JIIN’S ブログ

寺院の住人が綴る、ジーンズをはいた時のような気取りなしブログ!

「明日からやろう」

2015年07月24日 | あとらんだむ「日日あらたに」

■ あとらんだむ「日日あらたに」   №23

思わず、宿題に追われた小学生の夏休み終わり頃を思い出しました。

宿題は辛うじて間に合わせましたが、大切なことを先送りしていると、気がつけば人生が終わろうとしていた…と。

本願寺第8代の蓮如上人は、

「仏法には、明日ということは、あるまじき由の仰せに候」。

「仏法のことは、いそげ、いそげ」
       
            (いずれも「蓮如上人御一代記聞書」)

 

と言われました。
 

この「言の葉」コンテンツでは、

10葉にある 相田みつをさんの「そのうち」 の詩と重なる言葉です。
 

「明日から」ではなく、「今日から」「今から」でしょ。

 
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ということで、あとらんだむ「日日あらたに」でした。  

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うそ 200

2011年04月20日 | あとらんだむ「日日あらたに」

■ あとらんだむ「日日あらたに」   №22


前回の記事(4月19日)で「舌を抜かれる話」を書いたので

当寺サイトの中、 「人生の栞」のコンテンツに掲載してある
「うそ」の話題を…。

ちなみに、「私は 今まで 一度もウソをついたことありません」と言った人が
ウソつき大会 で優勝したとか…。

ということで、あとらんだむ「日日あらたに」です。  

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うそ200

 
「うそ八百」と思いきや、「うそ二百」でした。


   国、南カリフォルニア大学 ジェラルド・ジェリソン教授が、20人の日常生活での発言を録音・分析したところ、人間がうそをつく回数は、一日平均 約200回(8分に1回)という結果が出ました。

   なみに、うそを多くつく職業は、「店員、 医師、 受付係、 政治家、 ジャーナリスト、 弁護士、 販売員」の順だそうです。

   型なうそは、心にもないこと(お似合いです、大丈夫、など)や言い訳(交通渋滞に巻き込まれて…などで、ある意味では生活の潤滑油的役割を果たしていると教授は評しています。      (読売新聞 1997/4/8 より)
 

                                          

 


前向きに生きる…とは?

2011年02月12日 | あとらんだむ「日日あらたに」
■ あとらんだむ「日日あらたに」   №21 

前回の記事(2月7日)で書いた「先日のお通夜」の話は
どんな話だったのか…と たずねて下さった方がありました。

それは 当寺サイトの中、 「ひらがな法話」のコンテンツに掲載してあります。

ということで、あとらんだむ「日日あらたに」です。  

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>  「前向きに生きる…とは?」
 

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前向きに生きる…とは?
「前向きに生きる」とは、どういうことでしょう。

私たちが生きてゆく 人生は、さまざまな「変」から成り立っているといえます。具体的にいえば、生・老・病・死 、入学・卒業、結婚・就職など、「いままで」と「これから」が違うこと、つまり、それが「変」です。

今、 前向きとは 、その「変」の前で 立ち止まらずに、それと歩調を合わせて一緒に歩むことと 定義します。


とすれば、年老いてゆく中に、
「あの(若い)頃はよかったのに…」と 嘆くのは後向きです。
嘆くその瞬間も 刻々と進む老いと共にあゆむことができず、取り残されているわけです。
 
50才の時にわからなかったことが 60才になってうなづけた…。
この年齢にならなければ わかないことがあるものだ…と、老いと共に歩いていくのが「前向き」でしょう。
 
また、病気になったときに、
「今まで元気だったのに、どうしてこんなことに…」と嘆く姿は、病気の現在と一緒に歩いていません。
「病気になって 初めて家族とこんなに話ができた…」となれば、病と共に歩みを運んでいることになります。


そういう意味では、前向きに生きるとは、「今」を引き受けて 生きること と いえるかもしれません。

そして、やがてだれもが人生最後の「変」である「死」に臨みます。

そのとき、浄土往生を信じる人生は、「今生の終わりである死はまた、浄土への一歩」として踏み出すことのできるのです。これは 前向きです。

しかし、 現世しか待たないような生き方は、どんなに 前向きだと言っても、見せかけに過ぎません。
「死んだらしまい」という生き方では、その先は何もないのですから、死の淵の前に立ちすくんでしまいます。これは後ろ向きです。


