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黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

山の話Vol.5「利根川から望む関東の山々」

2025-04-10 05:04:32 | 地理

このたびの幸手小旅のレポートの最後を飾るのが山のお話。ただし、春霞というだけあって空が霞んでいて、くっきりした山の写真は撮れていない。心眼を通して見ていただければ幸いである。

今回は、既報の通り幸手から権現堂川を北上して利根川に向かったわけだが、権現堂川を歩いている最中にも右手に筑波山が見えたし(筑波山は茨城県の山であるところ、権現堂川の対岸は茨城県五霞市である)、

正面には日光男体山が見えたりで(見えない?真ん真ん中に薄く写ってる)、

期待は否応なく膨らむ。

そして、いよいよ栗橋辺りで利根川の土手に立つと、上流方面(西)には赤城山と日光男体山のパノラマが広がり(心眼!)、

北東にはお馴染みの筑波山(関東南部の人間にとっては、富士山と筑波山は「おなじみさん」である)。

これらをズームで見てみよう。まずは筑波山。所在は茨城県。

いつもは並んで見える男体山と女体山がほとんど重なっている。そして、いつもは見えない坊主山の頂きが筑波山腹(左側)に見えている。これは角度の問題である。いつもは南側から見ているのに対して今回は南西から見ているからである(茨城県は、栗橋(埼玉県久喜市)の北東にある)。

続いて、赤城山のズーム。所在は群馬県。

こちらもいつもとは少し違う。一番右側の黒檜山(赤城山最高峰)がいつもは前の駒ヶ岳や長七郎山と重なるのだが、ここからは最高峰らしい独立した威容を見せている。これも角度のせい。いつもは南から見ているに対して今回は南東から見ているからである(群馬県は、栗橋(埼玉県久喜市)の北西にある)。

最後に日光連山のズーム。所在は栃木県。左端に日光男体山。その右に女峰山他。

これはいつもと変わらない。ここからもほぼ真南から見ていて、それは東京から見るのと同じだからである(栃木県は、栗橋(埼玉県久喜市)の真北にある)。

以上、北関東3県をそれぞれ代表する山々であった。これを一望できるのだから、なんとも経済的である。おまけに利根川とのコラボである。土手の上でピューピュー唸りまくる空っ風にさらされた甲斐があるというものである。

これで、今回の幸手小旅のレポートは完了。この後も山川を巡る小旅の予定が控えているが、また足が痛むといけないから、適当な休養をとるつもりである。いまどき野球のピッチャーだってローテーションを守り連投は避けるのだから。

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川の成り立ちVol.14権現堂川(幸手の桜その2)

2025-04-09 06:45:16 | 地理

幸手の小旅のうち、前回は桜にフォーカスした記事を書いたので、今回は、小旅の主目的である権現堂川の成り立ちのお話である。

あらためて、権現堂川についてであるが、栗橋辺りで利根川から分流し、権現堂堤辺りで中川に合流する5キロ超の水流なのだが、かつては東京湾に注いでいた渡良瀬川の本流であり、現在の中川が南に向きを変える辺りまでを含めて権現堂川と呼ばれていた(南に向きを変えた後の中川は庄内川と呼ばれ、その先は現在の中川と異なり現在の江戸川(当時の太日川)に通じていた)。その後、江戸時代の利根川東遷事業により、まず新川通が開削されて利根川が渡良瀬川とつながると渡良瀬川は利根川の支流となり権現堂川は利根川の本流となった。さらに、赤堀川が開削されて利根川が銚子方面に流れる常陸川とつながると、利根川からの分流口が閉じられて権現堂川はいったん廃川となり、調整池となって水は残った。だから、今でも権現堂川という昔の名前が使われてはいるが、正式名称は権現堂調整池である。それでも、現在は、利根川とは川妻給排水機場からの樋管(地中の管)でつながっているし、中川とは行幸給排水機場でつながっていて、この二つの給排水機場で水の出入りを調整しているとのことである(幸手市HP)。ってことは水流があるわけだ。それでも正式には「川」ではないのだろうか。

下図の赤点線が、今回の踏破ルートである。川をなるべく直角に交差させた下図は位置の先後左右を明らかにすることに主眼を置いたものであり、実際の角度、縮尺とはほど遠いことをお断りしておく。

上記の通り、かつては権現堂川合流後の中川の一部(東西流)も権現堂川であったが、現在の権現堂川は、中川に合流するまでの南北流の名称である。その権現堂川を全部踏破しよう、その前に権現堂堤下(桜堤の下)の中川を歩き、権現堂川を踏破した後は利根川の土手を渡良瀬川の合流地点まで歩こう、というのが今回のプランである。

