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黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

コラールの成り立ちVol.15ヨハネ受難曲第15,37曲(パスティッチョについても)

2025-04-15 11:07:50 | 音楽

今回もコラールのネタ元はヨハネ受難曲(バッハ)で、取り上げるのは第15曲と第37曲。この二曲は同じ賛美歌(コラール)を原曲とし、それはミヒャエル・ヴァイセ(注1)の8節から成る「Christus, der uns selig macht」(以下「本件賛美歌」という)。第15曲の冒頭の歌詞と同じである。すなわち、第15曲は、このコラールの第1節を歌詞としている。第2部の冒頭を飾るコラールで、無実の罪で十字架にかけられるイエスのこの後の運命を予告する内容であり、こういう曲である。


そして、第37曲は、イエスが息をひきとった後の情景をエヴァンゲリストが歌った後に歌われるコラールである。歌詞は本件賛美歌の最終節(第8節)。その冒頭がコレである。

調は異なるがコラール旋律は第15曲と同じであるし、和声付けも特にでだしはほとんど同じである。

では、原曲について詳しく見てみよう。ヴァイセの詩は、ラテン語の受難詩「Patris Sapientia」をドイツ語に翻訳したものである(その際、7つの節に1節を加えて8節とした)。そして、メロディーは、古くからボヘミア兄弟団(注2)によって歌われてきたメロディーである。

次に支流を見てみよう。バッハは、本件賛美歌のメロディーを用いてオルガン用のコラール前奏曲を書いている(BWV620とBWV747)。

面白いところでは、1750年頃に組み立てられたパスティッチョ(既存の複数の楽曲を寄せ集めて作った作品)である受難オラトリオの「このエドムから来る者はだれか(Wer ist der, so von Edom kömmt)」が、本件賛美歌の8つの節のうち7つを使用している。このパスティッチョを構成する楽曲のもともとの作曲者には、カール・ハインリヒ・グラウン(注3)、ゲオルク・フィルップ・テレマン(注4)、そしてJ.S.バッハといった大物が含まれている。今回、この記事を書くにあたって、このパスティッチョを聴いてみた。すると、バッハのマタイ受難曲の代表的なコラールの「血潮したたる」が出てきた。なるほど、パスティッチョとはそうしたものなのだな。

「パスティッチョ(pasticcio)」なる言葉を見たのは初めて。資料に「パスティッチョの受難オラトリオ」とあったのを読んで、パスティッチョという作曲家がいるのか?と思ったくらいである。料理用語にもなっていて、パスタや具材を詰めて焼いた料理のことだそうだ。ボヘミア兄弟団のことを知ったのも初めてである。まっこと、このブログを書くことは(読者にとってはただの駄文にすぎなくても)私にとって大変なお勉強である。つうか、そもそも読者は3人しかいないのであった。

今回のまとめ図は次のとおりである。


今回は、一度に二つのコラールをやっつけた。残りのコラールは2曲である。ラストスパートすべきだが、えてしてゴール直前でこけるものである。

注1:Paul or Paulus Stockmann(1603.1.3~1636.9.6)
注2:ボヘミア兄弟団はボヘミア(今のチェコ)で生まれたプロテスタントの平信徒の団体。南ボヘミアの小貴族ヘルチツキーの唱える非暴力・自由・平等の教えをうけて,1457年に東ボヘミアのクンバルトで創設された(改訂新版世界大百科事典より)。
注3:Carl Heinrich Graun(1704.5.7~1759.8.8)
注4:Georg Philipp Telemann(1681.3.24~1767.6.25)

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コラールの成り立ちVol.14ヨハネ受難曲と「ヒンメルケーニヒ」

2025-04-12 11:19:55 | 音楽

コラールの成り立ちシリーズはヨハネ受難曲(バッハ)をもネタとしているのだが、ここのところカンタータの話ばかりでヨハネをさぼっているうちに麹味噌合唱団(仮称)の本番が目前に迫ってきた(注:さぼっているのはコラールの成り立ちの執筆であって、合唱の練習はさぼってない)。やばい(「すごい」の意味ではない。本来の「やばい」の意味である)。ネジを巻かなくては。というわけで、今回はヨハネ受難曲の第14,28,32曲である。これらは、同じ賛美歌(コラール)を原曲とする。

