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黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

川の成り立ちVol.6葛西用水路(下巻)「都内編」(公開版)

2024-11-21 16:57:38 | 地理

【これまでのおさらい】利根川のほとりで生を受けた葛西用水路は、途中から古利根川と水路を共用したが古利根堰で袂を分かち、逆川と水路を共用し、新方川と元荒川をくぐってから逆川とも袂を分かち、独立して一路東京都足立区を目指して南下したのであった。

【垳川に合流】埼玉県内で南下を続けた葛西用水は、いよいよ東京都に突入する直前まで来た。正面にあるのは埼玉県と東京都の境を東西に流れる垳川である。

合流を垳川の側から見たのが次の写真。手前で左右に流れる垳川に右奥から侵入する流れが葛西用水路である。

葛西用水路は、他の河川にぶちあたるとその川底の下をくぐって通り抜けてきたが、垳川に対しては直接水を交えている。垳川は、大昔は綾瀬川の本流で中川に注いでいたが、現在では綾瀬川からも中川からも締め切られているから、交叉する葛西用水からもっぱら水の供給を受けている。

【葛西用水親水水路】垳川を横切らんとする葛西用水路の進行方向先にあるのが葛西第一水門。

この水門を通って葛西用水は南下すると思いきや、この水門は常時閉鎖されている。地図上では葛西用水路は続いているが、水の連絡はなく、この先は、葛西用水親水水路として、足立区民の憩いの場となっている。すなわち、用水としての使命はここまでである。だから、水門の南側に水はあることはあるが、

もはや水溜まりである。いっとき、古利根川と流れを共にしていたときはあそこまで大河であった水流がここまで落ちぶれるとは。人生もはかないが、川の生涯もはかない。

それでも、しばらく南下すると、いくぶん川幅が広くなり、親水水路らしくなる。

そのうち、おなじみの「潜る孔」が現れた。

今回潜るのは花畑運河である。

花畑運河は、垳川と同様、綾瀬川と中川を結ぶ水流である。上流から断ち切られた葛西用水親水水路は、この花畑運河から水の供給を受けている。

花畑運河をもぐった先は、暗渠と開渠が交互するが、開渠の部分は親水水路としての整備がよくなされていて、春は桜並木が見事だし、今の時期は紅葉がきれいである。

途中で、環七をくぐった後も、なお親水水路が続く。

なお、環七の手前までは、葛西用水親水水路に並行する通りが「葛西用水桜通り」であったが、環七を過ぎてからは、葛西用水桜通りは葛西用水親水水路の一本西側の道である。

葛西用水親水水路をさらに進むと右手に池が現れた。

東和親水公園である。ここにはカメがいるという噂だったが、池を占拠してたのはサギとカモだった。

さらに進むと(この間、ずっと南下してきている)、すっかりお馴染みになった「潜る孔」が現れ、水路は暗渠となった。

すると、巨大な水車(亀有大水車)が現れた。

傍らにポンプがあったから、これで汲み上げた水で回るのだろうか。この時期、水はなく、水車もただのオブジェであった。

さらに進むと、とうとう古隅田川との合流地点に到達した。

標識があるが、葛西用水親水水路は暗渠のままだし、古隅田川もここら辺は暗渠なので、合流は人の目の及ばない地下でひっそりとなされている。

昔は、葛西用水路は、ここから曳舟川となって、お花茶屋辺りまで南進した後、綾瀬川と合流するまで南西に流れていたのだが、現在、曳舟川は埋め立てられて消滅している。だから、葛西用水路はここが終点である。亀有大水車前の手前で暗渠になる直前に見た陽の光が、葛西用水路が見た最後の陽の光となったわけである。だが、曳舟川の跡は、道だったり公園になったりしていてその名を残している。ここから古隅田川をたどる考えもあったが、今回は、葛西用水路の旅なので、曳舟川の名残をたどることにする。

