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黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

台地を行くVol.10弥生土器と樋口一葉

2025-03-19 10:52:04 | 地理

久々の本郷台地は、概ね、ブラタモリの本郷台地の回をなぞる小旅である。すなわち、地下鉄千代田線の根津駅から出発し、藍染川に寄り道をした後、弥生土器ゆかりの地を訪ね、湯島天神に詣った後、本郷三丁目辺りの坂(菊坂、炭団坂、鎧坂)を堪能し、樋口一葉宅跡を訪れて御茶ノ水に出るルートである。最初に全体のルート図を掲げておこう。黒の細点線が踏破ルートである。

根津駅の地上に出ると不忍通りと言問通りの交差点がある。本郷台地が目的なら言問通りを西に帝国大学方面に上るところだが、今回は寄り道をする。言問通りを逆方向に東に向かう。しばらく下りで、最初の信号の地点が一番低く、そこから台東区に入って上りになる。上っているのは上野台地である。

すなわち、信号の地点が本郷台地と上野台地の間の谷間であり、谷を作ったのが藍染川である。信号を左折して、今は暗渠となっている藍染川の上を歩く。川名の由来は、川の水が藍染に使われていたからである。そうした藍染屋さんが今も残っている。

気が済んだから寄り道はおしまい。言問通りに戻って帝国大学方面に坂を上る。

すると、左手に「弥生式土器発掘ゆかりの地」の碑が現れた。

弥生時代の「弥生」こそがこの弥生である。ただし、この碑の建っている処が発掘現場でないことは、線路沿いの大森貝墟の碑が大森貝塚があった場所でないことと同様である(Vol.8参照)。ただし「ここかも」という場所が帝国大学の敷地内にあり、発掘現場であることを示すプレートがあり、その脇が崖になっているというので、崖下から拝もうと上ってきた坂を下りて横道に入ると、なるほどそこは崖下である。

崖上は本郷台地であり、帝国大学は台地の上にあるのである。下々の私が最高学府を見上げ、最高学府が下々の私を見下ろすというのは世の中のありようと一致している。ブラタモリでは「『でかい樹』の辺りにプレートがある」と言っていたからここら辺だと思うのだが、放送時から10年経過していて、テレビで見た風景からだいぶ変わってしまっていて、いまいち確信が持てない(三田段丘のときもそうだった)。ま、しかし誤差20メートルの範囲内であることは確かだろう。

そのまま崖下を縫って湯島天神に向かう。途中、旧岩崎庭園が現れた。

まことに広大な敷地である。そう言えば、上野台地を王子に向かって歩いたときは途中に旧古河庭園が現れて、あっちも広大であった。まっことお金持ちはいるものである。こうした広大な土地のほんのひとかけらでもあれば私のような下々の者は十分生活できるのである。

そうこうするうちに湯島天神に通じる石段(天神石坂)に到着。

湯島天神がある処も本郷台地の上である。すなわち、最高学府も、天神様も、いと高き処におわすのである(あと、縄文人、弥生人も高い処に住んでいた。遺跡や貝塚が見つかるのは高台である)。世の中の多くの人は階段を見るとげんなりするようだが、私は逆に燃えるタチ。中学んときの陸上部の練習で、こうした階段を何度も駆け上ったものである。だが、無理をして痛風が出ても困るので、駆け上りはせず歩いて上って台地の上(天上)に出た。湯島天神は梅が綺麗だと聞いていたが、既に多くが散っていたのは残念だった。

境内の大判焼屋さんが閉まっていたのも残念だった。

カムカムエヴリバディで深津絵里が毎日焼いている回転焼きは、イコール今川焼きであり、イコール大判焼きである。

さて、下々の私も今はいと高きところ(本郷台地上)にいるわけで、せっかくだからしばらくは台地上をうろつくことにし、春日通りを西に進むと本郷三丁目交差点にぶち当たった。交叉するのは中山道である。この中山道に向かって立つと、さっき根津で見た言問通り同様、少し下ったらすぐ上っているのが分かる。

