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黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

15年前のブラタモリ

2024-12-18 14:01:42 | 地理

ブラタモリが始まった頃(15年前)の録画を見る。最近復活して放送された3回のナレーターが草彅剛氏でないことに不満の声が寄せられていたが、そもそも最初の頃は戸田恵子だった。さらに、第1回の前に放送されたパイロット版では池田昌子だった。池田昌子と言えばメーテルである。なお、タモリさんと一緒にブラブラするアナウンサーは、パイロット版から3年間は久保田祐佳アナウンサーだった。

クラシック・ファンは、NHKのアナウンサーのうち、東京芸大出身の林田アナウンサー(この人も、いっときブラタモリのアナウンサーだった)に肩入れする人が多いようだが、それを言うなら久保田アナだってなかなかのものである。ご幼少のみぎり、かの鈴木雅明率いるBCJのマタイ受難曲に「子供の合唱」で参加されているのである。

録画の再生が終わり、現在放送中の番組の画面に切り替わったら、たった今録画で聴いていた声が聞こえてきた。房総半島の空撮を紹介する番組のナレーターが久保田アナであった。15年の時を経て、いろいろな人生経験をお積みになったかどうかは存じ上げないが声は変わってないなー、と思った。

それを言うなら、録画の終わりの方に当時の番宣がちらっと入っていて、それが「坂の上の雲」であった。ちょうど、今、再放送していて、その再放送の番宣をつい最近聞いたところである。同じドラマの番宣を15年後に再びするNHKと、それを同時に視聴する私、という構図である。

そんな案配だから、昔と今がごっちゃになり、録画中にニュース速報が入るとどきっとするが、それは15年前の出来事であって、あー良かった、とほっとする私なのである。

録画の冒頭には、当時のニュースの末尾がちらっと入っていて、1ドルが80円台。この15年で、円の価値は半分に下がった。単純に考えれば、同じお金を出しても外国製品は当時の半分しか買えないということだ。110円あたりで落ち着いていれば良かったのに。何事も、ほどほどというわけにはいかないようである。

なお、ブラタモリは、放送開始から3年経って数年休止し、再開したときもパイロット版が放送されたのだが、そのときのアナウンサーは、いま、朝ドラの前の番組を仕切っている首藤奈知子アナである。首藤さんでずっと行くのかな、と思ったら首藤さんは一回だけ。レギュラー回のアナウンサーは知らない人だった。その人は大出生した。以後、アナウンサーが代わるたびにその繰り返し。なかには「世界の某(故人)」のお身内になられた方もいる……ん?クラシック・ファンがそのアナウンサーのことを話題にするのを聞いたことがない。そのアナウンサー自身のことではないせいか。それとも、「世界の某」がファンの間では実はそれほど「世界」でないせいか。なお、当該「世界の某」は「世界の王」のことではない。

おっと、アナウンサーの話ばかりしてると、今回のジャンルを「地理」にしたことの当否に疑問が生じてしまう。もちろん、15年前のブラタモリもたいそう面白かった。番組で紹介した場所のそこかしこを訪ねてみる気まんまんである。例えば、本郷台地は本ブログの台地シリーズでも何度かとりあげたが、録画を見て、是非、菊坂に行ってお店屋さんでコロッケを買いたいと思った。台地と言えば、三田台地は敵(KO大学)の陣地であるから迂闊には近寄れないでいたが、15年前のブラタモリで紹介された急坂がたいそう気になったところ、そこら辺りに再開発の波が襲ってきて、番組のときはまだあった坂下の銭湯が今はもうないという。では坂はどうなった?すぐにでも、その生存確認に出向きたいのだが現在痛風闘病中である。また無理をしてぶり返しては元も子もないからしばらく我慢して、完治したら早速見に行きたいと思っている。

