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黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

川の成り立ちVol.1荒川、綾瀬川、垳川

2024-11-09 15:17:25 | 地理

現住所の近くを流れる川は、荒川、中川、綾瀬川である。少し範囲を広げると隅田川、江戸川も入ってくる。いずれも東京湾に注ぐ川であるが、今では銚子沖の太平洋に注いでいる利根川もかつて東京湾に注いでいたそうだ。大変遷である。いや、大変遷は利根川に限ったことではない。あの川もこの川も昔はここで今はここなどと読んでいると頭がショートして燃えそうである。とりあえず、これらの川の成り立ちについて分かったつもりになったところをここに書いておこう。なお、ソースはネットサーフィンでかき集めた情報であってウラまではとってない。また、汗水垂らして作った図も、超簡略化したものだから方角・向き等は不正確きわまりなくもはや原型をとどめていない。すなわち、以下は単なる私の備忘録であることをお断りしておく(図は一回差し替えている。差替後の現在の図は見やすさを重視してほぼ直線のみで作成した。そのため、世界地図で北極と南極が実際より大きく描かれるごとく、例えば垳川の距離などは実際よりかなり長いものとなっている)。

【大昔】利根川は、現在の古利根川と中川下流の流路を通り、下流近くになると現在の古隅田川を経て隅田川の河道に入って東京湾に注いでいた(下図の水色線)。

渡良瀬川は、現在は利根川の支流だが、昔は独立した河川で、現在の中川上流と江戸川下流の流路を通って東京湾に注いでいた(下図の緑線)。

あらびっくりなのは荒川である。荒川は利根川の支流であった(下図の青線)。つまり、利根川と荒川の二台巨頭は連合軍を構成していたのである(織田と徳川のごとし。支流は荒川だから、織田=利根川、徳川=荒川である)。現在の荒川・隅田川は入間川であった。つまり、現在は荒川の支流である入間川は、昔はれっきとした独立河川だったのである。落ちぶれて荒川の臣下に下ったのである(秀吉の臣下となった織田信雄のごとし)。もっとびっくりなのは、荒川が大昔、現在の綾瀬川の流路を通っていたことである。綾瀬川は荒川の本流だったという噂は本当であった。近年は、「汚さ日本一」という不名誉に甘んじることが多いが、由緒のある川であった。

【荒川の星川への付け替え】江戸時代に入る前(=戦国時代)、荒川が星川に付け替えになった。あまり触れられることのない歴史だが、私的にはこれは大事件である。これにより、荒川と同体だった綾瀬川(下図の深緑線)が、荒川から分流することとなるからである。

【綾瀬川の改修】その綾瀬川は、大雨が降るたびに流路が変わる怪しい川であり、「あやし川」と呼ばれていた。それが訛って「あやせ川」になったという。「綾瀬」という名称は浅瀬の湿地帯を意味するとの私の知識は完全に覆された。そんな怪しい川を怪しくない川にしようと、江戸時代に入る前後において、綾瀬川が改修された。すなわち、慶長年間に備前堤が整備され、荒川から切り離された。

また、激しく蛇行している箇所が直進化された(蛇行部分は古綾瀬川になった)。

さらに、もともと東に折れて現在の中川に合流していたのが、開削により南に直進する流路となり、現在の隅田川に合流した。東進の流路は垳川となり、後に綾瀬川からも中川からも締め切られ、水の供給はもっぱら葛西用水からなされることとなった。葛西用水については回をあらためてレポートする予定である。

その垳川の今。足立区と八潮市の間にあって、両岸は遊歩道になっている。

綾瀬川が荒川の本流だったこともびっくりぽんだが(引用する朝ドラが古すぎる?今書いてる川の歴史はそれとは比べものにならないくらい古い)、ただのドブ川だと思ってた垳川が綾瀬川の本流だったこともびっくりぽんである。びっくりぽんの二乗である。