今回は趣向を変えて、先に原曲を紹介しよう。それは、パウル・シュトックマン(注1)の34節から成る賛美歌「Jesu Leiden, Pein und Tod」である(以下、「本件賛美歌」という)。こういう曲である(ヨハネ受難曲の第14曲のソプラノパートに第1節をあてはめた)。出だしの階名(移動ド)は「ミレドレミファソ」である。

これがどのようにヨハネ受難曲の中で使われているか。まずは第14曲。「ペテロの否認」とそれを悔いて絶叫するアリアの後に歌われるコラール。詩は本件賛美歌の第10節。その冒頭部分がコレ。「ミレドレミファソ」と歌っている。

続いて第28曲。十字架に架けられたイエスが母達のことを弟子に託した後に歌われるコラール。詩は本件賛美歌の第20節。その冒頭部分がコレ。

調は第14曲と同じだが、ソプラノのコラール旋律に微妙に臨時記号がついてるし、下三声の和声付けは全然異なる。

そして第32曲は、イエスが息を引き取った直後のバスのソロ(アリア)だが、その背後で合唱が途切れ途切れに本件賛美歌の第34節(最終節)を歌う。その冒頭部分がコレ。まずバスのソロが出て、それにコラールがかぶさるカタチである。

毎度書いていることだが、誰々の賛美歌と言った場合「誰々」は詩人であるから、シュトックマンは作詞者である。内容が受難詩だから、受難曲の原曲に相応しい。では、メロディー(ミレドレミファソ)の作曲者は誰か?多くの場合、まず詩があって、それに作曲者が曲を付けたり、他のメロディーをあてはめたりするのだが、本件賛美歌のメロディーは当初から指定されていて、それは、メルヒオール・ヴルピウス(注2)が「Jesu Kreuz, Leiden und Pein」という賛美歌のために作曲したメロディーである。この賛美歌はもともとチェコ語であり、それをペトルス・ヘルベルト(注3)がドイツ語に翻訳したものである(その賛美歌にヴルピウスが付けたメロディーを、シュトックマンが自身の賛美歌のメロディーに指定したというわけである)。なお、本件賛美歌(Jesu Leiden,Pein und Tod)は「イエスは十字架に」と訳されているが歌詞に「Kreuz(十字架)」は出てこないから意訳であるのに対し、元チェコ語の「Jesu Kreuz」はまさに「イエスは十字架に」である。

バッハは、本件賛美歌の第33節(Jesu,deine Passion……)を二曲のカンタータに使っている。BWV159にはそのまま終曲コラールとしているし、人気曲のBWV182「Himmelkönig sei willkommen(天の王、ようこそ)」の第7曲は、本件賛美歌のメロディーを使ってパッヘルベル様式(メロディーの追いかけっこ)に仕立てている。その冒頭部分がコレである。

そうそう!「イェーズー、ダイネー、パースィーオーン」と歌ったっけ。下三声が追いかけっこをする上でソプラノが長く伸ばしたコラール旋律を歌うのである。ミレドレミファソ(階名)は、もろ本件賛美歌のメロディーである。因みに、これは終曲の一つ前の曲。終曲はいつものようなコラールではなく、三拍子の軽やかな曲である。バッハの初期作品だから、様式がライプチヒ時代の作品群(最近のカンタータの会のお題曲)とは異なる。そして、第1曲のゆーっくりな付点音符は、

エルサレムに入城するイエス(=天の王)を乗せたロバの足取りを表している。このあと快活なテンポになって「ヒンメルケーニヒ……」と歌い始めるのである。うん、たしかにいい曲だ。上記の通りこのカンタータはバッハの初期作品だから、カンタータの会ではずっと前に歌ってしまっている。何年か経って全部歌い終わって始めに戻ったらまた歌えるかもしれない。思わず、支流の話でもりあがったが、そんなわけで当分BWV182を歌う機会はないだろうから、ここでやっつけておくのもよきことである。