では、順を追って振り返るとする。

前回書いた通り、今回は権現堂堤の東端から現場に入ったわけだが、桜並木の下を歩こうと思ったら堤を上ることになる。

堤は高い所にあるから上るのである。私は、そうした見物客を横目に堤を上らずして中川の岸に出た。

中川のこの辺りだって、権現堂川合流後の東西流だから、今では素朴な風情であるが、かつては利根川本流であった。

ここからしばらく堤下の菜の花畑の脇を歩き、行幸橋を渡って中川の対岸に渡る。対岸から見た権現堂堤の様子がコレである。

すると、目の前に行幸給排水機場が現れた。

手前が中川で、給排水機場の向こうが権現堂川(行幸湖)である。その「給排水機場の向こう」はこんな感じである。

モーレツに広い。まあ調整池だから奥行きはないのだろう、とこの時点では思っている。給排水機場を出た所に川(池)の名称を彫った碑があった。

正式名称の「権現堂調整池」と通称の「行幸湖」が並んでいる。「行幸湖」は「みゆきこ」と読むことがわかる。由来は明治天皇の行幸とのこと。

というわけで、ここからは権現堂川の右岸(二つ前の写真の左側)を北に向かって延々と歩く(昨日の朝にアップしたBWV78についてのブログに「たゆみない歩み」と書いたが、まさにそれである)。驚いたのは、行けども行けども右側に見える水流の幅が小さくならないこと。

「いったん廃川になった」「正式名称は調整池」とかの話から、水がたっぷりあるのは給排水機場の辺りだけで、すぐに小さな水溜まりになるものとばかり思っていたが大間違い。この辺りにおける比較なら中川よりずっと大河である。川(池)の中には噴水もあるし、

カモもいる。

まあ、カモは現在の古隅田川(東京)のような水溜まりにもいるから大きさの証明にはならないが。人出のあったこの堤もしばらくすると人影が絶えた、と前回書いたが、川幅は変わらない。さすが、かつて利根川の本流だっただけのことはある。

対岸は茨城県五霞市である。こちら側は埼玉県久喜市である。

ようやく、終点の川妻給排水機場の辺りに来て、川幅が狭まった。

それでも、水流は途絶えてはおらず、利根川とは樋管(地下の管)でつながっている。給排水機場の裏の公園(権現堂調整池公園)内に、樋管の位置を示す標識があった。

さて、利根川はもうすぐそこ。この公園を抜けると利根川土手に上がる階段が現れた。

これを上ると利根川が一望できる。

遠くに見えるのは筑波山だが、詳しくは「山の話」で。右手(下流方面)に東北新幹線の鉄橋がある。

この車列をカメラにおさめた後、土手を上流方面に移動。すると、利根川橋が現れた。この辺りの地名は栗橋(埼玉県久喜市)。すなわち、この場所こそが、日光詣でをする徳川将軍の社参の列が、利根川に船を並べてその上に板を敷き、橋代わりにして利根川を渡った場所である。橋をかけなかったのは防衛上の配慮だという。そのことに思いを馳せ、少し橋を渡ってみた。この橋は、上り橋と下り橋が別々になっていて、行き掛かり上、上り橋の歩道を少し進んだ。橋の途中から下流を見るとなるほど大河である。

さきほどの新幹線の鉄橋が遠くに見える(この間もだいぶ歩いた証左である)。その手前の右側に権現堂川の分流地点がある。利根川のその先の河道は開削した赤堀川である。この開削によって利根川が銚子方面に流れる常陸川とつながったのである。

そして上流側に見える流れのうち左側は、

赤堀川開削の前に開削した新川通である。この開削によって利根川が渡良瀬川とつながったのである。右側がその渡良瀬川である。

正直に言うと、怖いったらありゃしない。利根川を土手から見るのは大好きだが橋を渡るのは苦手である(故火野正平さんも、チャリで橋を渡るのを嫌がっておられた)。早々に橋の袂に引き返そうと思ったら悲劇が起きた。橋の袂に戻って一般道に出ようと思ったらずっと歩いてきた道を引き返さなければならないらしい。それをせずに一般道に出ようと思ったら、この上り橋を下りきって(車の向きとは逆)、いったん向こう岸(茨城県古河市)に渡ったあと(想像するだに怖い)、下り橋を上らなければならないらしい(想像するだに怖い×2)。なるべく下を見ずに往復してなんとか栗橋側の一般道(土手)に戻ってきた。