さらに親鸞聖人は、 浄土に生れた いのちは、そこが立ち止まる最終点ではない といわれます。浄土へ往生したならば、そこに留まることなく、今度は 遺してきた子や孫たちを導くために この世界に戻っていくのです。

つまり、浄土に留まることなく、さらに一歩を踏み出すという訳ですから、 浄土真宗門徒は、 徹底的に前向きであるといえるでしょう。
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これは、本願寺から全国の寺院へ毎月届けられる浄土真宗の『宗報』(平成7年新年号)の巻頭言「前向きに生きる」とは?(大峯顕氏筆)を読んだ後の私のメモを元にもう一度 味わってみました。

 


うちあけ話

2010年10月10日 | あとらんだむ「日日あらたに」
■ あとらんだむ「日日あらたに」   №20  

先日、東京のご門徒宅へ お参りしたところ、最寄りの駅まで迎えにきてくれた
青年(20代後半)が、

   ゴインゲさん、 いつか僕が子どもの時、聞かせてくれた ”あの話"が
   なぜか 心に焼き付いて、最近でも ふっと 思い出すんですよ。


と話してくれた。
それは、もう20 年近くも前のこと。彼はまだ 小学生だった。

お寺に帰ってから、その家の カルテ を調べたら、確かに
彼のお祖母さんの仏事の時、西楽寺の本堂で お話したと記していた。

僕自身、なぜか 懐かしくなったので、今日は ホームページにも掲載している
 ”あの話” を…。

ということで、あとらんだむ「日日あらたに」です。  

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ひらがな法話 >  「うち明け話」
 
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うちあけ話 
                 

    
□■ タヌキでよかった □■

夜道を自動車で走っていたら、突然、道路わきから、タヌキが飛び出してきました。慌てて急ブレーキを
踏みましたが、間に合わず、『ドン』と鈍い音をたてて、はねてしまいました。

やっと車が止まったのは、かなり行き過ぎてからのことでした。

  『すまないことをした、タヌキは大丈夫だろうか』 

現場に引き返そうと方向転換をしていると、ハンドル越しにタヌキをはねた時の手ごたえが思い出されま
した。石や木に当たったときの手ごたえとは違います。肉の塊をはねた時は、何ともいえない感触です。

  『きっと、人間をはねたときも、こんな感じなのだろう…』

そう思った途端、背筋がゾッと寒くなりました。 そして、

  『ああ、タヌキでよかった。人間だったら、大変なことだった。』

とホッとしました。

恥ずかしいことですが、人間もタヌキも一つしかない尊い命なのに、タヌキの命だと軽く扱うのです。
もっと小さな虫なら、ひき殺しても気づかず、『悪かった』とも思わないのでしょう。恐ろしいことです

自分にふりかかる責任や感覚で、命の重さにまで順番をつけてしまう私
です。タヌキは裁判や訴訟
で損害賠償を求めないのをいいことに…。

そして、人間でなくて良かったと思ったら、今度は、

  『かなりの音がしたが、自動車は壊れていないだろうか?』

と、タヌキの心配より、まず車の心配です。
どこまでいっても、自分の都合でしか考えられない私でした。

        


   □■ お経を道具に □■

ようやく事故現場にもどってみますと、タヌキは道路の真ん中で横たえて目を閉じていました。

  『ごめんよ、タヌキさん…』

夜の闇の中、ライトに照らされたタヌキを前に、車のエンジン音とともに罪悪感が私の中
にひろがります。

 
『このまま放っておくわけにもいかない。どうしよう…。
   そうだ、私は僧侶だ。お経や念仏を称えることが出来るじゃないか!』


しかし…。私がお経を読もうとしたのは、タヌキのためではありません。タヌキが恨みを持って、
タタルのじゃないかという、私の不安や恐ろしさのためだったのです。

親鸞聖人は、お念仏やお経を自分の思いを満たすための道具にしてはならないといわれました。
そしてご自身も、衆生の利益のためにと『浄土三部経』を千回読もうとされて、

          
『名号(南無阿弥陀仏)のほかにはなにごとの不足にて、
             かならず経をよまんとするや…』    (「恵信尼消息」)