今回のまとめ図は次のとおりである。

今回は、一度に三つのコラールをやっつけた。麹味噌合唱団の本番が近くて焦ったが、ヨハネ受難曲の残りのコラールは4曲である。間に合いそうである(兎のように競走の途中で居眠りをしない限り)。

注1:Paul or Paulus Stockmann(1603.1.3~1636.9.6)
注2:Melchior Vulpius(本名:Melchior Fuchs。1570頃~1615.8.7)
注3:Petrus Herbert (1530(ウィキペディア英語版は1533とする)~1571.10.1)

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コラールの成り立ちVol.13カンタータ第78番

2025-04-08 09:45:01 | 音楽

カンタータを歌う会の次回のお題は第78番(BWV78)。このところ続いているコラールを基にしたコラール・カンタータの一環だが、この曲の人気は頭抜けている。私も大好きである。歌詞は、全編がコラールからとったものだが(直接又はアレンジ)、原曲コラールのメロディーが聴けるのは両端の二曲のみである点は、前回のBWV33と同じである。

このカンタータは、バッハがライプチヒのトーマス教会のカントル(音楽監督)に就任して2年目の年(1724年)の三位一体の主日後の第14主日用に書いたものである(前回のBWV33は同年の第13主日用だったから、ちゃんと連続している(当会は、バッハのカンタータを年代順に歌う会である)。

【元曲の賛美歌】
では源流探しの旅に入る。BWV78の元曲は、ヨハン・リスト(注1)のカンタータと同名の賛美歌「Jesu,der du meine Seele 」であり(以下「本件賛美歌」という)、こういう曲である(本来は第12節を歌詞とする第7曲(終曲)に第1節をあてはめた)。

いつもの賛美歌の例によって、「リストの」と言った場合、リストが作詞したという意味である(なお、作曲家のリストは「Liszt」だが、こちらのリストは「Rist」であるから、日本語では同じ表記だがドイツ人にとっては似てるどころか全然別の名前である)。

【メロディー】
では、本件賛美歌のメロディーは誰の作か?これがまたややこしい。前回のBWV33のときもメロディーについては資料によって見解が違っていたが、今回も同様である。すなわち、ある資料には「メロディーもリストに帰する(attributed to Rist)」とあるが(注2)、別の資料には、「もとは世俗曲で、それがゲオルク・フィリップ・ハルスデルファー(注3)が作詞した「Wachet,doch,erwacht,ihr Schläfer」のメロディーとなり、次いで、本件コラールのメロディーになった」とある(注4)。後者の方が具体的なので説得力がありそうだが、本件コラールが世に出たのが1641年であるのに対し、ハルスデルファーの「Wachet」は1642年。資料とは順番が逆になっている。こういう矛盾が出てくると、証拠価値が下がるのが一般である。

【BWV78の構成】
本件賛美歌は12節から成り、第1節は第1曲に、第12節は終曲(第7曲)にそのまま使われ、間の節は第2~6曲用にパラフレーズされている。すなわち、次のとおりである。

第1曲は合唱。歌詞は第1節。メロディーは本件賛美歌のメロディーを組み込んだパッサカリア(同じメロディーを低音が繰り返す3拍子の曲)。
第2曲はソプラノとアルトの二重唱。
第3曲はテナーのレチタティーヴォ(セッコ(伴奏が通奏低音のみ))。
第4曲はテナーのアリア(伴奏はフルートと弦のピチカート)。
第5曲はバスのレチタティーヴォ(アコンパニャート(オケの伴奏付き))。
第6曲はバスのアリア(オーボエの伴奏付き)。
第7曲は合唱が歌うコラール。歌詞は第12節。メロディーは本件賛美歌のもの。

