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黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

山の話Vol.4亀有駅から見た富士山

2025-01-30 11:26:25 | 地理

こないだ江戸川を渡るべく千代田線(常磐線)に乗っていて、いつもは北向きの車窓から中川と江戸川ばかりに注目していたのだが、ふと南側に目を移すと夕焼けに照らされた富士山が見事であった。ググって見ると、亀有駅の綾瀬よりのホームの端は、はたして富士山が見える場所として有名であった。なので、このたびは富士山の写真を撮るために乗車券を購入し(JRに貢献し)亀有に向かう。

なるほど、ここは良い場所である。

山上の雲はよいアクセントだが、山体にかかる雲は退散してほしかった。

私の他に、もう一人カメラをかかえた人がいた。だが、御茶ノ水の聖橋からJRと地下鉄の立体交差を見んとして集まる人数に到底かなわないのは郊外だからだろうか。

この日、山を撮るためにポチったおニューのコンデジ(光学で20倍までズームにできる)の初出勤である。マニアは一眼レフだとかなんだとかで重装備をするしょうだが、私ごときはコンデジで十分である。なお、私にとってはおニューであるが、中古で買ったから個体としてはおニューではない。

以前は、近場に大きなビルがあって富士山はそのビル越しに見ていたようだが、そのビルがなくなってよりよく見えるようになったらしい。ビルが建って見えづらくなるのが常だが(荒川を渡る千代田線の車窓からの富士山も大昔はもっと楽に見られた)、ビルがなくなって見やすくなるのは希有なことである。

ときたま鳥の群れがバァーっとはばたくのだがムクドリだろうか?ムクドリはウチの近所の電線にも大挙して止まっている。

富士山の左端にちょこっと写ってるのが蛭ヶ岳(丹沢)、右端が大室山である。へー!この位置からだと大室山は富士山の右に見えるのか。拝島駅からだと富士山の左側にある。

すなわち、こういう位置関係である。

冒頭の写真に戻るが、この季節、空がもっとも赤いのは(太陽が沈むのは)もっと左(南)である。だんだん季節が暖かくなるごとに太陽が沈む位置が右(北)にずれてくるから、そのうち、富士山と夕陽のコラボが見られるのではないか、と期待しているワタクシである。そういう季節になったら、また乗車券を買ってJRに貢献しようと考えている。

なお、「亀有」という土地は、昔は「亀無」と呼ばれていたという。「ない」より「ある」方が良い、ということだろうか。


山の話Vol.3屋根越しの赤城山

2025-01-09 18:42:17 | 地理

そんなわけで(Vol.2からの続き)、すっかり赤城山に魅せられてからというもの、北方を眺めるときは必ず赤城山の姿を追い求めていると、かつて見えなかったものが見えてくる。私は、40年近く前に二年間だけ入間市に住んでいた。このたび、昔懐かしさに当時住んでいた辺りを歩いてみたのだが、なにが驚いたって、当時毎日のように乗り降りしていた駅から赤城山が見えるのである。

当時は、まったく気付かなかった。なにせ、山と言ったら富士山くらいしか知らず、赤城山という名前は国定忠治の「赤城の山も今宵限り」で聞いたことがあっただけ。どこにあってどんな形をしてるかなど皆目知らなかった。だから、この景色が目に入っても脳はなんの反応も示さなかったのだと思われる。今の私にとっては、この景色はお宝以外の何物でもない。

かように人間の注意は求めるものだけに集中し、求めないものの情報はスルーするらしい。だから、刑事さんは、指名手配の犯人を群衆の中から見分けるし、猫好きは田園風景の中から猫の姿を見分けるのであろう。

それにしても、入間市と言ったら埼玉県の最南部で東京都と境を接している。そこから群馬県の中央にある赤城山がこんなに大きくくっきりと見えるのだから驚きである。もし、当時の私が今の私なら、この地に降りたったその日にこの山容を視認し驚喜乱舞したことだろう。そして、2年とは言わずそのまま住み着いていたかもしれない。

因みに、山梨に、コンビニの屋根越しに富士山が見える場所があって、外国人が押し寄せ車道にはみ出て問題になっていた。自治体は対策として道路に黒い幕を張り物議をかもしたが今は撤去されているようだ。掲載した写真で見える赤城山は団地の屋根越しである。別に車道に出なくても見えるから黒幕を張られることはないだろう。その前に、人々がこれを見たさに押し寄せる事態にはならなそうである。


関門海峡が関門であるのはたまたまだった件

2025-01-03 12:17:02 | 地理

ブラタモリの再放送を見てて思ったことその1。伏見は東西の「関門」である、と聞いて、私、「関門」て関門海峡が語源だな、あそこは本州と九州を行き来する際に絶対通らなければいけない場所で、壇ノ浦の戦いに見るように潮の流れが激しく渡るのが大変だから、転じて「通過するのに困難を伴うところ」(大辞林)の意味になったんだな、と思ったら大ハズレ。「関門」とは関所の門のことだという。関門海峡が関門であるのはたまたまらしい。

その2。東海道57次(53次のルート(江戸ー京都)から分かれて大阪に向かうルーロ)の終点の高麗橋の上に、始点の日本橋と同様高速道路がかかっていた。日本橋の上の高速はそのうちなくなるそうだが高麗橋はどうなのだろう?

