『Q』の選んだ10枚も書かれてあって、ベーシックな名盤の行列にはじめ驚く。だが、この普遍的ともいえる選択はジャズの海を航海する後輩に六分儀の役をはたすのかもしれない。
次の頁に『ジャズ喫茶B』の選んだ10枚が目を引いた。
カウント・ベイシーを一枚、コルトレーンが二枚とは、そこに隠れた意味を思い、選ばれたものより、選ばれなかったレコードの方を推理するとまたこれが謎を呼ぶ。
『B』に入ったときの、天井から提がったシェードに明かりを避けながらS氏の運んできた珈琲のカップに手を伸ばした情景が浮かんでくる。
あるとき「アイスコーヒー!」と注文したら「無い!」と返ってきたその間合いがシンバルを叩くステックのように決まって感心した。しばらくあとに、さる御仁の付き添いで再び訪ねたときには奥の丸テーブルに座らせていただいたが、黙ってアイスコーヒーが出てきたので偶然とはいえ、有るじゃない!とびっくりした。
杉並のS先生も『B』がお気に入りで、
「これを見てください」と、ごそごそ紙包みをほどいて見せてくれたのが今『B』から買ってきたという名入りの珈琲カップであった。これは、わけてもらえるそうである。
次の項のジャズ喫茶『I』は、四谷見付の広い交差点を西に向かっていくと地下にあった。
マスターのG氏はその日店に居られて、JBL4343の鳴らすジャズを共に聴くことができ幸運だった。
「いま、東京では七十年代以降のジャズがおもに鳴らされてますね」と同行の千葉の大先生は、『I』のテーブルでタバコをくゆらしながらそれとなく時代の感覚というものを諭してくださって、浅学のゆえに、それがどうしたの?とこちらは四、五十年代どっぷりで恐いもの無し、楽しい思い出である。

3、茶房のアルテック・フラメンゴ
さて松島町にてST氏のフェイバリットデスクを聴かせていただいた我々だが、
「そういえば最近、仙台の新しい喫茶店にアルテックのフラメンゴというスピーカーが入りました」と、レコードを掛け替えながらST氏はニュースを話しはじめた。つまりST氏のところにあった余分なセットの一部が仙台にお引越しなさったのだが、一時的に貸与したところ、そのまま住みついたということである。
そこでST氏の後をついて、フラメンゴの音を鑑賞するため松島から仙台に向かった。
郊外の方とばかり決め込んでいたが、意外にも高層ビルの林立する仙台市街の中心に3人の乗った車はどんどん分け入ってゆく。
「ほら、あそこです」指し示されたところに、その一角だけ大正時代が残っているような、いまとなっては懐かしい木造建物がビルの谷に手つかずのままあって、ガラス戸の入口をギュギュッと押し開いて入る。
左手に人の背丈ほどもある印刷機のようなボイラーのような不思議な機械があって、これは珈琲豆の焙煎機であろうか。店主はアーチストヒゲをぴしっと刈り込んだ青年で、生豆や焙煎豆の卸し以外に、このたび二階の空間に珈琲喫茶店も開業のはこびとなったのだ。
木製の手摺に掴まって階段を上がると、昔の役場の事務室とでもいったなつかしい空間があった。露出した木肌に素朴な加工がされて、コンクリートジャングルに住む現代人には思いがけない和みがある。
営業初日のこと、店主が店を開けると、目付きのただならぬ男たちばかり三々五々店内を占めて、一言の会話もなくただ黙々と珈琲を飲んでいたそうで、その異様な雰囲気をてまえかってに想像しジャズも一瞬うわの空になったが、これはどうやら噂を聞きつけて仙台各所から集まった同業の喫茶店主達の偵察行動であったらしい。さすが伊達ではない。
スピーカーの傍の席について、冷たい水を口に運ぶと、付近のテーブルからかすかに聞こえてくる女性客の華やいだ声と『フラメンゴ』というスピーカーから聴こえる静かなジャズが都会を彩るオブジェであった。