【曳舟川親水公園】曳舟川が変身した道(曳舟川親水公園緑道部)を進むと、JR線のガードが現れた。

そうか、ここは曳舟川だったのか。すぐ近くが亀有駅である(昔は「亀無」だったそうである)。ガードをくぐって更に進む。

すると、道路の中央が公園ぽくなってきた。

曳舟川が公園に変身したもので、その名も曳舟川親水公園という。そう、この公園は道路(曳舟川親水公園通り)の上下車線の間にあって、曳舟川親水公園通りと運命を共にするながーい公園なのである。水路っぽい所もあるが、水があったとしてもそれは人工的に流された循環水である。この時期、ほとんどの箇所で水は涸れていた。

公園内に、鳥とそれを見上げる人の像が現れた。

この鳥は白鳥だそうだ。この辺りには白鳥がいたそうだ。だから、この辺りの地名は「白鳥」なのだとガテンがいった。

すると、京成本線のお花茶屋駅横の踏切が現れた。

ここを渡ってもなお道路内の細い公園が続く。紅葉の時期真っ盛りである。

【綾瀬川に到達】四ツ木近くでようやく公園が途切れると、もう綾瀬川がすぐである。

とうとう四ツ木小橋に到着。綾瀬川にかかる橋である。正面にスカイツリーが見える。

葛西用水路は、その昔、ここで綾瀬川に合流して終点だった。途中から名残りのみを追うことになった葛西用水路をたどる旅もここでおしまいである。綾瀬川の上流をのぞむとなかなか立派である。

この向こう側に綾瀬川と並行して流れる荒川はもっともっと立派である。架かる橋も「小」がとれて四ツ木橋である。

今回の踏破図がこれ。

三回に分けてレポートした葛西用水路の全ルート図がコレである。

図の最上部は栃木県と埼玉県の県境であり、下部は東京都足立区を超えて葛飾区に入っている。取材に要した日数は3日。よく歩いたものである。暇人と人は言う。その通りである。


川の成り立ちVol.5葛西用水路(中の巻)「逃げおおせた葛西用水」

2024-11-20 09:49:14 | 地理

【前編のおさらい】利根川の水を引いた埼玉用水路から分水するカタチで生まれた葛西用水路は、途中、中川の起点を横目にしながら南流を続けたが、久喜辺りで終点を迎え、その流れは古利根川に変身して継続。だが、葛西用水路は消滅していなかった。古利根川の裏の顔として存続していた(古利根川との水路の共用)。ハヤタ隊員がウルトラマンに変身してもハヤタ隊員であるごとしである。ところで、古利根川はいずれ中川に合流して消滅する。その際、裏の顔である葛西用水路も運命を共にするのか?そうであれば、足立区にたどり着いた葛西用水路は一体何物なのだ?その答は、今回の「中の巻」で明らかになる。

【補足】その前に、前編の補足がある。中川の起点の葛西用水路を挟んだ反対側に水の流れが続いていて、これはなんだ?中川とつながっているのか?つながっているのなら「起点」は起点でないのではないか?という疑問を呈したが、「お里知れず」のその流れのお里が知れた。やはり中川とつながっていた。宮田落(おとし)と言って、上流から流れて来て、葛西用水路とぶつかった所ではその下をくぐって(伏せ越し(今回、これが重要なテーマになる))出てきたところで中川に名前を変えたのである。だから、件の「起点」は、流れ全体の起点ではないが、中川の起点(管理起点)には間違いなかったのである(以上を前編に追記した)。

【中の巻本編】それでは、中の巻に入ろう。今回のスタートポイントは、東武伊勢崎線の北越谷駅(前回よりだいぶ都心寄り)。そこから30分歩くと、前回、その起点を見た古利根川の成長した姿があった。

東武伊勢崎線の駅間で言うと久喜と北越谷間の距離で、これだけ立派になったのである。そして振り返るとそこにあるのが古利根堰。

写真の左端辺りに取水口があるのだろう。そこから取水した水が「逆川」(さかさがわ。江戸川成立の回のときに登場した川とは別物)となって、古利根川の流れと袂を分かつ。

この逆川の裏の顔が葛西用水路なのである。つまり、葛西用水路は、ここまで古利根川に抱きついてきたのだが、抱きつき先を逆川に乗り換えたのである。そうやって古利根川の合流による消滅から免れたのである。親分が捕まりそうになったので、別の親分のところに逃げて捕まるのを免れた子分のようなものである。因みに、「逆川」という名称は、その流れの向きが古利根川の向きとは逆方向だからついた名称ではないかというのは私の推測である。

