JIIN’S ブログ

寺院の住人が綴る、ジーンズをはいた時のような気取りなしブログ!

死なんずるやらん

2006年09月30日 | このブログについて

先日、ちょっとした不注意・アクシデントで、右目を強打
して、メガネも割れて、視力がなくなった。

目は開いているのに、霞がかかったようで、かすかに明るさ
の有無が分かるという状態だった。

救急センターで、応急処置をしてもらって とりあえず翌朝
までは 様子を見ることになる。

たが、その夜は
「このまま失明したら、どうしよう…。自動車の運転もできなくなれば、
これからの人生がどうなるのだろう…」
と最悪の状態を仮定し、
推測しては不安の底に沈んでいった。

上辺は 平気に装っても(周りからそうは見えないかも)、
心の中は 不安だらけの自分がいる。

定期検診で引っかかったり、原因不明の痛みや違和感がつづくと、
「ひょっとしたら、この病気で 死ぬのではないだろうか…」
などと 悩んでしまう。

全くもって情けないことだと思っていたら、
歎異抄(第九条)にある 親鸞聖人の言葉を思い出した。

浄土へ いそぎ まいりたき こころのなくて、いささか 所労のこと
もあれば、死なんずるやらんと こころぼそく おぼゆる ことも、
煩悩の所為なり。

※現代語訳 (by ONSAI)
        急いで浄土に参りたいというような心もなく、ちょっとした
        病気にかかっても、このまま死んでしまうのではないかと、
      心細く思ってしまう
のも、煩悩のしわざなのです。


ということは、親鸞さまも 心細くなっていらっしゃったのか。
なんだか、ほっとした。

そうか!阿弥陀さまから、まるごとすべて認められた僕は
もう、自分を自分以上に見せることもなく、自分以下に
卑下することもなく、そのまま 生きていいんだ。

恐ろしいことを「恐ろしい」と怯えていいのだ。
内心に不安を抱きながら 外ヅラだけを平然と取り繕って
「イイカッコ」する必要はないんだ。

「立派な人」になれ、ではなく、「立派になりきれない自分」
気づかせて下さる仏さまの光の中に包まれて、
そのままの自分を生きてゆける。

そんな お念仏の道でよかった。


実は…

2006年09月28日 | Weblog

昨日書いたトラブルの際、この2ヶ月間のメールと
メールアドレス帳すべてのデータも 消えてしまいました。

アドレス帳も バックアップをとった覚えがあるのですが
その保存場所が ちょっと思い出せない状態です。

ということで、今まで 私にメール下さった方の アドレスが
かなり 不明となってしまいました。

もし、よろしければ 幸便の折、私宛にメールをいただけたら
再登録いたしますので、お暇なおり、お便り下さいませ。m(__)m


真っ白。(データも頭の中も)

2006年09月27日 | Weblog

現在は、お寺の事務(=寺務)も  IT 技術なしでは
とても 成り立っていかなくなった(西楽寺の場合)

門信徒のデータベース、過去帳等の管理、お参り予定、
そして諸案内などの文書作り… みんなPC を活用している。

そんな中、も OUTLOOK というソフトで管理している予定表を
Boumori のPCと 共有管理(いわゆる同期=シンクロ)できる
ような設定を組んでいるときのこと…。

なんと、データ(つまり、お参り予定スケジュールの中身)が
全部消えてしまった。
いや、消してしまったのだ!
(トラブルの詳細は いちいち書いてもしようがないので、省きます)

あ、あーーーーーーーっ

と大声をあげて 驚いても 時すでに遅し。

もう、びっちり書き込まれていた予定表が
スッキリ、真っ白状態に なっていた。(T_T)/~~

ただ、不幸中の幸いか、一月前に保存(バックアップ)をしておいた
データが あったので、その時点での「予定」はなんとか 取り戻せた。

そして、さらに幸いなことに、たまたま、ホントに たまたま、
9月から11月までの予定 を 印刷したばかりだったので、11月まで
の最新状態の「予定」も なんとか わかった。