その綾瀬川の姿。垳川との境(昔、東に向きを変えた箇所)にある内匠橋から北側はこんな。

いかにも自然流路。そして開削して直進とした南側はこんな。遠くにスカイツリーが見える。

いかにも人工って感じ。このように、内匠橋の南北(自然流路と開削した流路)で風情がまるっきり異なる。この綾瀬川の改修は、江戸時代の二大事業たる利根川の東遷と荒川の西遷と相前後して行われた。次回のVol.2では、その二大事業と江戸川の成り立ちをレポートする予定である。


台地を行くVol.7三つの台地を巡り歩いた骨と皮

2024-11-08 09:41:51 | 地理

トッパンホールでの演奏会を聴きに行くにあたって考えた。最寄り駅は飯田橋駅か江戸川橋駅。いつもは飯田橋駅から歩くんだけど(南から攻めるんだけど)、地図を見ると、小石川植物園から傳通院を抜けて、北の台地から下りてくルートがある。一ノ谷の戦いでの義経の別働隊も、平氏の陣地の北の丘陵から攻め下ったんだった。よし!今回はそのルートを歩こう。

【本郷台地の上り下り】スタートは地下鉄千代田線の根津駅。ここら辺は低地で根津谷と言うらしい。谷根千の一角である。帝国大学のある本郷台地方面は……おお!上り坂!上り坂を見るとワクワクする私であるからさっそく上る。

帝国大学は、漱石の時代は一個しかなかった。坂の途中から道路横がその帝国大学の敷地になる。その敷地は広大。やはり官営は違う(これに比べると、早稲田大学など箱庭のよう)。木々は鬱蒼としている。その木々の枝がかなり広い歩道すら乗り越えて車道に大きくはみ出していた。

普通の一軒家の垣根の葉っぱなどは少し道路にはみ出ただけでも近所から苦情がくるが、帝国大学のはみ出しようはその比ではない。だが、そこはそれ帝国大学である。そんな浮世の些末事に気を取られるようでは最高学府に相応しい学問はできないに決まってる。だから、帝国大学の葉っぱはこれで良いのである。

その帝国大学をぐるっと回ってしばらく行き、おしゃれなイタ飯屋さんの反対側の角を曲がると今度は下り坂が現れた。

浄心寺坂と言うそうだ。この坂を下って本郷台地から降りるわけである。坂を下りきるとそこは谷(指ヶ谷)。白山通りが通っている。前回のVol.6で白山台地の突端から巣鴨駅に戻るとき通った道である。その通りの先、南の彼方に後楽園遊園地の観覧車が見えた(赤矢印)。

でも、遊園地には行かずに(ゴールはトッパンホールだから)、谷(白山通り)を渡って次なる台地に向かう。

【白山台地の上り下り】次の台地はVol.6で崖下を半周した白山台地である。そこに乗るべく蓮花寺坂を上る。

上りきってしばらく行くと下り坂になり、右側に小石川植物園の塀が現れた。

小石川植物園が乗ってるのが小石川台地ではなく白山台地であるところがフェイントである。その坂(御殿坂)を下りきったところの小石川植物園の塀沿いの道は、Vol.6で歩いた道である。こうして白山台地から下りきるとまた谷(小石川谷)に出た。千川通りが通っている。

【小石川大地の上り下り】谷(千川通り)を渡って直進し、おしゃれなイタ飯屋さん(坂も多いがおしゃれなイタ飯屋さんも多い)の角を曲がるとまた上り坂が現れた。次に乗っかりにかかるのは小石川台地である。

その途中に、時代がかった建造物が現れた。

近くにあった案内板を読むと、ここら辺は井上哲次郎って偉い哲学者の邸宅の跡地で、屋敷は空襲で焼けたが土蔵だけ残った、その残った土蔵がコレだそうだ(哲次郎が哲学者なのは偶然の一致?しかし、川上哲治は哲学者ではない)。ここまで来ると、傳通院はすぐそこにあるはずなのだが、一向にそれらしき建物が出てこない。ここは裏手にあたるようだ。ぐるっと回ったら現れた。

