goo blog サービス終了のお知らせ 

ロイス・タンノイ

タンノイによるホイジンガ的ジャズの考察でございます。

田尻のテナーマン

2020年09月08日 | ライブ演奏を聴く


松島T氏が、「娘です」と申されて、妙齢の♀をROYCEに、
連続2人も連れてきたとき、話を聞いた『田尻のタンノイ氏』は、
しきりに首をひねった。
「彼とは長いつきあいですが、一度も見たことがない」
謎の話はすぐに忘れて、愛用のテナー・サクスの話になった。
「いっちょう、やってみて」
お願いすると、車からズルズルとケースを引いてきて、ブロローッと
はじまったサウンドはPEPPERかロリンズか、ライブをこなす人だけある。
ジャズメン愛用のスピーカーが『タンノイ・ヨーク』と、このうえない見識を感じる。
「トーレンスの回転ベルト、余っているのありませんか?」
電話があったのでわけをたずねると、音が揺れてそろそろ限界だと申された。
―― 綿棒5本と、近所の整備工場でバルボルをサカズキ一杯分、手に入れるように言った。
ジュースのストローでバルボルをターンテーブルを抜いた穴に数滴たらす。
次に綿棒でお掃除。
滓が残らないように繰り返し、仕上げはスピンドルを戻したとき、
ギリギリたっぷりのバルボルを垂らしておく。
理想は、粘性の違うバルボルを調合するのだが、電話を切るとまもなく反応があった。
「すばらしい音です!」
やっぱり、ベルトのせいではなかった。
田尻タンノイ氏のお話によると、
「ここは都会じゃないからね、そのボーボーいう音、近所にさわりがあってはね」
先年なくされた御母堂のお言葉であった由、楽器もオーディオも、
弁慶の泣き所は大音量なのか。
2006.5/7