残るは、今年 12月以降の予定で、それもこの1ヶ月の間に
約束した件が 不明な訳である。 

ということで、この場をお借りして おたずねします。

今年12月以降のお参り・お取次ぎ(ご法話)の予定を、

このひと月以内に 西楽寺・同 住職と お約束されました

ご門徒・ご寺院が ありましたら、たいへんお手数ですが、

当寺へ ご一報下さいますよう、お願いします。m(__)m


幸い、手紙・文書やメモが残っている 約束もあったので
たぶん、ほとんどの予定は 再記帳できたとは思うのけど…。

12月以降、その約束の当日になって
「お待ちしているのですが…」
などいう 電話があったら、どうしよう…。(ーー;)

とりあえず、前もって


この度は たいへんご迷惑をおかけしましたこと
心よりお詫び申し上げます。

今後は データをきちんと 保存することを肝に命じ、
ここに 伏してお詫び申し上げます。


ほんとうの優しさ (その2)

2006年09月24日 | Weblog

昨日ブログで採り上げた

★ 本当の優しさとは他人に気づかれずにやること

この言葉を もう一度 考えてみた。

自分はどうだろう?

家族や周りの人に ちょっと優しさ(親切)を届けたら
その途端に、

早く気がついてくれないかなー。

と相手が 気づくの期待して待ち始める。

そして、なかなか、気づかなかったら、相手が気づくような
状況を作りだす。ただし、これは相手に気づかれないように、
さりげなく行う。
=矛盾)

それでも、気づかなければ、もう待ちきれない

「***しておいたからね」
「***したのは 僕だよ」

と、届けた親切 を相手に直訴してしまう。

それで気づいたなら、今度は その親切をよろこんでほしい。
その上で「有難う」とお礼の言葉を言ってもらって、やっと
満足するのだ。


だが、…どうだろう。

いくら優しさ(親切)を届けても、相手がそれに「気づいて・喜んで
・感謝する」ことを求め・押付けていたなら、一生 満ち足りることは
ないのかもしれない。

洋七の先生のように、相手に届けることができたら、その時点で
親切が「完結」
すれば、そこでもう「よかった」と満足できる。

気づく・気づかない、喜ぶ・喜ばないのは相手の問題。
自分は その親切が できたことを 喜べばいい。


ここまで書いてきたら、先日まで門前の掲示板に掲げていた
言葉を思い出した。
「恩」を「優しさ」に替えたら、そのまま味あうことができる。

与えた恩は忘れぬが もらった恩は忘れてしまう

※この言葉は堺市・真光寺様 のコンテンツ
  「掲示伝道句について の法話」 から引用させていただいた


当寺サイト のコンテンツ、人生ナビ「言の葉」の〔34〕 にある
世界一の幸せ者になる方法 もこれと同じだろう。

そして、そんな自分も 「気づかないままに」大きな願いや
思いやりの中に包まれていたのである。


ほんとうの優しさ

2006年09月23日 | 法話メモ

ヘソ曲がりな僕は、ベストセラーと名がついた本は、
みんなが読んでいるのなら、やめよう…
と買わないことにしている。

ところが、そんな僕が、たまたま読んだベストセラー、
島田洋七著の佐賀のがばいばあちゃん

      ******************

その中に、昭和30年代の運動会の日のできごとがあった。
当時の運動会といえば、重箱にご馳走を詰めて家中が駆け
つける華やかで 特別な日だった。

だけど、せっかくの運動会でも 洋七の家族は誰も来ない。
弁当はいつもと同じ 梅干と生姜がだけが入ったもの。

事情を知っている友だちは、自分の家族といっしょにご馳走を
食べようと誘うけれど、洋七はそれを断って、賑やかな校庭を
避けて教室で一人で弁当を食べようとしていた。

そこへ 担任の先生が やってきて
「自分はお腹が痛いので、おまえの梅干の弁当と替えてくれ」
という。

そして、先生の弁当と交換した洋七は、今まで食べたこともない
ようなエビフライやウィンナの入ったおいしい弁当を食べることができた。

その次の年も、担任が変わったそのまた次の年の運動会でも
担任は 「お腹がいたくなった」 と言って来ては 洋七の梅干弁当と
先生の豪華なお弁当と交換することを言ってきた。