15年前は、タモリさんはまだ「笑っていいとも」をやっていたから、ブラブラするのは首都圏に限られていた。首都圏に住む者としては、おかげで、訪ねてみたい場所が身近にたくさんできた、というわけである。今はもう存在しない池も垂涎の的である。浅草にあった「ひょうたん池」だとか、新宿にあった「十二社池」の跡などは、是非訪ねてみたいと思っている(ひょうたん池の跡地がWINDS(昔の場外馬券売り場)であることはつかんでいる。だからと言って馬券を買いに行くのではない(きょうび、馬券はネットで買える(だが、絶対はずれるから買わない(えーと、閉じ括弧の数はいくつ要るんだっけ))))。


山の話Vol.1関越道から見た赤城山、榛名山、日光男体山

2024-12-15 09:02:18 | 地理

山ってヤツは、特に赤城山や榛名山と言った複数の頂きから成る山は、見る角度によってまったく別の顔を見せる。マイナ保険証の顔認証ならエラーが出るに決まってる。そのことを実感したのは、高速バスに乗って尾瀬に行ったとき。関越道を走るバスに乗っている間、私は、10歳の子供となって(バスに乗ってなくても10歳児と同じ精神構造だという噂もある)、車窓に張り付き、同じ山が右に見えたり左に見えたり、なだらかに見えたり尖って見えたりする様子に夢中になっていた。その状況を再現しようと試みるのが今回の記事である。

【荒川を渡る辺りから見る日光男体山】荒川を渡る辺りで、進行方向右側の車窓から遠くの山が見えた(次の写真)。

この辺りの関越道はかなり西向きだから、右車窓が向いているのは栃木方面である。だから、この山は日光男体山であると思われる(下図の赤矢印は視線である(以下同じ)。もちっと晴れていて斜面のギザギザが写っていれば男体山で確定なのだが)。

【右車窓から榛名山と赤城山が両方見える】そのうち、二つの山塊がともに右車窓から見えた(次の写真)。

関越の右側だから赤城山と日光連山?私の当初の大雑把な認識では、関越道は赤城山と榛名山の間を縫うから右車窓から榛名山が見えるというアタマはなかった。だが、左側の山塊(次の写真)は、カタチからして榛名山だし、

右側(次の写真)はカタチからして赤城山である。山塊の多くに雲がかかっているが、広い裾野は赤城山そのものである。

そう、相変わらず関越道がかなり西向きだから、榛名山も赤城山も、右の車窓から見えるのである。

【鈴ヶ岳が見えてきた】そのうち、関越道が北を向き始めたらしく、右車窓から榛名山が見えなくなった。そして、赤城山の左端にあった鍋割山が中央部分に移ってきて、左端にぴょこたんとした頂きが見えてきた(次の写真)。

「ぴょこたん」は関東平野の南側から見ると他山の影になって見えない鈴ヶ岳である。だいぶ、赤城山の西側に入って来た証左である。

【鍋割山が一番右川に】さらに進むと、鍋割山が手前に、かつ一番右に見えるようになった(次の写真)。

南から見たときは、左から鍋割山、荒山、地蔵岳だったのが、逆に右からの順番となった。いっそう、赤城山の西側に入って来た証左である。

【榛名山の水沢山】ここまで右車窓にかぶりついていたが、ふと、左の車窓(西側)から外を見ると、とんがり帽のような頂きがすぐそこにある(次の写真)。

このあと、すぐ利根川を渡ったから、これは位置からして榛名山である(既に榛名山は左の車窓側に移っている)。榛名山の東端は水沢山(浅間山(せんげんやま)とも言う)だからソレだろう。その真東にいるわけである。南から見ると、左右に長い台形状で中央にぴょこんとしたでっぱりがあったが(五つ前の写真)、真東から見るととんがり帽である。見かけの違い、ここに極まれり、である。

【子持山と小野子山】その利根川を渡る辺りである。目の前に二つの山が見える(次の写真)。

方角からすると、榛名山と赤城山の間に位置する子持山と小野子山であろう。

【鈴ヶ岳が真横に】この後、赤城公園SAで一休み。すると、目の前(東側)に峻厳な頂きが見える(次の写真)。

先ほどから徐々に見えてきた鈴ヶ岳が前面に躍り出た。地蔵岳などは右端である。いよいよ赤城山の北側に回りこもうってわけである。

この後、沼田インターで関越道を降りたから、関越道から見た山の話は以上でおしまいである。思えば、富士山のように、どこから見ても円錐形という方が珍しい。そこのところに富士山の有り難さがあるのだろうか。だが、その富士山だって、細かいことを言えば宝永噴火口がかなりカタチをいびつにしている。今後、富士山が噴火するとしたら、やはり山腹からと言うからますますいびつになっていくのだろう。私が人間界にいる間に噴火があるだろうか。ないとは言えない。華厳の滝だって、私が小学生のとき見たカタチと今とでは「おでこ」のあたりが違う。