ここからは、傳通院の正面の大通りを進む。すると、大昔、桂小金治が司会をしてた頃のアフタヌーンショーで「しあつのこころー、ははごころー」と念じておられた浪越徳次郎さんの銅像が現れた。

浪越徳治郎さんが設立した指圧学校だった!そして、そのお墓が傳通院にあることを今知った。今でこそ、「わっはっは」はアニマル浜口さんの専売特許だが、元祖はこの人だった。大通りをさらに行くと春日通りにぶつかった。大体、このあたりの大通りは谷筋を通っているのだが、この通りは珍しく台地の上を通っている。春日通りの先、南の彼方に再び後楽園遊園地の観覧車が見えた(赤矢印)。

今度は、さっき見たときより大きい。直線距離が縮まったようだ。だが、遊園地に行く暇がないのはさっきと同様である。小石川台地を下ろう。今度の下り坂は道幅が広い。安藤坂と言うらしい。

カーブを経て下りきると神田川に出た。

だいぶ日も暮れた。トッパンホールはすぐそこである。ここで満足してビールを飲んではいけない。演奏会を聴くのがこの日の最終目的であった。

ビールは演奏会を聴き終えてから飲んだ。この日の踏破図はこの通り。赤点線が歩いたルートである。

上り下りした台地は、本郷台地、白山台地、小石川台地である。思わず♪みっつのだいちをめぐりあるいたほねとかわ!と歌いたくなる。ひょっこりひょうたん島の「海賊の歌」の替え歌である。


台地を行くVol.6白山台地半周旅

2024-11-06 09:12:26 | 地理

さて。Vol.5の山手線の車窓の旅で、駒込から本郷台地を突っ切るから左右が再び崖になるが、巣鴨と大塚の間で本郷台地を降り、再び崖がなくなると書いた。その消滅ポイントがここである。

すごい!徐々に台地が低くなるのではなく、台地がいきなり崖で断ち切られている(上の写真の緑の台地と白い建物の間が台地の終焉の崖である)。これは萌える♥ 現場に行って、近くこの目で見たいというのが人情である(賛同する人がほとんどいなさそうな人情である)。よし、行こう(スーパージェッターは、愛機「流星号」が到着すると、「来たな!よし、行こう」と言ったものである)。

というわけで、大塚駅で下車し、線路沿いを巣鴨方面に戻る。さすがに、台地と谷の間が全部崖だとスパイダーマンかクライミングの選手でなければその間の移動ができなくなるからところどころに坂道がある。件の崖の近くにも、数十メートル南に行ったところに坂道(あさみ坂)があった。坂と見れば上らずにはいられない私である。上って振り返るとなかなかの急坂である。

台地の高さが感じられる。だが、今回は趣向を変えて崖上ではなく崖下を歩こうと思ったから、一度上った坂を下りた(貯金をはたく心情である)。そうして向かった先は白山台地(本郷台地の根っこから分岐した台地)の突端である。

途中、小石川植物園に出くわした。

小石川植物園は小石川台地ではなく白山台地の縁にある。その塀沿いをさらに歩く。

さあ、そろそろ地図では白山台地の先端だが……と思っていたら崖が出現した。

白山台地の突端である。崖こそが突端にふさわしい。大いに満足である。これにて今回のミッションは完了。と言っても、三蔵法師ご一同様と違って帰りにきんとん雲がお迎えにくるわけではない。

帰りは白山通りを歩いて巣鴨駅にたどり着いた。前記の通り、このあたりは台地の切り通しを電車が走っているから、線路の両端とも崖である。

これまでのように駅名で移動箇所を表せば「大塚~巣鴨」ということになり、その直線距離は2キロ程度だから30分もかからないところだが、おおいに迂回したからその何倍も歩いただろう。今回の踏破図である。

