goo blog サービス終了のお知らせ 

黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

ブログ引越

2025-04-17 08:49:14 | 日記

グーブログ(このブログ)が、秋にサービスを終了するという。私の現在のアカウントは昨年秋にブログを再開する際に取得したばかり。それまでもずっとグーブログをやっていたので、再開後もグーブログにしようと考えた末の選択であった。もちろん、1年後のサービス終了が分かっていれば初めから他のブログで再開していた。

その「他のブログ」はもう決めた。これである。

https://ameblo.jp/maria-ehrenreich/

以前から持っていたアカウントの活用である。既に、新しい記事を書き始めたし、昨年秋に再開した後にグーブログに載せた記事は、順次新ブログに移送する。既に、「コラール」と「川」については移送が完了した。

「新ブログ」はつい一昨日まではこのブログを指していたのにあっという間に「旧ブログ」になり、再開前のヤツは「旧旧ブログ」になった。実は、再開前のグーブログの前にも別のブログがあったからそちらは「旧旧旧ブログ」となる。旧旧ブログ(グーブログ)は、旧旧旧ブログがサービスを終了した際の引越先であった。

引越は、実生活においても、ブログの引越においても厄介である。旧旧旧から旧旧に引っ越すときは「引越ツール」が提供されたのでそれに則って一斉に引っ越した。旧旧から旧への引越(昨年秋)は、「自己都合」によるものだからツールなどはなく引越は行ってないが、掲載した記事は全部コピーしてハードディスクに保管してあるので、ときどき改訂を加えて陽の目を見させている。

以上に対して今回は、ツールが用意されているが、多くのユーザーが一斉に使用するとサーバーが大変なことになるから時間を置け!とのことだし、また、掲載できる写真の容量の問題でエラーが生じる畏れがある。そこで、個々の記事について写真の容量を縮小しながらの移送を選択したわけである。1か月も経たずに全部移せそうである。

その写真の容量のことである。今後、いちいち写真の容量を縮めるのは厄介だから、カメラの設定を変えて、画質を落として容量を小さくすることにした。わざわざ画質を落とすのはもったいない気もするが、私のような写真の素人にはほとんど違いが分からない。

私は、実生活においても引越の多い人生であった。言わば「流浪の民」である。ブログの引越はこれを最後としたいものだが、実生活においては、時期が未定であるにしても奥地への引越が確実に控えている身の上である。


コラールの成り立ちVol.15ヨハネ受難曲第15,37曲(パスティッチョについても)

2025-04-15 11:07:50 | 音楽

今回もコラールのネタ元はヨハネ受難曲(バッハ)で、取り上げるのは第15曲と第37曲。この二曲は同じ賛美歌(コラール)を原曲とし、それはミヒャエル・ヴァイセ(注1)の8節から成る「Christus, der uns selig macht」(以下「本件賛美歌」という)。第15曲の冒頭の歌詞と同じである。すなわち、第15曲は、このコラールの第1節を歌詞としている。第2部の冒頭を飾るコラールで、無実の罪で十字架にかけられるイエスのこの後の運命を予告する内容であり、こういう曲である。


そして、第37曲は、イエスが息をひきとった後の情景をエヴァンゲリストが歌った後に歌われるコラールである。歌詞は本件賛美歌の最終節(第8節)。その冒頭がコレである。

調は異なるがコラール旋律は第15曲と同じであるし、和声付けも特にでだしはほとんど同じである。

では、原曲について詳しく見てみよう。ヴァイセの詩は、ラテン語の受難詩「Patris Sapientia」をドイツ語に翻訳したものである(その際、7つの節に1節を加えて8節とした)。そして、メロディーは、古くからボヘミア兄弟団(注2)によって歌われてきたメロディーである。

次に支流を見てみよう。バッハは、本件賛美歌のメロディーを用いてオルガン用のコラール前奏曲を書いている(BWV620とBWV747)。

面白いところでは、1750年頃に組み立てられたパスティッチョ(既存の複数の楽曲を寄せ集めて作った作品)である受難オラトリオの「このエドムから来る者はだれか(Wer ist der, so von Edom kömmt)」が、本件賛美歌の8つの節のうち7つを使用している。このパスティッチョを構成する楽曲のもともとの作曲者には、カール・ハインリヒ・グラウン(注3)、ゲオルク・フィルップ・テレマン(注4)、そしてJ.S.バッハといった大物が含まれている。今回、この記事を書くにあたって、このパスティッチョを聴いてみた。すると、バッハのマタイ受難曲の代表的なコラールの「血潮したたる」が出てきた。なるほど、パスティッチョとはそうしたものなのだな。