その3。京都競馬場は珍しく第三コーナーに坂があるが、それは自然の地形を活かしたものである、さあ、何があったんでしょう、ヒント、ここには以前巨椋池という大きな湖がありました……と聞いて、私の脳裏にまず浮かんだのが「台地の尾根」。昨年は、上野台地や本郷台地の尾根をさんざっぱら歩いたものだ。だが、ここは池や川のある湿地帯……ってことは、分かった、「土手」だ。ブー。正解は「堤防」。ここで疑問。土手と堤防と何が違うんだろう。大辞林によると、「土手」とは、土の堤で、水や風や敵の侵入を防ぐために設けられたもの。それに対し、「堤防」はもっぱら水を防ぐためのもの。ってことは、土手>堤防、すなわち、堤防は土手の部分集合であって、私は正解であった(先生に言って×を○に変えてもらわにゃ)。因みに、昨年は、川(中川他)の土手もずいぶん歩いたものである。

因みに、私は、川も大好きだが、池・沼の類いも大好物である。大きな湖もよいが、ちょっとした貯水池のような水溜まりに大いに心が惹かれる者である。ドイツの民話に出てくるような、精霊が住んでそうな鬱蒼としたヤツは一層好きである。山、台地、川に続き、池沼についても当ブログに書き散らしたいと思っている。そんなだから、判例の中でも「奈良県ため池条例事件判決」が大好きである。判決の内容が好きなのではなく、「ため池」と言う言葉にそそられるのである。

ブラタモリのレギュラー放送が春から復活するのはなによりも吉報。だが、考えてみればタモリさんは今年80歳になられる。80歳でぶらぶら歩きができるのは健康でなければできないこと。ご健勝のご様子で何よりである。

 


川の成り立ちVol.10隅田川の河口はどこ?

2024-12-30 19:57:16 | 地理

疑問は年明けまで引きずるべきではないのでここで問題提起をするわけだが、果たして、隅田川の河口はどこだ?言い方を変えると、一番下流に架かる橋はどれだ?(なお、下図における地形、橋間の距離等々は簡略化したものであり、現実を反映しているものではない。また、図中の橋は、現在架かる橋であり、当時を反映するものではない)。

普通に考えれば、隅田川の左岸に最後に接する陸地は月島埠頭であり、その最南端に架かる築地大橋がもっとも下流の橋であり、そのすぐ南側が河口である。

それが世間の共通認識のようである。だが、引っかかるのは、月島埠頭が埋立によって造られた「人工島」である、ということ(埋立てが始まったのは明治中期であり大正期になって完了した)。そうした人工島を抜けた所を河口とするのがはたして適当だろうか?さらに、河口を「本来の河口」に求めるなら、埋立てによって後からできた河口は河口でないこととなる。

そう考えて、月島埠頭の南端を河口と見ないのであれば、月島埠頭ができる前、すなわち、月島埠頭の根っこの辺りが本来の河口であり、もっとも下流の橋は永代橋ということになる。

実際、江戸時代においてはそのように解されていた。なお、この頃は、現在の隅田川は、荒川西遷後は荒川の本流であり、西遷前は入間川の本流であった。

しかしでござる。大昔に遡ると、隅田川(当時の入間川かつ利根川)には現在の流路のほか、現在の桜橋の少し上流辺りから南東に向かう流路があり、そちらが本流だった。そして、現在の北十間川辺りが海岸線だった。

その南側は埋立てによって陸地となった地域である。あくまでも本来の河口にこだわるならば、永代橋付近の河口も本来の河口ではなくなり、現在の北十間川よりも北に本来の河口を求めなければならなくなる。そんなことを言っていたら、地球の温暖期においては現在のさいたま市あたりまでが東京湾だったから(古東京湾)、本来の河口は限りなく北方にあった、あるいは河口そのものがなかったという話になってしまう。

そう考えて遡っていくときりがない。現在の河口は現在の地理によって決めてもバチは当たらないだろう。月島が人工島であることについてはどうか?思うに、人工島と言っても、なにも筏を浮かべてるわけでもないし、ひょっこりひょうたん島のように漂流するわけでもない。また、東京都において普通に地面だと思っている土地の多くが埋立地である。しかも、その「人工島」には今や高層マンションがぼこぼこ建っていて内陸となんら変わるところはない。そうであれば、素直に「月島」という名の土地を抜けて広海に出たところを河口と呼び、もっとも下流にある橋は築地大橋ということで良いであろう。これで、心残りなく年が越せるというものである。