コルトレーン記念ライブ 2

2020年08月27日 | ライブ演奏を聴く


さて、ステージに並んだ今世紀最後のゴージャスユニットといわれる顔ぶれだが、
サウンドは『朝日のようにさわやかに』から突然始まった。
曲は、たしかライブ・アット・ビレッジバンガードに録音が残るだけで、
コルトレーンカルテットの今またこの曲が聴けるとは望外のスタートだった。
あれは十六のときであったか、釣山下の友人の部屋でMJQのこの曲と
ヘレンメリルからジャズの道に足を踏み入れたことは記憶にあって、
この曲を聴くとジャズを「ダンモ」と言っていた青春が甦ってくる。
正面のステージから人垣を越えて轟いてくる彼らの演奏を聴いて自分の耳を疑った。
タンノイマニアの自分は、ライブより、できればタンノイのスピーカーを通して聴きたい
と思ってはばからない変り者であるが、
いま聴こえるライブサウンドは、いつも聴いているタンノイの音まったくそのものである。
あるいはJBLで聴いている人もこのライブはJBLの音であると聴いているのかもしれないが、
やはりライブはタンノイの音であった。
『セイ・イット』が静かに始まると場内大歓声で、これを契機に演奏は過熱して行く。
「エルヴィン氏やマッコイ氏と、コルトレーンの代わりに共演できるのであればギャラは要らない」
マルサリスは申したそうであるが、言葉のとおり、二人の先輩を敬愛
するスタンスを演奏にみせてコルトレーンのフレーズをトランペットで彷彿と
させるマルサリス流のシーツオブサウンドも見事だ。
マルサリスは楽譜をひろげて、コルトレーンカルテットおなじみのナンバーを
次々と吹きこなして、澱みなく違和感なく、情感たっぷりに見事なサウンドで、
まろやかな美音と鋭いフレージングを折り交ぜ鮮やかに紡ぎ出して行く。
以前からコルトレーンのサウンドについてこっそり研鑚を詰んでいたのか、
出来映えに興奮させられた。
濡れたように滑らかで自在な音色に、同行の秘書も4時間立ち通しで聴いて、
トランペットのイメージを180度変えてしまった。
後日に、Royceにお見えになった盛岡の親子連れジャズフアンも、
ベイシーのかぶりつきでマルサリスの直下に陣取っておられたそうで
「パラパラとトランペットの先からつばきが飛んできて、それを浴びれたのは最高に幸せでした」
と話していた。
はて?このようなフレーズは以前聞いたことが有った、と思い出したのは、
千葉の大先生が米国ワシントンのジャズクラブに遠征したさいの思い出を
「かぶりつきでサラ・ボーンのツバキを浴びまして」
と言っておられたが、これこそがマニアの勲章というものか。
ところで目の前を、出前のオニギリ弁当や、湯気の立ちのぼるうどん丼が
休憩中の二階の楽屋に運ばれようとしている。
通路が混雑して前に進めないので客の一人がそれを託された。
「イヤーまいったな。オレ昇っていくわけ?」
などと言葉では抵抗を見せながら、決してお盆を放そうとしない。
嬉しそうにハミングしながら出前持ちに変身して楽屋をのぞきに行った幸運な人がいた。
休憩の後、二部が始まって『ザ・ドラム・シング』が佳境にさしかかると、
エルヴィンの激しいフットワークとスティックの唸りに驚いたマルサリスが、
例のトランペットを落としそうにして、たじたじと大げさにのけぞった
リアクションが会場を湧かせていた。
こちらの立つ位置からでは柱が視界を遮って右サイドのエルヴィンの全体が見えず、
腕の先がヒュンヒュン跳ね上がっているのが見えるだけであったので、
ときどきつま先立って首をひねってエルヴィンの雄姿を覗き見る。
エルヴィンは、上体をあまり動かさず、マラソン選手のように両腕を前後に振って
バランスのよいドラミングをしているように見え、
長時間のエネルギッシュなスイングを持続させて微塵も衰えを見せない。
会場の気分が良いのだろうか、いやはや凄まじいバイタリティだ。
気になって、ひょいと壁際の円テーブルの紳士達のその後を見ると、
なんと皆、椅子の上に立ち上がって見ている。
テーブルの上に乗っているやからもいる。
それというのも立ちはだかる人垣に貴賓席はあえなく埋もれてしまっていたのだ。
やはりライブは見るものであった。
レジナルド・ヴィールという若いベーシストを初めて見たが、
真摯な白人の、マッコイとエルヴィンに挟まれて次第にテンションのあがっていく
ストロングなベースワークも見ものであった。
とうとう自分の見せ場が来たと心得たレジナルドは、
指の皮に椿油でも塗っているかのような、あきれるほどの連続音を
剛弦で機関銃のようように延々と掻き鳴らすと会場からやんやの喝采を浴びた。
これにはエルヴィンもあっけに取られたように白い歯をみせている。
格闘技のような演奏表現は、解りきったことであるが
オーディオ装置で聴くときの音楽的興奮に視覚的臨場感の迫力が加わって、
なんとも言えないライブの凄みがある。
新宿の伊勢丹会館にある『エル・フラメンコ』に行ったときも、
踏みならされるサパテアードに圧倒され眼を見張った。
しかし一方、オーディオ装置によるスピーカーから聴く演奏のほうが
自分では楽しいと思うのはなぜか。
最初にそのことに気がついたのは、
NHKホールで聴いたフランクプールセル楽団の演奏会だったが、
この時の拡声装置の音の悪さと会場の居心地の悪さに考えさせられた。
オーディオマニアとして追求するイリュージョンの楽しみと現実のライブは、
同じ音楽を楽しむもののようでありながら、似て非なるものと心得る人も居ることであろう。
その宵のベイシーライブは天国だった。
曲の終わりに弓を鞘から抜いたレジナルドは、トランペットとピアノとドラムスの
音符の背景にそっとベースを当てて横一文字にゆっくり静かに引いてゆくと、
熱気に溢れていた会場にやがてブーンと低い弦の音だけが揺蕩っていく。
ベースのボーイングだけが夜更けのベイシーに静かに残って祭りは終わった。
割れるような拍手がいつまでも止まなかった。
さて、このようなビッグイベントを実現させたベイシーのマスターの姿を探すと、
やや後方の人垣のなかに彼は無言で立って居た。
過去のさまざまのA Love Supremeが脳裏に去来するコルトレーンは、
たった今までステージにサクスを構えていたような錯覚に陥るが、
その姿はやはり無かった。
だが、そこにコルトレーンが居る・・・と、或る日誰かが言い出してから
『ジャズ喫茶ベイシー』のサウンドに大勢の人がそれを聴いたという。
現在もその真偽の程を確かめに大勢の人が訪れている。
人口六万の小さな街、田村藩三万石。ライブ会場の屋根の下だけが異常な
興奮の坩堝と化していた時、城下町は、何ごとも無いかのように寝静まって
ブルージーな師走の夜は更けていった。
近隣の古老から聞いた話であるが、忠臣蔵の浅野内匠頭が預けられたところが
一関田村藩主右京大夫の江戸屋敷で、即日切腹というとんでもないことにかかわった。
田村家の表門はいま平泉の毛越寺に運ばれ大門として使われ、
裏門は十二神の上野家に移築されている。
2006.2/10