その逆川は、地元民の憩いの場になっているようで、川岸には人がたくさん出ていた。太公望もたくさんいた。

人だけではなく、猫もいた。

しばらく行くと、逆川が地に潜った。

その先にあるのは、新方川(にいがたがわ)である。

逆川が地に潜ったのは、この川の川底下をくぐって対岸に出るためである。すなわち、川の立体交差である。これを「伏せ越し」という。冒頭で「伏せ越し」が今回の重要テーマになると言ったまさにそれである。私は一緒に潜れないので、近くの橋を渡って対岸に行く。すると、あった、あった、新方川を潜った逆川が出てくる孔が。

ここから先、逆川の沿道は、「逆川緑の道」として整備されているから、

しばらくはこの道を歩くことにする。なかなか閑静である。

30分位は歩いたろうか、再び、逆川が地に潜った。また出た!伏せ越しである。

今回、その下をくぐる相手はかなりの大物である。元荒川(荒川西遷までの荒川の本流)である。

私は一緒に潜れないので、近くの橋を渡って対岸に行く。対岸にあったのは越谷御殿跡である。

へーえ。家康は越谷に御殿を設けていたのか。家康が鷹狩りの際にその御殿に泊まった際、元荒川はまだ荒川本流だったと思われる。この石碑の裏に元荒川をくぐった逆川の出口があった。

こうして、二つの川の下をくぐり抜けた逆川は、ここから左に大きくカーブをし始めた。

この角度で曲がり続けると元荒川と並行することになるな、と思っていたら案の定、広い土手が見えてきた。

元荒川の土手である。こうして、二つの川はしばらく並行して流れることになる。

土手の向こうが元荒川であり、手前が逆川である。なかなか広々として気持ちのいい土手である。

はてさて、このように小さいと大きいのが並んでいたら、小さいのは大きいのに食われるのが必然である。そう、逆川は直に元荒川に合流して消滅するのである。すると、再び例の問題が生じる。逆川と共に葛西用水路も一緒に消滅するのか、という例のアレである。葛西用水路のとった手段は前回と同様、すなわち、脱出である。しばらく行くと、逆川に取水口が現れた。

その名も、東京葛西用水元圦、すなわち、葛西用水の脱出口である。今回は裏の顔としてではない。堂々、自分の名前を出しての脱出である。しかも、「東京」の文字を冠している。長旅の末に単独でやっていける自信がついたのだろう。そうやって脱出して出てきた葛西用水がコレである。

こうして、(東京)葛西用水路は、またしても合流による消滅から免れ、今度は単独の水路となり、

一路、東京都足立区を目指すのである。足立区に入る辺りから先は、下巻のお楽しみとしよう。私も、この日はこれで取材終了。連日3時間の取材歩きだが、アドレナリンが出ているせいか、疲れは感じない。

帰りは、南越谷駅から武蔵野線に乗車。吉川辺りで中川を渡った。

この少し上流で、今回登場した三川(古利根川、新方川、元荒川)を合流させたのだから、大河になるのは当然である。

そして、新松戸で常磐線に乗り換えて都心方向に向かったら、夕陽に映える富士山が見えた。

ボーナスカットのつもりだったが、鉄柱がじゃまである。

前回と今回のルート図を載せておく。

図の下側の赤い線の先が東京都足立区であり、下巻の舞台である。

 


川の成り立ちVol.4葛西用水(前編)

