この一週間、世間は大谷翔平一色。どのテレビを付けてもパネラーが口を揃えて大谷選手を賛美する。人間はなぜこれほどヒーローを求めるのか?チコちゃんに教えてもらいたいものである(チコちゃんによると、人間の性(さが)は大抵その社会性に帰結する。人間が噂話や人の陰口が好きなのも人間が一人では生きていけないからだ、と説明していた)。
かく言う私も大谷翔平のファンである。何が気持ちがいいかってそのパワー。これまで、日本のプロ野球では、ボールはバットの芯で叩かないと飛ばないからバットの端っこにボールの跡があったりするとそれが恥ずかしくて拭いたそうだ。大昔のプロ野球中継の解説者も技術論ばかりしゃべってた。だが、大谷選手はバットの先っぽに当てたボールもパワーでスタンドまで運んでしまう。ちまちました技術論をパワーで一蹴した格好である。因みに、ちょっと前までテレビで「喝っ」と叫んでいた元名選手は当初大谷選手はピッチャーに専念すべきだと言っていた。160キロを超えるボールを投げられる人なんか滅多にいないという理屈は分からなくもない。もしこの方の意見が通ってたら昨年の大谷選手の活躍はなかったわけだ(偉業を達成するためには「人の話を聞かない」態度も必要である)。その後、当氏は打者大谷を応援するようになった。「あの活躍を見たら」ということだった。「過ちては改むるに憚ること勿れ」である。あと、当氏は筋トレを否定して二言目には「ランニングが大切」と仰っていたが、どれほどの科学的裏付けがあるかは知る由もない。大谷選手は日々筋トレに励んでいるそうである。当氏にとって「不都合な真実」である。
その反面(ヒーローを褒めそやす反面)、人は、スケープゴードを見つけては集中攻撃する。朝ドラの「おむすび」は現在のスケープゴードの一つである。かつて、朝ドラ好きでならしていた私も「おむすび」は真面目に見ていない。一応ときどき事件が起きるのだけど、奮闘努力の様が描かれないで、ナレーターの一言で片付くから真面目に見る必要がないのである。端的な例は、ヒロインが管理栄養士になる話。子連れで管理栄養士を目指します、と言ったと思ったらしばらく画面に出てこず、次に現れたときはもう管理栄養士になって数年経っていた。物語に「展開」がないのである。言ってみれば、展開部のない交響曲のようなものである。
だが、展開部のない交響曲だって存在する。交響曲に立派な展開部を書いたのはベートーヴェン。ベートーヴェンが偉すぎたもんだから、その後のシューベルトを始めとするロマン派の作曲家は右に倣えで交響曲を書く際、必死にベートーヴェン流の展開部を書こうとしたがうまくいかなかった。だが、シューベルトの歌曲の詩に寄り添う繊細さはベートーヴェンにはないものである。
再放送している「カムカムエヴリバディ」は綿密に伏線が張られていて、それが長い時間をかけて見事に回収される様は、まるでベートーヴェンの楽曲が展開していって最後に頂点に達する様を見るようである。だが、そうした「カムカムエヴリバディ」の作中では、駄作の誉れ(?)高い映画をヒロインの家族が涙を流して見る。だから、展開部のない「おむすび」が大好きって人がいてもちっとも不思議ではないのである。
なお、かつてもっとスケープゴードにされた朝ドラに「チムドンドン」があったが、あっちは、見ていて気分が悪くなった。暴力や犯罪が目白押しだったからだ。それに比べれば「おむすび」は無害である。
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