川シリーズに登場した利根川や荒川はだいたい関東平野の東部を流れていた。だが、今回(山シリーズ第1回)は、関東平野の奥西部を流れる上流として登場した。水源は、利根川は群馬県と新潟県の県境で、荒川は埼玉県と他県との県境にあるという。どちらも「県境」というのが面白い。

山は見るのも歩くのも好きである。歩くのはだいたい1000メートル級の低山だから、遠慮して「登る」とは言わないのである。かように、ワタクシは控え目な人間である。


川の成り立ちVol.9葛飾郡

2024-12-07 10:32:33 | 地理

「葛飾」と聞いたら東京23区の中の一つだと思っていた。現在では正しい認識である。ところが、古い戸籍を見ると関東周辺にやたらと「○葛飾郡」がある。これはいったい何だ?これが疑問であった。鍵は、最近私がずぼっとはまっている「川の成り立ち」にあった。すなわち、こういうことであった。

【葛飾郡の成り立ち】江戸幕府ができる前、利根川も渡良瀬川も東京湾に注いでた(ことは、このシリーズでさんざっぱら書いてきた)。その渡良瀬川は、下流を太日川と言った(かつ、中流部分を権現堂川、庄内川と言った。下流は概ね現在の江戸川にあたる)。この太日川をはさんだ東西のエリア=東京湾から茨城県古河市に至る細長いエリアが下総国葛飾郡となったのである。

その西隣は武蔵国であり、境界線は東遷前の利根川だった。すなわち、利根川は、下総国と武蔵国を分かつ境目であった。だから、現在は東京都である葛飾区や江戸川区は文句なく下総国だったわけである。その利根川の流路を現在の河川名で表した場合、これまでのシリーズでは「古利根川→中川→古隅田川(東京)→隅田川」と書いてきたが、葛飾郡が成立したのは律令時代であるから、その頃の状況を加味する必要がある。それはすなわち、現在は古利根川の支流であって古利根川に流れ込む古隅田川(埼玉)が当時は流れが逆の大河で古利根川から分流して現在の元荒川に注いでおり、そちらが利根川の本流であったこと。それから、最下流の現在の隅田川は現在のように浅草方面に南下する流れのほか南東方面(現在の横十間川方面)に向かう流れがありそちらが本流であったことである。すると、当時の利根川の流路は、古利根川→古隅田川(埼玉)→元荒川→中川→ 古隅田川(東京)→隅田川(南東流)」となり、これが下総国と武蔵国を分かつ境界線となる。したがって、古隅田川(埼玉)の東側の区域は(古利根川の西側であっても)下総国となるし、最下流の隅田川の南東流の西側の区域(スカイツリーがある)は(現在の隅田川の東側であっても)後述する「武蔵国への編入」前から武蔵国となるのである(このことは、ブラタモリでもとりあげていたし、結構多くの人が「元は下総国だったというのは誤り」と熱く述べている)。同様に、浅草以南にある「両国橋」は、東詰も西詰も「武蔵国への編入」前から武蔵国である。だから、「2つの国にまたがっていたことから両国橋と呼ばれた」と言うのは厳密に言えば正しくないことになるが(ウィキペディアも注釈で「正確には東岸からさらに東1kmのほぼ横十間川が両国(武蔵国・下総国)の境だった」と言っている)、東詰から近いところが下総国なので、「下総国に通じるルート」くらいのニュアンスで考えればよいだろう。以上を図にすると次のとおりである。