ブラインドの隙間から外を覗くと、林立する高層ビルと喧噪の街、東一番町が見える。それを眺めていたら、ときどきRoyceに連絡のあるBS氏のことが急に思い出された。
いま関東に住んでおられるBS氏が生まれたのはこの東一番町であるが、鬼畜米英の仙台空襲のとき一関に疎開されて、それから全国各地を転々と移り住まわれる鴨長明的な方である。戦前幼少のころの街の変わりようにさぞ驚かれることであろう。シャッターを押すと、音がパシャンと意外に喧しく響いた。
店主は、ジャズ喫茶風でなく、普通一般のお客にゆっくり珈琲を楽しんでもらえる店にしたいと申されていたが、それがST氏のセッテイングだけあって水準以上の音である。

4、B・M・Cのジャズ
東一番町は、有名なB・メンズさんの庭先でもあるが、ST氏は思い出したように、
「ブリックさんの店はスーツで決めていかないと、ちょっと再びは入れません」と申されて、どうやら訪問されたことのあるご様子だ。シブいメンズファッションと眩いショーウインドーが脳裏をかすめ、ウオルター・ビショップを思わせるヒゲを刈り揃えたB・メンズさんの穏やかな横顔が浮かぶ。
「こちらにあった方が似合うでしょうから」と、一枚の巨大なLPレコードをRoyceに持って見えたことがある。
大戦中、ボイス・オブ・アメリカの放送や各地の進駐軍、戦艦の艦内放送用などにプレスされたそのレコード盤は直系40センチもあって、EMT927などの業務用大型ターンテーブルで一旦針をのせると長時間の再生ができる。ラベルには『デューク・エリントン・コンサート』と書かれてあり、この一枚をあえて残した人のセンスが偲ばれる。
ブルーノートオリジナルを凌駕するともいわれるこの盤の価値であるが、SPのコレクションまで間口の広い博学の杉並のS先生もさすがにこの四十センチLPはお持ちでないと電話で聞き、判定は宙に浮いている。
以前CDを流し聴きしているとき、いつのまにか音量がガクンとさがっていて、アレッと思った。
「これはサボイレーベルでしょう」耳を傾けていたB・メンズさんは、博識の一言をもらすと、コーヒーカップをゆっくり皿に戻して、隣の女性と笑っていた。
さて、新しい喫茶店も楽しませていただいて街路に出ると、すれ違う人も薄闇にたそがれる夕刻であった。

5、ラウンド・ミッドナイト
駅前でST氏とお別れし、四号線を帰途につくと、どこに向かう車か、テールランプが延々と赤い帯となって渋滞する。やがて、車もだいぶまばらになったところで『道の駅』という休憩所に入った。大きな建物だがあまり人影はなく、ちょっと某所に電話を入れ再び車に乗る。
ときどき対向車線をトラックがすれ違って行くだけの静かな夜道に、U氏の話が面白い。以前、同窓会の帰り道にもこの道を走ったことがあるそうで、高速道から降りて勢いがのっていたからスピード感が麻痺していた。
「後ろから追跡してきたパトカーに停められまして」
やれやれ、違反キップか、と観念してハンドルから手をはなしたそのとき、
「ごくろうさん」と後部座席の同級生が、覗き込んだ警官に声をかけたのが聞こえた。警官はしばらく顔を見ていたが、
「ハッ!失礼しました」と言い残して、パトカーは去って行ってしまったという。
夜の闇、ヘッドライトに浮かぶハイウエイこそラウンド・ミッドナイトの映画の舞台だ。さて聴きたい演奏は誰のROUND MIDNIGHTか ・・・・。
2006,2/13


コルトレーン・記念ライブ

2017年12月05日 | 訪問記


夕食を摂っていたら電話が鳴った。「東京からですが...」と、ROYCEでライブをやらせてくださいと、有難いお申し出だがそういう店舗ではないことを説明申し上げた。ライブといえば、川向うのジャズのメッカでのコルトレーン記念ライブを思い出す。8号ロイス・冊子から抜粋し、当時の興奮を・・・。

エルヴィン・ジョーンズがまえにさしかかったとき、ポンとこちらの肩に触れて、