2024-11-17 09:44:42 | 地理

足立区内の葛西用水路は、親水水路となっており、桜の時期はなかなか見事な景観なのだが、

幅が1メートルくらいしかなく、ひとっ飛びで渡れる。もはや小川(Bach)とすら言えない小小川(Bächlein)である。その成り立ちなど気にしたことがなかった。だが、あのドブ川としか思えなかった垳川にさえ「元は綾瀬川の本流」という輝かしい過去があったと知ると、葛西用水路にだって私の知らない素顔があるんだろうから調べてみようと思った。で、調べた。驚いた。なんと、日本三大農業用水に数えられているそうだ。そして、その成り立ちは数奇である。Vol1,2,3に登場した「中川」「古利根川」「元荒川」「古隅田川」「垳川」も登場する。源は埼玉県と栃木県の県境辺りであり、そこから延々東京都葛飾区まで引いた水が葛西用水なのである。

というわけで、「川の成り立ち」シリーズのVol.4は葛西用水路である。「葛西用水路の不思議な旅」の始まりであ……
「待たれい」
「何事ぞ」
「おぬし、今回はよもや図のみでごまかしたりはいたすまいな」
「ごまかすとは人聞きが悪い。だが、図のみと言えばその通りでござる」
「これは異な事を聞いた。これまでは川の歴史であり、現場は過去に在るから実地検分が無理なのは承知である。だが、今回は葛西用水路の「今」を語るのでござろう。しからば現場は在る。実地検分は可能である。それをせずに語るとは怠慢の極み。語るに落ちるとはこのことである」
「だが、何分遠方ゆえ」
「遠方だと?おぬし、無為無職の輩で時間は腐るほどあるのであろう。遠方などという言い訳は拙者が許し申さぬ」
「そのように申すおぬしは誰ぞ?」
「おぬしである」
こやつの言い分にも一理ある。しかし、葛西用水路の全行程を踏破するということは埼玉全県を縦断するに等しく無理である。だから、重要ポイントをピックアップして現地取材をし、その間は電車で移動することで勘弁つかまつろう。

というわけで、今度こそ、「葛西用水路の不思議な旅」の始まりである。東武線で羽生駅(栃木県との県境にある埼玉県の駅)に行き、そこから利根川を目指して歩いた。土手を上るとそこに広がっていたのはまさしく利根川である。Vol.2でその変遷を追究した坂東太郎である。

山々も近くに見える。

おっと、今回は利根川の話ではなかった。ましてや山の話でもなかった(山シリーズもいずれ始める所存である)。早々に土手を下りるとそこは葛西親水公園で、元の取水口がある(写真中央。その上は利根川土手に上がる階段)。

当初は、ここから利根川の水を取り入れていたのだが、現在は締め切られている。葛西用水路は、上流の利根大堰から取水した埼玉用水路から分水するカタチでスタートするのである(「埼玉用・水路」と切って発音すると埼玉のための水路になってしまう(実際そうなのかもしれないが)。「埼玉・用水路」が正しい切り方である(と、私は信じている))。下の写真の手前が埼玉用水路で、奥が分水した葛西用水路である。

下に下りて横から見ると、

埼玉用水路から分水した水が元の取水口から来た水と合流して南下しているのがわかる。私も、しばらく葛西用水路と共に南下することとする。端緒からコンクリートでがっちり護岸されておりいかにも「用水路」の趣である。幅は、上流であるにもかかわらず、広いところで7,8メートルはあったろうか。

半時間ほど歩くと、葛西用水路とは直角の角度で左(東)に向かう流れが現れた。

中川である。葛西用水路とぶち当たった所が中川の起点なのである。

どんな大河も始めはちょろちょろである。中川もしかりである。

葛西用水路は当然この後もなお南下するが、

私はいったん葛西用水路から離れて駅に向かい、電車で次の重要ポイントに先回りしようと思う。鶴瓶師匠は「家族に乾杯」のロケ間の移動をNHKの車でするのだろうが、私の場合は自分の脚のみが頼りである。ここから羽生駅まで戻るのに30分。電車で久喜駅に戻ってそこからまた歩くこと30分。次の重要ポイントについた時は日の入りの15分前であった。

その重要ポイントに架かる橋から北側を観ると、

お馴染みのコンクリート護岸。先ほどいったん別れを告げた葛西用水路との再開である。あのときの水はもう到達してるだろうか。

それに対し、南側はいきなりうってかわって緑の多い岸辺。そこに、「葛西用水 終点」の立て札が!