【支流探し】
バッハは、本件賛美歌の第11節をメロディーもろともカンタータ第105番の第6曲(終曲)に用いている。また、シュヴァルツ・シリング(注5)は、本件賛美歌のメロディーを用いてオルガン用のコラール前奏曲を作曲した。

以上の源流から下流に至る流れを図にしたのが下図である。

【身も蓋もない話】
以上、BWV78の源流と支流をたどったが、今の私の本心を言えば、原曲コラールのメロディーの出自についての疑問などはほとんど気にかけてない。などと本シリーズの存在意義さえ揺るがす身も蓋もないことを言うのも、BWV78と言えば、私の場合、もう第2曲のソプラノとアルトの二重唱に止めを刺すのであり、そのメロディーは、これはもうバッハの創作に間違いがないからだ。カンタータを歌う会(別に会の固有名詞があるがカッツアイ)は、練習なしに、その月のお題のカンタータをピアノ伴奏で3回通し、その合間に参加者が自由にソロ演奏を披露する会だが、BWV78を歌う次回、私は、全曲を通す3回はもちろん二重唱を含めてたっぷりアルトを歌い、そしてソロ・コーナーにおいては、この二重唱の通奏低音をチェロで弾く気である。

だから、他の参加者の方々には、都合4回この二重唱を歌っていただくわけである。そんな大風呂敷を広げて大丈夫かって?大丈夫!まず、このチェロのパートは、足取りを表しているのだが、曲想から言って元気な足取りだと思ったらさにあらず。ついてる歌詞は「弱々しいがたゆみない足取り」(mit schwachen doch emsigen Schritten)である。弱々しくてよいのである(「弱々しい」と「へろへろ」は違うという正論には今は耳を貸さない)。だが「たゆみない」とも言っている。途中でリタイアしてはいけないとなるとハードルが高くなるが、この点も大丈夫。このブログは3人しか読んでない。当日チェロを持って来なくても「リタイア」がばれる相手は3人以下である。

注1:Johann Rist (1607.3.8~1667.8.31)。
注2:原曲コラールについてのウィキペディア英語版
注3:Georg Philipp Harsdörffer (1607.11.1~1658.9.17) 
注4:www.kantate.info
注5:Reinhard Schwarz-Schilling(1904.5.9~1985.12.9)

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ヒーローとスケープゴード/ドラマと交響曲の展開部

2025-03-22 12:49:54 | 音楽

この一週間、世間は大谷翔平一色。どのテレビを付けてもパネラーが口を揃えて大谷選手を賛美する。人間はなぜこれほどヒーローを求めるのか?チコちゃんに教えてもらいたいものである(チコちゃんによると、人間の性(さが)は大抵その社会性に帰結する。人間が噂話や人の陰口が好きなのも人間が一人では生きていけないからだ、と説明していた)。

かく言う私も大谷翔平のファンである。何が気持ちがいいかってそのパワー。これまで、日本のプロ野球では、ボールはバットの芯で叩かないと飛ばないからバットの端っこにボールの跡があったりするとそれが恥ずかしくて拭いたそうだ。大昔のプロ野球中継の解説者も技術論ばかりしゃべってた。だが、大谷選手はバットの先っぽに当てたボールもパワーでスタンドまで運んでしまう。ちまちました技術論をパワーで一蹴した格好である。因みに、ちょっと前までテレビで「喝っ」と叫んでいた元名選手は当初大谷選手はピッチャーに専念すべきだと言っていた。160キロを超えるボールを投げられる人なんか滅多にいないという理屈は分からなくもない。もしこの方の意見が通ってたら昨年の大谷選手の活躍はなかったわけだ(偉業を達成するためには「人の話を聞かない」態度も必要である)。その後、当氏は打者大谷を応援するようになった。「あの活躍を見たら」ということだった。「過ちては改むるに憚ること勿れ」である。あと、当氏は筋トレを否定して二言目には「ランニングが大切」と仰っていたが、どれほどの科学的裏付けがあるかは知る由もない。大谷選手は日々筋トレに励んでいるそうである。当氏にとって「不都合な真実」である。