コルトレーン記念ライブ 1

2020年08月27日 | ライブ演奏を聴く


夕食を摂っていたら電話が鳴った。
「東京からですが...」
ROYCEでライブをやらせてくださいと、有難いお申し出だが、
そういう店舗ではないことを説明した。
ライブといえば、川向うのジャズのメッカでのコルトレーン記念ライブを思い出す。
8号ロイス・冊子から抜粋し、当時の興奮を....。

エルヴィン・ジョーンズがまえにさしかかったとき、ポンとこちらの肩に触れて、
「いいカメラだね・・・」
という感じでコンタックスのほうに挨拶した。
すぐ傍で見る黒いスーツ姿のエルヴィンはちょっと眼が笑っていて、
どう?と
何か尋ねているようにボクと秘書を交互に見降ろしながら若干の時間をとってくれたのだが、気の利いた英語も日本語も浮かばない。
エルヴィンは、いま一関ベイシーで前半部の演奏を終えたばかりで、
ゆっくり通路の人垣にもまれフアンと握手をくりかえしながら、
2階の休憩室(楽屋)に歩みを進めているが、店内を横切るだけで二十分もかかっているのは、
全国から東北のジャズ喫茶に集まった満員のフアンと白熱の演奏を楽しんだ余韻が
熱気となって渦巻いていたからである。
この、ステージから楽屋に向かうために客席を縦断する歌舞伎の花道は都合がよい。
通路に人垣をつくる一人ひとりとアイコンタクトして、声にならない言葉を交わそうとする
エルヴィンのサービスぶりも尋常ではないが、奥さんのケイコ女史が、
「サインは、最後に時間をとりますから、今は控えて!」
遠くで声を張り上げているのが聞こえる。
思えばコルトレーンが40才で没した1967年7月17日からかぞえて、
そのとき30周年になっていた。
それを記念したライブのおこなわれた12月7日のベイシー会場内は、
たったいま繰り広げられた前半のプログラムに興奮覚めやらぬ面持ちの、
ジャズに一家言を持つ群雄が口々に
賛辞や評論を述べあっているので、かなり騒々しい。
早々と一曲まえに楽屋に帰ったマッコイ・タイナーは、
「なにやってんの~。オレを一人にしないで皆早く上がってこいよー」
冗談半分先程から二階に居てがなり声を張り上げているのが皆の笑いをさそっている。
はじめて一関にやってきたマッコイは、全盛から三十年。
さすがに少し疲れたものか精彩がない。
K女史が演奏中もマッコイの弾くピアノの傍に付き添ってあれこれ世話をやいているが、
PA用のマイクの位置が気に触るのか、
セットされたスピーカーからハウリングしてしまうのか、
演奏中も首を振ってときどき片手で調整しているのが客席から見ていてやるせない。
だが、マッコイを欠いたコルトレーン・メモリアルでは意義を大きく減じる。
片言のフレーズでも良いですからポロポロンとやってくれれば、
あとはこっちで想像しますというスタンスで聴くと、
なにか、枯れたマッコイも滋味にあふれる。
要所々で寂を利かせて、ベイシー備えつけのピアノを弾いているのは、
まぎれもなくマッコイ・タイナーであった。
前半終了時にプログラム外のアンコールをやるとわかると、
一人だけ演奏を降りて楽屋に引っ込んだマッコイであったが、
自分抜きであまりに長いアンコール演奏に我慢できなかったものか、
オイオイお前たち・・・と、
二階から様子を見に戻ってきたのが先ほどの事である。
この日、夜八時半開演とのことで七時にはベイシーに入ってみた。
しかしこれがまったくの見込み違いだった。
そのときすでに満員の店内は五百人くらい入っているのか、
後方の化粧ルームの前にわずかに空間がある程度であった。