残されたミッションはあと一つ。渡良瀬川との合流点を見ること。土手をもう少し上流に行くと、そのポイントが見えてきた。

手前の左右の流れが利根川であり(開削によって切り拓かれた部分=新川通)、奥から来る流れが渡良瀬川である。渡良瀬川は、新川通の開削前は、ここから現在の利根川の流れを少しなぞって権現堂川の流路に入り、東京湾に注いでいたのである。この日に見た利根川は、江戸幕府の利根川東遷事業の前は利根川として存在しなかったというワケである。

これで今回の目標はすべてクリアー。日没まであとわずかの時点であった。栗原駅から乗車し帰路につく。踏破エリアは駅で言うと3駅間強だったが所要時間はしめて4時間。肉体的には苦行の域である。この小旅では、いくつかの名山を拝んだが、その話は回を改めて「山の話シリーズ」でする所存である。

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川の成り立ちVol.13「足立郡」

2025-03-27 15:25:18 | 地理

川の成り立ちを調べていて、へー!と思うことがある。ついこのあいだその跡を踏破した古隅田川(東京)は東京都足立区と葛飾区の境界を流れていたのだが、その境界イコール足立郡と葛飾郡の境界であり、イコール古代における武蔵国と下総国の境界だというのである。現在、足立区は(埼玉県とは北限で接しているが)千葉県とは接してないから、「下総国と接していた」というのがいまいちピンとこなかったのだが、たしかに、葛飾郡は、古代においてはその全部が下総国に属していたから(利根川の最下流が概ね現在の隅田川だった頃、その東側が下総国葛飾郡だった)、葛飾郡と接している、ということは下総国と接していることなのである(足立区の南に千葉県が足をのばしていたイメージ。なお、後に江戸川が利根川本流になると、江戸川以西の葛飾郡が武蔵国に編入されたから、足立郡の南隣は武蔵国葛飾郡となり、同じ武蔵国同士となった)。

思えば、私は足立区の成り立ちについて何も知らなかった。私が東京の土を踏めるのはひとえに足立区のおかげである。もし足立区がなければ、怖くて、恥ずかしくて、畏れ多くてとても東京の土を踏むことができなかったろう(どういう意味?)。そんなありがたい足立区にもかかわらず、である。反省(猿ではない)。遅ればせながら足立区の成り立ちについて調べてみた。

私が今足立区の由来について調べることは、時期的に意味のあることであった。すなわち、葛飾もそうだが、足立区の成り立ちは川が深く関与していたのである。だから、川についてかなりお勉強をした今、足立区のことを調べることは、まさに「満を持して」と言えるのである。

すなわち、足立区の前身は、武蔵国足立郡である。武蔵国は、東京都と埼玉県を合わせたエリアであるところ、足立郡は、武蔵国の東から二番目の位置にあり(東端は埼玉郡)、北は鴻巣辺りから南は現在の足立区辺りまで縦に長く、現在の綾瀬川・元荒川(東側)と現在の荒川(西側)に挟まれたエリアであった(下図のピンクで塗ったエリアである)。

その後、明治の世となり、東京都と埼玉県ができると、東京都側の足立郡が南足立郡となり、埼玉県側の足立郡が北足立郡となった。この南足立郡こそが足立区の前身である。

「あだち」という名前は、一説には「葦立ち」(あしだち)が由来だという。大昔は低湿地であったろうから、葦がたくさんはえていたことは想像に難くない。

なお、葛飾郡についてはVol.9でお勉強した。今後、詰めてみたいのは、武蔵国豊島郡である。現在、豊島区は隅田川エリアよりもずっと西にあるが、昔は隅田川に接していて、最下流の例の南東流(請地古川)の本所・深川地区(スカイツリーがある)は、江戸川以西の葛飾郡が武蔵国に編入された際に武蔵国豊島郡から武蔵国葛飾郡に編入された地域だという。なんともそそる話である。

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川の成り立ちVol.12「中川のどこがいつ利根川だったか」