「パスティッチョ(pasticcio)」なる言葉を見たのは初めて。資料に「パスティッチョの受難オラトリオ」とあったのを読んで、パスティッチョという作曲家がいるのか?と思ったくらいである。料理用語にもなっていて、パスタや具材を詰めて焼いた料理のことだそうだ。ボヘミア兄弟団のことを知ったのも初めてである。まっこと、このブログを書くことは(読者にとってはただの駄文にすぎなくても)私にとって大変なお勉強である。つうか、そもそも読者は3人しかいないのであった。

今回のまとめ図は次のとおりである。


今回は、一度に二つのコラールをやっつけた。残りのコラールは2曲である。ラストスパートすべきだが、えてしてゴール直前でこけるものである。

注1:Paul or Paulus Stockmann(1603.1.3~1636.9.6)
注2:ボヘミア兄弟団はボヘミア(今のチェコ)で生まれたプロテスタントの平信徒の団体。南ボヘミアの小貴族ヘルチツキーの唱える非暴力・自由・平等の教えをうけて,1457年に東ボヘミアのクンバルトで創設された(改訂新版世界大百科事典より)。
注3:Carl Heinrich Graun(1704.5.7~1759.8.8)
注4:Georg Philipp Telemann(1681.3.24~1767.6.25)


キャベツ、レモン、厚揚げ

2025-04-14 10:03:31 | 料理・食材

米価が一向に下がらない。備蓄米を放出したと言っても、ああちびちびと小出しにしていてはインパクトがないから下がるものも下がらない。東北大震災の際、メルトダウンした原子炉にヘリコプターでバケツの水を一杯かけて水蒸気がちょろっと出たのを思い出す(その映像を観た評論家の田勢さんが自身の番組で「これが技術大国の姿か」と嘆いていた。その番組には猫が出ていて、ゲストが大物だろうと関係なくテーブルの上を駆け回っていた。某総理経験者はその猫にめちゃくちゃ嫌われていて、触ろうとして怒られていた)。

反面、高値が続いていたキャベツが近くのスーパーで久しぶりに150円を切って売られていた(奢れる高値キャベツも久しからず)。本来、100円を切らなきゃ買わないのだが、もう半年もキャベツを買ってなかったから思い切って買った。久々に作った回鍋肉の味は格別であった。胃もさぞや喜んだことだろう(キャベツに含まれるキャベジンは胃の粘膜を保護するという)。

相変わらず体に良いと聞いた食材をすぐに信じて食しているワタクシである。最近の目玉情報はポッカレモン(レモン果汁)。血圧を下げる効果があるという。ほー!レモン(に含まれるクエン酸)は疲労回復によい、と聞いたばかりであるが血圧も下げると聞けば買わない手をない。さっそく購入。しっかり瓶に「高めの血圧を下げる」と書いてあった(低い血圧を下げたら大変である)。茹でた鶏むね肉にかけるのにちょうど良い。

そのほか、厚揚げに含まれるタンパク質が絹豆腐の2倍と聞いてからは、味噌汁の具材が厚揚げとなった。木綿豆腐のタンパク質含有量は絹豆腐の約1.3倍だそうだ。ってことは、厚揚げのタンパク質含有量は木綿豆腐の約1.5倍である(算数が合ってる?)。

私は毎日日記をつけていて、そこに三食食べたモノを書いているのは記録のためではなく、脳トレのためである。だから、食べたその日のうちに書けば確かだが、必ず翌日以降に書く。すると、ときどき書き忘れることがあり、その場合、前日と前々日の内容を一度に思い出さなければならず、これが至難である。この間もそうだった。たしか、ラーメンを切らしていたから朝食はご飯だ。じゃ、汁はなんだったんだっけ。豚汁にした覚えがある。だが、二日続けて豚汁というのは妙だ……そうだ!豚汁は一昨日で昨日は厚揚げの味噌汁だった!と記憶が蘇ったときは自分を褒めたものである(そもそも忘れていたことが問題のはずだが)。