この下ってる坂が見送り坂で、上ってる坂が見返り坂である。中山道を旅する人を送ってきた人がここで見送り、旅人が見返す坂である。

その二つの坂の境目から左(西)に下る坂がある。菊坂である。

言問通りの低くなっているところが谷間で藍染川が流れていたごとく、二つの坂の境目(一番低い処)は谷間であり、谷間を作るのは川である。すなわち、ここにも川が流れていたのであり、菊坂はその川跡なのである。この菊坂を下ると、菊坂コロッケを売ってるお肉屋さんが現れた。

ここのコロッケを購入することも今回の小旅の目的の一つである。3個購入。ひっきりなしに客が来るのはここら辺の名物である証しである。

さて、このすぐ先から、菊坂に平行して一本南側を通る小径を行く。というのも、樋口一葉の旧宅跡はその小径に面している。

この一角のどこかが樋口一葉宅跡である。先ほど、菊坂を下り既に台地から降りているから、今いるのは谷底である。奥の階段は、ここ(谷底)から台地上に上る階段である(後で下ることになる)。

さらに、ここら辺の有名な坂も、菊坂の一本南の小径とつながっている。炭団坂(炭団=炭を丸めた燃料)もそうだし、

鎧坂もそうである。

先に書いたとおり、谷底に降りているから坂はみな上り坂である。この鎧坂を上る途中に鬱蒼とした路地があり、暗い中をくねくね行くと崖下に降りるような階段が現れる。

これが、先ほど見た樋口一葉宅跡の一角の奥に見えた階段である。

これで、今回予定した場所はすべて見た。帰途につくべく新御茶ノ水駅を目指す。途中、後楽園遊園地の観覧車の最上部が見えた。

後楽園が近くなんだな。半世紀近く前にときどき通っていた真砂図書館もここら辺だったんだな。

そして、神田川にかかる聖橋を今回は下から見上げる(今回は見上げてばかり)。

聖橋とくれば、中央線と総武線と丸の内線の交叉を見たいところ。一応、三線の車両を一枚に収めることはできたが、

総武線(右上隅の黄色いラインの入った車両)はホームに停車中である。走行中の三線を一枚に収めることが究極の目標である。

因みに、お寺の敷地内を「境内」と言うが、神社の場合は何て言うんだろう?と思ったら「境内」でよいらしい(大辞林)。それから、「あいぞめ」と入力すると多くの場合「愛染」と変換されるが、変換率で言うと「藍染」と「愛染」ではどちらが高いのだろうか。私の世代では断然「愛染恭子」の「愛染」だと思うのだが。

 

 

 

 

 

 

 

 


川の成り立ちVol.11古隅田川に栄枯盛衰を見る

2025-03-12 09:50:17 | 地理

話を太古の昔から始めよう。利根川は、太古の昔においては東京湾(江戸湾)に注いでおり、現在の中川、古隅田川、隅田川を通る大河であった(私の作る川の簡略図は川が縦に(南北に)に流れているが、実際は斜めに(北西から南東に)流れている)。

それがあーなってこーなって(詳細は、当ブログの「川の成り立ち」シリーズの過去回を参照のこと)、現在はこんな風になっている。

注目すべきは、現在の古隅田川である(上図の赤い線。なお、古隅田川という名称の河川は埼玉県にもあるが、今回の主人公は東京都の古隅田川である)。太古の昔においては、利根川の本流すなわち大河であり、武蔵国と下総の国の国境であったのに、現在の古隅田川は、水量が減って干上がり、蛇行の後だけが残って見る影もない(実際、そのほとんどが暗渠で陽の目を見ない)。これほどの栄枯盛衰も珍しい。甲斐の武田は、かつて日本中を震え上がらせた大軍団であったのに、勝頼の代で滅亡した際は、ほんの数騎で山中を彷徨ったというが、そのことを思い起こさせる。