と思い返してやめられたといいます。


   □■ 喜ぶときも… □■

さて、そのタヌキですが、数分後に突然、首をもたげ、ムクッと起き上がったのです。そして、
クルッと向きをかえたと思うと、草むらへ小走りに逃げて行くじゃありませんか。

   「生きていたぞ!タヌキが生きていた!よかった。」

と思わず車の中で手をたたきました。

でも、これまた残念ながら、私はタヌキの無事(右の後ろ足は引きずっていましたが)を喜んだ
のではありません。タヌキが死んでないということは、私の罪が<タヌキ殺生罪>から、
<タヌキ傷害罪>に軽くなった、つまり、タヌキの私への恨みが小さくなったと考えたからです。

               
   □■ こんな私だからこそ□■

こんなふうに、心配することも喜ぶことも、そしてお念仏さえも身勝手な自分の都合でふるまう
のが私です。そのくせ、「いいかっこう」をしたがります。そんな私だからこそ放ってはおけぬと、
心配し見守っていて下さるのが、阿弥陀さまです。

お念仏は、阿弥陀さまが、

  「ここにいるよ」

と私の本当の姿を気づかせて下さるお喚び声です。身勝手な自分の思いを満たすための道具
ではありません。如来さまがかねてより、知り通して下さった私の「本当の姿」を、タヌキが身を
呈して教えたことでした。


同じ方向を…

2009年06月05日 | あとらんだむ「日日あらたに」

■ あとらんだむ「日日あらたに」 №18  

昨日の記事で、Boumoriと 映画に行ったことを書いてたら、思い出したので
あとらんだむ「日日あらたに」 です。
  
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私の青年時代、若い男女のデートの定番といえば「映画」だった。
だが、私には どうして映画なのか、不思議でならなかった。

なぜなら、せっかく二人でいるのに、何時間も黙って椅子に
座っている映画など、無意味に思えたからである。

私なら そんなことしない。

同じ時を過ごすなら、二人で運動するとか、喫茶店で話をする方が、
ずっと二人の出会いが深まる、と考えた。

だが、残念ながらそれを実行する相手がなかっただけのこと。

数年前、boumori と二人で映画を見た。
その後、喫茶店でお茶を飲みながらの話である。

「あの場面での主人公のあのまなざし…。よかったぁー」

「ほんとだね。それから、その次のセリフ…。」

「そうそう♪」

…と二人で盛り上がった。

もしも、どちらかだけが映画を観て、その感動をどれほど詳しく説明した
としても、 「ふーん、そうなんだ」 で終わりだろう。

二人が、時を重ね、同じ方向(映画)を向いていればこそ、
一言でそれ以上に通じ合える世界が生まれたのだ。

かつての恋人たちは、同じ方向を向くことの素晴らしさを
きっと、無意識のうちの心得ていたのだろう。


こうして私は、「向き合う」、「出会う」…ことも大切だが、同じ方向
を向くこと
の素晴らしさを考えさせられた。

因みに、現代の家庭ではどうだろう。
とても家族が同じ方向を見ているとは思えない。

テレビにしても、昔なら一台のテレビをチャンネルの奪い合いを
しながら同じ番組を見ていた。

でも、現代は一人に一台。別々の部屋で異なる番組を見ている。
みんな違う方向を向いている。

思うに、現在の家庭で唯一 同じ方向を向ける場があるとすれば、
それはお仏壇である。

仏さまにお参りする時には、みんな同じ方向を向いている。
そして、いのちの行方も、同じ将来(浄土)を持っている。

そのお仏壇さえも ない現代の家庭は、家族は、いったいどこを向いて
いるのだろうか。放言御免。


命日を過ぎたら…

2009年05月23日 | あとらんだむ「日日あらたに」

 ■ あとらんだむ「日日あらたに」 №17   

年回法要の日取り相談のメールを いただき、その中で
「命日より 遅れては いけないの?」とありました。


そこで、すかさず、あとらんだむ「日日あらたに」です。
  

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スッタ問答

    >  8 法事は命日を過ぎたら、よくないといいますが


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( スッタ 問答 =Sutta-Monda-u)


Q:年回の法事は、早くおつとめするのはいいけど、命日を過ぎたら、
    よくないといいますが…本当ですか?