「いいカメラだね・・・」という感じでコンタックスのほうに挨拶した。
すぐ傍で見る黒いスーツ姿のエルヴィンはちょっと眼が笑っていて、どう?と何か尋ねているようにボクと秘書を交互に見降ろしながら若干の時間をとってくれたのだが、気の利いた英語も日本語も浮かばない。
エルヴィンは、いま一関ベイシーで前半部の演奏を終えたばかりで、ゆっくり通路の人垣にもまれフアンと握手をくりかえしながら、2階の休憩室(楽屋)に歩みを進めているが、店内を横切るだけで二十分もかかっているのは、全国から東北のジャズ喫茶に集まった満員のフアンと白熱の演奏を楽しんだ余韻が熱気となって渦巻いていたからである。この、ステージから楽屋に向かうために客席を縦断する歌舞伎の花道は都合がよい。
通路に人垣をつくる一人ひとりとアイコンタクトして、声にならない言葉を交わそうとするエルヴィンのサービスぶりも尋常ではないが、奥さんのケイコ女史が、
「サインは、最後に時間をとりますから、今は控えて!」と遠くで声を張り上げているのが聞こえる。思えばコルトレーンが40才で没した1967年7月17日からかぞえて、そのとき30周年になっていた。
それを記念したライブのおこなわれた12月7日のベイシー会場内は、たったいま繰り広げられた前半のプログラムに興奮覚めやらぬ面持ちの、ジャズに一家言を持つ群雄が口々に賛辞や評論を述べあっているので、かなり騒々しい。早々と一曲まえに楽屋に帰ったマッコイ・タイナーは、
「なにやってんの~。オレを一人にしないで皆早く上がってこいよー」と冗談半分先程から二階に居てがなり声を張り上げているのが皆の笑いをさそっている。
はじめて一関にやってきたマッコイは、全盛から三十年。さすがに少し疲れたものか精彩がない。K女史が演奏中もマッコイの弾くピアノの傍に付き添ってあれこれ世話をやいているが、PA用のマイクの位置が気に触るのか、セットされたスピーカーからハウリングしてしまうのか、演奏中も首を振ってときどき片手で調整しているのが客席から見ていてやるせない。
だが、マッコイを欠いたコルトレーン・メモリアルでは意義を大きく減じる。片言のフレーズでも良いですからポロポロンとやってくれれば、あとはこっちで想像しますというスタンスで聴くと、なにか、枯れたマッコイも滋味にあふれる。要所々で寂を利かせて、ベイシー備えつけのピアノを弾いているのは、まぎれもなくあのマッコイ・タイナーであった。
前半終了時にプログラム外のアンコールをやるとわかると、一人だけ演奏を降りて楽屋に引っ込んだマッコイであったが、自分抜きであまりに長いアンコール演奏に我慢できなかったものか、オイオイお前たち・・・と、二階から様子を見に戻ってきたのが先ほどの事である。
この日、夜八時半開演とのことで七時にはベイシーに入ってみた。しかしこれがまったくの見込み違いだった。そのときすでに満員の店内は二百人くらい入っているのか、後方の化粧ルームの前にわずかに空間がある程度であった。
ステージ前五列くらいまではイスが置かれてあったが、奥の円テーブルを一つ残してあとは取り払われ、立ち聴きで全員和気あいあい、これから始まろうとしている演奏を、そわそわと待ちこがれてざわめいている。
いつもマスターが陣取る円テーブルは、六脚ほどの椅子が壁沿いに置かれて、そのひな壇と思われる上席に陣取る面々が居る。名のある評論家先生たちであるのか目立っているが、どこか落ち着かない風情であった。
ボクの周囲に立ち群れる人々は、横浜からバスを仕立ててやってきた熱烈なマニア達で、追っかけの女性も何人もいるのが見て取れる。