多くのハイカーが勝頼が辿った道を歩くように、古隅田川の流路を辿って往事を偲ぼう、というのが今回の小旅の趣旨である。上記の「現在図」のうち、古隅田川の辺りを拡大したものがコレである(以下「拡大図」という)。

必要に応じてご参照いただければ幸いである。小旅は、上流から下流にかけて、すなわち、中川から綾瀬川に向かう進路を辿った。

スタートは、中川からの分流ポイント。中川の東岸から古隅田川が分流する西岸を見る。対岸の真ん中くらいに分流口があったはずだが、今では影も形もない(と思ったが、改めて写真を見ると、その部分の土手の色が他と違って緑が少ない。分流口をふさいで土をかぶせたから?だとすると、影も形もあったことになる(この括弧追記))。

近くの橋を渡って西岸の土手に行き、中川に背を向けて見下ろすと、目の前の道路が古隅田川の跡である。

古隅田川はほとんどが暗渠で上が道になっていて、その道は足立区と葛飾区の境を成している。右手前の空き地は長門排水場跡である。この道路の突き当たりにマンションが建っているが、このマンションは二棟に分かれていて、その間に区界(古隅田川)が通っている(すなわち「突き当たり」ではない)、ということは、同じマンションでありながら棟によって住所の区が異なるわけである。

このマンションを抜けると突き当たりが(今度はホントに「突き当たり」)亀有アリオ。区界(古隅田川)は突き当たった所を右折して北進し、小さい公園の真ん中を抜けて小径に入る。

この両側にはもう少し大きくて車が通れる道が走っているのだが、こうした車止めがある細い小径こそが暗渠に相応しい。実は、一度この辺りの下見をしているのだが、大きい方の通りを進んでしまったために道をはずれてしまったのである(こっちの方が「道をはずれた感」があるが)。この後、常磐線のガード下をくぐるのだが、

ここだってすぐ東側にはもっと大きなガード下があり、思わずそっちに行ってしまったのが前回の下見時である。この狭いガード下をくぐって進む区界(古隅田川)は相変わらずの小径である。

小径の両側は梅が咲いていた。桃色の梅だったり、

白い梅だったり。

こんな車の通れない小径であるが、「隅田子育地蔵」なる標識が立っていた。

「隅田」という名称が古隅田川を思わせる。

この小径は左に(西)にカーブし、そのうち環七にぶち当たった。

久々に見る車である。進む先は、写真中央に白く輝いている路地で、やはり車止めのある小径である。近くの横断歩道を渡ってそこを進むと、

以前、葛西用水の回で歩いた「葛西用水との合流点」が現れた。あのときは、左右に走る道路の右(北)から葛西用水路を辿って歩いてきて、ここにたどり着いたのであった。葛西用水路はこの交差点の少し前で暗渠となり、この位置で古隅田川の暗渠に合流するのである。

葛西用水路は終点を迎えても、古隅田川はまだまだこれからである。その行く先だが、上の写真で見るように道が二本に分かれている。左側が区界(古隅田川)であり、右側が名前の付いている商店街である。並行して走る道路のうち、一方がうらさびれた暗渠で他方が開けた商店街というのはよくある構図である。街歩きが趣味の人は後者を歩くのが常だが、川跡が目的の場合に進むのは前者である。

「うらさびれた」と言っても、ここからは、区界(古隅田川)も車の通行がOKであり、幅もあって普通の街路である。同時に、橋の名前を記した柱が急にたくさん現れ始め、

もともと「古隅田川」という川だったことのアピールが盛んになる。位置は、拡大図に「橋の跡が多数」と記した辺りである。

この道は南西に延びていて、そのうち常磐線にぶち当たり、ガード下をくぐって線路の南側に出て、すぐに北側に戻り、しばらくして再度南側に出ると、これまで暗渠だった古隅田川の水面がようやく陽の目を見ることとなる。