ステージ前五列くらいまではイスが置かれてあったが、
奥の円テーブルを一つ残してあとは取り払われ、立ち聴きで全員和気あいあい、
これから始まろうとしている演奏を、そわそわと待ちこがれてざわめいている。
いつもマスターが陣取る円テーブルは、六脚ほどの椅子が壁沿いに置かれて、
そのひな壇と思われる上席に陣取る面々が居る。
名のある評論家先生たちであるのか目立っているが、どこか落ち着かない風情であった。
ボクの周囲に立ち群れる人々は、横浜からバスを仕立ててやってきた熱烈なマニア達で、
追っかけの女性も何人もいるのが見て取れる。
「一関のホテル旅館はどこも満員だって」
「なんとかなるわよ」
といいながら
「地元の人ですか?」
なんて非常に気安く女性がジャズ談義を話しかけてくる。
ひょっとしてオレは狙われている?
後ろに控える秘書からジュースを受け取ると
「まあ、連れがいらしたの」
となったのもやむを得ぬが、山中のヒッチハイクのように
影からゾロゾロ現れることもあるので心得て応じれば問題はない。
いろいろ話を聞いてみると、この女性のようにジャズにはまっている人は、
理屈抜きで楽しんでいるので演奏の批評も勘どころが良くストレートだ。
開演少し前に、マルサリスとレジナルドがベイシーに到着して、スターの登場にドッ!と歓声が湧く。
あっというまに二階の楽屋に消えていった。
それからややあって今度はマッコイが女性通訳?と現れてまたドッ!と歓声が湧く。
また二階の楽屋に消えていった。
つまり、彼らはめいめいバラバラに現地集合した。
そうこうしていると、なにか化粧室のドアの向こうでゲーゲーやりだした人がいる。
案内によれば、飲み放題御一人三万円と書かれていたが、近隣のジャズ喫茶などから
応援に駆けつけた人々がドリンクを会場に配ってサービスしていたので、
美酒をたっぷり聞し召して早くも出来上がった人が現れた。
男は後になって、エルヴィンが楽屋に戻る時を見計らったように、ふらふらと、
それまで閉じ籠もっていた化粧室から現れて、ボクの傍からエルヴィンに
「いい演奏であった・・・」
メロメロの日本語でそれだけ言うとまたよろよろと戻って行ったのを見た。
そのときの、眼をパチクリさせたエルヴィンの顔を憶えているが、
日本人のジャズ層の厚みをそこに見る。ライブは見るものではなく、飲むものと。
エルヴィンの奥さんである日本人ケイコ女史は、開演二十分前になるころ、演説をしている。人種問題から説き起こす独演会だが、マルサリスについて、
「先日、ピューリッツアー賞をもらったからといって、皆がちやほやしてはイケナイ。彼には、まだまだ修行が必要ね」
苦言を呈し姉御の貫禄をみせていた。
エルヴィンへの思いがある。
「もし、良い演奏が聴きたいなら・・・」
K女史は、拍手のタイミングと盛り上げかたについて、
「これだ!というときは、みんなで遠慮なくドッと席から立ち上がって拍手しなさい」
と最高のアドバイスをくれた。
観客一同心得て、これはやってみると本当だった。
ノリに乗った前半休憩時のアンコールをなんと20分、
最後のアンコールをまた二曲もやってくれて、全部が終わったときには
午前零時を大きく廻っていた。
『ワイズ・ワン』の演奏を聴いたグルービィ達が、
「前の会場の演奏より十分もアドリブが長い」
驚いて言い合っていたが、これがスタンデイングオベーションの成果なのか。
この盛況を、後日千葉の大先生にこの時と自慢したところ、
「新宿ピットインのときには二、三人女性が失神して救急車がきていましたね」
と、舟底の栓を抜かれ、あえなく沈没した。
続く 2006.2/10