2025-03-26 16:34:08 | 地理

中川の土手をチャリってて、ふと、この辺りは、

大昔利根川だったんだっけ?と考えてしまった。「昔の利根川は概ね中川の流路」と言っても、この「概ね」が曲者であり、時代と流域によって異なる。そのあたりの話は「川の成り立ち」シリーズの第1シーズンのエピソード1~3(Vol.1~3のこと。シーズンとエピソードで呼ぶ配信動画の影響を受けている)でさんざっぱらお勉強したはずだが、なにせ私の脳は記憶容量が乏しいからブログに書いたそばから忘れてしまう。加えて、利根川がその東遷事業によって何度か本流を変えていることと(東遷前と東遷後だけではなく、東遷中「臨時に」本流だった流域もある)、中川自体が複数の川をくっつけて作りあげた川であるという特殊事情が話をややこしくしている。そこで、あらためて「中川のどこがいつ利根川だったか」という観点からまとめてみた。図も、以前のモノは各河川を直角に交わる縦横の線で表したせいで位置と距離のイメージが現実とかけ離れたものになっていのたで、もう少し現実に近いモノに作り直した。

まず、中川の成り立ちをおさらいし、次いで、各時代における利根川の本流を確認したうえで、両者を照らし合わし、中川のどこがいつ利根川だったかをあぶり出そうと思う。

【中川の成り立ち】中川の現在の成り立ちはこうである(図の赤い線)。

起点は、埼玉県羽生市である。葛西用水路の起点近くで葛西用水路に交差する形で東進する流れが中川であり、交差する辺りに中川起点碑がある。

起点とあるが、実は、この流れは葛西用水路の西側からの続きである。

宮田落としと呼ばれるこの流れが葛西用水の下をくぐって出たところに起点の碑があるのである。

この後しばらく埼玉の北端を東向きに流れ、島川、次いで権現堂川と呼ばれた流路に入る。権現堂川の堤(権現堂堤)は幸手市にあって桜の名所である。写真は、数年前、満開時に行って撮ったもの。

今年も行くつもりである。中川は、その後、南に向きを変え、庄内川(後に締め切られた後は庄内古川)と呼ばれた流路に入る。庄内川は、利根川東遷中にいっとき利根川の本流となったことがある(後記)。

庄内川は、以前はそのまま太日川(現在の江戸川。権現堂川、庄内川、太日川と続く流れは昔の渡良瀬川の中・下流部である)となって東京湾に注いでいたのだが、今では(中川になってからは)、開削された河道を通って古利根川に合流し古利根川の流路を流路とする。開削された河道がコレであり、

古利根川との合流地点がここである。次の写真の手前の右からの流れが開削された中川であり、奥から合流する流れが古利根川である。

古利根川は、その名の通り、利根川東遷前の利根川の本流である。庄内川と古利根川がつながった反面、庄内川と太日川間の流路は閉塞され、太日川は現在の利根川と結ぶ上流部分が開削されて江戸川となった(元は一つの流れだった庄内川と太日川のうち、庄内川には別の下流があてがわれて中川となり、太日川には別の上流があてがわれて江戸川になったわけである)。次の写真(上流から撮影)の右側を流れるのが中川(庄内川)で中央の道路(中川の土手)から左端の二階建の家の前を左に折れる道路が閉塞された流路の土手の跡。ここに沿って太日川(江戸川)に向かう流れが庄内川のもともとの流れであり、まっすぐ正面に延びる流路は開削された流路というわけである。

この元土手の道路下は低く、畑になっている。

ここに庄内川と太日川を結ぶ水の流れがあったわけである。

中川に戻ろう。古利根川の流路を南下する中川は、この後、元荒川の合流を受け、東京都に入り、足立区と葛飾区の境界を南下し、葛飾区の亀有辺りで古隅田川が西に分流した後もしばらく南下する(古代において利根川本流であった古隅田川が西に分流した後の南下流は、一度も利根川本流となったことがない流れである)。その後、青砥を過ぎた辺りから南西方面に向きを変える(次の写真は青砥橋から撮ったもの)。

蛇行しつつ進み、荒川を目前にした地点で綾瀬川が合流し、荒川に突っ切られてからは荒川と併流し、ゴールを目前にした地点で荒川と合流して東京湾に注ぐ。このうち、太古の昔から「中川」と呼ばれていたのは古隅田川が西に分流した後も南下を続けた流路であるが(利根川(現在の隅田川)と太日川(現在の江戸川)の中を流れるから中川)、庄内古川と古利根川が開削によってつながると、その全部が「中川」になった。反面、古利根川は中川との合流地点までの名称となり、由緒正しき古利根川は中川の支流に成り下がったのである(「古」がいけなかった?)。