【葛東と葛西の分離】江戸幕府が始めた利根川の東遷事業の途中で、いっとき、利根川の本流が庄内川&太日川にシフトし、さらに庄内川から新たに開削した江戸川上流にシフトした。これにより、利根川の本流は現在の江戸川となった。昔の人は、とにかく下総国と武蔵国の境を利根川に置きたかったらしく(利根川の東=下総国、西=武蔵国)、江戸川(当時の利根川)の西側を武蔵国に編入した(領土割譲!?)。すなわち、下総国葛飾郡(葛東)と武蔵国葛飾郡(葛西)に分割したのである。ただし(ここが肝心なのだが)、庄内川(後に庄内古川。一瞬、利根川本流となった)と新たに開削した江戸川上流(その後利根川本流となった)の間の区域は、(江戸川の西側であるにもかかわらず)下総国に残された。以上を図にすると次のとおりである。

【五郡に分割】その後、利根川と常陸川(銚子沖に通じる)がつながり、とうとう利根川は銚子沖の太平洋に注ぐ川となって東遷が完了した。そして、明治維新を迎え、廃藩置県が行われると、かつての葛飾郡は次のとおり合計五郡に分割された。

・千葉県に属する葛飾郡→千葉県東葛飾郡
・東京府に属する葛飾郡→東京府南葛飾郡
・埼玉県に属する葛飾郡のうち武蔵国に属していた区域→埼玉県北葛飾郡
・埼玉県に属する葛飾郡のうち下総国に属していた区域(庄内古川と江戸川上流の間の区域=江戸川が利根川本流となった際に武蔵国に編入されなかった区域)→埼玉県中葛飾郡
・茨城県に属する葛飾郡→茨城県西葛飾郡

あれ?と思うのは西葛飾郡。元の葛飾郡から見たら北端にあるのになぜ「西」?そうか、茨城県から見たら西端だからか。以上を図にすると次のとおりである。

【現在】その後「○葛飾郡」という行政区域はほとんど消滅した。わずかに埼玉県北葛飾郡の数町を残すのみである。現在、「葛飾」の名は東京都葛飾区がこれを受け継いでいる。もともと広大だった葛飾郡も随分小さいエリアにおさまったものである。いっときユーラシア大陸を席巻したモンゴルが東アジアの一角に、(オスマン)トルコがアナトリア半島におさまっているのと似ている。

あと、現在当たり前のように東京都であるエリアが昔は下総国(現在の千葉県)の版図であったことについては、ドイツのライン川西岸のことを思い出す。その地は、現在は当たり前のようにドイツの領土だが、古代においては、ローマの支配が及んでいた地域で、ライン川をはさんでローマ人とゲルマン人が対峙していたのである。

なお、冒頭に、最近私が「川の成り立ち」にずぼっとはまっていると書いたが、昔の利根川にしても、渡良瀬川(太日川)にしても、最下流は湿地帯で相当にずぼずぼしていたらしい。だから、私がずぼっとはまるのは理にかなっているのである。

 


川の成り立ちVol.8花畑運河の栄枯盛衰

2024-12-04 16:14:07 | 地理

足立区の東北部、埼玉県との県境近くに、綾瀬川と中川を結んで拓かれているのが花畑運河である(因みに、そのすぐ北の県境を流れているのがおなじみ(?)の垳川(綾瀬川の元本流)である)。この、なんてことのなさそうな水流にボートが浮いているのを私が見たのは、7年前が最初で最後であった。

だが、この運河は、いっときかなり重要な水運の役割を果たしていたという。まずは、その歴史をひもとき、その後、当時の水運ルートを歩いた様子をレポートしようと思う(アメンボじゃないんだから水面は歩けない。横の道を、ということである(言わなくても分かる))。

話は、荒川放水路が開削される前に遡る。当時、北関東の穀倉地帯から都心へは農作物が運ばれ、逆に都心から北関東へは農作物を作るの必要な「下肥」が運ばれていた(見事な循環)。その運搬手段は水運であり、ルートは、中川から北十間川を経由して荒川(現在の隅田川)を下るものであった。