だが、流れはまだ続いている。この謎は、橋を渡った左岸で明らかになる。そこには「古利根川」の標識が!

そう、ここは葛西用水路の終点にして古利根川の起点なのである。実は、ここまでの葛西用水路も大昔の古利根川の流れを改修したものだという。すなわち、葛西用水路は、ここまで古利根川の「名代」(みょうだい)として流れてきたが、この地点で殿(古利根川)に名跡を返上つかまつったわけである。中身が同じで名前だけ変わった感もあるが、コンクリートから緑の岸辺への転換が、用水路から自然の川へ変身を演出している風でもある。古利根川と言えば、かつて利根川の本流だったが利根川の東遷によって本流ではなくなった由緒正しき流れであった。葛西用水路はその名跡を務めるのであるから、まったくもって「おみそれしました」である。

ところで、葛西用水路は、ここで「終点」と表示されたのであるが、どっこい生き残っていた。ここより下流は表向きは「古利根川」なのだが、同時に葛西用水路の流れでもある(古利根川と「河道を共用」しているのである)。綾瀬と北千住の間の線路がJRの線路であると同時に東京メトロの線路でもあるごとしである。ハヤタ隊員がウルトラマンに変身してもなおハヤタ隊員であるごとしである。大政奉還後もどっこい生き残った徳川家のごとしである。

この葛西用水路が変身した古利根川は、この後、どういう運命をたどるのであろうか。たしか、中川(先ほどその起点を見た)に合流して吸収されてしまうはず。その際、合体している葛西用水路の運命はいかに?そのあたりのことは、中の巻で明らかにしようと思う。

おまけの話その1。テレビを観てたら埼玉県の加須のうどんの話をしていた。加須と言えば、「川の成り立ち」シリーズの大ネタであった利根川東遷に関係の深い地であり、加須駅は、羽生駅に行く途中で停車した駅である。

へー、「かぞ」と読むのか、知らなかった。

その2。古利根川の起点(葛西用水路の終点)近くに青毛堀川が流れていた。水流の中にサギがいた。

電柱の上にもサギがいた。

因みに、青毛堀川はもう少し下流で古利根川に合流するのである。

その3。実は、中川の起点の葛西用水路を挟んだ反対側に水の流れが続いていた。

これは中川ではないのか?東への流れと水はつながってないのか?もしつながってるのなら起点は起点でなかったことになる?だが、川の「起点」はお役所の管理の起点であって(管理起点)、実はもっと先があるって話はよくある話である。駅に向かう途中、しばらくこのお里知れずの流れに沿って歩いた(追記。その後、お里が知れた。やはりこの流れは中川とつながっていた。宮田落(おとし)と言って、葛西用水路とぶつかった所ではその下をくぐって(伏越)出てきたところで中川に名前を変えたのである。だから、「起点」は、流れ全体の起点ではないが、中川の起点には間違いないのである)。すると、小魚の大群がいた。

写真を撮ってたら、この辺りにお住まいと思しきマダムがやってきて「魚がいるの?あら、すごい。こんな汚い川にねー。気の毒ね。もっと綺麗な川にいれば良かったのに」と言うから、思わず「でも、好きでいるんだからいいんじゃないですか」と言おうと思ったが、やめておいた。大人げなくない少し大人のワタクシであった。


川の成り立ちVol.3中川、各放水路

2024-11-13 14:52:39 | 地理

【Vol.2までのおさらい】荒川は、西遷により利根川の支流ではなくなり、独立した河川として、現在の隅田川の河道を通って東京湾に注いでいる。利根川は東遷により銚子沖の太平洋に注ぐこととなり、その支流である江戸川が東京湾に注いでいる。その他、大昔において利根川の本流だった古利根川(その途中で元荒川が合流する)が東京湾に注いでいる。また、元は渡良瀬川の流れであり、いっとき利根川の本流だったことがある庄内古川は江戸川を経由してやはり東京湾に注いでいる。

