つい最近起こった路上殺人事件で、当初、ニュースは犯人が「一方的に恨みを募らせて」と言っていた。「一方的」には二つの意味があると思った。一つは、犯人が被害者を恨んでいたが被害者は犯人を恨んでいなかった、すなわち、「一方通行」であった、という意味。もう一つは、恨みを持つような事情などないのに勝手な思い込みで恨みをもった、というニュアンス。私は、ニュースは後者の意味で言っててるように聞こえたが、この事件はお金の貸し借りがからんでいるらしく、その場合に後者の表現が真に適切かどうか疑問を持った。事件の続報では「一方的」と言わなくなった。因みに、犯人は被害者が貸金を返さないので警察に相談に行ったというがこういう案件で警察に行っても「民事非介入」で相手にしてもらえないのは当然である。次に貸金返還訴訟を起こし勝訴判決を得たというが、判決が出てもそれだけではただの紙切れであり、真の返済はその判決を用いた強制執行で実現するものである。
事件を評す文言と言えば、被告人に同情すべき事情のある事件でも、裁判所は判決の言渡しにおいて、決まって「短絡で自己中心的」と言う。じゃ、実刑か?と思うと、その後に「だが、なんたらかんたらで……」と言って執行猶予を付ける。じゃあ「短絡で自己中心的」って言わなきゃいいのに。裁判所は、どんな場合でもとりあえずこの文言を言わないと気が済まないのだな、前例主義だから使い古された文言を金科玉条のごとく大事にしてるんだな、と常々思っていた。
今月、介護がらみの殺人事件で続けて執行猶予付きの判決が出たうちの1件目も同様だった。だが、2件目の方では、裁判所はこの決まり文句を言わずに「殺人はどんな理由があっても許されない」と言った。思うに、多くの事件では、被告人が自分だけで抱え込んでしまって思いあまって人を殺めたところが「短絡」と言われる所以なのだろうが、この事件においては、被告人は周囲に助けを求めたのに助けてもらえなかった。いつもの決まり文句を使わなかったのはそのためだろう。だからと言って無罪にするわけにはいかないから「殺人はどんな理由があっても許されない」と言ったうえで、社会にも責任がある、と断じたのである。少し、裁判所を見直した私である。
偶然、テレビでビリー・ザ・キッドのドキュメンタリーを見た。21年の生涯で21人を殺し、最後は保安官に射殺され、その当時は大悪党とみなされていたが、死後何十年も経って義賊だったという評価が出始め、一転ヒーローとなった。現在、お墓は檻に覆われている(ファンが墓石を持って行ったりするのを防ぐため)。死して「檻の中」というのも皮肉な話である。その碑文には「21人を殺した」と刻まれているそうな。上記の判決の「殺人はどんな理由があっても許されない」と同趣旨で刻まれたのかどうかは分からない。