一人(と猫二匹)暮らしは不経済である。野菜を多く摂ろうと思っても割高になってしまう。だからたまに外食をする。ほとんどは五文字のお店だが特に栄養を摂りたいと思ったら中華に行く。例えば、昨日、麹味噌合唱団(仮称)の練習のあとお一人様で行ったアフター会の中華で注文したムースーロー(キクラゲと卵と豚肉の炒め物)には、

キクラゲと卵と豚肉のほか、キャベツ、ニンジン、タマネギ、マッシュルーム(のようなキノコ)、タケノコ、もやしが入っていた。これに餃子も足したから今後数日の栄養価を賄いつつ、紹興酒を一人で一本飲んだから健康効果は帳消しになったかもしれない。因みに、お一人様で「会」はおかしいことは自覚している。友達がいないから独りで行かざるを得ないのである。

 


ラバ

2025-04-13 11:39:04 | 動物

昨日の記事に、「バッハのカンタータ第182番の冒頭の付点音符は、イエスがエルサレムに入城した際に乗ったロバの足取りを表している」と書いて、はっと思った。もしかして「ロバ」と書いたが「ラバ」ではなかったろうか?

と思ったのも、ドイツ語で読んでる千一夜物語に多く登場する移動手段は「Maultier」(ラバ)であり、その頻度はロバ(Esel)やケッティ(Maulesel)や馬(Pferd)の比ではないからである。

ラバは雄ロバと雌馬の掛け合わせで、大人しくて持久力があるという。だから、千一夜物語にしょっちゅう出てくるのだな。ローマ時代にはもう使われていたというから、イエスが乗ったとしても不思議はない。

そこで、聖書のエルサレム入場シーンを読んでみた(ヨハネ福音書他)。「Esel」(ロバ)「Eselin」(雌ロバ)あるいは雌ロバの子(ロバ)とあった。だから、ここはラバではなくロバでよいようだ。

因みに、ケッティは雄馬と雌ロバの掛け合わせである。ラバもケッティも繁殖力はない。だいたい、掛け合わせには繁殖力はない。三元豚(三種の食用豚の掛け合わせ。スーパーで売ってる豚肉は普通にコレだそうだ)も繁殖力はない。

千一夜物語の話が出たので、近況を報告。最近、あるエピソードが一段落したら「それを聞いたカリフが」と続いたので、あれ?この話ってカリフが聞き役だったっけ?と一瞬分からなくなった。既述の通り、この物語は話の中に話があり、その話の中に話があるといった重層的な作りになっている。今回、一段落した物語は、床屋がカリフにした話であり、その話は床屋が人々にした話の中の話であり、その話は仕立屋が中国の王様にした話の中の話であり、その話はシェーラザードがシャフリヤール王にした話であり、そしてその話は千一夜物語として名も知らぬ作者がわれわれに遺した話なのであった。

ロバの話も出たので。ロバは、ウマに比較してスピードでは劣るものの耐久力に優れた良い家畜だそうだ(改訂新版世界大百科事典)。その「スピードでは劣る」が悲劇を生んだのが「ロミオとジュリエット」。二人を結びつけようとロレンツォ神父が一計を案じてジュリエットを仮死状態にする。神父はそのことを追放されて遠方にいるロミオに知らせるべく使いを立てるが、その使いがロバに乗ってとろとろ行くのを馬に乗った伝令が追い抜いて先にロミオに「ジュリエットが死んだ」と伝えてしまう。オリヴィア・ハッセー主演の映画を映画館で観たとき、追い抜くシーンで館内にため息がもれたものである。


コラールの成り立ちVol.14ヨハネ受難曲と「ヒンメルケーニヒ」

2025-04-12 11:19:55 | 音楽

コラールの成り立ちシリーズはヨハネ受難曲(バッハ)をもネタとしているのだが、ここのところカンタータの話ばかりでヨハネをさぼっているうちに麹味噌合唱団(仮称)の本番が目前に迫ってきた(注:さぼっているのはコラールの成り立ちの執筆であって、合唱の練習はさぼってない)。やばい(「すごい」の意味ではない。本来の「やばい」の意味である)。ネジを巻かなくては。というわけで、今回はヨハネ受難曲の第14,28,32曲である。これらは、同じ賛美歌(コラール)を原曲とする。