ここで事件が起きた。庄内古川と古利根川の間が開削され、かつ、庄内古川と江戸川の間が塞がったのである。これにより、庄内古川の流れはかつて並行して流れていた古利根川とつながり、元荒川が合流する下流部分を含めたその全部が「中川」(下図の黄土色線)となり(その流頭部分はかつて島川、権現堂川と呼ばれた部分である)、由緒ある名を冠する古利根川と元荒川は中川の支流となった(なり下がった)のである。

結局、庄内古川、古利根川、元荒川のいずれも自己の名を残すことはできず、利根川の本流だった頃に最下流の名称であった「中川」に統一されたわけである。

中川を利根川との関係で整理すると、その下流域は、江戸時代に入るまでずっと利根川の本流であった部分であり、その上流域は、江戸時代当初にいっとき利根川の本流であった部分である。まっこと、中川は「概ね、昔の利根川の水路」と言って正しいわけである。私がこのあたりの川の成り立ちを調べたいと思ったきっかけはそもそも中川とはなんぞや?から始まったことであった。

その中川の現在の様子はこうである。

足立区と葛飾区の境目辺りから上流を撮った写真である。その上流で、様々な変遷があったと思うと感慨深い。その上流のうち、権現堂川と呼ばれている箇所の様子がこれである。

幸手の権現堂桜堤の桜を見に行ったときに撮った写真である。堤と川の名前が符合している。この辺りは中川の中でも最上流に近い辺りである。それでも、なかなかの川幅を誇っている。

【放水路開削】成り立ちの話に戻ろう。と言っても、これまでの歴史に比べればつい最近の話である。すなわち、明治以降に大河川に作られた放水路の話である。その最大のものは荒川放水路。荒川(西遷後の荒川=元の入間川)の下流部分の治水対策として、北区の岩淵水門から東京湾に至るまで掘削が行われ、そこに荒川の水を分流させたのである。古い地図はこの水路を「荒川放水路」と記しているが、現在はこちらが荒川の本流であり、従来の荒川のうち分流地点より下流の部分(「大川」とも呼ばれていた。初代ゴジラが東京を壊した後に海に帰るとき通ったルートである)が「隅田川」(下図のピンク線)になったのである。この荒川放水路は途中中川を突っ切ったため中川が分断され、荒川とぶつかる地点以下の中川は荒川に沿う流れに改められ、分断されて取り残された部分が「旧中川」となった。同様に、途中綾瀬川を突っ切ったため綾瀬川が分断され、荒川とぶつかる地点以下の綾瀬川は中川に合流するまで荒川に沿う流れに改められ、分断されて取り残された部分が「旧綾瀬川」となった。

江戸川にも河口付近に放水路が作られ、そっちが本流となり以前の流れは「旧江戸川」になった。

中川にも放水路が作られたが、こっちは本流とはならず「新中川」と呼ばれ、旧江戸川に合流する。中川の本流は、荒川放水路に突っ切られた地点からしばらく荒川と並行して南下し、最後の最後(河口近く)で荒川に合流する。荒川と並行する部分がかなり長いから荒川水系と思いきや、中川は利根川水系である。中川の分流の新中川は旧江戸川に合流するが(上記)、その旧江戸川の本流(江戸川)が利根川の支流だからである。

てなわけである。以上、関東平野から東京湾に注ぐ(注いでいた)川のうち、主に大変遷のあった大河を中心にその成り立ちを見てきた。しかし、川の成り立ちシリーズは終わりではない。二つの古隅田川(東京、埼玉)や葛西用水路と言った「伏兵」も見逃せないし、現在の隅田川の最下流に別の流路があった点についても言及することがあるだろう。その際、太古の利根川の流れについてこれまで述べてきたことに一部補足が必要となるから、ホントなら見て見ぬフリをしたいところだが、そうはいかないところが私の性分である。近いうちに、それらについて書くことになるだろう(と、4か月後の私が言っているのだから間違いはない)。