南部藩のパイプオルガン

2019年04月15日 | ライブ演奏を聴く


枯葉が午後の日差しに、そこかしこ定めなく散っている。
南部藩のオルガン演奏会に行ってみた。
このホールを地図でさがすと、雫石川と北上川で挟まれた地形が
北緯も近似にあるニューヨークのマンハッタン島と似ており、
ミッドタウンの位置に音楽堂があって、県庁の位置がブルックリンと重なっている。
律令の中世には豪族のドン安倍氏が厨川の地形に城柵を構築して、
奥六郡といわれる自治圏が盛岡を中心に一関まで広がっていた。
現在の盛岡市の人口は、およそ三十万人である。
ホールの3段鍵盤オルガンは、
立体駐車場から20メートル歩いた小ホールにあった。
建物の外観はビルディングに見え、内部にゆるく傾斜した350席は、
ギリシャ・ローマの円形劇場の石席に由来があるようだ。
観光旅行で見る中世ヨーロッパの教会堂のドームオルガンと、
楽器が中心に据えられたオルガンでは、どのように違いがあるのか、
タンノイを自室で親しんでいるものが、大がかりな3段鍵盤を持つ
オーディオルームを目の前にしている気分がした。
ホールに参集し、開演を待つ観客は期待に胸を膨らませ、
左隣りに着席した若い女性二人も「きょうがとても楽しみだったの」と、
頷きあってまもなくスヤスヤと傾聴されている。
また背後に座った客人のところに、何人かの人が親しく挨拶を述べに来ていた。
右隣り通路側の女性は、着席の時「失礼します」とこちらに言ったきり、
身を小さく気配を忍者のようにまったく消していたが、
演奏がおわると拍手する手の動きだけが眼のはじに見えている。
その様子が、当方など両手のひらで空気を潰すようなバチバチとやるものと違い、
前方に手のひらの空気を逃がすような上品な拍手を初めて見た。
会場の私語ざわめきが静まったころ、いよいよ開演のチャイムが流れ
照明が静かに落ちると、女性オルガニストは拍手に迎えられて、
凛々しさ優しさ、はにかみといったものを一瞬のうちに表すと、
前半の3曲の作曲家である『ディートリヒ・ブクステフーデ』について
「すこし説明をさせていただきます」と話している。
ジャズの場合、MJQのライブコンサートでジョン・ルイスが
「ネクストピースはスケイティング・イン・セントラルパークです」
など曲目を告げる言葉がタンノイから聞こえたりして趣があるが、
これから演奏する人が作曲家の地勢的な背景や音楽史上の特徴を
時間をとって話すことはめずらしく、教養がやわらかな言葉になって感心した。
いよいよ演奏が始まって、初めて耳に届いたパイプオルガンの音は、
どうもタンノイのコアキシャルユニットから直進してくるものと同じ高さにある。
スケールは、さらにホール両側壁の傾斜角を持った反響版や、
高い天井の残響が豊かに増幅されて混和し、
非常に堂々とした心地よい音であった。
前半の演奏が終わって短時間休憩の時思ったことは、
コルトレーンが少年のころ牧師である叔父の教会で
クラリネットを練習していたと聞いたが、
もし彼がそのときパイプオルガンのすさまじい低音を体験していれば、
後世カルテットを組んだ自前の演奏団に、
さらにもうひとつドラムスを加え2セットほしいと言ったこと、
あるいは譜面の上に音符を敷き詰めたシーツオブサウンドや
スピリチュアルな曲想にどんどん向かっていくのは、
パイプオルガン時代の幼年体験がなさせたものではないか。
などと、つい職業的分析を適当に隣人に話すと、まったく反応がなく、
かわりに前の席の客が振り返ってまじまじとこちらを見ていたので、
ひょっとして二本差しかな。
短時間の休憩の後、演奏はバッハの曲に入っていく。
しばらく聴いていると一瞬、音の曇りのような感じがあり、
思わず座席から10センチほど耳を前後に動かして、解消されたのは、
前方左に座る人が音波を遮っていたとわかるほど粒立った音が
オルガンパイプの切り口から真っ直ぐに飛んで来るのだろうか。
音波の指向性はちょうどオーケストラの弦楽パートの受け渡しが、
音のカーテンの風で揺れるような見え方とその快感が似ており、
パイプの指向性を咎めるものではない。
またジャズドラムスのスネアブラシのシャッシャッという音に似た、
細かいタンギングが連続して聴こえているのは何だろうと、閉じていた目を開いた。
それは奏者が両手の指をすべて平らに伸ばして
鍵盤を細かく正確に団扇のように連打している機械音で、
もとよりオルガンパイプからの音ではないが、
ケーテン公がこれを聴けば周囲の側近たちに
「ここにさしかかったら今後は演奏中でもかまわないから拍手しよう」
となるのでは、と思わせる結構な技を見せるオルガニストが、
タンギング最後の一音をピッと止めたとき、
その最後の音符の発した残映が、左前方から当方の顔を横切って
右後方に飛んでいった航跡が感じられたのは、いったいどうなっている。
すべての演奏が終了して、会場が拍手につつまれたときの一瞬、
挨拶に起立した奏者がその拍手をパイプオルガンのほうに向けて
手を示したのが印象的であった。
ホールの外に出るとき、花輪から一輪の花をくばってくださった。
それを土産に持ちながら、秋の午後の日差しを受けて、一関に戻った。
廊下のうさぎが、一輪の花を見ている。
2014.10/27