下の写真の中央が築地大橋であり、手前が隅田川が河口を抜けて東京湾に出た辺りである。

なお、晴海埠頭と豊洲埠頭をつなぐ橋からは、正面に江戸時代における隅田川の河口辺りが見える。

こうやって見ると、やはり埠頭の辺りは既に海のようにも見える。そもそも、私が、今回の疑問(隅田川の河口はどこ?)を持ったのは、この夜景を見たのがきっかけだった。と言って、また話を蒸し返したいわけではないが、やはり疑問が生じたのもむべなるかな、という感じもする。

 

 

 


山の話Vol.2伊勢崎から見た浅間山、榛名山そして赤城山

2024-12-23 11:33:29 | 地理

というわけで(山の話Vol.1からの続き)、赤城山に取り憑かれた私は、次は東から攻めることにした。すなわち、東武伊勢崎線に乗って伊勢崎に行って、そこから山々を拝もうという算段をしたのである。

途中、電車は羽生駅を過ぎて利根川を渡る。

この鉄橋は、葛西用水を巡る旅のとき、土手から見たものである。

ここを渡ると栃木県である(現在地は、下図の右下の赤丸の辺り)。

栃木県に入った東武伊勢崎線はなお北上を続け、足利を目指す。すると、低い山並みの向こうに日光男体山が見えてきた。

日光男体山は、関東平野のかなり南の方からも見えるが、その手前を低山が大きく遮るのは近くに来た証し。低山歩きを趣味とする者(私を含む)にとっては興味津々である。

ただし、低山は情報が少なく山座特定は困難だ。ここら辺は足利の手前である。

さらに北上し、足利駅の近くになると、線路は渡良瀬川と併走する。橋の下を流れるのが(水流は写ってないが)渡良瀬川である。

川シリーズでずいぶんとりあげた川である。

さて、足利駅を過ぎると、一転、路線は南西に向きを変え、一路群馬を目指すことになる。すると、低山越しに赤城山が見えてきた。

赤城山は、群馬では平野に直接面していて遮るものがないのだが、栃木からだとかように低山越しに見ることになる。

さらに進むと、低山はもはやなく、でーんと田園風景が広がったところに(一応駄洒落である)見えてきた山塊こそ赤城山と榛名山である。

もはや遮るものはなにもない。まさに「平野に直接面している」。

そうして伊勢崎駅に到着。事前に収集した情報に従って、広瀬川(利根川の支流)の土手に行く。すると、進行方向(上流)の真正面に富士山ぽい山と榛名山が見える。

富士山ぽい山は浅間山である。

「え?なんでこんなところに富士山があるの?」と不思議がる人がいるというから「富士山ぽい」は言いすぎではない(ズーラシアで、シマウマを見てオカピ!と叫ぶ人もいると聞く)。そして、そのすぐ右側の榛名山の各峰も形がくっきり見える。

Vol.1で、真東から見た時あんなに尖って見えた水沢山も、関東平野から見るとかように台形だ。浅間山は、実際は榛名山よりずっと遠くになるが、この位置からだと並んで見える。

そこから目を右にぐるっと転じたところに鎮座ましましてるのが赤城山である。

Vol.1で、ずいぶん北に回り込んだところから真っ正面に尖って見えた鈴ヶ岳の頂きがちょろっとだけ見える。長ーい裾野は赤城山ならではである。

方角的には、赤城山は、ここからだと真北にあたる。

これで、お目当ての山々は全部見た。余は満足じゃ……ん?ふと南西に目をやると、そこに知らない山塊があった。

調べたら、東御荷鉾山、西御荷鉾山、オドケ山(以上が広義の御荷鉾山)と赤久縄山だそうだ。群馬県の南西部の藤岡市等にある山々だそうだ。そのすぐ南は埼玉県である。

この中の最高峰の赤久縄山の標高は1523メートルだというから、高さから言えば赤城山に引けを取らない。「知らない山」だなんてとんだ失礼をしちまったもんだ。おみそれしましたー、ってところである。

これだけ山を見れば、この日はお腹いっぱいである。きびすを返して駅に向かった。途中、アオサギに出会った。

よく歩いたご褒美のようであった。私は川沿いをよく歩くから、カモとサギにはよく会う。幸いなことに、人間の詐欺犯に遭ったことはない。

なお、今回の取材日は痛風発症前である。一刻も早く、このようなブラブラ歩きができるように痛風がひっこんでくれることを願う日々である(そのくせ、お酒はやめてない)。