川の成り立ちVol.2利根川、荒川、江戸川

2024-11-11 17:01:02 | 地理

【Vol.1のおさらい】利根川は東京湾に注いでいた(流路=現在の古利根川と中川下流=概ね中川)。渡良瀬川は利根川の支流ではなく独立した河川で東京湾に注いでいた(流路=現在の中川上流と江戸川下流)。荒川は利根川の支流で、綾瀬川の本流だったのだけど、星川に付け替えになり、綾瀬川は、荒川と分離し、蛇行を直進にする改修がなされた。

【今回(Vol.2)のあらまし】さて、江戸時代に入ると利根川と荒川に大改修が行われた。一つは、利根川の流れを東に変えて、銚子先の太平洋に注ぐようにしたこと(利根川の東遷)であり、もう一つは、荒川の流れを西に変えて利根川ではなく入間川に合流させたこと(荒川の西遷)である。河口を東京湾から太平洋に変えるとは、聞くからにロマンである。打ち震える。今回(Vol.2)は、この二つの大改修及び利根川東遷の過程で起きた江戸川の誕生を、おおまかではあるが時系列に見ていこうと思う。

【新川通開削】まず、利根川東遷の初動である。新川通が開削され、前後して利根川の流れの締切があって、利根川と渡良瀬川がつながった。

これにより、利根川の本流(上図の水色線)が元々渡良瀬川の流れであった太日川(その上流部分は庄内川と呼ばれた)に付け替えになった。それまで利根川が通っていた水路は「古」が付いて古利根川となった(すなわち、利根川筋が一つ東にシフトしたカタチである)。

【荒川の西遷】荒川の西遷も始まった。荒川(下図の青線)と入間川の間が開削によってつながり、これにより元々の入間川の下流が荒川になり、入間川は荒川の支流となった。

利根川の支流だった荒川が一国一城の主(独立河川)となった反面(下剋上)、独立河川だった入間川はその家老(支流)に成り下がったわけである。そして、それまで荒川の本流で古利根川に合流していた流れは「元」が付いて元荒川となった。

【江戸川の成立・赤堀川開削】赤堀川が開削され、利根川は、常陸川(銚子沖の太平洋に注ぐ)とつながり、利根川は、最終的に銚子とつながることとなった。ただし、幕府は利根川の水の多くを常陸川に流したかったようだが、赤堀川の中程に分水嶺(微高地)があるため開削が進まず、当初は思ったほどに水が流れなかった。

時を前後して、庄内川(もともと渡良瀬川の流れであった太日川の上流部分)に並行する新しい河道が開削され、太日川につなげられた。現在の江戸川の上流部である。利根川の水は、この新川に流れるようになった(利根川の中流筋が東にシフトしたカタチである)。

新川と常陸川を直結する水路(逆川)が開削され、銚子と江戸を結ぶ水路(常陸川-逆川-新川-太日川)が完成した。これが現在の江戸川の原型である

江戸川は、利根川の水の多くが流れ込んでいるから新利根川とも呼ばれた。すなわち、この時点では、利根川の本流は江戸川であり、これまで通り東京湾に注いでいたわけである。

【常陸川が利根川になる】その後、赤堀川の拡幅が進み、利根川の水の多くが常陸川に流れるようになったのに合わせ、かつての利根川の水流のあちらこちらが締め切られた。ここに至って、ようやく利根川の本流は銚子沖の太平洋に注ぐこととなり(東遷の完成)、「利根川」の名称は、江戸川から常陸川に移った。明治初年頃のことである。そして、利根川の本流だった江戸川は利根川の支流となり、江戸川の前に利根川の本流であった庄内川は「古」がついて庄内古川となったのである。

現在の利根川の様子はこうである。

つくばエクスプレスが利根川を渡る辺りから下流を撮った写真である。そして、現在の江戸川の様子はこうである。

常磐線が江戸川を渡る辺りから上流を撮った写真である。利根川もそうだが、江戸川も中流域は荒川や中川のそれよりもずっと緑が豊富である。

次回のVol.3では、その中川がいよいよ完成する。その成り立ちと、荒川を含む各河川の放水路について記す予定である。