田園の蜃気楼

2015年05月29日 | ライブ演奏を聴く
5月の田園に、蜃気楼が立つ様子を見たい。
4号線を進むこと1時間、加美町にある『バッハホール』に着いた。
この中新田という地域は、奈良の律令府が昔、軍営柵を置いていた、
『城生の柵』と『色麻の柵』といい、まぼろしの史跡である。
廿五日。将軍東人従多賀柵発。三月一日。帥使下判官従七位上紀朝臣武良士等及所委騎兵一百九十六人。鎮兵四百九十九人。當國兵五千人。帰狄俘二百四十九人。従部内色麻柵発。即日到出羽國大室駅。
陸奥の多賀城と、秋田の大室を結ぶ軍道347号線を進軍した按察使将軍大野東人が、
月報を京の朝廷にたんたんと打電した記録が残されている。
「いくらなんでも、一日でこの距離は無理でしょ」
上奏の文面を読んだ後世の史家は驚いて首をひねるが。
『北村英治スーパーカルテット』は、中新田バッハホールのステージに登場し、
ご自分の歴史のバデイ・デ・フランコの思い出を語りながら、
クラリネットを魔法のようにあやつり、
太い低音からみずみずしい高音まで、人間発動機のように吹きこなした。
ムッシュ北村の話術と演奏に数百人が呑み込まれ、忘我の境に漂っていると、
誰か「はーくしょーん」と、絶妙の合の手をいれる集団が居る。
スタインウェイグランドピアノを弾きつつ『枯葉』を唄うピアニスト。
一度聴いたら忘れられないベーシスト。
穴のあく寸前までドラムスを敲き、緩急の凄いドラマー。
北村氏は、赤いベルトの金時計を眺めて、会場を見渡すと、
ケロリとして「また呼んでくださいね」と優しく言った。
ホール自慢のパイプオルガンは、きょうは音無しのかまえである。
ホールのエントランスでは、ジョルジュ・シムノンに似た男がいた。
黄昏れの駐車場に道を渡って音楽堂を振り返ると、
鳴瀬川と田川の合流地に、現代の城柵のようにバッハホールは浮かんでいた。
翌日、10年ぶりで、いなせなお客が登場し、
レプリカのマランツ♯7を、サブのラインでジャズを楽しまれていると。