もともと 年回のご法事の時には ご門徒は 僧侶が読経している間、
ただ 座って 意味もわからぬお経をただ聞くばかりだった。
しかし、昔と違って 誰でも 字の読める時代になったのだから…と
父の代から 西楽寺では 経本を持参して お参りのみなさんといっしょに
読むようになった。
それは 概ね好評であるが、最近になって僕が思うのは
いっしょに「読むお経」も大事だけど
ただ じっと座ってお経を 「聞く」時間 も 大切ではないか…ということ。
そこで、最近は 人数・お参りの方々の年配や構成によっては
「今日は お経本を配りません。 聞いていて下さい」
と言って 僕一人で おつとめをすることがある。
その時は 西楽寺の報恩講などで 僧侶方が10人以上で 勤める
声明(しょうみょう=節のついたお経)の作法を 僕一人で おつとめする。
すると、皆さん 意外に よろこんで下さり、そのじっと聞く時間が
「わが身を法の中に置く」こととなり、「有難い」という声をいただくことが多い。
先日は 「五会念仏作法」という 声明(おつとめ) を させてもらった。
すると、終わったあとで、60才すぎの女性が
「ごいんげさん、今日のお経は 有難かったですよ。ホント。
聞かせてもらってる間に ジーンときて、なんだか 亡くなったオジさんが
その辺りに フワフワと 降りてきたような気がしました!」
…だって。 ^_^;
こりゃ、ちょっと 有難すぎたようだ。
僕は 決して霊媒師では ありませんから…念のため。
以前、「住職さんのお勤めの声を
聞くと亡き方を思いだして自然と
手が合わさるんですよ」と言われ
「はっ!」とした事があります。
丁寧にお勤めすることを忘れては
いけませんね♪
なんて、僧侶として当然のことなんですが、
心を締めて 大切に「つとめ」なければ…と思います。
こらっ、ナイショだって いったでしょ!(笑)
お経は漢音にしろ呉音でも、やはり外国語です。お互いに共通して使用している漢字の文を読みながら聞いているなら多少(かなり)は分かったような気になりますが、声だけを聞いているとやはり 呪文 にしか聞こえないのでは・・・。でも肉声と拝読している僧侶を見ていると伝わるものはたしかにありまするね。
以前、我派の本山報恩講に今お勤めしているところをモニターでカラオケのように文字反転して知らせてはどうかと提案したことがありますが、なしのつぶて(大派はこれが得意)でした。御堂にいても訳もわからずつまらないので門前の仏具屋さんにショッピングに出かけてしまっているのが現状であります。まあ、仏具屋さんはありがたいでしょう・・・?
文字を目で追いながら拝聴するのがベターと思うところです。
僕もずーっとそう思ってました。
ただ、最近 ふと 「ただ聞く」ことの大切さを思い、
あえて文字(自分の認識)抜きに お経に遇うことって
案外大切なんじゃないか…そんな気がしているんですよね。
理屈じゃなくて…。
梵天が釈尊に勧請したように、かすかな期待も捨てきれませんけどね