古隅田川はここからしばらく南下し、途中で右(西)に折れて進むと川の手通りにぶち当たる。

一瞬、暗渠に戻った古隅田川だが、ここを渡るとすぐに復活する。

さらに直進(西進)すると、交差点にぶち当たる。右に行くと綾瀬駅、左に行くと法務局。水路はまっすぐ先に続いているのだが、

実はこれは後から作られたショートカットである。区界(本来の古隅田川の流路)は綾瀬駅に北上するルートである。懐かしい。その昔、綾瀬駅とつながるこの道路の真ん中は、いかにもドブにフタをした暗渠でござい、といった感じの作りで無料の自転車置き場になっていた。皆が乱雑に自転車を置くものだから、帰りに自転車を取り出そうと思っても他の自転車と絡み合って用意に取り出せなかったものだ。ここが古隅田川、すなわち由緒ある大利根川のなれの果てなどということは微塵にも思わなかった。そのうち、ここが工事中となり、自転車置き場を廃止してきれいな道路にしたのであった。下の写真は、駅を目前にした辺りである(右カーブの先を左にカーブすると駅である)。

なんともきれいになったものである。

さて、区界(古隅田川)は、綾瀬駅にぶち当たった所で左(西)に折れ、駅舎が終わった辺りで左(南)に折れて南進し、さきほどのショートカットのすぐ先に出て、再び目に見える水流となる(大きく寄り道をして大体元の位置に戻った格好)。

古隅田川はここからさらに南下し、しばらく行って右(西)に折れると木道がよく整備されている。

正面に高速が見えるが、その下が綾瀬川で、古隅田川はそこで綾瀬川に合流して生涯を終えるのである。その最終ポイントが大六天排水場である。

もともと古隅田川は、現在の隅田川につながっていたのだが、開削してきた綾瀬川とここでぶつかって「打ち止め」にされたのである(因みに、綾瀬川は、後に開削してきた荒川放水路とぶつかって途中で「打ち止め」にされる(因果応報))。だから、綾瀬川の西岸には、取り残された古隅田川が有名な東京拘置所の北側を走っていて、木道が整備されたその流れは、

「裏門堰」と呼ばれている(私は、この木道を歩くときまって足にビリッと電気が走る)。

そう言えば、漱石の小説の中に「舟で綾瀬まで行った」旨の記載がある。最初に舟に乗ったのは現在の隅田川であろう。綾瀬の辺りを流れていたのは古隅田川である。隅田川と古隅田川間は、現在は荒川や綾瀬川でぶちぶち切られていて直接舟で往来できないが、漱石の頃はまだ往来が可能だったのだろうか。すると、滝廉太郎の♪はーるのー、うらあらあのー、すうみいだーがーわー……の「すみだがわ」とは古隅田川である可能性があるのではないか?と密かに思っているワタクシである。

因みに、川にはカモがつきものである。カモは、中川のような大河はもちろん、

古隅田川のようなBächlein(小川の小さいヤツ=小小川)にもいる。

片や宮殿に、片や兎小屋に住むくらいの住居規模の違いであるが、カモは、そんなことは気にしない風である。私はカモを見るのが大好きである(スーパーでカモ肉を買ってオレンジ煮にして食すのも大好きである。なお、野生のカモをとっ捕まえると、オレンジ煮にしてもしなくても鳥獣保護法違反でとっ捕まるから、カモ肉を食したければお店で買うべしと強く申し添える)。

 

 

 


ニュートリノ(地名探し)

2025-02-25 13:14:21 | 地理

「ニュートリノ」と聞いてふと思った。イタリアにトリノという街がある。それに因んだ新大陸の街の名前にニュートリノってぇのがないだろうか?ヨークがあってのニューヨークのような?あるかも、と思いググる。ヒットなし。グーグルマップならあるかも、と思いググる。やはりヒットなし。無駄な努力であった。