ところが、洪水対策として荒川放水路を開削したら、洪水は収まったが困ったことがおきた。荒川放水路が中川を分断してしまったせいで、上記の運搬ルートが、中川から中川水門をくぐって荒川に出て、対岸の木下川水門をくぐって旧中川、北十間川を経て隅田川(元の荒川)に出るルートとなったのだが、木下川水門で船の大渋滞が起きたのである。

もし、綾瀬川を下ってきたなら綾瀬水門をくぐって荒川に出て、少し下流の隅田水門を経てすんなりと隅田川に行けるのであった。そこで、中川と綾瀬川をつなぐために花畑運河が掘られたのである。完成は昭和6年であった。

これにより水運は飛躍的に向上し、花畑運河を頻繁に船が通ったという。垳川もそうだが、まっこと川は見かけによらないというか、おみそれしました、というところである。

その後、GHQの指令で「下肥」が化学肥料に変わり、運ぶモノが減って花畑運河の水運は衰退し、現在の「見かけ」になったわけである。

それでは、現在の様子を見てみよう。中川から隅田川に行く船になったつもりで、そのルートを追う。スタートは中川の六ツ木水門。ここから花畑運河に入る。

なお、現在、花畑運河を工事している関係で、この水門は閉まっているが、「幽体離脱」で通り抜けた先の運河の様子がこう。

人工的に開削した運河らしくまっすぐである。少し行くと、葛西用水路との交叉ポイントに桜木橋が架かっている。

この下を葛西用水路がくぐっている。その先が、工事中のエリアである。

完全に干上がっている。工事が完成すればもとの水路が復活するのだろうか。親水公園に変身した途端に自然の水流が消滅する例はよくみるところである。

再び、水が戻ったその先に花畑水門が現れる。

反対側の綾瀬川から見た風景がコレである。

ここから出てきた船が下流(写真の右側)に向かうのである(この水門も現在休止中だが、幽体だからどこでも通り抜けられる)。この位置では、綾瀬川と荒川は東西の直線距離で5㎞以上離れているが、下流に行くにつれて両者が接近するのである。では、そこら辺りにワープしよう。

ワープした。立っているのは5㎞くらい南の荒川の土手である。

東方から綾瀬川が迫ってきている。

花畑水門の辺りを流れていた水はもう到着しただろうか。そして、両川は、いよいよ土手ひとつをはさんで併走するに至る。

土手上で振り返って北方を見た景色である。左が荒川で右が綾瀬川である。そして、いよいよ綾瀬水門が現れた。現在工事中で、矯正中の歯列のような風情である。

この水門を綾瀬川からくぐるポイントがここである。

現在工事中のため航行ができない旨の電光掲示がある。ということは、工事がなければ航行ができるということである。すなわち、この水門は現役である。ここをくぐると、

河原を突っ切った水路があって、その先が荒川である。荒川に出て少し下流(写真の左側)に下ると対岸(東岸)に隅田水門が見えてきた。

隅田川に行くためにここをくぐるのである。私は、近くの堀切橋を渡って対岸に行く。荒川から隅田水門に入る水流があって、

その上に隅田水門があって、

そこをくぐった船が隅田川に出るまで約500メートル進む水流は旧綾瀬川である。

綾瀬川は、もともと今の垳川の河道を流れて中川に注いでいたものが直進工事により南にルートを変えて現在の隅田川に合流していたのであるが、荒川放水路の開削により分断され、荒川放水路にぶつかった綾瀬川は中川に合流するまで荒川に沿う形に流れが改められ、分断された先は取り残されたのであるが、その取り残された流れこそがこの旧綾瀬川なのである。旧中川と似た境遇である。

旧綾瀬川の岸壁に沿う道には猫がいた。

シュッとしてるから多分雌猫である。そして、いよいよ隅田川との合流である。

奥を左右に流れるのが隅田川である(左が下流)。この写真は、合流直前の旧綾瀬川に架かる綾瀬橋から撮ったものである。旧綾瀬川に架かるから綾瀬橋というわけである。

隅田川の岸壁にまで進んで下流を見ると、荒川の土手を歩いていたときは斜め右奥に見えたスカイツリーが真ん前に見える。

だが、ビール会社のきんとん雲は見えない。ここは浅草よりずっと上流であるということである。こうして幽体離脱した船は隅田川にたどり着いた(そもそも幽体離脱前の船からして仮想である)。昔は、こういうルートで農作物を運んだんだなぁ、と感慨に耽る。逆のルートであれば運んだのは「下肥」であった。