その反面(ヒーローを褒めそやす反面)、人は、スケープゴードを見つけては集中攻撃する。朝ドラの「おむすび」は現在のスケープゴードの一つである。かつて、朝ドラ好きでならしていた私も「おむすび」は真面目に見ていない。一応ときどき事件が起きるのだけど、奮闘努力の様が描かれないで、ナレーターの一言で片付くから真面目に見る必要がないのである。端的な例は、ヒロインが管理栄養士になる話。子連れで管理栄養士を目指します、と言ったと思ったらしばらく画面に出てこず、次に現れたときはもう管理栄養士になって数年経っていた。物語に「展開」がないのである。言ってみれば、展開部のない交響曲のようなものである。

だが、展開部のない交響曲だって存在する。交響曲に立派な展開部を書いたのはベートーヴェン。ベートーヴェンが偉すぎたもんだから、その後のシューベルトを始めとするロマン派の作曲家は右に倣えで交響曲を書く際、必死にベートーヴェン流の展開部を書こうとしたがうまくいかなかった。だが、シューベルトの歌曲の詩に寄り添う繊細さはベートーヴェンにはないものである。

再放送している「カムカムエヴリバディ」は綿密に伏線が張られていて、それが長い時間をかけて見事に回収される様は、まるでベートーヴェンの楽曲が展開していって最後に頂点に達する様を見るようである。だが、そうした「カムカムエヴリバディ」の作中では、駄作の誉れ(?)高い映画をヒロインの家族が涙を流して見る。だから、展開部のない「おむすび」が大好きって人がいてもちっとも不思議ではないのである。

なお、かつてもっとスケープゴードにされた朝ドラに「チムドンドン」があったが、あっちは、見ていて気分が悪くなった。暴力や犯罪が目白押しだったからだ。それに比べれば「おむすび」は無害である。

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黒鳥の湖

2025-03-09 11:31:43 | 音楽

バレエ「白鳥の湖」には白鳥と黒鳥が出てきて、同じプリマが一人二役で踊ることが普通だが、初演時は別人が踊ったし、今でも二人で役を分けることがないとは言えない。さあ、その場合が問題である。どちらがヒロインなのだろう?そりゃあ、筋から言えば悲劇のヒロインと言うくらいだから白鳥がヒロインで黒鳥は仇役なのだが、最大の見せ場を踊るのは黒鳥なのである。すなわち、グラン・パ・ド・ドゥ(男女二人で決められたフルコースを踊る踊り)で、同じ所で32回連続でくるくる回る(フェッテを32回連続でする)という離れ業を演じ、観衆から最大の拍手をもらうのは白鳥ではなく黒鳥なのである。

それはこんな感じである。フルコースもいよいよ大詰めになり、料理なら肉が出てくる頃、舞台には王子と黒鳥が登場し、まず王子が踊り、途中から黒鳥が舞台中央に進んでくるくる回り始める(フェットを始める)。それが32回続くのである(実際は、下の楽譜の「フェッテ開始位置」より少し早く回り始める)。

曲は、まだ全然途中。だが、必ず盛大な拍手が起きて(こけても起きるかどうかは、こけたのを見たことがないから知らない)、曲が中断し、プリマは観衆の喝采に応える。オペラで言えば、ハイCを何連発も繰り返すようなもの。黒鳥にこれをやられちゃえば白鳥もかたなしである。だが、筋から言えば黒鳥は仇役。だから、どっちがプリマなの?という疑問が湧くのである。

このシーンの音楽は組曲に入ってない。純粋な音楽としては組曲に加えるほどのものではない、ということか。私などは、イントロのズンタズンタが始まると、その後「32回」が来ることが染みついているから、梅干しを観るだけで唾液が出るごとく血湧き肉躍るのであるが。

ところで、王子の名はジークフリート、ってことは舞台はドイツである。ドイツを舞台にしたバレエをロシア人が作る、か。ちょっと意外な感じがするが、ロシアのドストエフスキーの小説などにもドイツ人がたくさん登場したっけ。

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