すなわち、ニュートリノは、今のところ、私の周りでは、偉い日本人の先生がその研究によってノーベル賞をとったニュートリノ以外に見当たらない、ということである。そのニュートリノは人間の体も地球も通過する極小物質だというが、その「通過する」の意味は、すかすかの宇宙においてぽつんぽつんと存在する星々の間を流れ星が通過するように、実は、人間や地球を組成する原子の中の陽子・中性子・電子もとことん拡大すると宇宙のようにすかすかで(体の中に宇宙があるごとし)、その合間をニュートリノとやらが通過するということか?因みに、将来、アンドロメダ銀河が我々の銀河系(天の川銀河)と衝突する、というが、「衝突」と言っても、それぞれがすかすかだから、実際に星々が衝突することはないという。

「体を通り抜ける」で思い出すのは、萩尾望都の「百億の昼と千億の夜」に、そこに都市があって住民が主人公達の体をすり抜けるシーンである。そのシーンには「虚数空間」「マイナスエネルギー」等々の文字が踊っていた。そう言えば、ニュートリノは「反物質」だそうで、「反物質」「虚数」でググるとこの二つの単語を用いた文章がいくつかヒットした。「反物質」と「体を通り抜ける」ことに関連があるのだろうか?だが「宇宙戦艦ヤマト」では物質と反物質が接触すると爆発するという話だった。反物質の体を持つテレサが白色彗星に体当たりして地球を救ったのだった。映画版では、宇宙戦艦ヤマトとテレサが一緒に白色彗星に体当たりするエンディングだったが、テレサだけで十分なのになんでヤマトも一緒に行くの?と思ったものだ。その後に放送されたテレビ版では突っ込んだのはテレサだけになっていた。因みに、白色彗星にはオルガンが奏でるライトモティーフが用意されていた。♪レーーーラ、♯ソーーミ、♮ソー♯ドー、レーーーって曲だった。

ところで、ニューヨークはイギリスのヨークという町に因んで名付けられたと思ったら、当初オランダ領で「ニューアムステルダム」と言い、その後、イギリスが占領し、ヨーク公に因んで「ニューヨーク」という名称になったそうである(改訂版世界大百科事典)。ヨーク(地名)ではなくヨーク(人名)に因んだということで思っていたことと違ったが、ヨーク(地)があってのヨーク公だろうから当たらずとも遠からずである。例えば、千葉は千葉氏が治めたから千葉になったのではなく、平の某(たいらのぼう)が千葉にやってきて千葉氏になったものである。


台地を行くVol.9三田段丘の石段の運命

2025-02-20 12:08:12 | 地理

台地シリーズは当初から23区の北東部を扱ってきたが、前回の大森貝塚は南東部だった。引き続き今回も南東部。ターゲットは三田段丘の「石段」である。そうでなくても23区の南と西は私にとって別の銀河系であるのみならず、三田段丘にはKOウニがある。この一事で私は窒息しそうなところを無理して歩いた理由はもっぱらタモリさんが推してるという噂の石段が最近の再開発で微妙なことになっているとの情報をゲットしたから、「健在」のうちにこの目で見ておきたいと思ったからである。

ということで、田町駅で下車して早速現地に向かう。桜田通りに出ると東京タワーが目に付いた。

この辺りのメルクマールなのだな。これまで歩いてきたところはスカイツリーだったが。やはり東京タワーはいい!色がいいし、カタチもいい……っと、ここで今回のルートのあらましを紹介しておこう。

三田段丘は、武蔵野台地の南東の端っこにあって、そこだけがぴょこたんと独立している。真田丸が大阪城の外郭にあって独立していたごとしである。

で、桜田通りを東京タワー寄りに少し歩くと、出た!KOウニ!

