JIIN’S ブログ

寺院の住人が綴る、ジーンズをはいた時のような気取りなしブログ!

本人確認

2007年03月27日 | Weblog

年度末で、子ども新入学の手続きのために、
役所・金融機関に行く機会が多い ここ数日。

そこで、僕が僕であること、つまり本人確認のために免許証・保
険証等の提示を求められる。

もしも、免許証等がなければ、また出直し…(-_-;)


こんな田舎町だから、役所・金融機関の職員はほとんど
顔見知り。もちろん僕が西楽寺の住職であることもご存知。

だけど、律儀に免許証で 僕が僕であることを確認する職員さん
もあれば、ときには、
「あゝ、いいですよ。私が(あなたを)わかってますから(^.^)」
と、保険証を忘れても パスしてくれる場合もある。

個人情報保護、セキュリティの問題があるから、何とも
いえないけど、免許証などがなければ、僕が僕として認められ
ないというのもなぁ…。


でも、阿弥陀さまは、いつでも・どこでも、僕のことを
「そのまま」「まるごと」認めて下さっているから、まっいっか!


葬儀事前予約

2007年03月24日 | 仏事/行事

お彼岸中のお参り先でのこと。

大阪から温泉津へ帰ってこられていた 80才代のお婆ちゃんから、

「ごいんげさん、私も(先が)そう長くないので、私の葬式には
  大阪まで お参りに来てくださいよ。お願いしますね。」


と言われた。

こんなふうな ご自分の葬儀についての「事前予約」を
ご門徒さんから、受けることが よくある。

ご自身の「死」を問題にしての「依頼」に対して、
若い頃の僕は、何て答えてよいのやら、わからず、
ただただ、しどろもどろ…。

「まぁ、そんなこと言わないで下さいよ。(^_^;)
  こんなお元気ですもの。そんな心配いりませんよ。」

とお茶を 濁していた。


だけど、最近は ズバリ お答えする。

はい、任せて下さい
  何をおいてもお葬式にはちゃんと
  お参りさせてもらいますからね!」

と。そして、ニッコリ笑って、ひとこと 付け加える。

「ただし、条件がありますよ。
  できたら、僕より先に 逝って(亡くなって)下さいね。

  僕も器用な方ですが、さすがに僕が先だと、
  お参りできませんから…^^;」


諸行無常の中に生かされている いのちは、
生まれた順番に終わるのではない。

年上の人の死が先で、自分が後である…かどうかは
わからない。
だから、「死」を語ることに遠慮はいらない。

老いも若きも必ず引き受けていかねばならない「死」という
事実は、逃げず、ごまかさず、ちゃんと 問題にしていかなけれ
ばならない。

そう思う。


お彼岸週間終了

2007年03月23日 | Weblog


ちょっと東奔西走、駆け巡ったお彼岸週間だった。

17日は、 広島県境にある山あいのお寺で
お彼岸法座のご縁(ご法話2席)をいただく。

美味しい「おとき」(精進料理)をいただきました。

18・19日は 当寺の永代経・春彼岸法要に併せて
前住職13回忌・前々坊守25回忌法要

門信徒の皆さま、ようこそお参り下さいました。
ご焼香・お供え有難うございました。

20・21日と 瀬戸内に浮かぶ大三島(愛媛県)の
万福寺さま で 永代経・春彼岸法要でのご縁(ご法話3席) 。
このブログからリンクさせてもらっているお寺だ。

愛媛県といっても、安芸門徒のエリアといってよいらしく、
お参りされている方々はとても暖かく、聞き上手で、
お取次ぎ(ご法話)するこちら側が お育ていただいた。

そして、22~24日と 愛媛県からそのまま京都へ行って 所用
を済めて、温泉津着。

かくて、広島県境→温泉津→愛媛県→京都 → 温泉津…と
お彼岸ツアーは 無事終了。

こうして書けば、大変そうに思って下さる方もあるようだけど、
不思議なことに、どんなに忙しくても 「一杯飲む」時間は
ちゃっとキープする男なので、ご心配無用なり。

※ 写真は、瀬戸内海の中でも 「鏡の海」といわるれほと
   いつも 凪いで穏やかな海面を呈する 大三島北側の海。


「ご先祖さま」 えん罪事件

2007年03月15日 | Weblog

■ あとらんだむ「日日あらたに」 №9  


最近、あとらんだむ「日日あらたに」が つづきますが、お彼岸が
近づいたので、ちょっと ご先祖さま関係の 「ひらがな法話」を…
 

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よく、「ご先祖を大切にする」といわれますが、私たちは本当に
ご先祖を大切にしているのでしょうか。

