先日、ちょっとした不注意・アクシデントで、右目を強打
して、メガネも割れて、視力がなくなった。
目は開いているのに、霞がかかったようで、かすかに明るさ
の有無が分かるという状態だった。
救急センターで、応急処置をしてもらって とりあえず翌朝
までは 様子を見ることになる。
たが、その夜は
「このまま失明したら、どうしよう…。自動車の運転もできなくなれば、
これからの人生がどうなるのだろう…」と最悪の状態を仮定し、
推測しては不安の底に沈んでいった。
上辺は 平気に装っても(周りからそうは見えないかも)、
心の中は 不安だらけの自分がいる。
定期検診で引っかかったり、原因不明の痛みや違和感がつづくと、
「ひょっとしたら、この病気で 死ぬのではないだろうか…」
などと 悩んでしまう。
全くもって情けないことだと思っていたら、
歎異抄(第九条)にある 親鸞聖人の言葉を思い出した。
浄土へ いそぎ まいりたき こころのなくて、いささか 所労のこと
もあれば、死なんずるやらんと こころぼそく おぼゆる ことも、
煩悩の所為なり。
※現代語訳 (by ONSAI)
急いで浄土に参りたいというような心もなく、ちょっとした
病気にかかっても、このまま死んでしまうのではないかと、
心細く思ってしまう のも、煩悩のしわざなのです。
ということは、親鸞さまも 心細くなっていらっしゃったのか。
なんだか、ほっとした。
そうか!阿弥陀さまから、まるごとすべて認められた僕は
もう、自分を自分以上に見せることもなく、自分以下に
卑下することもなく、そのまま 生きていいんだ。
恐ろしいことを「恐ろしい」と怯えていいのだ。
内心に不安を抱きながら 外ヅラだけを平然と取り繕って
「イイカッコ」する必要はないんだ。
「立派な人」になれ、ではなく、「立派になりきれない自分」に
気づかせて下さる仏さまの光の中に包まれて、
そのままの自分を生きてゆける。
そんな お念仏の道でよかった。