白山台地を半周したわけである。次回のVol.7は、三つの台地を股に掛けたお話である。


台地を行くVol.4(道潅山)

2024-10-28 11:33:09 | 地理

西日暮里駅は、何十年も単に乗換(JRと地下鉄千代田線)のみの利用で、駅外に出たことなど覚えてないくらいなのだが、上野台地を歩き回るうちに、上野台地が一番狭くなった箇所が西日暮里駅の辺りで、そこを道潅山通りが突っ切ったため台地が分断されたこと、分断でできた南北二つの崖のうち北側の崖の上にかつて道潅山という山があったこと(南側の崖の上は諏訪台であり、現在西日暮里公園がある)、そしてこの道潅山が江戸時代以前は景勝地であったことを知った。そんなに偉い場所だったのか、頭の下がる思いである。そこで、今回は道潅山に絞って探索を試みた。

西日暮里駅を降りて、道灌山通りに出て、通りの向こうを仰ぎ見ると、分断された上野台地の北側の崖(法面)がそびえ立つ。

この上にかつて道潅山があったのである。

これまで、道灌山通りから上野台地上に戻るために線路に沿った坂道を上ったのだが、今回は、由緒ある坂を上ってみた。「ひぐらし坂」である。登り口は道潅山通りに面していて、左端に坂名を記した標識がある。

坂の途中に遺跡を表す標識が現れた。

縄文時代から弥生時代にかけての竪穴式住居の跡が発掘されたそうな。なぜ、この場所に遺跡があるかと言えば、太古の昔、この辺りが陸地の端だったからである。だから、高台から東の崖下を見ると、今は線路があって、その先にビルが立ち並んでいるが、

ここが海だったわけだ。その後、埋立てが進んで陸地が広くなった後も、現在の線路の箇所には音無川が流れていて、

道灌山(広重)出典:国立国会図書館「錦絵でたのしむ江戸の名所」
(https://www.ndl.go.jp/landmarks/)

その先は田園風景で、それを見下ろす道灌山はなかなかの観光スポットだったという。

道灌山虫聞之図(広重)出典:国立国会図書館「錦絵でたのしむ江戸の名所」 (https://www.ndl.go.jp/landmarks/)

現在、道潅山があった辺りは学校のグラウンドになっていて、そのグラウンドの脇に「道潅山」の標識が立っている。

なお、道潅山に登る坂で名前の付いている坂にはもう一つ向陵稲荷坂がある。

ここを上っていくと、前記のグラウンドの脇に出る。

この辺には同じ種類の木がいくつか植わっていた。

♪このーきなんのききになるき!だが、気になるのを止めて(「憧れるのを止めましょう」by大谷翔平)先にいくと、先ほどのひぐらし坂の坂上に出る。

ひぐらし坂を今度はさっきと逆に下っていくと坂の途中に歩道橋が現れる。

道潅山通りを渡って反対側の崖上(諏訪台)に行くには、通りまで降りなくてもここを渡ればよい。渡った先にあるのが西日暮里公園であり、そこに「環」というブロンズ像(三人の裸婦像)があるのであった。そのあたりのことは既に記事にした。

今回、ちょろちょろ動き回ったのは、下図の中央辺りである。

ということで、今回の記事はここまでである。次回のVol.5は、少し趣向を変えて、車窓から見た崖のレポートをするつもりである。


台地を行くVol.3(西日暮里~飛鳥山公園~駒込)

2024-10-26 08:48:12 | 地理

「台地を行く」シリーズの今回は、上野台地の北側を踏破することである。前回、京浜東北線・新幹線と山手線が分岐するところを横見で見つつ西に折れたから、今回はそのまま北進しようという作戦である。