「一関のホテル旅館はどこも満員だって」とか「なんとかなるわよ」といいながら「地元の人ですか?」なんて非常に気安く女性がジャズ談義を話しかけてくる。ひょっとしてオレは狙われている?後ろに控える秘書からジュースを受け取ると「まあ、連れがいらしたの」となったのもやむを得ぬが、山中のヒッチハイクのように影からゾロゾロ現れることもあるので心得て応じれば問題はない。いろいろ話を聞いてみると、この女性のようにジャズにはまっている人は、理屈抜きで楽しんでいるので演奏の批評も勘どころが良くストレートだ。
開演少し前に、マルサリスとレジナルドがベイシーに到着して、スターの登場にドッ!と歓声が湧く。あっというまに二階の楽屋に消えていった。
それからややあって今度はマッコイが女性通訳?と現れてまたドッ!と歓声が湧く。また二階の楽屋に消えていった。つまり、彼らはめいめいバラバラに現地集合した。
そうこうしていると、なにか化粧室のドアの向こうでゲーゲーやりだした人がいる。案内によれば、飲み放題御一人三万円と書かれていたが、近隣のジャズ喫茶などから応援に駆けつけた人々がドリンクを会場に配ってサービスしていたので、美酒をたっぷり聞し召して早くも出来上がった人が現れた。
この男性は後になって、エルヴィンが楽屋に戻る時を見計らったように、ふらふらと、それまで閉じ籠もっていた化粧室から現れて、ボクの傍からエルヴィンに「いい演奏であった・・・」とメロメロの日本語でそれだけ言うとまたよろよろと戻って行ったのを見た。そのときの、眼をパチクリさせたエルヴィンの顔を憶えているが、日本人のジャズ層の厚みをそこに見る。ライブは見るものではなく、飲むものと。
エルヴィンの奥さんである日本人ケイコ女史は、開演二十分前になるころ、演説をしている。人種問題から説き起こす独演会だが、マルサリスについて、
「先日、ピューリッツアー賞をもらったからといって、皆がちやほやしてはイケナイ。彼には、まだまだ修行が必要ね」と、苦言を呈し姉御の貫禄をみせていた。エルヴィンへの思いがある。
「もし、良い演奏が聴きたいなら・・・」K女史は、拍手のタイミングと盛り上げかたについて「これだ!というときは、みんなで遠慮なくドッと席から立ち上がって拍手しなさい」と最高のアドバイスをくれた。
観客一同心得て、これはやってみると本当だった。ノリに乗った前半休憩時のアンコールをなんと20分、最後のアンコールをまた二曲もやってくれて、全部が終わったときには午前零時を大きく廻っていた。
『ワイズ・ワン』の演奏を聴いたグルービィ達が「前の会場の演奏より十分もアドリブが長い」などと驚いて言い合っていたが、これがスタンデイングオベーションの成果なのか。
この盛況を、後日千葉の大先生にこの時と自慢したところ「新宿ピットインのときには二、三人女性が失神して救急車がきていましたね」と、舟底の栓を抜かれ、あえなく沈没した。

さて、ステージに並んだ今世紀最後のゴージャスユニットといわれる顔ぶれだが、そのサウンドは『朝日のようにさわやかに』から突然始まった。この曲は、たしかライブ・アット・ビレッジバンガードに録音が残るだけで、コルトレーンカルテットの今またこの曲が聴けるとは望外のスタートだった。
あれは十六のときであったか、釣山下の友人の部屋でMJQのこの曲とヘレンメリルからジャズの道に足を踏み入れたことは記憶にあって、この曲を聴くとジャズを「ダンモ」と言っていた青春が甦ってくる。
正面のステージから人垣を越えて轟いてくる彼らの演奏を聴いて自分の耳を疑った。タンノイマニアの自分は、ライブより、できればタンノイのスピーカーを通して聴きたいと思ってはばからない変り者であるが、いまそこに聴こえるライブサウンドは、いつも聴いているタンノイの音まったくそのものである。あるいはJBLで聴いている人もこのライブはJBLの音であると聴いているのかもしれないが、やはりこのライブはタンノイの音であった。
『セイ・イット』が静かに始まると場内大歓声で、これを契機に演奏は過熱して行く。