これで、この日の目的を達したので北千住まで歩いて、そこで電車に乗った。途中、高架線路にでっかく京成関屋駅と書いてあると思ったら、

そのガードをくぐったすぐ先に東武伊勢崎線の牛田駅が現れた。

そうか、こんなに近接してるから京成関屋駅はあれほど大きく自己アピールをしていたのだな、とガテンがいった。この日の歩行時間は約2時間。私的にはたいしたことがない時間だが、痛風明けであることを考えると少し長かったかもしれない。

因みに、私は「幽体離脱」のイメージを「宇宙皇子」(うつのみこ)という歴史伝奇ファンタジー小説で得た。「スターウォーズ」のエピソードⅧ「最期のジェダイ」で、ルークが遠く離れた孤島から自分の幽体を送って戦わせたのも幽体離脱の例だと思っている。

 

 

 

 

 


川の成り立ちVol.7中川と江戸川のランデブー

2024-11-24 18:50:42 | 地理

中川及びその前身である庄内川の歴史は、栄枯盛衰、そしてもう一度「盛」である。元は渡良瀬川の中流域で、下流は現在の江戸川であり、利根川の本流になったこともある。だが、渡良瀬川からも利根川からも締め切られて落ちぶれて庄内「古」川となり(流頭を締め切られた川がどんなにみじめかは、Vol.6の葛西用水で見たところである。垳川に突入した後、南に向かう葛西第一水門を閉め切られた葛西用水は見るも無惨な水溜まりに化した)、さらに、江戸川下流も新たに開削された水路(現在の江戸川上流)の方を自分の上流と見るようになって、庄内古川はさぞや口惜しい思いをしたと思うのだ。ところがでござる。その後、江戸川下流との流路が埋め立てられて関係が切れ、新たに古利根川方面に開削が進んで庄内古川はそっちとつながった。するとどうだ、後からやってきた庄内古川が本流づらをして中川を名乗り(中川は、もともと古利根川の最下流の名称である)、つながった古利根川も、そして古利根川に合流していた新方川や元荒川もみな自分の支流にしてしまった。こうして、かつての庄内古川である現在の中川は、新天地で最終本流となり、かつての栄華を取り戻したのである。

しかし、中川(庄内古川)が支流とした古利根川も元荒川も由緒ある大河である。これを飲み込む(支流にする)って「小が大を飲む」という感じではないか?是非、飲み込む現場を見たい。そして、かつて江戸川に通じていたが埋め立てられて消滅した旧流路(両川のランデブーの場)の名残りが残っているのなら見てみたい。こうしたモチベーションで実行したのがVol.7の旅、すなわち、中川から江戸川への周遊旅である。

最初に、今回の踏破図を載せておこう。赤い点線が今回歩いたルートである。

では、見ていくこととする。スタートは武蔵野線の吉川駅である。駅を出てちょっと歩くとすぐ中川の土手で、これを上ると目の前に広がるのが中川の流れである。

ここまで乗ってきた武蔵野線の線路はすぐそばである。

この土手の道を北に向かって15分くらい歩くと、早速、元荒川との合流点が現れた。

手前を左右に流れるのが中川であり、奥から流入して来たのが元荒川である。元荒川は、Vol.5で、葛西用水が分流するまでその土手を歩いた流れである。あのまま元荒川に沿って歩いていれば、ここに到達していたわけだ。

そこから更に少し歩くと、次の合流現場、すなわち、新方川との合流現場が現れた。

手前を左右に流れるのが中川であり、奥から流入して来たのが新方川である。新方川は、Vol.5で葛西用水がその下をくぐり、私は上の橋を渡って超えた川である。あのとき新方川に沿って歩いていれば、ここに到達していたわけだ。