今回は趣向を変えて、先に原曲を紹介しよう。それは、パウル・シュトックマン(注1)の34節から成る賛美歌「Jesu Leiden, Pein und Tod」である(以下、「本件賛美歌」という)。こういう曲である(ヨハネ受難曲の第14曲のソプラノパートに第1節をあてはめた)。出だしの階名(移動ド)は「ミレドレミファソ」である。

これがどのようにヨハネ受難曲の中で使われているか。まずは第14曲。「ペテロの否認」とそれを悔いて絶叫するアリアの後に歌われるコラール。詩は本件賛美歌の第10節。その冒頭部分がコレ。「ミレドレミファソ」と歌っている。

続いて第28曲。十字架に架けられたイエスが母達のことを弟子に託した後に歌われるコラール。詩は本件賛美歌の第20節。その冒頭部分がコレ。

調は第14曲と同じだが、ソプラノのコラール旋律に微妙に臨時記号がついてるし、下三声の和声付けは全然異なる。

そして第32曲は、イエスが息を引き取った直後のバスのソロ(アリア)だが、その背後で合唱が途切れ途切れに本件賛美歌の第34節(最終節)を歌う。その冒頭部分がコレ。まずバスのソロが出て、それにコラールがかぶさるカタチである。

毎度書いていることだが、誰々の賛美歌と言った場合「誰々」は詩人であるから、シュトックマンは作詞者である。内容が受難詩だから、受難曲の原曲に相応しい。では、メロディー(ミレドレミファソ)の作曲者は誰か?多くの場合、まず詩があって、それに作曲者が曲を付けたり、他のメロディーをあてはめたりするのだが、本件賛美歌のメロディーは当初から指定されていて、それは、メルヒオール・ヴルピウス(注2)が「Jesu Kreuz, Leiden und Pein」という賛美歌のために作曲したメロディーである。この賛美歌はもともとチェコ語であり、それをペトルス・ヘルベルト(注3)がドイツ語に翻訳したものである(その賛美歌にヴルピウスが付けたメロディーを、シュトックマンが自身の賛美歌のメロディーに指定したというわけである)。なお、本件賛美歌(Jesu Leiden,Pein und Tod)は「イエスは十字架に」と訳されているが歌詞に「Kreuz(十字架)」は出てこないから意訳であるのに対し、元チェコ語の「Jesu Kreuz」はまさに「イエスは十字架に」である。

バッハは、本件賛美歌の第33節(Jesu,deine Passion……)を二曲のカンタータに使っている。BWV159にはそのまま終曲コラールとしているし、人気曲のBWV182「Himmelkönig sei willkommen(天の王、ようこそ)」の第7曲は、本件賛美歌のメロディーを使ってパッヘルベル様式(メロディーの追いかけっこ)に仕立てている。その冒頭部分がコレである。

そうそう!「イェーズー、ダイネー、パースィーオーン」と歌ったっけ。下三声が追いかけっこをする上でソプラノが長く伸ばしたコラール旋律を歌うのである。ミレドレミファソ(階名)は、もろ本件賛美歌のメロディーである。因みに、これは終曲の一つ前の曲。終曲はいつものようなコラールではなく、三拍子の軽やかな曲である。バッハの初期作品だから、様式がライプチヒ時代の作品群(最近のカンタータの会のお題曲)とは異なる。そして、第1曲のゆーっくりな付点音符は、

エルサレムに入城するイエス(=天の王)を乗せたロバの足取りを表している。このあと快活なテンポになって「ヒンメルケーニヒ……」と歌い始めるのである。うん、たしかにいい曲だ。上記の通りこのカンタータはバッハの初期作品だから、カンタータの会ではずっと前に歌ってしまっている。何年か経って全部歌い終わって始めに戻ったらまた歌えるかもしれない。思わず、支流の話でもりあがったが、そんなわけで当分BWV182を歌う機会はないだろうから、ここでやっつけておくのもよきことである。

今回のまとめ図は次のとおりである。

今回は、一度に三つのコラールをやっつけた。麹味噌合唱団の本番が近くて焦ったが、ヨハネ受難曲の残りのコラールは4曲である。間に合いそうである(兎のように競走の途中で居眠りをしない限り)。

注1:Paul or Paulus Stockmann(1603.1.3~1636.9.6)
注2:Melchior Vulpius(本名:Melchior Fuchs。1570頃~1615.8.7)
注3:Petrus Herbert (1530(ウィキペディア英語版は1533とする)~1571.10.1)