かねがね不思議だったのは、このKOウニの東門が他のビルに並んで狭苦しそうにしていること。ビルがキャンパス?さすが都会だとは思うけど、土のキャンパスはないの?田んぼが名称の某大学みたいな?と思ったら、この門の奥に広大なキャンパスが広がっていた。入口から覗くとすぐ高台になっていてその上におとぎ話に出てくるような校舎が建っているのが見えた。

なるほど、キャンパスは台地の上にあって、東門だけが台地の下にあるのだな。そのあたりのことは、台地の側面から見るとよく分かる。

崖が台地の法面であり、その上に校舎が建っている。間口が狭くて奥が広いなんて、まるで京都の町屋である。因みに、田んぼが名称の某大学もやはり台地の縁に建っていて、正門から入った先は坂道である。

さらに桜田通りを東京タワー寄りに進むと、左に上り坂が現れた。

台地の上に上る坂である。坂の途中には都立の三田ホッホシューレが見える。網の手引坂というのが坂の名称である。

この標識があるあたりが坂のてっぺん=台地の上であり、しばらく先に進むともう台地を下りる下り坂になる。

日向坂である。ここから少し戻ると、北側に下りる坂道がある。

神明坂である。さあ、目指す石段はこの先である。地図には石段に至るルートなど載ってない。勘を頼りに、路地に入って、何度かかくっかくっと曲がると、フェンスが行く手をはばみ、一見行き止まりのよう。だが、右手にちょろっと入る細道が目に入った。これだ。この先が目的の石段に違いない。で、進むと大当たり!

下の方では建設機械がうごめいていてなるほど再開発の工事中である。だが、石段は健在であった!それをこの目におさめた。めでたしめでたし!

……なのだが、ちょっと気になることが。これまで聞いたいた話では、石段の途中に踊り場があって、そこで、かっくんと右に折れて、すぐに左に折れて下に下りるはずである(こういう形状を「クランク」という)。だが、この階段は、踊り場らしき所で右に折れるはずの所がフェンスでふさがっていて、石段から一直線に金属製のいかにも応急で作りました風の階段が伸びている。

だから、「健在」と言ったが石段が健在なのは上半分だけ。クランクは消滅して下半分が新しく作り替えられるのだろうか?それとも、この金属製の階段は工事中だけの臨時の階段で、工事が終わったらクランクが復活するのだろうか。フェンスの合間から右側の様子を覗いてみると、

元の石段の下半分らしきものを視認できなかったことが気がかりである。

ま、とにかく一番下まで下りた。ここから先はまさに開発区域で臨時の通路が設けられていて、それが古川にかかる小山橋に通じている。その通路をちょっと行って階段を振り返るとこんな感じ。

階段の右側のフェンスで覆われている辺りは以前「小山湯」という銭湯があった場所である。タイムスリップして入ってみたい銭湯である。

臨時の通路に沿って歩くと、古川を渡る小山橋に出た。

こっちは上流側で、この先の渋谷区では渋谷川と呼ばれているそうな。原宿あたりでは暗渠という。そこも一度歩いてみたいと思っている。

同じ処から、台地を見上げるとこんな感じである(右端がさっき降りてきた階段辺り)。

やはり台地である。ただし、三田段丘の高さは20メートル以下で、近傍の台地よりは高さが足りないそうである。

この日はこれでおしまい。痛風の病み上がりだから歩く距離をなるべく少なくするためすぐに地下鉄に乗ろうと最寄りの駅を探したら麻布十番駅。

え?ここらへんてあのおハイソな「麻布」だったの?と思うと、歩いている人も駅のホームにいる人もみんなセレブに見えてくる「外国人」のワタクシであった。そう、私にとっての国境は隅田川である。