ここからは、少しというわけにはいかない。随分歩いた。すると、あれ、変だな、中川はまだまだ北進するはずなのに先が左(西)にカーブしている。

と思ったら、中川がカーブしているのではなかった。中川に合流せんとする古利根川の流れであった。古利根川がでかいものだから、中川の続きのように見えたのである。古利根川はVol.5で古利根堰で見て以来である。あのときもでかかった。そんな古利根川を中川が飲み込もうというのだから、まさに「小が大を飲む」である。その現場(合流点)がここである。

手前を左右に流れるのが中川であり、奥から流入して来たのが古利根川である。この先の中川(写真の右側に伸びている)は、開削された流路であり、急にこじんまりした感じになる。

やはり、これまでの威容は古利根川によるところが大きかったのだろう。古利根川の立場に立てば、掘り進んできて合流した新参者がいきなり偉そうな顔をしやがって、という感じだろうか。羽柴秀吉を苦々しく思う柴田勝家の気持ちだろうか。

開削した流路だけあって、まーっすぐである。

周りの景色はいよいよ長閑になってきた。ふと、東方面を見ると筑波山が見えた。

最近、ご無沙汰だね、早く登りにおいで、と言われているようである。はいはい、行きますとも。

どのくらい歩いただろうか。まっすぐだった流路が左にカーブし始めた。

そろそろ江戸川への旧流路があった地点である。旧流路の水流は完全に失われたが、左岸の土手だけが残っているという情報を予め得ている。あった!ここだ。こここそが、中川と江戸川の幻のランデブー・ポイントである。

これは上流から撮った写真であり、右に中川、中央左寄りが中川の土手、そして土手中央から左上に伸びている道路が旧流路の土手の跡である。土手だけあって中川の土手と高さが同じである。

これでこの日の予定は終了。さて、この後、どうしよう。もと来た道を引き返すのも芸がないし、むやみに歩いてきた相当な距離を考えるとぞっとする。よし、この旧流路沿いの土手を伝って江戸川に出よう。江戸川を渡って千葉県に入れば東武野田線(現在、カタカナの長い路線名がついているらしいが、あえて昔の名前を使わせてもらう)の野田市駅にたどりつけそうである。ということで、土手を進む。右側は低地で農地になっている。ここを庄内古川が流れていたと思うと感無量である。

すると、江戸川の土手が現れた(ブログではすぐ次のシーンになるが、実際はかなり歩いている)。

さすがにでかい。この後、土手の上に出て、野田橋を渡って江戸川を超えた。大河に架かる橋なのに、歩道が狭くてフェンスが低くて相当怖い。江戸川に架かる橋はこういう橋が多い。渡ってる最中はなるべく川を見たくなかったが、私には皆さんに報告する義務があるので(勝手に思ってるだけ)、がんばって撮った。

下流の様子である。

橋を渡ると野田市内である。かなりアップダウンがある。

台地と谷が入り組んでいるのだろうか。調べてみたいところである。そうこうするうちに野田市駅に到着。おろ!駅舎がまったく新しくなっている。

新駅舎の使用が始まったのは今年に入ってからだというから、できたてのほやほやのところに出くわしたのであった。街全体が醤油の香りにつつまれているのは昔のままである。なぜ、昔を知ってるかというと、かつて私はサイゼリヤの株を持っていて、株主総会はいつも野田市で開催されてたから毎年通っていたのである。当時、なぜ吉川に本社のあるサイゼリヤが株主総会を野田市で開くんだろ?と疑問だったが今こそ分かった。埼玉県吉川町と千葉県野田市はお隣同士であった。因みに、その昔、株主総会は本店所在地又は隣接地で開催しなければならないとの規定が旧商法にあった。今はそんな規定はなく、世界中どこで開いてもよいことになってるが、仮にその規定が今もあったとしても、サイゼリヤは野田市で株主総会を開くことができたわけである。歩くといろいろなことが分かるものである。この日も3時間はゆうに歩いている。

で、東武野田線に乗り、柏に向かうと、そうそう、途中、運河があったっけ。今ももちろんある。

写真は車窓から撮った。この運河は利根運河と言って、利根川と江戸川を結んでいるという。もともと江戸川は利根川の支流であり、水運的にはつながっていたのだが、更なるショートカットとして掘られたという。