【利根川の本流(東遷前)】東遷前の利根川の流路(図の水色の線)はこうである。しばらく現在の埼玉県と群馬県との県境を東西に流れた後、概ね現在の古利根川と中川の流路を南下し、古隅田川(東京)の流路を通って現在の隅田川(太古の入間川)に合流し、下流近くで南東に向かう流路(今は消失した請地古川)を経て東京湾に注いでいた(なお、太古の時代においては、古利根川から古隅田川(東京の古隅田川とは別の埼玉県の川)が分流し(現在とは流れが逆)、現在の元荒川に合流した後に現在の中川の流路に入っていた)。

【利根川の本流(東遷中)】東遷中のある時期の利根川(図の緑の線)は、開削により渡良瀬川とつながったため、渡良瀬川の中流(庄内川)及び下流(太日川)がその本流となった(東遷前より少し東にシフトした)。さらに、現在の江戸川上流が開削されると、その流路から太日川に連続する流路(現在の江戸川)が利根川本流となった。

【利根川の本流(東遷後)】利根川は銚子方面に向かう常陸川とつながり、最終的に常陸川が利根川本流となり(図の紫の線)、これにより利根川河口は東京湾から太平洋に変更となった(東遷が完成した)。

【中川のどこがいつ利根川だったか】以上をふまえて、中川のどこがいつ利根川の流路であったかをまとめると、次のとおりである。

中川の下流域(古利根川に合流した地点から、古隅田川(東京)が分流する地点まで)は、利根川東遷前において利根川本流であった。

中川の中流域(庄内(古)川と呼ばれた部分)は、利根川東遷中(利根川と渡良瀬川がつながってから江戸川上流部が開削されるまで)、いっとき利根川本流であった。

すると、冒頭の写真に写る中川は、中川の下流域であり、古隅田川(東京)の分流手前であるから、利根川東遷前(古代)においては利根川本流であったこととなる。そう思って見ると、後光が差すというか、見え方が違ってくるものである。

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手づかみ食の文化

2025-03-21 11:31:22 | 地理

千一夜物語をドイツ語で読んでいて(なぜドイツ語か?と言うと、キンドルでドイツ語訳はタダなのに対し日本語訳は有料だったから)、「Kahirah」って地名が出てきて、「カヒラー」ってどこ?と思ったらエジプトのカイロのことであった。「Nil」(ニル)はナイル川のことであった。そんな具合に格闘しつつであるが、少しは中東の地理が分かるようになった。例えば、お話の中で、カヒラー(カイロ)からバスラに行く途中にダマスカスに寄ったって話が出てきても、なるほど、まずカイロから地中海に沿って北上してパレスチナを通ってダマスカスに行き、そこから東に向きを変え、チグリス・ユーフラテスの両川に沿ってバグダードを経てバスラに向かったんだな、とルートが浮かぶようになった。

この辺りの地名が千一夜物語には頻繁に登場するのは当然だが、たまにインド、はたまた中国までもが出てくる。いくらなんでも遠すぎない?ホントに中国?と思っていたが、こないだ読んだ話にカシュガルって地名が出てきて、調べると中国なのだけれど(西域の端)、経度的にはインドの北辺りで、そうか、中国と言っても広うござんした、ここら辺も中国だとしたら、そりゃ中東から遠いには違いないが、海をぐるっと回りよりもよっぽど近い。それこそ、シルクロードの世界である。だから、千一夜物語に中国が登場するのだな、とガテンがいった。

ところで、こないだ、千一夜物語の中の「新郎がロズバジャを食べた後に手を洗わなくて手が臭ったのに激怒した新婦が新郎の手足の親指を切り落とした」って話を書いた。そう言えば、千一夜物語にはやたらと手を洗う描写が登場する。それも食後である。日本では「ご飯の前に手を洗いなさい」と言われるのになぜだろう?とかねがね不思議であったが、遅ればせながらガテンがいった。そうか、人々は手づかみで食べてるんだ!インドでは手づかみで食べると聞いていたが、中東でもそうだったんだ。さらに、近代において上から目線でアジア人を野蛮だと評していたヨーロッパの連中だって、ちょっと前までは手づかみ食だった。彼らは肉を手で掴んで剣で切って食べていたがその剣を楊枝代わりに使うと危険なので食卓のナイフの先が丸くなったとチコちゃんが言ってたっけ。

因みに、「ロズバジャ」の夫婦のその後がこれまたびっくりである。二人は、その後幸せに暮らしましたとさ!で物語が終わっているのである。相当に緊張感のある夫婦生活のように思える。

もう一つ因みに、コロナ禍のときから一層「帰ったら手を洗いなさい」と言われるようになったが、スーパーから帰って手を洗うと、せっかくスーパーの入口で手に塗りたくった消毒薬が落ちてしまう。逆効果のようにも思える。

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