「エルヴィン氏やマッコイ氏と、コルトレーンの代わりに共演できるのであればギャラは要らない」とマルサリスは申したそうであるが、その言葉のとおり、二人の先輩を敬愛するスタンスを演奏にみせてコルトレーンのフレーズをトランペットで彷彿とさせるマルサリス流のシーツオブサウンドも見事だ。
マルサリスは楽譜をひろげて、コルトレーンカルテットのおなじみのナンバーを次々と吹きこなしてゆくが、これが澱みなく違和感なく、情感たっぷりに見事なサウンドで、まろやかな美音と鋭いフレージングを折り交ぜ鮮やかに紡ぎ出して行く。以前からコルトレーンのサウンドについてこっそり研鑚を詰んでいたのかと、出来映えに興奮させられた。
濡れたように滑らかで自在な音色に、同行の秘書も4時間立ち通しで聴いて、トランペットのイメージを180度変えてしまった。
後日のこと、Royceにお見えになった盛岡の親子連れジャズフアンも、そのときベイシーのかぶりつきでマルサリスの直下に陣取っておられたそうで「パラパラとトランペットの先からつばきが飛んできて、それを浴びれたのは最高に幸せでした」と話していた。
はて?このようなフレーズは以前聞いたことが有った、と思い出したのは、千葉の大先生が米国ワシントンのジャズクラブに遠征したさいの思い出を「かぶりつきでサラ・ボーンのツバキを浴びまして」と言っておられたが、これこそがマニアの勲章というものか。
ところで目の前を、出前のオニギリ弁当や、湯気の立ちのぼるうどん丼が休憩中の二階の楽屋に運ばれようとしている。通路が混雑して前に進めないので客の一人がそれを託された。
「イヤーまいったな。オレ昇っていくわけ?」などと言葉では抵抗を見せながら、決してお盆を放そうとしない。嬉しそうにハミングしながら出前持ちに変身して楽屋をのぞきに行った幸運な人がいた。
休憩の後、二部が始まって『ザ・ドラム・シング』が佳境にさしかかると、エルヴィンの激しいフットワークとスティックの唸りに驚いたマルサリスが、例のトランペットを落としそうにして、たじたじと大げさにのけぞったリアクションが会場を湧かせていた。
こちらの立つ位置からでは柱が視界を遮って右サイドのエルヴィンの全体が見えず、腕の先がヒュンヒュン跳ね上がっているのが見えるだけであったので、ときどきつま先立って首をひねってエルヴィンの雄姿を覗き見る。エルヴィンは、上体をあまり動かさず、マラソン選手のように両腕を前後に振ってバランスのよいドラミングをしているように見えるが、長時間のエネルギッシュなスイングを持続させて微塵も衰えを見せない。会場の気分が良いのだろうか、いやはや凄まじいバイタリティだ。
そのとき気になって、ひょいと壁際の円テーブルの紳士達のその後を見ると、なんと皆、椅子の上に立ち上がって見ている。テーブルの上に乗っているやからもいる。それというのも立ちはだかる人垣に貴賓席はあえなく埋もれてしまっていたのだ。やはりライブは見るものであった。
レジナルド・ヴィールという若いベーシストを初めて見たが、この真摯な白人の、マッコイとエルヴィンに挟まれて次第にテンションのあがっていくストロングなベースワークも見ものであった。とうとう自分の見せ場が来たと心得たレジナルドは、指の皮に椿油でも塗っているかのような、あきれるほどの連続音を剛弦で機関銃のようように延々と掻き鳴らすと会場からやんやの喝采を浴びた。これにはエルヴィンもあっけに取られたように白い歯をみせている。
この格闘技のような演奏表現は、解りきったことであるがオーディオ装置で聴くときの音楽的興奮に視覚的臨場感の迫力が加わって、なんとも言えないライブの凄みがある。
新宿の伊勢丹会館にある『エル・フラメンコ』に行ったときも、踏みならされるサパテアードに圧倒され眼を見張った。