残念ながら、「大切にしている」のではなく、「大切にするフリを
している」
ような気がします。

なぜなら、先祖を大切にすることが「目的」になっていないからです。
先祖を大切にする事が目的なら、それで終わればいいのです。

ところが、それで終わらない…。

『ご先祖を大切にしておけば、悪い事は起こらない』
とか、
『ご先祖の供養をすれば、病気が治る、お金がもうかる』

という言葉のように、先祖を大切にした後に、自分が幸せになること
をくっつけてしまいます。

これでは、病気が治ることや、お金がもうかることが目的です。
先祖を大切にするのは、「目的」ではなく、自分が幸せになる
ための「手段」「道具」となっていませんか。

≪大切にする≫どころか、≪利用する≫わけです。

そして、病気や不幸な出来事に出会うと、 『自分が無理をした』
とか、『方法が悪かった』、と反省することをしないで、
『先祖の供養が足りなかったから、ご先祖がタタったのだ』と、
ご先祖を≪悪者≫にして、すませようとします。

これでは、ご先祖さまがあまりにもお気の毒です。自分は何も
していないのに、無実の罪、濡れ衣を着せられるわけですもの。

最近よく耳にする言葉で言えば、≪えん罪≫です。(少なくとも、
私がご先祖なら、可愛い子孫を護ることはあっても、タタルことはしません。)

都合のいい時には、『先祖を大切に…』と利用して、都合が悪く
なると、『先祖がタタる…』と言って、≪悪者≫にするわけです。
利用したり、悪者にしたり、本当に身勝手で、先祖に失礼なことです。

法事や葬式などの行事は、先祖の心配をしたり、安心させてあげ
るためのものではありません。

先祖の心配をするのではなく、反対に心配をかけるような、身勝手
で危なっかしい生き方をしていないかと『私の今』を訪ねさせていた
だく行事でありたいものです。


カルテ

2007年03月12日 | お寺の中

僕は門徒さんのカルテをつけている。
もちろん、医師ではないので 身体の具合を
記したものではない。

カルテの内容は、
     ▽ 仏事にお参りした日付
     ▽ その時に お話した法話の内容  
     ▽ その家の過去帳(亡くなった人の法名・俗名・命日等)
     ▽ 兄弟親戚等の名前

などが主項目だ。

つまり、いつの仏事で 誰を相手に 何のお話をさせていただいたか、
が一目でわかるようにしている。

  #えーっと、一周忌の時は このお話をしたから、3回忌では…。

  #初七日で ここまでお話したから、今日はそのつづきを…。

  #この家のおばあちゃんは 若いとき幼い子を二人亡くされている…。

と、お参り前にカルテをチェックして  、今日はどんなお話をさせていた
だけばよいか考え、帰ってから また今日の内容を書き加える。

ちょうど、医師が 病歴や投与した薬をカルテにつけて処方箋 を
書かれるようなものかな。

ただ、法事のときは、ちょっと困る。
親戚の中には西楽寺のご門徒が何人もいらっしゃるので、当然
その分のカルテも並べて

  #この家では、ココまで お話してる。
  #ココとアソコの家では このお話をまだ していない…(ーー;)。

と、その仏事の趣旨と集まる顔ぶれを想定しながら
処方箋(ご法話)を用意しなければならない。

だけど、最近 気がついたことがある。

一度お話しただけで、その話の中身が ご門徒に全部伝わっ
ているのだろうか。

同じ話を しないように気をつけていたけれど、大切なことは
何度だって繰り返し 伝えていくべきじゃないのだろうか。

…と。

そして 何より仏さまの教えには  抗生物質のような「副作用」はない。
何度聞いたっていいんだ。

とはいえ、「同じ顔」が 見える仏事が続くと、
まだちょっと 焦ってしまうこの頃である。


コマ送りの世界

2007年03月04日 | あとらんだむ「日日あらたに」

■ あとらんだむ「日日あらたに」 №8  

久々に あとらんだむ「日日あらたに」を 採り上げたので、勢いづいて
もう いっちょ! 

