今年のテーマを 「待つ」 と決めて から、
「待つ」ということをいろいろ考えるようになった。
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エレベーターに乗って、目的の「階」を示すボタンを押す。
それから…じっと ドアが閉まるのを待つ。。
いいえ。僕は 続けざまに 「閉(CLOSE)」 ボタンを押す。
押さなくても 数秒後に自動的に閉まるのにもかかわらず…である。
その何秒かが、待てない。
現代の日本人は 総じて「待てない」らしい。
外国の人は、「閉ボタン」を押さずにじっと待つ。
それどころか、そのボタンさえない場合があると聞く。
テレビ番組を観ていてコマーシャルの時間は どうしているだろう。
これまた、じっと待つことなくリモコンを使って 裏番組を忙しそうに
巡回する。それなりの年配の人からも 「自分もそうだ」と聞かされた。
車を運転していて、信号待ちの時間さえ、携帯をチェッ
ク(メール)している姿をみかけたこともある。
やはり、じっと待っていない。
そんな中、
「待つチカラ」は「信じるチカラ」だ
という言葉に出会った。反対に、
「待てないのは、信じていないから」
だ…とも。
畑 に種を蒔いて水をやったら、あとは芽が出るのを待てばいい。
それを数時間ごとに土を掘り返して発芽の様子を見ていたなら、
種が弱ってしまうだろう。
芽が出ることを 信じたなら、待てる。待っていれば芽が出る。
な るほど…。
ちょっと、ショック。
子どもに接するときの 「待てない父親」である自分の姿が
浮かんできた。そして、「待てない父親」は、子どもの言葉も
「聞かない父親」なのかもしれない。
待てないから、聞こえない。
相手の話が最後まで終わるまで「聞かない」で、途中で
勝手に「わかった」ような気になって小言をいう。(反省)
待てば(相手の心)が聞こえてくる。
聞こえたならば、信じられる。
信じているから、待つことができる…か。
だけど、それは簡単そうで とても難しいことだと思う。
そういえば、正信偈和讃(親鸞聖人作) に
「弥陀成仏のこのかたは 今に十劫をへたまえり」
とある。
阿弥陀さまは、この僕が お念仏 称える身となるまで、
僕が 地獄や餓鬼の世界を迷う間も ずっと (十劫の間)
待っていて下さった…ということ。
つまり、仏さまの方が 僕を待っていて下さったのだ。
僕が 必ず お念仏申す身となることを信じて待って
下さっていた。
仏さまは こちらが信じるものだと思っていたら、反対に
信じる前に 仏さまの方が 僕を信じて待っていて下さった。
僕は待たれていた…。