しかし一方、オーディオ装置によるスピーカーから聴く演奏のほうが自分では楽しいと思うのはなぜか。最初にそのことに気がついたのは、NHKホールで聴いたフランクプールセル楽団の演奏会だったが、この時の拡声装置の音の悪さと会場の居心地の悪さに考えさせられた。オーディオマニアとして追求するイリュージョンの楽しみと現実のライブは、同じ音楽を楽しむもののようでありながら、似て非なるものと心得る人も居ることであろう。
その宵のベイシーライブは天国だった。曲の終わりに弓を鞘から抜いたレジナルドは、トランペットとピアノとドラムスの音符の背景にそっとベースを当てて横一文字にゆっくり静かに引いてゆくと、熱気に溢れていた会場にやがてブーンと低い弦の音だけが揺蕩っていく。ベースのボーイングだけが夜更けのベイシーに静かに残って祭りは終わった。割れるような拍手がいつまでも止まなかった。
さて、このようなビッグイベントを実現させたベイシーのマスターの姿を探すと、やや後方の人垣のなかに彼は無言で立って居た。
過去のさまざまのA Love Supremeが脳裏に去来するコルトレーンは、たった今までステージにサクスを構えていたような錯覚に陥るが、その姿はやはり無かった。だが、そこにコルトレーンが居る・・・と、或る日誰かが言い出してから『ジャズ喫茶ベイシー』のサウンドに大勢の人がそれを聴いたという。現在もその真偽の程を確かめに大勢の人が訪れている。
人口六万の小さな街、田村藩三万石。ライブ会場の屋根の下だけが異常な興奮の坩堝と化していた時、城下町は、何ごとも無いかのように寝静まってブルージーな師走の夜は更けていった。
※ 近隣の古老から聞いた話であるが、忠臣蔵の浅野内匠頭が預けられたところが一関田村藩主右京大夫の江戸屋敷で、即日切腹というとんでもないことにかかわった。田村家の表門はいま平泉の毛越寺に運ばれ大門として使われ、裏門は十二神の上野家に移築されている。
2006・2/10


みぞれの河崎街道をゆく

2015年01月03日 | 訪問記
12月、初めて雪の降った日、
噂の80センチウーハーを聴きに
284号線を東に進むと、北上川にかかる大きな橋を越えた。
その先に、めざすお宅があるはずであったが、
古い地図を見てきたらしく、街が都会風に変わってしまっている。
郵便局のまえに車が在り、具合よく人影をみつけた。
みぞれのなかを「もしもし、ちょっと、あの」
やり手の管理職ふうの人物は、隣りの建物を指し
そこ、ですと。
みれば、新築の立派なお宅である。
たしか電話では「天涯の一人者です」と、申されていたのだが。
裏口のドアを叩いたらしく、出てきたオッド・ジョブ氏
にっこり、「表に廻ってください」と。
そして事務所のドアをくぐり、ついに、80センチウーハーを見た。
中央のテーブルにパイプイスが二つ並んで、
ひとつしかない、座布団のしいたほうに、
すわってよろしいそうである。
アラビアンナイト風のコーヒーカップがすばやく2個、並んで
「砂糖を入れますか?」
うなずくと、オッド・ジョブ氏、やおらスプーンをこちらのカップにズブと入れて
ぐるぐる掻き回してくださるサービスぶりに
次第に、歓迎されている気分になってきた。
みると、壁に、アラビアンナイト風の巨大なハーレムの挿絵が二枚も貼って在り、
渋谷の東急ハンズで購入されたものである、とな。
正面には、ブルーの衝立のように大きいスピーカーが別世界。
当方、威儀をただして、鳴り出す音楽を待った。
はてな、遠慮なさっているのか、いささか音量が大人しい。
---先日喫茶に来られたお客が音量ボリュームに不満で
「次の新幹線は何時だ」と、隣りの連れに言ったわけです。
オッド・ジョブ氏、さっと立ち上がってボリュームをグイと回し、
出てきた音像のすさまじさに、とほうもなくたまげてしまった。
完成度、さすがのグッド・ジョブ氏であられる。
音楽だけでなく、珈琲もお勧めです。