この学校の先生は 毎年運動会になるとお腹が痛くなるんだな
と思っていた洋七に、おばあちゃんが 言った言葉が

★ 本当の優しさとは、他人に気づかれずにやること

もしも、かわいそうだから、気の毒だから…という同情や哀れみが
先生の中に見えたら、もう洋七は 食べなかっただろう。

だが、担任の思いは、親と別れて いつも貧しい暮らしで 粗末な弁当を
食べる洋七に  「せめて 年に一度」美味しいものを食べさせたい。
… それだけだ。

だから、わざとお腹が痛いふりをして、その思いやりが 洋七に
分からないようにして 洋七にご馳走を食べさせた。

洋七が 先生の思いやりに気づいて 喜んだり、お礼を言ったりすること
は求めていない。
洋七にご馳走の弁当を食べさせることができた
…それだけで もう満足なのだ。


本当の優しさとは他人に気づかれずにやること

ということは、相手にわかる(気づかれる)ような優しさは
ホンモノじゃない
ってことか。

家族や周りの人に ちょっと親切や優しさを届けると、
「早く気づいて 御礼を言ってほしい… 」
そうなふうに思ってしまう自分が恥ずかしくなった。


本当の優しさとは他人に気づかれずにやること


この「優しさ」ということばは、「思いやり」、「願い」と言い
替えてもいいだろう。

それが、相手に気づかれないように届けられているということは
自分は今、自分で気づかないままに 大きな願いや思いやりの
中にすでに包まれていた…
ということだろう。

仏さまの真実の慈悲心や親のまごころも同じだ。
この私には 気づかれないように 届けられている…

そのことに気づかせていただくこと。
それが仏法を聴聞していくことだろう。


車内聴聞

2006年09月19日 | Weblog

神戸の葬儀に 引き続いて、かねてご依頼
いただいていた鳥取市内にあるお寺へ
彼岸法座でのお取次ぎ(法話)にお参りした。

たまたま日程的に連続したので

     温泉津 → 神戸 → 鳥取 → 温泉津

「無駄なく」移動である。


だが、基本的に 僕は自動車の運転は苦にならない。
というより、助手席にいるより運転席にいる方が好きだ。

その上、移動時間の大半を占める高速道路は 前も後ろも
他の車の姿を見かけない「貸切状態」での走行となる。

だから、その「くつろぎの時間」にご法話や講演のテープや
CDを聞く。
長距離運転の車内は 僕にとって格好のお聴聞の場なのだ。

今回は河久保同行の部屋のJINEIさんからいただいた
福井西別院の「おはよう講座」のCDを聴聞した。
(この場を借りて 御礼申し上げます>JINEI さま)

そして、運転疲れで眠たくなると、お気いりにの音楽に
切り替えて大声で 歌う…。
すると眠気とストレスがいっしょに解消。

ということで、今回も有難いご縁をいただいて
無事 ご帰還である。


センセイ

2006年09月17日 | Weblog

都会地での葬儀のご縁にあう度に苦手に思うことは、
葬儀社の方が 僕のことを「センセイ」と呼ぶことだ。

「はてなダイアリー」  で、「先生」を検索すると

1.先に生まれた人
2.学徳のすぐれた人。自分が師事する人や、その人物に対する敬称。
3.教師、医師、弁護士など、指導的立場にある人に対する敬称。
4.議員に対しても使われる敬称。

とある。

葬儀社員さんは 3の意味で 呼んで下さるのかもしれないが、
なんだか 落ち着かない。。

島根では 「院家」と呼ばれる。(だから実際は「ゴインゲサン」
となる)…このことは 以前にも触れた→  ココ ★

他宗では 「方丈(ホウジョウ)」「上人(ショウニン)」
「御前(ゴゼン)」などという呼称があるようだが、
地方によってもいろいろ違うようだ。

と言うことで ヤヤコシイことを避けての 「先生」なのだろう。

西楽寺にやって来る寺院関係の業者さんも ほとんど この
「センセイ」という言い方をする。
宗派・地方を越えて 無難に使える便利な言葉ということか。

それでもやっぱり

「親鸞は弟子一人ももたず候(そうろう)」(歎異抄)