スタートは、前回途中で通過した西日暮里。上野台地を道灌山通りが寸断する崖好きの聖地である。そこから台地の上に上り、かつて道潅山があった高台の尾根に敷かれた田端高台通りを北に向かって歩く。しばらく歩くと(歩き慣れてない人にとっては、だいぶ歩くと)、分岐した山手線の上に架かる跨線橋、その名も富士見橋が現れる。前に歩いたときはここで左折して駒込駅に向かったが、今回は橋を渡る。渡ってからちょっと脇にそれると、いっそう山手線の分岐の様子が分かる。

おー、山手線が曲がって来る来る!ここで上野台地を寸断しているのは山手線であり、崖の高さが台地の高さを物語っている。なお、山手線が曲がるところを直進する高架が新幹線の高架であり、その続きを後で見ることになる。

元の道に戻ってひたすら北上すると、古河庭園のあたりで本郷通りと合流する。なおも歩くと、しばらくして(歩き慣れてない人にとっては相当経って。スタートからは京浜東北線の駅で3駅分の距離である)飛鳥山公園が現れる。

いたるところに、今流行(はやり)の渋沢栄一に関するモニュメントがある。この公園の一部は、かの渋沢栄一の屋敷跡だそうだ。

公園の東端のところどころ、木立の間から東側の景色が見える。ここは上野台地の東端であって崖下は在来線の線路であり、その横の高架は新幹線(東北&山形)である。先ほど、後で見ることになると言った新幹線の続きがこれである。

写真の新幹線の車両は、東北新幹線用のE5系と山形新幹線用のE8系を連結したもの。E8系は、今年デビューしたばかりだという。もともと、ひかり号の0系しか知らない私であるから、E5,E8などの名称はたった今、苦労の末に知ったところである。因みの因みに、最初の車両を「1」ではなく「0」と名付けたのは、試作品サイボーグである009たちが「ゼロゼロナンバー」であることとなにかしらの関連性があるのだろうか。

とこどころに崖下に下りる階段がある。

この階段を見下ろすだけでもなかなかの台地の高さが感じられる。

ここではまだ降りず、公園内をひたすら北に向かって歩くと、いよいよ公園の北端=上野台地の北端にぶちあたった。北端は崖になっていて、見下ろすとなかなか深い。

まさに「崖っぷち」である。台地の終焉はこうでなければ!

崖の高さを実感したことに満足して下の道路に降り、そこから見上げると、

なかなか高い(なかなか深かったのだからなかなか高いのは当然である)。すぐ脇にはJRの王子駅があり、さらに都営荒川線の王子駅もある。その都営荒川線が一般道の横断歩道の手前で歩行者が渡るのを待っていた。

「歩行者は電車に注意」の文字がある。へー!都電と言っても専用軌道なんでしょ?と思っていたら、こんな風に、一般道を跨ぐ箇所もあるんだなー。

すぐ近くには、石神井川が流れている。

東西を流れて隅田川に合流するのだが、かつて、この辺りで音無川が分流し西日暮里の先まで流れていた。その川跡を走っているのが京浜東北線である。

さて、帰途は、再び上野台地の上に乗り、本郷通りを行きとは逆に南下したのだが、はて、本郷通りと言ったら本郷台地の上を通っているはず。ここは上野台地である。本郷通りは台地を乗り換えるのだろうか。よし、確かめよう。田端高台通りに通じる交差点で田端方面には行かず、そのまま本郷通りを進む。すると、下り坂になった(写真では傾斜をうまく撮れない)。

我が意を得たり!今、上野台地を下っているのだな。そして、下り切ってしばらくすると今度は上り始めた(写真では傾斜をうまく撮れないpart2)。

我が意を得たりパート2!今、本郷台地を上っているのだな。まっこと、本郷通りは二つの台地を乗り換えていることを確認し、上りきったところで口を開けていた駒込駅から電車に乗ってこの日のミッションは終わったのであった。

この日の踏破エリアの簡略図である。

点線が踏破したルートである。

さて、Vol.2で途中に通過し、Vol.3(今回)の起点となったのが道潅山である。次回のVol.4は、その道潅山特集である。見てねー(テレビか)。