台地を行くVol.8大森貝塚

2025-02-18 13:01:06 | 地理

小学校で大森貝塚のことを習ったときは、貝と言うのだから現在の東京湾の海沿いにあるのだろう、と思っていた。半世紀経って、現在の大森駅の近くにあることを知った。なるほど、先般、道潅山遺跡が西日暮里駅近くの台地の上にあることを知り、大昔は、現在の京浜東北線のあたりが海岸線で、海に挑む崖の上で人々が暮らしていたからそこが遺跡になるのだな、と(遅かれながら)お勉強したところである。であるならば、大森駅のあたりも昔は海岸線で、そこに接する台地の縁に集落があり、当時のゴミ捨て場が貝塚として現代に蘇ったことにガッテンである。

だが、疑問がある。貝塚は、台地の上と下のどっちにあったのだろう?集落は台地上にあったからゴミ捨て場も「上」?それとも、台地の上からぽいぽい下に捨てたから「下」?それから、モース博士は1877年に東海道線に乗ってて貝塚を発見したというのだが、車窓から貝殻が見えるものだろうか?いったいどこにどういう風に存在して博士の目に触れたのだろうか?このあたりの疑問を解消するために是非現地を見てみたいが、痛風で歩けなかったら延び延びになっていた。ようやく痛みが治まってきた。大森貝塚は駅の近くだから歩き復活第1弾にちょうどいい。ということで行ってきた。

「現場」は現在「大森貝塚遺跡庭園」として整備されている。ほとんどは再現模型だが、一箇所だけ、地下牢の入口みたいなところがあり、

そこを覗くと、実際の「貝層」が剥き出しになっていた。

そうか、こんな風に断層の中に貝の層があったのだな。おそらく、縄文人がポイ捨てをした貝が層になっていて、で、東海道線を通すために崖を崩していたら断層が現れて、その中の貝の層が列車から見えたのだな。私は、「貝」と聞いて、せいぜいシジミくらいを想像していたのだが(ウチでは貝は味噌汁にしじみを入れるくらいなので)、それよりずいぶん大きい貝ばかりである(5㎝以上ある)。縄文人の方が私よりもグルメであった。こんだけ大きいのが積み重なって層になれば、そりゃ遠くからも見えるよな、とガッテンした。また、大森貝塚遺跡庭園は台地の上にあり、線路(昔の海面)は随分下にあるから、

貝塚は台地の下ではなく上にあったことにもガッテン。やはり、ゴミ捨て場は自分ちの周りに作るものであり、高い処からポイ捨てをしたわけではないようである。縄文人も、なかなかに環境意識が高かったようである(?)。

因みに、この庭園は品川区にあるのだが、もっと大森駅側(大田区)に「大森貝墟の碑」がある。

こちらは、池上通りから逸れて線路脇に降りきったところにある。

もし、ここが発見の場だとすると「台地の下にあった説」が勢いを盛り返しかねないところだが、いっとき不明とされてきた発見の場が後の研究により庭園のあたりと判明したそうだから(改訂新版世界大百科事典)、「台地の上」でよいようである。なお庭園にも石碑があり、二つの石碑の本家争いは、同時に大田区と品川区の本家争いをも意味する。ここら辺に写真を撮りに来る人は二つの石碑を撮って並べて対立の構図にもっていくのが王道のようだが、私は庭園の石碑を撮り忘れた。興味が専ら土地の「高低差」にあるもので……因みに、「大田区」は、昔の「大森区」と「蒲田区」が合体してできた区なので、名称も二つを合体させたものだそうだ。

私にとって貝と言えば味噌汁に入れるシジミくらい、と書いたが、それは今でも同様である。先日も半額になっていたシジミを購入して味噌汁に入れたから、食後に貝殻が残った。

現在では、食品ゴミをポイ捨てすることは御法度だからコレが貝塚になって後世の人の研究対象になることはない。そう言えば、子供の頃、母から「煮て口を開けない貝は死んでる貝」と聞かされたが、最近の貝は活きがいいのだろうか。写真中、口を閉じている貝は一個だけである(外周円上にある)。