といわれた宗祖の流れを汲ませていただくものとしては、
「先生」と言われると、落ち着かない。


そういえば、はてなダイアリー 「先生」での検索の最後に

仲間内で多用するとバカにしているように感じることもある

とあった。


都会地での葬儀

2006年09月16日 | 仏事/行事

神戸市在住のご門徒さんの通夜にお参りした。
前晩に訃報をいただいて、翌日の通夜である。

何はともあれ、急いで日程調整。
振替・変更できるお参りは ご門徒に無理を聞いていただく。

葬儀のための日程変更は みなさん 快く応じてくださる。
「お互いさま」という意識が暗黙にあるからだろう。

それにつけても、正午までに 用件と準備を済めて、
それから出発して その晩に神戸市の通夜に間に合う
のだから、道路事情もずい分と良くなったものだ。


だが、都会地での通夜・葬儀は 何時~何時 と終わりの時間
まで区切ってある(温泉津では始まりの時間のみ)

そして通夜の席で 温泉津では焼香は行わないが、都会地の
通夜ではその時間帯に駆けつけた弔問者が焼香をされる。

だから、正信偈のおつとめの後のご法話タイムには 焼香を
「一時中断」してもらうように係と打ち合わせをしておく。

そして、ご法話の言葉遣いは 一応、島根弁が出ないように
標準語を意識してお話させていただく。


通夜の後、
「初めて聞いた」
「そうなんですか」
「平生に聞かない話です…」

と興味深そうにたずねてきてくれるのは不思議なことに
遺族の中でも 比較的若い世代が多い。

普段、ご縁のない若者たちへ  こうして仏さまの教えを届けら
れるのも、故人が いのちを懸けてご縁を結んで下さったから
だと思う。

なればこそ、無駄にしてはならない…と こちらも気合が入る。

で、今晩の帰り際、親戚の最長老が 私を呼び止めて、
「島根弁が ちりばめられた お話を有難うございました」
とお礼を言って下さった。…(^^ゞ


当たり前

2006年09月15日 | Weblog

今月12日、米大リーグ・ヤンキースの松井秀喜外野手が
左手首骨折負傷から、4カ月ぶりとなる復帰。

そして、復帰後第一戦目で 4安打の大活躍。
試合後「復帰したことに対する感慨」をきかれ

「けがするまで、1千何百試合出続けてたけど、
  そういう当たり前の日々がこんなにも、うれしくて
  ありがたいものだと改めて気づかされた

と答えていた。

日本中が 見守った挫折と苦悩から復帰までの道のり。
松井選手のコメントは 胸の奥まで響いてきた。


病気で健康を失くして 健康の有難みを感じ、
老いて若さの素晴らしさを知らされ、
死に直面して、生きる尊さに気づく。

老・病・死 など マイナスイメージの出来事も、それを
正面から受け止めるとき、大切なことに気づかせられる
ご縁となる。

当り前であったことが当り前でなくなったとき
実は 「当り前」は「当り前」ではなく、
「有る」ことが「難しい」=「有難い」ことだったと 教えられる。


そういえば、虎舞竜の歌「ROAD」のサビの部分の
こういう歌詞があった
 
    何でもないようなことが
        しあわせ だったと思う


ブ~~ン!

2006年09月12日 | Weblog

ブ~ン(文)と鳴いてくる虫だから と 書くらしい。

秋の気配がする夜なのに、先日は一匹の蚊の鳴き声に
目が覚めた。
普段は 全然気にならないのに、この夜は なぜか気になった。
(註:基本的に僕は 救急車が通り過ぎても、赤ん坊が夜鳴きをしても、
      目が覚めないグッスリ タイプ)

眠たい目をこすりながら、蚊取りマットをつけると
勢いのあった鳴き声が、辛そうな声に変わった。

ふ~む。

考えてみれば 蚊も 静かに飛んでくれば、相手に
気づかれずに血が吸えるだろうに、わざわざ ブーンと 音を
させてくるから、人間に迎え撃たれるのだ。

音を立てずには飛べない蚊を 思うと
ちょっと 気の毒になった。

人間は、見つからないように、気づかれないように
そーっと抜き足、差し足、忍び足…できるからなーー(-_-;)