A:よく問われる質問です。遅れたらよくない…と。

その、「よくない」っていうのは、どういう意味なんでしょう?

年回の当たっている故人がタタルとでもいうのでしょうか?

これはたぶん、「雷がヘソととる」と同じたぐいの言い伝えでしょう。
ところで、どうしてカミナリがおへそをとるか、ご存知ですか?

私の薄学な勉強によりますと、

カミナリが鳴るのは、寒冷前線の影響で、寒冷前線は通過した後で
気温が下がります。だから、子供たちにはオヘソ(おなか)を隠して
冷やさないようにさせなければなりません。

ところが、子供たちに「ただ今、寒冷前線が通過中につき、おなかを
冷やさぬように…」
なんて言ったって通じません。

だから、 「カミナリがおへそをとるゾ」 って教えたんですね。
つまり、迷信とかではなく、先人の智恵です。

これと、同じような言い方が、 「法事は遅れるのは、よくない」 …でしょう。

あるご住職から、こんな話を伺いました。

その年、ご門徒の親の25回忌が当たっていました。

ところが、命日は2月初めなので、なかなか寒い時期には、親戚も集まり
にくいということで、 春のお彼岸過ぎにお勤めすることになりました。

しかし、法事の日が近づくとその日は親戚の結婚式が重なっていることがわかり、
やむなく5月の連休中に繰り延べました。

すると、今度はその家の奥さんが怪我で入院しました。これでは、とても法事が
できる状態ではなくなり、奥さんが全快するのは盆過ぎだから、まあ涼しくなって
からということで、秋のお彼岸前に再々変更となりました。

で、結局どうなったかといいますと、秋のお彼岸前も差し支えが生じ、翌年に
法事をされたとのことです。

これじゃ、25回忌ではなく、26回忌です。
こんなふうに、われわれ(人間)の予定・計画は、あてにならないものです。


だから、大切なことは 先送りしないで早めにした方がよい という意味で、
「法事は命日を過ぎたらいけない…」となったんだと思います


仏さまを見せてくれたら…

2009年02月25日 | あとらんだむ「日日あらたに」

 ■ あとらんだむ 「日日あらたに」 (←カテゴリー名)   

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     >
仏さまを見せてくれたら

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仏さまを見せてくれたら、信じる

浄土を拝ませてくれたら、信じる

           …ということは、ちょうど、

食べたことのない珍しい果物が出されたときに
先にその味を わからせてくれたら食べる

と答えること同じです。


口に入れるより先に 味を知らせることはできません。
食べているうちに 味がわかるのです。

仏さまも 浄土も、そのお話を じっと聞いているうちに、見たよりも
拝んだよりも、確かに出会わせていただけるのです。


味が わかって、食べるのでは ありません。
食べているうちに味が わかっていくのです。



※このおたとえは、大谷光照 前門主さまが話されたこととして
   本願寺発行の基幹運動冊子『共にあゆむ』(第何号か不明)に
   掲載されていました。
   残念ながら、その原文の控を失くしましたので、おぼろげな私の
   記憶をもとに書きました

 


語学力テスト?

2008年09月24日 | あとらんだむ「日日あらたに」

 さて、次の英文の意味、わかりますか?

Full in care, cow was to become, me is note.

ちなみに Web上の 翻訳サイトで  訳してみると

yahoo 翻訳
    十分に世話において、牛が起こることになっていて、私メモです

ニフティ 翻訳http://tool.nifty.com/globalgate/
   注意において十分なので、雌牛はなることでした、私、ノートです。

OCN 翻訳サービス
   世話の全部雌牛はなることになっていて、私は注です。


なんのこっちゃ、さっぱり  訳がわかりません。

で、答えを 知りたいお方は…

当寺サイト   「日日あらたに」  の ココ にあります。 
                                            ↓ 
 トップメニュー > バリアフリー ウェイ > 住職ノート   

            http://imacoco.net/mfmf/bfw/fs_jnote.html

        

をご覧下さい。

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ということで、今日は更新したての HPを ご紹介。

■ あとらんだむ「日日あらたに」 №15  

でした。


どうせ死ぬのだから(その2)