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コマ送りの世界
 
最近は、数ヶ月に一度程度のペースで、東京方面在住のご門徒宅
へお参りする機会がある。

その度に感じるのが、生活のリズムの速さだ。
ゆったりとした田舎と違い、すべてが速い。

大阪がセッカチと言われるが、東京はそれ以上の速さに思える。
ちょうど、ビデオテープでいうなら、大阪が2倍速東京は3倍速
時が流れているような気がする。

滞在すること数日…、どうやらそのペースに慣れたと思えば、もう帰
る日である。

3倍速が「当たり前」になっているから、大阪を経て松江あたりに
戻ると すべてが 「スローモーション」 の画面に見えてくる。

そして、わが温泉津町へ着くと、「コマ送り」である。
ちょっと山間地へ行けば、もうそこは 「静止画面」

だが、つぐづく思う。

コマ送り・静止画面でよかった…と。

私には、「倍速」はつらい。倍速を通常(ノーマル)として暮らす
都会人には、憐憫の情を伴った敬意を表したい。

「もう、1ヶ月くらい、いるような気がする…」

とは、温泉津温泉で 2泊された旅行者が、3日目の朝につぶや
かれたセリフである。

「こんなにゆったりと時が流れるところが、人間の住むところだよ。
 みんな都会から温泉津へ帰っておいで…。」

そう、叫びたい気持ちだが、これも私がそう感じるだけのことかも
しれない。余計なお世話か。放言御免。


お待たせしました

2007年03月02日 | あとらんだむ「日日あらたに」

■ あとらんだむ「日日あらたに」 №7  

ここ数日 「待つ」ということをテーマに ブログを書いたので
西楽寺HP から 「待つ」にまつわるお話を…。  

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ひらがな法話 >「お待たしました」  

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●お待たせしました…

      弥陀成仏のこのかたは
      今に十劫をへたまへり

         
   お待たせいたしました
           すみません

あるお寺で拝見した、山口県の藤永清徹という
和上様がかかれた色紙のことばです。(今日の写真)

これは正信偈のご和讃の一首目
      弥陀成仏のこのかたは     
      今に十劫をへたまへり
              法身の光輪きはもなく        
              世の盲冥をてらすなり

の前半の2句と同じですが、後半は 小さな字で遠慮がちに
             「おまたせいたしました 
               すみません」


と書いてありました。これは、どういうことでしょう。

まず、 「弥陀成仏」 とは、阿弥陀如来(法蔵菩薩)さまが、
この私を救うためにご本願を建てられて、その願いを成就
されて仏さまになられた(成仏した)ということです

次に、 「十劫をへたまへり」とは、阿弥陀さまが、この私を
必ず救うと南無阿弥陀仏となってこの私によびかけ、待ち続け
て下さって、すでに十劫という、長い歳月が経ったことを言
います。

十劫とは、時間の長さで、五年十年にことではありません。
何億年どころか、思いもおよばぬ、気の遠くなるような長い
時間をいいます。

そしてその間、この私は人間に生まれることもなく、地獄や餓鬼、
畜生の世界を生まれかわり死にかわり、迷いつづけていました。

しかしながら阿弥陀さまは、その気の遠くなるほどの時の流れ
の間、ずっとこの私を待ちつづけ、この私が
  「人間として生まれ、仏法に出遇っておくれ」
そして、
  「お念仏もうす身となっておくれ」
と、心配し通しなのでした。

もしも私が、待ち合わせの約束をして、相手が 時間を過ぎても
来ない=待つ=としたどうでしょう。

まずは、イライラするでしょう。そしてだんだん腹を立て、
二時間も過ぎれば、待つことを止めてしまいます。(つまり見捨てます)

だからこそ、藤永和上は、十却の間待ちつづけて下さった阿弥陀さまに、
「お待たせいたしました」と言わずにはおれなかったのでしょう。

そして、どれほど待たされようとも、決して見捨てることのない阿弥陀
さまに「すみません」と言葉を続けられたのでしょう。

ふだん、何気なく
「♪弥陀成仏のこのかたはァ、ァ…♪」
と節回しばかり気にかけて拝読していた自分が恥ずかしくなりました。

今、生まれがたき人間に生まれさせていただき、遇いがたきお念仏の
ご縁に遇わせていただいたことです。
私にさんざん待たされた阿弥陀さまは、「待ちくたびれたぞ」とは
いわれません。
「ようこそ、お念仏申す身となってくれた」 とよろこんでくださいます。

「おまたせしました。 すみません」という言葉に、私の思いを添え
させていただくならば、 「ありがとうございます」とお礼申さずには
おれません。


       弥陀成仏のこのかたは  
       今に十却をへたまへり
             おまたせいたしました   
             すいません  
            
ありがとうございます