2008年07月22日 | あとらんだむ「日日あらたに」

前回のブログ の「つづき」 です。


その短冊に書かれていたのが、次の一句です。  

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    浜までは  海女(あま)も蓑(みの)着る  時雨(しぐれ)かな


以前、この句を初めて知ったころは、すぐ水に入って濡れるのに、
浜まで蓑を着る女心の中にこっけいさを見出し、海女たち揶揄した句だ
と思っていました。

しかし、この句は、海女たちの、どうせ海水で全身濡れるのかも
しれないが、
せめて浜までは 時雨で身体を冷やさぬように蓑を
着てわが身をおもいやる姿
が 詠われていたのでした。


どうせ 死ぬいのちだから、粗末にしてよいのではありません。
せめて、いのちが終るその時まで、生かされているわが身体を
大切にしていきたい。

必ず終るいのちなればこそ、今生の縁尽きて力なくして「いのち
終るときまで」をおろそかにしてはならないと示してくださる句でした。


「どうせ お腹がすくのだから、ご飯を食べない」
のでは ありません。
「そうだからこそ、一食のひと口を味わって 大切にいただく」
ことが大事なのでした。


「どうせ」死ぬいのち…。
だけど、それならばこそ尚更、
「せめて」死ぬまで(いのちある間)を大切に生きる。

尊いことを 教えていただきました。

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上のお話は、当寺 HP
     トップメニュー>バリアフリー・ウェイ> ひらがな法話
のコンテンツで
     「どうせ死ぬのだから」

から ご紹介させていただきました。

ということで、今日のブログは 
当寺HPをご紹介する
 
     ■ あとらんだむ「日日あらたに」 №15 

となるわけです。


どうせ 死ぬのだから

2008年07月21日 | あとらんだむ「日日あらたに」

まだ、わが家の次男が小学生のころでした。
乱雑に汚れている子ども部屋を片付けるように言ったところ、

どうせ すぐ汚れるんだから、片付けなくていいでしょ!」

と口ごたえをしました。
私は、父親としてそのまま引き下がる訳にはいかず、

「それなら、どうせ お腹がすくのだから、もう ご飯を食べるなっ!」

と応酬しました。

でも、この言葉を言った後、僕は、これでは理屈としては通っても、
子どもには何も伝わっていないのではないかと悩んでしまいました。

なぜなら、僕の言葉は 「片付けないこと」を否定していますが、
「片付けること」の意味を答えていないからです。

「どうせ死ぬのだから、適当に生きればいい…」という問いに対して
「それなら 今すぐ 死ねばいい。」と答えたことと同じです。


そんな折、先日、当寺「百人会法座」に来られた講師
浄原法蔵先生 から 江戸中期の俳諧師・滝瓢水(たきのひょうすい)の句
の味わいを聞かせていただきました。

それは こんなお話でした。

      ***********

その昔、既に俳諧での名声を馳せていた瓢水の庵を一人の禅僧が入門を請いに 訪ねました。

しかし、そこには「風邪をひいたので、隣村まで薬を買いに行って留守をしている」という置き手紙がありました。

「生死を越えて、悟りを開いたと言われる瓢水だと聞いてここまで来たのだが、風邪をひいたぐらいで薬を求めにいくほど、死を恐れて、生に未練をもつとは… 教えを聞くほどの師ではない」

と言い放ち、禅僧はそのまま帰ってしまいました。

やがて、隣村から帰ってきた瓢水はその話を聞いて、
「まだ、すぐ近くにいるでしょう。どうかこれをそのお方に渡してください」
と言って人に1枚の短冊を手渡します。

それを読んだ禅僧は、自分の未熟さを恥じ入り、慌てて再び瓢水のもと訪れて
深々と頭を下げて教えを請うた…といいます。

果たして、その短冊に書かれていた言葉とは…。


※ 長くなりましたので、このつづきは 後日のブログにて…。

    それまで、待ちきれない場合は 当寺HP   
        トップメニュー>バリアフリー・ウェイ> ひらがな法話
    にて、 「どうせ死ぬのだから」というタイトルで  アップして
    おきましたので、こちらを覧下さい 
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